探索記録29「暗唱したり、丸暗記することに関しての覚書 その二」
 小説家・保坂和志(1956- )は、彼が敬愛するチェコの小説家、フランツ・カフカ(1883-1924)についてこんなことを話している。
 ぼくがいちばん好きな小説はカフカの『城』なんだけど、あの小説ってどういう順番でものごとが並んでいたか思いだせないんです。でもすくなくともカフカ本人は覚えていたはずだから、ぼくも何度も読めば『城』を覚えられるかもしれないと思って、五年前に三回つづけて読みなおしてみたんです。それでもまだ「すこしは覚えたかな?」という程度で、あの覚えられなさだけでもすごい小説だと思いますね(笑)。
 小説家が小説を書いている時の注意力や集中力や持続力はやっぱりたいしたもので、その小説に対して同じだけの理解をするにはもうほとんど丸暗記するような読みかたしかないんじゃないでしょうか。こういうことをいうと人にイヤがられるかもしれないんだけど、丸暗記のようなやりかた以外には小説家の考えの全体には近づけないと思います。
『ほぼ日刊イトイ新聞』「保坂和志さんの経験論」(2005-06-20)

 では、じっさいに丸暗記することによって、どれだけ、どのような具合に「小説家の考えの全体」に〈近づく〉ことができるのだろうか?
 カフカを例にして考えてみると、彼にしては例外的に長い未完の作品『城』のみならず、原稿用紙数枚の短編『田舎医者』(*1)などでもそれらを丸暗記することは非常に困難だ。じっさい、一週間ほどかけて朗読や筆写などしつつ『田舎医者』の丸暗記に取り組んでみたのだが、うまくいかなかった。小学生の合唱隊がわけのわからない歌や、「先生、僕を殺して」、「謀られた、謀られたのだ」という印象的なフレーズは覚えられるが、他があまりにも不吉すぎてこちらの覚える気力を著しく削ぐ。とはいえ、作品に通底する不吉な予感は決して否定的な意味合いだけではないし、不吉なことは生理的に覚えにくいかといえばまったくそんなことはない。今月2日に「死者の日」のミサで聴いた「Dies Ire」は黙示録的な歌詞なのに、というか黙示録的な歌詞だからこそついつい覚えてしまい、男女混唱のコーラスにまざって数節を口ずさんだ。
 だとすると、なぜか? なぜ小説では丸暗記することが困難なのか?
 前回、詩と小説のジャンル的な差違を考えるのに関連して「なぜ詩はいつのまにか暗記、暗唱されてしまうのか? なぜ小説は努力しても丸暗記することができないのか?」という問いを立てた。そして詩が暗唱されることを読み手に誘いかけるという事態に関しては、夢・白昼夢の作品化への欲求と重ね合わせて、「“この”詩の与える“この”強烈なインパクトの無限回の再現」欲求をそのモチベーションにしているのではないかとひとまず仮定した。
 ここで、丸暗記されることを読み手に誘いかけない小説について――ひとまずは、カフカの小説に沿って考えよう。
 保坂和志が彼のエッセイのなかで述べているように、カフカの背後には安定した意味体系が想定されていないし、鳥瞰図的な背景描写も、まるで注意深く取り除いたかのように書かれていない。また、「新潮」で掲載されていたシリーズ「小説をめぐって」や、小島信夫との往復書簡『小説修行』で書かれたものを参考にしているのだが、そのなかにたしか、「カフカは『変身』が出版されるときに、主人公、グレゴール・ザムザが変身した「虫」を挿絵に描いて載せないでくれと、わざわざ出版社に注文を付けた」という逸話が紹介されている。(*2)
 カフカの諸作品に共通するそれらの特徴がどのように読み手の丸暗記を阻害しうるのか?
 この疑問への直接的な答えにはならないが、【丸暗記】と【カフカ】を結びつけた箇所が(やはりというかなんというか)保坂和志のエッセイのなかにあった。
 『城』は場面と場面が因果関係によって繋がっていない。場面のひとつひとつが細かく書き込まれていて、その中に他の場面との呼応関係が見つけられるという書き方になっている。つまり、全体を流れる太い筋はない。もともと筋がないのだから筋を憶えられるはずがない、という言い方は、しかし、何かの省略か隠蔽か歪曲になる。
 『城』であっても、〝城〟に特定の意味を見つけ出した人にとっては、筋が浮かび上がってくるだろう。この「見つけ出した」とは「こじつけた」ということだ。〝城〟が官僚機構であるとか、神の恩寵であるとか、あるいは『城』の全体が定住する土地を持たないユダヤ民族の隠喩であるとか、あれやこれやに解釈する場合、きっと何らかの筋が浮かび上がるのだろうが、そのとき排除されるものが多すぎる。その筋だけを聞いても『城』には聞こえないだろうし、『城』をおもしろいと思って読んだそのおもしろさとは何も響き合わないだろう。
 それゆえ、筋が憶えられないのだから、全体を丸々記憶するしかない。そして丸々記憶することができれば、見落としていた呼応関係にも気づくことができるのではないか。
 キリスト教徒にとっての聖書や仏教徒にとっての経典はそういうものではないかと思うのだ。本を一冊丸々記憶することは不可能なことではまったくない。小説家は一つの作品を書いているあいだ、自分がどこで何をどう書いたかほぼきちんと記憶している。書き上がった直後に原稿が消えてなくなってしまったら、それは誰だって呆然とするけれど、それは二度と書けないからではない。書こうと思えば書けるけれど、(1)細部まできちんと完全に同じには書けない、ということと、(2)同じものを書こうとしてもわずかにずれた細部によって、かなり別の方向に引っぱられていってしまう、と思っているからだ。書くという行為にはジャズのアドリブに似た一回性のパフォーマンスの要素がどうしてもつきまとい、それを完全に切り捨てることはできない。
カフカ『城』ノート(1)(前編)「新潮」2007年11月号

