『ニーチェ全集〈第1期 第12巻〉 ―遺された断想(1881年春-82年夏)―』
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1881年春-秋 11[19]
ひょっとするといっさいの道徳的衝動は、所有したい、持っていたいという意思に還元できるかもしれない。所有の概念はますます純化されていく。所有することがいかに難しいか、そして所有したと思っているものでも、いかにそれがなおわれわれの手をすりぬけていくかを、われわれはますます強く理解するのである――それゆえ、われわれは所有をますます純粋に考える。そしてついには、事物の完全な認識が、所有をめざすための前提条件となる。時として、完全な認識だけでもう所有として十分なこともある。その事物は、もうわれわれの視線から逃げも隠れもできなくなる。こうした意味で認識は、道徳性の最終的段階であると言えよう。それ以前の段階としては、例えば事物を自分の好きな幻想に飾ったうえで、それを所有していると信じこむのがある。恋する男が恋人に、父親が子供にとる態度がそれである。なんという所有の楽しみであろうか! ――だがこの段階ではまさにこの仮象で十分なのだ。またわれわれは、自分たちが獲得しうる事物に関して、それを所有することが非常に価値のあることであるように考える。そこで、こいつなら勝てそうだと期待できる敵を、われわれの自尊心に合わせて作り上げる。これは同じく愛する妻や子供についても行う。われわれはまず、およそ自分が奪取できそうなすべてのものをおおよその予測によって知る――すると想像力の出番となり、これら将来の財産が、きわめて高価なものであると自分に自分で思い込ませようとする(官職、栄誉、交際関係等等)。われわれの求めているのは、自分たちの所有財産に相応した哲学である。つまり、これに金メッキをかけてくれる哲学なのである。マホメットのような偉大な宗教哲学者たちは、人々の習慣や所有物にあらたな輝きをあたえるすべを心得ていたのである――「何か別のもの」を求めよと命じるのではなく、彼らが所有したいと望み、また所有することが可能であるものが、なにか高等なものであるように思うようにすること(そこに、彼らが今まで見出してきた以上の理性と英知と幸福を発見するようにすること)を心得ていたのである。――自分自身を所有したいという意欲、つまり自己支配などなど。
[強調原文、下線部引用者]
by warabannshi
| 2009-07-23 17:34
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