谷川 俊太郎『詩集 谷川俊太郎』より、「彼のプログラム」

詩集 谷川俊太郎

谷川 俊太郎 / 思潮社

 「定義」(1975)、「夜中に台所でぼくきみに話しかけたかった」(1975)、「コカコーラ・レッスン」(1980)、「日本語のカタログ」(1984)、「メランコリーの川下り」(1988)、「世間知ラズ」(1993)、以上六冊の詩集が一冊に編まれている。
 





110
六月の或る日、彼はジェームス・レヴァイン指揮、マーラーの交響曲第四番のレコードを買ってきた。その演奏を、ブルーノ・ワルター指揮のものと比較したいと思っているのだが、どうしてそうしたいかはわかっていない。音楽を聴くというより、彼はむしろ音楽に縋りついている。時折、ごく短い楽句のうちに彼は見たことのない世界を垣間見るのだが、それはつかまえる間もなく意識からこぼれおち、無意識の闇に紛れこんでしまう。ひどく焦ら立たしい経験なのだが、それに彼がなぐさめられていることも事実なのだ。



120
彼はこどもころから、百科事典というものに魅了されつづけている。それは彼にとっては知識を得るための道具以上のものなのだ。たとえば〈シャム双生児〉の存在を、彼は古い冨山房(ふざんぼう)刊行の百科事典によって初めて知ったのだが、それは知識の断片というよりは、生きている世界の組織のなまなましい標本とでも言うべきものだった。そのような奇怪な存在の意味をたずねることは不可能だ、子ども心に彼はそう納得したにちがいない。詩と呼ばれるものにもおそらくそれに似た何かが含まれている、これはおとなになってからの彼の意見に過ぎないが。



130
以前興味をもっていたほとんどのことに、(たとえばタオスに行ってロレンスの旧居あたりをうろつくこと)飽きてしまっているが、少なくともいま彼は、書くということにいささかの興味を覚えている。言葉をつなぎあわせてある架空の感情をあたかも存在したかのようにいつわることに、妙な快感すら感じている。これはいったいどういうことなのか。朝がた庭で見た小さな蜘蛛の巣を彼は思い出した。その弱々しい構造体はよく見ると驚くほど精緻な形をしていて、その主は巣の中心でじっと何ものかをまちつづけていた。蜘蛛が意識して巣づくりをしているのではないように、自分も意識せずに何かを書いているのだと彼は思う。




140
「詩的なるもののカタログ」そんな考えが、不意に彼を襲った。電車の吊革につかまって、ぼんやりと埋め立てられた運河の上の雑草の緑を見ていたときのことである。この世で五感のとらえることのできるほとんどのものが、詩的であることを彼は疑っていないから、そのカタログは厖大なものになるだろうが、そのうちのいつくかを、いわばサンプルとして提示することは左程難しくはない。問題は「詩的なるもの」と「詩」の関連のさせかただ、と彼は考えつづける。「詩的なるもの」をいくつ集めたって「詩」にはならないと、そう考えるべきか。それとも「詩」の観念をむしろ「詩的なるもの」と同じ次元にまで引きずりおろすべきか。いずれにせよそのカタログが、現代日本語における「詩」についての、一種の資料的価値をもつことはあり得る。それが単なる冗談だとしたって、黙りこくってるのよりはましさ、丁度そのとき電車は目的の駅にすべりこむ。



141
彼は頑固な水虫に罹っているが、それを他人にはひたかくしにしている――と、こんなふうに彼は書いてみる。じつは彼は水虫なんぞには生まれてこのかた一度も悩んだことはないのだ。そんなささやかな嘘で、彼は自分自身からほんの少しでも脱)れようとしている。



150
彼は古い木製の階段の、彫刻をほどこした手すりにしがみついている。誰かに突き落とされそうになったのだ。のけぞった頭上に、大きなシャンデリアがある。この住宅はたしか「近代日本建築集成」に収録されていた。と彼は思い、その瞬間、手が手すりから離れてからだが落ちていく。誰が突き落としたのかということは、全く念頭に浮かばない。これは夢かな、得体の知れない深みへと吸いこまれながら彼は考える。それとも真、おれはこれを文字にして書きつけているのか。夢を見るのは自分の意志じゃない、おれが文字を書きつけるのもおんなじだ。だが、このいつまでもつづく落下は、心臓によくない、着地の衝撃を彼はおそれつづけているのだ。その由緒ある建築物の内部にはもはや誰も住んでいないことを、彼は知っている。



160
彼は自分が誰かの書きつづけている長編小説の主人公だと思うことがある。いわゆる前衛小説ではない、むしろ十九世紀的な手法で現代を扱った小説。たとえば夜、ベッドに入る前に安ブランディを瓶からひとくち喇叭飲みするようなささやかな行為が、妙に意味ありげに感じられるような文体、そんな文体(スタイル)がそのまま自分のライフ・スタイルだと思いたくなるのだ。誰も見ていなくとも、そんなとき彼はちょっと自分が誇らしくなる。どんな惨めな人生を送っていようと、小説の主人公はいまだに一種の英雄であることをやめていないのだから。だがそんなロマネスクな瞬間はもちろん長つづきしない。恐ろしい速度で過ぎ去ってゆく日常の時間は、どんなスタイルをも粉々に打ち砕く。小説には終りというものがあって、そのあとの奇妙な満足と空白感が彼は好きなのだが、自分の人生については、そんなものは求めようがないことを、彼は知っている。



170
車のフロント・ウィンドウのむこうにひろがる曇り空の灰色の濃淡、それを背景に鮮やかな青色のネオンが輝いている夕暮れどき、波立っていた気分が不思議に静まってくるのを彼は感じる。外界の隅々にまで自分の心がゆき渡っているような満足感、たとえ心を許している人間であっても、かたわらに他人がいると、彼はそんなふうに無防備に心を開くことができない。それを感傷と言いたくない、自分を孤独とも思いたくない。むしろ今、自分は一種の至福の状態にあるのだと彼は思う。献身とか犠牲とかの観念からははるかに遠く、彼はひととき無邪気なエゴティズムに身をまかせる。



171
目の前の白いロール・ブラインドに向かって、彼は煙草の煙を輪にして吐きだす。白の上であえかに揺れながら形を成すごく淡い青、ブラインドの向こうには、夜の闇に沈む木立がある。突然彼は想う、この世にはどんなに愛しても足りぬものがある、むしろ愛し過ぎることで見失うものがあると言うべきか、だが愛さずに何かを見失うこともまた不可能だ。そうしてゆっくりと睡気が彼を襲う。

by warabannshi | 2009-06-06 21:41
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