友人らと旅行中。数週間前から、タイ都市部にある激安アパート「グリーンパパイヤ」に滞在している。「グリーンパパイヤ」はタイではあちこちにあり、農村から出稼ぎにきた不健康そうな若い男やシングルマザーなどが多く生活している。水はけの悪いところに建てられるのがふつうで、いまも1Fは床上浸水している。この町に着いてから、とくに雨が降った記憶はない。
「こういうのって、学校のプールの足洗い場を思い出すよね」
友人Hが、白いタイル敷きの玄関ロビーにたまった水を脚でかきわけながら言う。
「賭けをしない? Hの隣に住んでいるタイの女の子が、もし「片付けられない人」だったら、私が朝食をおごるよ」
「どこで朝食? 屋台、ロイホ、神戸屋?」
神戸屋、ということで賭けは成立する。私たちと旅行中の友人Gと仲がよいタイの女の子の部屋を、二人で行って見せてもらう。1DKの部屋には、スチールベッドと、室内干しのための洗濯紐、ささやかなクローゼットくらいしかない。カーテンは緞帳。綾波レイの部屋みたいである。しかし床の掃除は素晴らしく行き届いている。
「仕事のほかには、掃除ぐらいしかすることがないから…」
タイの女の子は照れ笑いをする。私はすっかり彼女が気に入り、一緒に朝食に誘う。
タイの女の子と友人H、そしてG、その他数名の仲間たちはすぐに玄関ロビーに集まったが、友人Cがいつまでたっても部屋から出てこない。彼らを先に神戸屋に行かせることにして、私は友人Cの部屋に行く。
「体がダルいんだよ」というC。
「二人三脚をすれば治るよ。ただし足を結ぶ紐はいらない。うそ二人三脚。これは『源氏物語』にも書いてある鬱屈の治療法だ」
そういって無理やりCと肩を組み、日本の杉並区・和田堀の町を走り出す。文房具屋を兼ねているタバコ屋、セブンイレブン、駄菓子屋、大宮八幡宮、そして市民プールを次々と快調に走り抜いていく。どこかに行く約束があったはずなのだが、思い出せない。蝉がうるさい。それぞれの樹や軒の内側で二、三匹が鳴いている。走ってほぐれた体の隅々に沁み入るような振動音である。
「いいね、うそ二人三脚」横で走るCに笑顔が戻っている。
「でしょ?」
「古典に書いてあることは学ぶべきだな」
「身体への出力が高いテキストが多いからね。だからこそ古典になったとも言える」
「『江戸生浮気蒲焼』、俺は好きだよ」
「平賀源内だっけ? いいよね」
煎りつくような蝉の声と正午の光のなかを、私たちはうそ二人三脚で走り続ける。