第360夜「書字」
 一ミリ以下の羽虫で溢れかえった都市。呼吸のために顔をおおうガスマスクが必要なほどである。これらの羽虫は、人が文字を書くと非常に凶暴になり、集団で襲いかかる。私は先日、僧侶になるための論文試験に落ちてしまったので、事情を説明するための手紙を紙媒体で書かなくてはならない。無念なことに、私には髑髏のように氏名がない。論文の内容は悪くなかったはずなのだが、氏名欄に何も書かなかったために零点になってしまったのだろうと思う。その弁解のために、私は空気が殺人虫で満たされた都市で、手紙を書かなくてはならない。
「少尉は英語でcolonelだからね」と名前を知らない母が出鱈目なことを言って念を押す。
 私は母に礼を言い、羽虫が濾過された部屋を出る。部屋の外はあきれるほど真っ暗である。都市はいま夜のなかにあるのか、それとも羽虫が満ちていて陽光が届かないのか、わからない。この都市には昼夜がないのかもしれない。私はランタンを消して、羽虫の顔にあたるなかを歩く。しゃわしゃわと油を霧吹きで顔に吹き付けられているようである。あまりにも不快なので、私は口を閉じたままうなされる。うなった方が、まだましな気がするからである。
「これらの羽虫は実験動物として供養されなかった犬たちである」というクレジットが頭のなかに流れる。そうだったのか。と思う反面、私は心配になる。頭に浮かぶ文字に、羽虫たちは反応しはしまいか。いまそんなことを考えてはいけない、と思う。
「生物らしい嫉妬。学究の徒をたっぷりと苛みたい」というクレジットが頭のなかに流れる。まずいことになった。もしかしたら羽虫たちが私の頭に直接文字を流し込み、誘っているのかもしれない、と思う。私は歩き続ける。何も考えないようにするために、クレジットが投影されるガラス板を粉々に割ることをイメージする。しかし、そのイメージそのものも、ガラス板に投影されたようになってしまうので、ガラス板を割るイメージを投影するガラス板を粉々にする。しかし、そのイメージそのものも、ガラス板に投影されたようになってしまうので、それを投影するガラス板をさらに粉々にする。
「ビタミンE」「毒石鹸」「Xファイル」「安全かみそり」などの文章になっていない単語が、千も万も、頭のなかに流れる。それらの単語も、すぐに文字ですらない微細な直線の、百億ものものすごいかけらになり、そして私は手紙を書くための小部屋にたどり着く。

 私は、羽虫が濾過された手紙を書くための小部屋に入る前に、顔を洗う。つぶれた羽虫の死骸がべっとりと私の顔にこびりついているかと思ったからだ。しかし、急ぎ足で長い距離を歩いてきたのに相応の脂がういているだけだった。洗面台にはひとかけらの固形石鹸がある。使ったらひどい水ぶくれができそうなので、次の人のために、砕いて下水に流してしまう。
 小部屋には、机があり、そこに便箋も用意してある。私はそこに座る。手探りで、すぐに鉛筆を探し当てることができる。幸先が良い。
 便箋に「ここは寒い」と試し書きをする。
 すぐに二匹のクロスジマカのような羽虫が右腕の肘のあたりにとまる。
 私は慌てて羽虫を叩き潰す。私にくっついて、小部屋に入ってきたのだろうか。濾過設備がお粗末なせいで、私を殺す虫が闖入してきたとは、まったく考えたくない。
 ふと気がつくと、刺されたらしいところが塩素色の蛍光に光っている。アンドロイドが内出血をおこしたようである。痛くも痒くもないが、掻きたくなったので、掻くと、目の前がばっと冷たくなり、ぞおっと嫌な感じが背中を伝う。非常に強い罪悪感を覚える。二匹でこれなのだ。群で襲いかかられたら、疚しさで死んでしまうだろう。

 医科大学のうら寂しい広場に、名前の知らない恋人が突っ立っている。手紙を書き終えた私を待っている。
「あ、太田君、僧侶になったんだ。大学に通っていたって、言っていたもんね」
「命の危険をかえりみずに文字を書く人を、僧侶と呼ぶ」というクレジットが頭のなかに流れる。
「苦しい、苦しいよ」と言う彼女を、私は力一杯抱きしめる。
by warabannshi | 2010-04-21 09:40 | 夢日記 | Comments(0)
<< 【緊急訂正】コミティア92の日... 第359夜「百物語」 >>



夢日記、読書メモ、レジュメなどの保管場所。
by warabannshi
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30
twitter
カテゴリ
全体
翻訳(英→日)
論文・レジュメ
塩谷賢発言集
夢日記
メモ
その他
検索
以前の記事
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 01月
2016年 11月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 03月
2007年 01月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月
2006年 08月
2006年 07月
2006年 06月
2006年 05月
2006年 04月
2006年 03月
2006年 02月
2006年 01月
2005年 11月
2005年 10月
2005年 09月
2005年 08月
2004年 11月
2004年 08月
2001年 12月
記事ランキング