探索準備04 第10回本郷メタフィジックス研究会 予習
日時:2009 年3 月31 日(火曜日)午後1 時30 分より
場所:東京大学本郷キャンパス 法文2号館2階・哲学研究室

●長尾栄達氏(東京大学大学院)
 ロック哲学における意味と真理の問題

 参考になりそうな部分の抜き書き。岩波文庫の“An Essay concerning Human Understanding”(『人間知性論』)が絶版? になっていて驚く。買う人がいないのか、すでに出回っている本の総数がすでに需要を満たしているのか。

人間知性論 1 (1) (岩波文庫 白 7-1)

ジョン・ロック / 岩波書店


 現在の私が目指すところ[人間の真知の起源と絶対確実性と範囲を探求し、あわせて信念・億見・同意の根拠と程度を探求すること]にとっては、人間の識別機能がその取り扱うべき対象にたずさわる様子を考察すれば充分だろう。そして、もしこうした事象記述の平明な方法で、私たちの知性がいろいろな事物について私たちのもつ思念をえるようになる道筋をなにか解明でき、真知の絶対確実性のなにかの尺度や人々の間に見いだされるはずのいろいろな信条の根拠を説き明かせたら、私は、こうした場合に私の考えてゆくことがまったくのまちがいでもなかったと思うだろう。
本書 p.33-34

 「事象記述の平明な方法」とは、超越的原理や、形而上学的原理にたよらずに考察を行うというジョン・ロック(John Locke, 1632-1704)の基本的な方法論を指している。つまり、自己の経験において、「私たちの知性がいろいろな事物について私たちのもつ思念をえるようになる道筋」を観察し、記述する内観が、彼のとる方法となる。
 ロックは超越的原理や、形而上学的原理にたよらない。つまり、神があらかじめ人間に与えた生得観念と、それにもとづく考察を否定する。
 このように生得観念を疑うことは真知や絶対確実性の古来からの根底を根こそぎにするものだと、人々はややもすれば考えるかもしれないが、その人たちの非難がどれほど正しいかを私は言えない。しかし、少なくとも私は、自分の追求してきた道が真理に合致するから、この道は真知や絶対確実性の根底をいっそう確実にすると信じている。私はこれからの議論で、なにかの権威を捨てたり、なにかの権威に従ったりすることを私の仕事としない。
本書 p.128 一部改訳

 生得観念をロックは否定する。しかし、「およそ人間が考える対象であるもの」としての観念はやはりある。ではその観念はどこから生じるのか。それは「経験」からだとロックは言う。
 
そこで、心は、言ってみれば文字をまったく欠いた白紙で、観念は少しもないと想定しよう。どのようにして心は観念を備えるようになるか。人間の忙しく果てしない心相(fancy)がほとんど限りなく心へ多様に描いてきた、あの膨大な貯えを心はどこから得るのか。どこから心は理知的推理と知識のすべてをわがものにするのか。これに対して、私は一言で経験からと答える。

 だから、長尾さんの「ロック哲学における意味と真理の問題」は、「ロック哲学における経験と、経験だけでは説明のつかない、経験の外部」についての問題になると思うけれど、どうなるかまったくわからない。政治論までやるのかもしれない。「現実に存在する間違った法律に対し、人間本性にそぐう理想の法は、どのようなものであるか」という議論にもとづく自然法思想では、真理(価値、理論)と事実は一致しているから……。



●三好博之氏(京都産業大学)
 なぜ計算を考えるのに形而上学が必要なのか

「計算のとらえどころのなさを どのようにとらえるか」
日本科学哲学会第 37 回大会ワークショップ

 以下はだいたい最初の三分の一くらいまでの私家版まとめ。

 計算をしているのは誰なのか?
 1.ある人がリンゴの個数を数えたり、九九の暗算をしている。このときに、計算しているのはその人である。
 2.ある人が筆算をしたり、算盤や、電卓機能つきの携帯電話で計算している。このときに、計算しているのはその人であり、同時に、シャープペンと紙、算盤や携帯電話などの道具でもある。
 ところでいま、「シャープペンと紙、算盤」と、「電卓機能つきの携帯電話」を、同じ道具というカテゴリーのなかに並べてしまったけれど、前者と後者は異なる道具なのではないか? つまり、「シャープペンと紙、算盤」は、「電卓機能つきの携帯電話」ほど、自立的に計算をしてくれない。(中学校、あるいは高校の数学のテストで、電卓を使ってはいけないと言われることはあっても、筆算をしてはいけないと言われることはない。)
 計算しているのは、「電卓機能つきの携帯電話」を使っている人なのか、使われている「電卓機能つきの携帯電話」なのか? これを言い換えると、次のようになる。
 3.ある人が、もうひとりの人に計算を頼んで、計算をしてもらっている。このときに、計算しているのは計算を頼んだ人なのか、頼まれた人なのか?

 このように、計算する単位を考えてみるだけでも、計算という現象がおこっている事態を適切に記述することは非常に難しい。
 なぜ難しいかといえば、それは計算のトークン/タイプの両方を記述することが不可能であるからだ。
 つまり、個々の計算をまさに行っているときに、その計算のトークンであるところの、白さ、硬さ、甘さ、酔い、鼻につく匂い……みたいな感覚は一般的な人間において生まれない(『ぼくには数字が風景に見える』のダニエル・タメットなら違うかもしれないけれど、一般的には生まれない)。皮膚感覚のレベルでの生々しい断片、トークンを想定することがきわめて難しい。さらにそれを“完全に記述すること”は不可能である(後述の無限退行におちいってしまうから)。だから、計算において「自己」の問題を考えようとすると、どこで「自己」を区切って良いのかわからなくなって、さっきのような問いかけが生まれる。「ある人がコンピュータを使って計算をしている。このとき、計算しているのはコンピュータを使っている人なのか、コンピュータなのか?」「コンピュータの電源、ネットワークの接続、計算ソフト……、それらはどのように区切られるか?」。
 また、チューリングマシンの「停止性問題」(*1)のように、ある記号列を計算するときには、その記号列になんらかのかたちで意味(言語的抽象、タイプ)が必ず附帯し、それを記述しようとするときにさらに別の記号列を必要とし、その「『ある記号列の意味』を記述するために召喚された別の記号列」が、さらに別の意味を持ってしまう(「『ある記号列の意味』を記述するために召喚された別の記号列」の意味)……、という無限退行が起きる。
 計算のトークン/タイプの両方を記述することが不可能であることは、「計算がなぜ進むのか?」という問いかけへの応答を非常にむずかしいものにしている。もちろん、通常の理工学では、適切なところで、論理的、あるいは物理的な記述の自明性にこの問いかけは委ねられるので、問題にはされない。しかし、「何かが動く(この場合は「計算が進む」)には、記述を超えたなにかが関係しているのではないか?」という問いかけによって、「計算がなぜ進むのか?」という問いかけは形而上学の問題となり、三好さんの「なぜ計算を考えるのに形而上学が必要なのか」 という提題へとつながってくる。
(*1)wikipedia「チューリングマシン」に詳しい記事が載っているため、そちらを参照してください。

●郡司幸夫氏(神戸大学)
 生命:ゆらぎを溜める・ゆらぎを開放する

(時間がないので割愛。ほんとうはこれを一番予習したかったのだけれど……)
by warabannshi | 2009-03-31 11:56 | メモ | Comments(0)
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