彼は手に一通の手紙を持っていたが、目をあげて僕を見つめ、それからまた手紙を見、それからまた僕を見た。彼のうしろに、水飼い場に連れて行かれる馬たちの代赭色がかかった赤褐色の反転が言ったり来たりするのが見え、あまりに泥が深くてくるぶしまでもぐりこんでしまうほどだったが、いまでも覚えているのは、たしかその夜の間に急に氷がはりつめ、ワックがコーヒーを部屋に運んできたとき、犬どもが泥をくらいました、といったことで、ぼくは一度もそんな言いまわしを聞いたことがなかったから、まるでその犬どもとやらが、神話のなかに出てくる残忍な怪物のように、縁が薄桃色になった口、おおかみのように冷たい白い歯をして、夜の闇のなかで真黒い泥をもぐもぐ噛む姿、おそらくなにかの思い出なのだろう、がつがつした犬どもが、すっかり平らげ、地面をきれいにしてしまう姿が目に映るような気がしたのだった。いまは泥は灰色をしていて、われわれはいつものように朝の点呼に遅れまいとして、馬の蹄の跡が意志みたいにこちこちに凍った深いくぼみに、あやうく足首をくじきそうに、足をよたよたさせて走っていたところだったが、すこしたって彼が母上から手紙をちょうだいしたよといった。やっぱり、やめてくれといっておいたのに母が、勝手に出紙を書いたのであって、ぼくは自分の顔があかくなるのがわかり、彼も微笑かなにかそういった表情を浮かべようとしてだまりこんだが、きっと彼には、愛想よくすることではないとしても(たしかにそうしたいとは望んでいたのだから)あのよそよそしさを抹消することはできなかったのにちがいない。その表情はわずかに、ごましおまじりのごわごわしたちょび髭を左右に引きつらせただけで、年じゅう戸外で生活している人間に特有の、あの渋色に日やけした顔の皮膚、くすんだ色の皮膚には、どこかアラブ人的なところがあり、きっとシャルル・マルテルが殺しそこねたアラブ人のだれかの名残なのだろう、だから彼はおそらく、タルン県の彼の隣人である小貴族たちとおなじように、《わが家の祖先聖母マリア》の後裔だと自称していただけでなく、さらにその上、きっとマホメットの子孫だとも自称していたにちがいなく、われわれはいずれにしろ親戚だからね、そう彼はいったが、思うに彼の頭のなかでは、すくなくともぼくに関しては、親戚というそのことばはむしろ、蚊とか虫とか蛾とかなにかそういった程度のものを意味していたようで、またしてもぼくは、彼の手のなかにその手紙を見つけ、それがでれの用箋がわかったさっきとおなじように、怒りで自分の顔が赤くなるのを感じた。 小説の自由 保坂 和志 / 2005 / 新潮社 ISBN : 4103982055 5章「私の解体」は脱線が多いけれど良質なクロード・シモン論で、p.89-90に上の引用がやはりなされている。「いちいち内容を理解(ないし記憶)しようとして丁寧に読まずに、勢いに任せてダーッと読んでいく方がいいみたいで、そうすると文章もうんうん唸りながら進む泥でなく、歯切れよく活発で機敏に感じられてくる」という保坂和志の意見は一理ある。けれど、「うんうん唸りながら進む泥」が真冬に果てしなくつづくような『フランドルへの道』だからこそ生命力を予感させることもあるのだ。
by warabannshi
| 2008-11-20 09:14
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