つまり、昔は数行で世界が凍りつくとか、そういうふうな考え方があったわけでしょう。詩のすばらしい行っていうのはそれほど強力であると。で、今の僕にはどうもそうは思えないわけですよね。本当に推敲されて結晶化された数行なんていうのは、たとえあっても目につかないだろうって気がするわけ。だれもそれを享受する能力がない、と。だいたい、それを作り出す能力があるかどうかも疑わしいし。たとえ作り出せたとしても、それほどのインパクトはもう持てないと。それじゃあ大量に言語を消費して、一時流行った大河小説によって世界の全体像が描けるかっていうと、それさえもおぼつかない。それはだいたい、みんなそんな長い小説を読まなくなってきているし、どんなに言語の量を使ったところで今の世界の全体像にくらべれば、もう本当に塵の一粒みたいなものにしかならないわけでしょう。それじゃあどういう手があるかって考えたときに、それも負け戦は覚悟のうえで、たとえばエディングするっていう手もあるし、カタログ化するっていう手もあるな、っていうふうには思いますよね。たとえば日本語の総体っていうのがいかに豊かであるかと感じたときに、歴史的に見ても地理的に見てもじつに豊かな総体です、っていうふうに非常に抽象的な言葉で言って、それでイメージを喚起できる人は、勝手にイメージを喚起するし、あんまりイメージが豊かでない人は、せいぜい広辞苑一冊しか思い浮かべないかもしれないみたいなことがあるわけじゃない。それをじゃあもっと具体的に言おうとしたときにね、日本語のさまざまな文体をコラージュして、カタログ化して示せばさ、何かほんのちょっぴり質感みたいなのが伝えられるんじゃないか、というのがやっぱり『日本語のカタログ』の発想のもとですよね。
谷川俊太郎インタヴュー「言葉への通路・私への通路」 『現代詩手帳 1985年2月号』(思潮社) p.145
by warabannshi
| 2009-05-06 13:51
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