探索記録39「人はその食べるところのものだ Der Mensch ist, was er isst」
 私を含めた都心在住の人にとって、ここ数日間の「放射能汚染」を最も身近に感じるのは、食べ物や飲み物を通してだと思います。「自分が食べている、飲んでいるこれは、安全か?」という問い、これは適切です。ところで、いったい私たちは何によって「食べていいものと、いけないもの」を判断するのでしょうか。
 私たちは311以前にも、「放射性物質」と比肩しうる発癌性が危惧されていたり、どう人体に作用するか不分明な化学調味料を、コンビニ弁当やレトルト食品、その他諸々で摂取しつづけてきました。でもそれらは「食べていいもの」としてカテゴライズされていました。これからもそうでしょう。べつに、コンビニ弁当やレトルト食品を食べるな、と言いたいわけではありません(本当に便利ですし)。あくまでもここでの問いは、「私たちは何によって、食べていいものと、いけないものを判断しているのか?」です。
 「人体に対する科学的安全性、あるいは有効性が確かめられたから(食べてもいい)」という答えは早計です。人体という複雑な物理化学系のすべてを私たちが知っているわけではないからです。例えば、全身麻酔がどのように成立するのか、そのメカニズムはいまだ解明されていません。私たちは日常生活において、「科学的検証」という名で偽装されたプリミティヴな直感で、「食べていいものと、いけないもの」を判断してはいないでしょうか。それが露呈したのが、今回の買占め騒動だと思っています。「よくわからないけど怖い」、だから「それを食べてはいけない」。
 「食べてはいけない」に関する忌避と禁忌が世界のあらゆる文化圏にあることを、人類学の研究結果は教えてくれます。例えば、イスラム教徒は不浄としてブタを食べません。ヒンドゥー教徒は神の使いであるとしてウシを食べません。マダガスカル人は、敵に出会うと丸くなるハリネズミを食べると憶病になると嫌います。これらの例に共通しているのは、食べたものに体が置換されていくプロセスです。食べるとは食べたものを消化、吸収し、自分の血肉に同化することですが、それは同時に「食べたものに食べられていくこと」でもあります。ここに、人類が食べ物に働かせる強力なシンボル化を見出すことができます。(ちなみに、「食べたものに食べられていく」現象は、分子レベルでは常に行われています。1942年にシェーンハイマー(1898-1941)が行った実験によれば、ラットに3日間、重窒素を餌に混ぜて食べさせたところ、摂取された重窒素の7割が体の中に蛋白質として取り込まれたことがわかりました)
 シンボル化の能力に媒介されることで、「食べる」という振る舞いは、現実的なものだけでなく、可能性も含み込んだものを自らのうちに取り込む出来事として、拡張されます。先の「不潔なブタを食べると穢れる」、「丸くなるハリネズミを食べると臆病になる」はネガティヴな例ですが、北アメリカのチェロキー族はシカを食べると足が速くなると信じて好んで食べていましたし、北アフリカでは小心者でもオオカミやライオンを食べると、大胆不敵な勇者になると考えられていました。
 食べたものは、物質の水準だけでなく、むしろシンボルの水準で、私たちを転成させます。ドイツのフォイエルバッハ(1804-1872)は、「人はその食べるところのものだDer Mensch ist, was er isst」という言葉遊びで彼の唯物論的立場を明らかにしていますが、これは前未来形で書かれるほうが、実情に合っています。つまり「人は、これから食べるであろうところのものだ」と。
 「食べられるけれど、食べてはいけないもの」は、「それを食べることによって引き起こされる転成transformを被ってはならないもの」と言い換えることができます。では、「私たちにネガティヴな転成を引き起こすと想定されるもの」の特徴とは何でしょうか?
