探索記録37「どのようにしてメッセージは書かれるのか?」
 今日、初回講義があった塩谷さんの法政大学の科学哲学講義のあと、新宿・損保ジャパンビルのエクセルシオールでうかがった話の備忘メモ。どこからどこまでが塩谷さんの発言で、どこからどこまでが太田の誤解・曲解を含んだ解釈かは不明。もはや、こんなことが話されていました、以上のなにかではないです。

■どのようにしてメッセージは書かれるのか?
 ある文章が、「メッセージである」ということはどういうことなのか? 書き手がある文章をメッセージとして書いているからか。それでは「ある文章をメッセージとして書く」とはどういうことなのか。なにか文章を書くに当たり、書き手は「書かれる内容を予め決めて、それを伝達するために書く」という順序を必ずしもとるわけではない。(現に、この文章は、ほとんど行き当たりばったりで書かれているし)
 何かを伝達したい、という書き手の欲望によって、ある文章はメッセージとなるわけではない。
 読み手に読み取られることによって、ある文章は、初めてメッセージとなる。
 この順番は逆ではない。バルトを持ち出すまでもなく、「ある文章がメッセージとして生成するのは読み手においてである」。例えば漱石が修善寺で喀血して人事不省になったときに、壁にすばらしい南画の掛け軸がかかっているのを見た。回復したときに、あらためてその壁を見たら、南画だと思ったのは雨漏りのしみだった。

■書き手において、「どのようにしてメッセージは書かれるのか?」
 いや、たしかに「雨漏りのしみ」を「南画」に見せるのは読み手(この場合は鑑賞者か)である。でも、ここで考えたいのは逆の関係だ。つまり、いずれにせよ「南画」は「半紙に書かれた墨のしみ」に過ぎないわけだが、それを「南画」として描くということはどういうことか、と、そういうことだ。
 アラビア語の読み書きができない者にとって、アラビア語で書かれた文章は不可解な規則性をもってうねる線と傍点の連なりでしかない。日本語の読み書きができない者にとって、この文章は粗密が不規則に入れ替わる(漢字とひらがなが入れ替わる)記号の連なりでしかないだろう。
 読み手にとって、まるで意味がわからないものは、果たしてメッセージではないのか。
 しかし、それはすぐに解決する疑問である。つまり、ある文章の書き手は、その文章の最初の読み手であるということによって、書かれたあらゆる文章は一人以上の読み手をもつことになる。
 さて、では問題。
 ある文章の書き手が、その文章の最初の読み手であるとしたとき、「ある文章を読んでいるときには、もうそれを書いているだろう」と「ある文章を書いているときには、もうそれを読んでいるだろう」のどちらの順序を私たちは踏まえているのだろうか。
 常識的に言えば、後者だ。ここは常識に従おう。では、ちょっと変奏する。
 「ある文章を読み終えたときには、もうそれを書いているだろう」と「ある文章を書いているときには、もうそれを読み終えているだろう」。これはどうだろう?
 これもやっぱり後者だ。太田は、正直なところ、「読み終える」ということが起こったときには(つまりある文章にエンドマークがつくときには)前者のような気がしていた。というより、「ある文章を書いているときにそれを読み終えている」としたら、それを書く意味はないのではないか、書くモチベーションなんて生まれるのか、と思っていたが、そもそもいつもこのブログで書いている夢日記を書いているときには、もう「(夢を)見終えて/(夢日記を)読み終えて」いるのだ。
 例えば、ベートーヴェンは耳が聞こえなくなってから「第九」を作曲したわけだけれど、作曲しているときに、もう少し具体的に言えば、付箋紙にペンを走らせているときに、ベートーヴェンは「第九」を〈聞いてor聞き終えて)いたのだろうか。
 あと、太田が尊敬してやまないジャズピアニストのキース・ジャレットは、四十分以上のインプロヴィゼーションを行うけれど、鍵盤に指を落とすとき、彼はなにを〈聞いてor聞き終えて)いるのだろうか。
 いや、作曲、という現場では、文章を書く、という現場とは異なることが起こっている。そういう意見もあるだろう。
 そうだ。作曲は、「書く-読む」よりも「話す-聴く」に近い作業だ。そして両者は異なる。