  (つづく)

(*1)1917年製作。あらすじは以下の通り。
 田舎医者は吹雪の中10マイル離れた村の重病人のところに行かねばならないのに、馬車を引く馬が過労で死んでしまい困っていた。しかし豚小屋から突然2頭の馬が現れ、馬は馬車に繋がれる。その間、馬丁が女中のローザに気があるそぶりを見せ彼女を抱きしめ、ローザは嫌がって逃げ回っていた。医者は馬丁をローザのもとに残して行くわけにはいかないと主張するが、馬車はあっという間に疾走し、瞬時のうちに重病患者の家の前に着いてしまう。患者の若者を診てみると、彼は健康そのものである。しかし馬がいなないた時、若者の腰のあたりに大きな傷口があるのに気が付いた。そのあと医者は裸にされて患者の横に寝かされる。若者の家族は心配して成り行きを見守り、小学生の合唱隊がわけのわからない歌を歌い、患者の若者は医者の無能を非難する。そして医者は慌ただしく馬に飛び乗って逃げ出すが、馬車は今度はのろのろとしていっこうに進まず、背後には子供たちの「間違った」歌が響いている。こうして医者は馬丁の悪行を思い浮かべつつ欺かれたと感じ、冬の夜を彷徨う。
「カフカ辞典」
(*2) 2007年の11月号から現在まで「カフカ『城』ノート」を新潮に掲載している。自分はちょうどそのころから急に忙しくなったから最初の回より他にはそれらを読んでいない。

by warabannshi | 2008-11-11 02:04 | メモ | Comments(0)
<< (無題) 第211夜 「餅蛇口」 >>



夢日記、読書メモ、レジュメなどの保管場所。
by warabannshi
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30
twitter
カテゴリ
全体
翻訳(英→日)
論文・レジュメ
塩谷賢発言集
夢日記
メモ
その他
検索
以前の記事
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 01月
2016年 11月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 03月
2007年 01月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月
2006年 08月
2006年 07月
2006年 06月
2006年 05月
2006年 04月
2006年 03月
2006年 02月
2006年 01月
2005年 11月
2005年 10月
2005年 09月
2005年 08月
2004年 11月
2004年 08月
2001年 12月
記事ランキング