探索準備06-1 日本ラカン協会ワークショップ 発表草稿ver.1
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真理、真実、まこと、透明さ、一致、ほんとうのこと、普遍、証明……、それらは厳しい錬磨や戒律、苦痛、弛まぬ努力を、それらを問題にする者に不可避に要求する。にもかかわらず、人類史のなかでそれらを問題にしない者がいなくなった例しはない。なぜそれらは、私たちにとって、これほどの誘惑なのか? なぜそれらは、私たちを、幾たびも幾たびも、恍惚とさせるのだろうか?

私たちは限定されている。真理、真実、まこと、透明さ、一致、ほんとうのこと、普遍、証明……、それらについて何かを語るとき、私たちは具体的な種々の生活、支えている日常、母国語、よく歩く道、人間関係の諸事情、忙しさ、優性遺伝、声に出してみたときの語彙のなめらかさ、モニターに映し出される字面の好悪などによって、限定されている。限定はもちろん、それだけではなく、知らず知らずのうちに無数にかかっている。すべての限定を解くことは、常識的に考えれば不可能だ。

けれど、無数の限定の各々は固定的なものではない。固定的のように思えても、それらはガラスのように極端に粘性が強いだけで、それらは相関し、動き続けている。

古い人々のなかには、彼らのそれぞれの無数の限定にひるまずに、それらを受け入れ、横断し、超え出るための方法(プログラム? スタイル?)を、それぞれに一貫したやり方で作った者たちがいる。彼ら全員が哲学のトレーニングを受けているわけではない。ただ問題意識が哲学的であるとは言うことができる。

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宮澤賢治(1896-1933)は、彼自身の一貫したやり方で真実を追求する。宮澤賢治は近代日本文学史のなかでは、やや異端としてあつかわれ、その作品群は挿絵を付けられて子供向けの絵本として広く馴染まれている。しかし、一読すればすぐにわかるとおり、彼の作品群は童話というジャンルの雰囲気におさまるものでは決してない。心象スケッチや書簡、未定稿では「まことのことば」、「ほんとうの幸い」をめぐる執拗なまでの言及がそこここに見受けられる。その言及は苛烈であり、病的でさえある。
(cf.『銀河鉄道の夜』第一稿から第四稿までの推移)
(cf. [154](1919年8月20日前後)保阪嘉内あて書簡:病的な執拗さ)

いっぽうで、宮澤賢治の作品はとても倫理的なものとして馴染まれてもいる。朗読される「雨ニモ負ケズ」の自己犠牲。ベジタリアンの聖者。だが、暴力や非道徳さから彼が離れていたわけではまったくないし、それどころか、彼自身の“修羅”の衝動と彼が折り合いをつけることは最期までなかったように思われる。
(cf.「復活の前」(1918 22歳):暴力 )
(cf.『毒もみの好きな署長さん』(1921 25歳):不道徳さ)
(cf. [488] 1933年9月11日 柳原昌悦あて書簡:折り合いのつかなさ)

宮澤賢治が病的な執拗さで求める「まことのことば」、「ほんとうの幸い」。そして、依然として失われない倫理性の、理解しがたい構造。それらをよりよく理解するために、ラカンの精神分析の視点(とくに『精神分析の倫理/セミネールⅦ』)から賢治の諸作品を考察したい。

***

仮説:宮澤賢治の諸作品の倫理性は、『精神分析の倫理』でラカンが提起する精神分析の道徳律、「汝、欲望に関して譲歩することなかれ」を介することで、よりよく理解することができるのではないだろうか?
根拠.1―人間存在は根源的には非道徳的であるという認識が、精神分析にはある。(cf.Ⅶ-1) 賢治の感じていた内奥の衝動の認識との近しさ。(前述)
根拠.2―精神分析の経験をとおして、被分析者は一種のカタルシスを味わう。それは欲望の昇華、違った形での成就である。(cf. [165](1920年6月~7月)保阪嘉内あて書簡「人間の世界の修羅の成仏」)