■「書く-読む」と「話す-聴く」の違い。
 結論を先取りする。「書く-読む」と「話す-聴く」の違いは何か。前者は、純粋な言語行為を設定しやすいのに対して、後者は非常に設定しにくい。純粋な言語行為、というより、五感と切り離された言語行為、といったほうが適切かもしれない。つまり、「話す-聴く」においては口腔内の舌の触感や運動、そして聴覚がダイレクトに言語行為と係わってくるのがわかるのに対して、「書く-読む」においてはそこに当然介在しているはずの視覚が前面化しない。見る、と、読む、は違う行為であるからだ。薄暗くて本が読めなかったり、老眼で眼がしょぼしょぼになって虫眼鏡が必要になったときにも、それは視覚とは別の機能の衰えとして意識されるのではないかと思う。
 「書き手」と「話し手」は、それに関わるうえで、異なる。
 「ある文章を書いているときには、もうそれを読み終えているだろう」。
 「ある文章を話しているときには、もうそれを聞き終えているだろう」。 
 両者はやはり違うのだ。どこが違うのか、すぱっと示すことができないけれど、メッセージのモノ性が違う、といえば、なんとか伝わるだろうか。つまり、メッセージをモノの移動のように考えてしまう誤謬について、前者のほうが無警戒であるというか。……、何か混乱の予感がするけれど、続行。

■メッセージをモノの移動のように考えてしまう誤謬
 メッセージはモノの移動のように考えられがちである。つまり、この文章がなにかしら伝えるに値するような内容(コンテンツ)を準備していて、その内容が文章を通して、読み手であるあなたに伝わる、という構図が頭に浮かびがちである。が、それは勘違いである。太田和彦はじつはチューリングテストの応対機械かもしれない。あるいは猿が適当にタイピングした文字列が奇跡的な力によってこういう意味のある文章になっているのかもしれない。そんなの仮定にすぎない、というかもしれないけれど、少なくとも、どこに〈エンドマーク〉を付けるのか、わかったうえで文章を書く人はよっぽど真面目な人だと常々私は思う。真面目であり、そして、ちょっと鈍いと思う。
 「ちゃんとなにかしら伝えるに値するような内容(コンテンツ)を準備してから、それを伝達するために文章を書く人」にとって、メッセージはまさにモノ(=内容)の移動なんだろうけれど、それはある領域への接し方としては、ちょっと重装備すぎて、そのせいで動きが鈍くなっている。ある領域とはなにか。未来だ。
 メッセージをモノの移動のように考えてしまう誤謬を放置することで被るマイナスとは、未来(一寸先は闇)を考えられなくなる、ということだ。――と断定するのも雑なので補足すると、「メッセージをモノの移動のように考えたほうが、未来の安定性が増すように思える」のである。モノの移動、もう少し言うと、交換においては、交換の途中で交換されるモノが破損したり、迂回したり、紛失したりする可能性についてはそれを忘れることによって、「交換」というある種の賭けを安定したものとして成立させている。つまり未来の安定性が増すのである。この「都合の悪いことは忘れる、見てみぬフリをする、交換されたモノが届く時間を先取りする」営為をまとめて「信頼」と呼ぶ。
 で、メッセージをモノの移動のように考えることができるのは、そこには「信頼」があるからで(だから、メッセージをモノの移動のように考える人を私は真面目だと思うわけで)、でも「信頼」は「忘却」に基づいているわけで、「忘れたものがなくなるか」といえばそんなことはない。(だから、メッセージをモノの移動のように考える人を私は真面目だと思うのと同時に、ちょっと鈍い、と思う)
 「メッセージをモノの移動のように考えたほうが、未来の安定性が増すように思え」ても、未来はそんな「思える」などお構いなしに無茶苦茶で、底がない。
 じゃあ、未来を前にして勝手に震え上がっていろ、ということか、といえばそんなことではもちろんなく(震えていても良いんですが)、いろんなやり方で無法な未来に対しての動線を見出すことはできるはずで、その一環として、「ある文章を書いているときには、もうそれを読み終えているだろう」、「ある文章を話しているときには、もうそれを聞き終えているだろう」、というような、前未来形のもとで書かれるメッセージが(内容を越えて)あると、そう考えています。
by warabannshi | 2010-09-20 23:46 | メモ | Comments(0)
<< 第408夜「テーマパーク」 第407夜「トロ会」 >>



夢日記、読書メモ、レジュメなどの保管場所。
by warabannshi
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30
twitter
カテゴリ
全体
翻訳(英→日)
論文・レジュメ
塩谷賢発言集
夢日記
メモ
その他
検索
以前の記事
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 01月
2016年 11月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 03月
2007年 01月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月
2006年 08月
2006年 07月
2006年 06月
2006年 05月
2006年 04月
2006年 03月
2006年 02月
2006年 01月
2005年 11月
2005年 10月
2005年 09月
2005年 08月
2004年 11月
2004年 08月
2001年 12月
記事ランキング