「定義」(1975)、「夜中に台所でぼくきみに話しかけたかった」(1975)、「コカコーラ・レッスン」(1980)、「日本語のカタログ」(1984)、「メランコリーの川下り」(1988)、「世間知ラズ」(1993)、以上六冊の詩集が一冊に編まれている。
通好みの人からは、谷川俊太郎は軽く見られているようだけれど、七〇年前後から現代詩のいろいろな実験を、音楽演奏や漫画、ビデオ撮影などのさまざまな媒体を通して行ったexplorerである。
それは底面はもつけれど頂面をもたない一個の円筒状をしていることが多い。それは直立している凹みである。重力の中心へと閉じている限定された空間である。それはある一定量の液体を拡散させることなく地球の引力圏内に保持し得る。その内部に空気のみが充満しているとは、我々はそれを空と呼ぶのだが、その場合でもその輪郭は光によって明瞭に示され、その質量の実存は計器によるまでもなく、冷静な一瞥によって確認し得る。
指ではじく時それは振動しひとつの音源を成す。時に合図として用いられ、稀に音楽の一単位として用いられるけれど、その響きは用を超えた一種かたくなな自己充足感を有していて、耳を脅かす。それは食卓の上に置かれる。また、人の手につかまれる。しばしば人の手からすべり落ちる。事実それはたやすく故意に破壊することができ、破片と化することによって、凶器となる可能性をかくしている。
だが、砕かれたあともそれは存在することをやめない。この瞬間地球上のそれらのすべてが粉微塵に破壊しつくされたとしても、我々はそれから逃れ去ることはできない。それぞれの文化圏においてさまざまに異なる表記法によって名を与えられてはいるけれど、それはすでに我々にとって共通なひとつの固定観念として存在し、それを実際に(硝子で、木で、鉄で、土で)制作することが極刑を伴う罰則によって禁じられたとしても、それが存在するという悪夢から我々は自由でないにちがいない。
それは主として渇きをいやすために使用される一種の道具であり、極限の状況下にあっては互いに合わされたくぼめられた二つの掌以上の機能をもつものではないにもかかわらず、現在の多様化された人間生活の文脈の中で、時に朝の陽差のもとで、時に人工的な照明のもとで、それは疑いもなくひとつの実として沈黙している。
我々の知性、我々の経験、我々の技術がそれを地上に生み出し、我々はそれを名づけ、きわめて当然のようにひとつながりの音声で指示するけれど、それが本当はなんなのか――誰も正確な知識を持っているとは限らないのである。
p.32-33 『定義』より、「コップへの不可能な接近」