第365夜「坂之上」
 劇団「葦」の稽古場は、私の借りている家の茶の間である。十枚の畳を引っぺがされ、板敷きになったところに、三リットルほどの容量の薬缶が五つ、置かれている。それらのなかの一つには熱湯が入っており、劇団員は全員、分厚い目隠しをして、その茶の間で通し稽古を行う。稽古といっても、劇団「葦」が得意とする演目は、コンテンポラリー・ダンスとパントマイムである。なので、稽古といっても静かなものである。私自身は、劇団に茶の間と薬缶を貸しているが、じつのところ劇団員ではないので、飽きるまで彼ら彼女らの四肢の動きを眺め、飽きたら庭の紫陽花に目を移す。私は鶯も飼っている。ぴゅるるるるる、としか鳴かないけれど。
 今日の稽古が終わったらしく、全員がヘッドギアのような目隠しをはずし始める。なぜ彼らはこんなケッタイなものをつけて稽古をするのか? といえば、「視覚に頼りきった演劇/観劇を脱するためである」。そう、東北人、と呼ばれている団長は答える。東北人は六〇歳ほどの男で、髪ともみあげと髭がひとつながりになって顔の輪郭を縁取っており、すべてに平等に白い毛が混ざっている。日に焼けた風体から、普段は屋外で逞しく仕事をしているのかと思ったが、なにしろ、彼には筋力がないこと甚だしいので、そういう線はいつのまにか私の頭から消えた。
「坂之上の菩薩が、盗まれたそうだ」
「盗まれた? 菩薩は誰かに捕まったのではないか?」
「いったい誰が菩薩を捕まえるというのか。そんなことをすれば――」
「両方の穴から鼻血が止まらなくなるぞ。髪と眉毛がまだらに抜け落ちるぞ。」
「すみません、薬缶でお茶を入れたいのですが」
 私がぼーっとしていると、覗き込むようにして黒い男がたずねる。長髪の、目のきれいな韓国人で、彼が「ウォアイニ」とつぶやくと客が沸く、ということでずっとウォアイニと呼ばれている。本名は知らない。たぶん劇団の誰もが彼の本名を知らない。それにウォアイニは中国語だ。
「もうすでに熱い薬缶はプーアル茶が入っています。冷たい薬缶のどれか一つは麦茶です」
 ウォアイニは私に礼をいい、全員に湯のみを回しはじめる。いったい何人いるのかわからない。
 この稽古場に集まる団員の数を幾度か数えたことがあったが、いつのまにか一人ふえたり、一人へったりする。なので、どうでも良くなって最近は数えていない。
 複数の団員が咽喉を潤すのを眺めていると、鶯がぴるぴるぴると鳴き出す。本当に、奇妙な鳴き方しかできない鶯だ。
「ぴゅるるるるる、ってこの鶯が鳴くのは、東北人が、うぐいすの雛の鳴き声に合わせて答え返してあげなかったからだ!」
 団員の一人が糾弾する。東北人は面目なさそうに俯く。俯くことで、彼は非難の正当性を受け入れる。そういえば、この鶯は、稽古場を貸すときに、そのお礼として東北人から貰ったものだった。
「ぴゅるるるるる、もう手遅れだ。この鶯は歌を覚えない」
「ぴゅるるるるる、われわれは手遅れか? 踊りをもう続けられないか?」
「ぴゅるるるるる、まさか。否、否、否」
「ぴゅるるるるる、さあ行こう」
「ぴゅるるるるる、さあ行こう」
 湯のみの中身を飲み干して、団員たちは庭に停めてある彼らの自転車に乗って次々に走り出していく。私もなんだか楽しくなってきたので、私の自転車に乗って、雲霞のように路地裏を駆けぬける彼らの後を追う。圧倒的に青い空の青さである。雲は太陽を隠さずに、刷毛でさっと擦ったほどしかない。庭木の葉の蒸散や草いきれを吸い込むと、あまりの多幸感でくらくらする。
 すぐ前を走る団員は、加速装置を発動させた009の真似をしているのか、やたらと前のめりになって立ち漕ぎをしている。むらむらと悪戯心が沸いてくる。私はサドルに腰をつけて、わざと背筋をのばして、悠々と彼を追い抜く。彼のあっけに取られた顔を見られないのは残念だ。私は姿勢良く、次々と団員たちを追い抜いていく。
 やがて交差点に辿り着く。静かな産業道路のど真ん中に鉄筋の小屋があり、そこが喫煙所になっている。いつのまにか、私の後ろには誰もいない。夢中になって走っているうちに、全員をちぎってしまったのだろうか。なんとなく寂しくて、煙草を吸うことにする。無骨な造りの喫煙所にはいると、孵化したばかりの鳥の雛が、床に落ちて裸のまま死んでいる。自殺である。
 私は煙草を吸うのをやめにして、その雛の屍を灰のなかに埋め、喫煙所から立ち去る。そして、一人で自転車にのり、排気ガスの残り香すらない産業道路の坂を、駆け上る。
 私は誰もいないのをいいことに、ペダルを漕ぎながら大声を出して泣く。傾斜はどんどんその角度を増していく。立ち上がり、一身の体重を、チェーンも切れよとばかりに踏み込む。ほとんど壁のようにそそり立った坂は尽き、あとは石段が続いている。私は自転車を放棄する。自転車は盛大な音を立てて、縦横に回転しながらの坂の下へと転げ落ちていく。私は石段を駆け上る。上り始めたときは足の裏をすべてつけられた石段の、段の一つ一つは、しかしいよいよ狭くなっていき、もはや足の指の腹を置くことさえ困難なほどである。だが、臆してはいけない。重心を少しでも後ろに傾ければ、私は落下するだろう。滑落した私は、擦過によって、ふもとの喫煙所まで転がったときには黒ずんだ肉塊にしかなっていないはずだ。爪の間に黒土が入り込むのもかまわずに、私は夢中で石段を這い上がる。
 ここが坂之上。私はついに、石段の尽きるところに辿り着く。ささやかな竹林とともに小さなお堂がある。しかし、お堂に安置されているはずの菩薩はない。振り返ると、絶大な風景が眼下に広がっていた。私が男であったなら、迷わず勃起しているところだろう。私はお堂に足を踏み入れる。すると、片隅で、名前を知らない死んだ兄が、私を待っていたとでも言わんばかりに柱に背をあずけて立っている。



書簡脳

 (蠅)、と蒼褪めた字の記された紙媒体の書簡が机に置いてあった。
by warabannshi | 2010-05-15 11:44 | 夢日記 | Comments(0)
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