ラカンが示す、精神分析的見地からの、四つの命題。
1.我々が有罪たりうる唯一のこと、それは欲望に関して譲歩してしまったことです。
2.英雄の定義、それは裏切られてもひるまない者です。
3.このような感じ方は万人の手の届くものでは決してなく、それこそ普通の人と英雄の相違です。普通の人間にとって裏切りはほとんどつねに生じることですが、その結果として普通の人間は善への奉仕へと決定的に投げ返されます。しかしこの場合、この奉仕へと向かわせたものが本当は何であるかを見ることは彼には決してできません。
4.欲望への接近のために支払うべき対価でない善はありません。というのは欲望とは、我々がすでに定義したように、我々の存在の換喩です。
(Ⅶ下p.234-235)

「欲望に関して譲歩する」ことと「裏切り」の関連。
人が裏切りを容認するとき、そして、善という観念――この瞬間裏切った人の善の観念と私は言いたいのですが――に押されて、自分自身のこだわりを捨てるとき、「こんなもんさ、我々のパースペクティヴは断念しよう、我々はどちらも、でも多分私のほうが、そうたいした人間ではない、普通の平凡な道に戻ることにしよう」と納得するとき、この裏切りをめぐって何かが演じられています。ここに「欲望に関して譲歩する」と呼ばれる構造があることはお解りでしょう。(Ⅶ下p.234)


賢治が、勤めていた農業学校の卒業生に向けて語る、妥協や小心さへの、強い忌避。
(cf.「告別」『春と修羅 第二集』)

***

賢治が追い求めた「まことのことば」、「ほんとうの幸い」とは何か? それは、真である可能性がありさえすればいいのか? 違う。それは必然的に偽であるわけではないだけだ。賢治が求めるのは、必然的に真であり、つまり偽である可能性のなさだ。
 「まことのことば」とはなにか? この問いかけに関しての詳しい整理は千葉『賢治を探せ』(03)、また太田の卒業論文(08)でなされている。
 千葉はラカンの鏡像段階論をもとに、「まことのことば」を、乳児が、まだ言語を習得する以前に聞いた、大人たちの奇跡のような言語使用の無意識的記憶であると提起する。それはテレパシーのように直接的に伝わるものであり、ウソを可能にする媒介性、恣意性、つまり三人称性のないものであった。しかし賢治が言語を通してコミュニケーションを図るかぎり、三人称性を離れることはできず、したがって三人称性を排した「まことのことば」を求める賢治の希求は不可能である。そして賢治は、最終的に自らの読者に「まこと」を託すという段階に至った。
 太田は千葉の議論をふまえたうえで、なぜ賢治は読者にも彼自身にも「わけのわからない」ことを「ほんとうのこと」として作品化することができたのかについて考察する。賢治の分裂病的な側面に着目すると、発話の苦痛を和らげるために、彼が傾倒していた法華経・如来受領品のゴータマの真実と自らの真実を結節させようとする試み(とその失敗)があったことがわかる。彼は自身を法華経の行者であり、法華文学を作っていると思い込んでいたが、法華経の理論は、逆に彼の幻覚や幻聴の解釈のために使われていたのだ。


それでは、「必然的な真である=偽である可能性がない」ことばや幸福が、なぜ求められるのか? 「真である可能性がある=必然的に偽ではない」ことばや幸福で、日常生活も道徳も、万事快調ではないか。

そもそも「偽である可能性がない」ことばなど、存在するとは考えられない。(cf.ソシュールの言語論など)

だが、「必然的な真である=偽である可能性がない」ことばや幸福を求めるその過程に、中性的で硬質な美しさを感じることもある。その美しさは、「真である可能性がある=必然的に偽ではない」ことばや幸福のゆらめくような戯れとは、どちらが高尚であるということなしに、異なるものだ。

この問いかけに関して説得力のある先行研究は見られない。そこで『精神分析の倫理』から、ラカンの真実や倫理についての論考がどのように進められていたのかを賢治諸作品と合わせてたどりながら、考察したい。
by warabannshi | 2009-05-23 12:41 | メモ | Comments(0)
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