 ここでヒントとなるのは、世界中にある食肉に関する禁忌です。トーテム動物はもちろんですが、共通するのは「相応しくない方法で屠殺されたものの肉」を食べてはならない、という点です。『コーラン』第2章172-173節には、禁じられた食べ物として、アッラー以外に捧げられたもの、墜落死などの偶発的な仕方で死んだもの、つまり「自分に宛てられたとはいえない食べ物」が列挙されています。(参照: http://bit.ly/aYP2Q8)。
 ここから逆に「食べるに相応しい肉とは何なのか?」という問いに答えを導くことができます。それは「私に捧げられたとされた肉」です。そして、この認識はほぼ完全に、食べる側の思い込みです。倒れた老人の糧となるために自ら火の中に飛びこんだ、ブッダの前世のウサギじゃないんですから。しかし、「そういう話」は人間にとって少なからず、必要です。とりわけ食肉において。
 繰り返しますが、「私に捧げられた肉」は思い込みの産物です。しかしだからこそ、その思い込みは重要だと書きました。なぜか。私たちはプラシーボ効果を知っています。つまり、薬理作用のない乳糖や生理食塩水を「特効薬だよ」と患者さんに飲ませると、不思議なことに効果がでる、という、あれです。端的に言って、「ゴミのように殺されたものの肉を食べること」は、自分を「ゴミを食うやつ」と位置づけることになりますし、自分が食べているものを「餌」としかみなせないとき、人は「家畜」であることからどれだけ免れられることができるでしょうか。「私が食べているのはゴミだ」、「掠め取られた誰かの食い扶持だ」と、「私が食べているのは捧げものだ」、「誰かと分かち合われた恵みだ」とでは、後者の認識のほうが間違いなく、私たちを活かすでしょう。
 では、後者の認識(思い込み)はどのようなプロセスで成立するのか。「私に捧げられた肉」など実定的には存在しない。だからこそ、食前の祈りや儀礼が開発されたのでしょう。食べ物と、食べ物がここにあることに感謝の意を表わすことで、事後的にそれが捧げられたという事実を作るというやり方が。
 「食べていいもの、食べるにふさわしいもの」を、「食べ物がここにあることに感謝する」ことで事後的に作り出す。この方法を私たちは知っています。食べていい食べ物や飲んでいい水を求めて起きている大騒動は、このやり方を思い出すことで、少しだけ沈静化できるのではないかと私は考えています。もちろん、それはあくまで主観の水準であり、「いただきます」の一言で、食物の安全性があがるわけではありません。しかし、残飯として捨てられる食物が、金額ベースで3割を超えるほど食物と疎遠なこの国では、まず食物と親しみ深い関係を取り結ぶことが、今後も長く続くだろう「食・水の安全騒動」を静める、最初の一歩です。


---せっかくなので、コラムにしたものも掲載---


 『変わる家族、変わる食卓―真実に破壊されるマーケティング常識―』で岩村暢子は、若年層の問題として語られていた食生活の乱れを、子供のいる「普通の家庭の食卓」のなかにこそ見出している。1960年以降に生まれた子供を持つ主婦を対象に、1998年から2002年まで、のべ111世帯で行われた調査の結果は衝撃的だが、詳細はここでは省く。第1章で、岩村は、現代を「飽食の時代」ではなく、衣食住遊の中の「食」の相対的下落時代、「食」軽視の時代として位置づける。食べることに興味がない、と傭踏なく言う主婦は珍しくない。忙しくて食事を支度する時間がないと言う主婦の多忙の理由は週3回のテニスである。子どものお稽古事のある日のお昼はコンビニのお握りで、食べることに手をかけるより、親として、子どもにしてやりたい大切なことがある、という声もある。
 自国の食料自給率の低さを嘆き、食の安全と消費者の信頼の確保を求めるその一方で、朝に菓子パン、昼にコンビニ弁当をほおばり、連日居酒屋で外食し、家族がそれぞれの好物をそれぞれの気分で食べていることにまったく違和感を覚えないとしたら、それは端的に不思議な事態である。自炊を心がけている家庭もあるだろう。しかしそれは食費を切り詰めるためであったり、まとめ買いした特売品をゴミにせずに使いきろうとする「処理」ではないだろうか。いや、私は栄養バランスを重視して、1日30品目を欠かさない、という人もいるだろう。だがそれは、食材を栄養・機能で記号化して捉え、その種類や量を優先し、ワンメニューで効率よく多種の「記号」を網羅しようとする「配合飼料型メニュー」ではないだろうか―。
 そう問いかける本書には少なからぬ反発が沸き起こった。統計のサンプル数が少ない、解釈に作為が感じられる、等である。それらの反発にも一理あるだろう。が、むしろそれらの反発に接して再確認できるのは、私たちは日常的に食べているものをとやかく言われると非常に居心地悪く思う、という事実だ。私が食べているものをあなたが「ゴミ」扱いしようと「餌」扱いしようと、私は何の不快感も覚えない、と言えるほど、私たちは食に無頓着になりきれない。
 19世紀のドイツの哲学者フオイエルバッハのある論文の題名は、示唆深い。日く、「人はその食べるところのものだ,er Menschist , was erisst」。そう、私たちは食べたものでできている。食べるとは食べたものを消化、吸収し、自分の血肉に同化することだが、それは見方を変えれば、食べたものに食べられていくことでもある。
 食とは、本来、人類にとって危険な行為なのだ。食べ物に関する忌避と禁忌は世界のあらゆる文化圏にある。例えば、イスラム教徒は不浄なブタを食べない。マダガスカル人は、敵に出会うと丸くなるハリネズミを食べると憶病になると嫌う。北アメリカのチェロキー族はシカを食べると足が速くなると信じて好んで食べ、北アフリカでは小心者でもオオカミやライオンを食べると、大胆不敵な勇者になると考えた。ここに、人類が食べ物に働かせる強力なシンボル化を見出すことができる。シンボル化の能力に媒介されることで、「食べる」という振る舞いは、現実的なものだけでなく、可能性も含み込んだものを自らのうちに取り込む出来事として、拡張される。普段口にするものを「ゴミ」扱いされたときには、自分自身がゴミ扱いされたような不快を覚えないだろうか。また、目の前の食品が「餌」のように見えるときとは、自らを家畜とみなす投げ遣りな気分に陥ったときではないだろうか。
 忌避される食べ物は、それを食べることによって私たちをネガテイヴに変容させるものと言い換えることができる。それでは私たちをネガテイヴに変容させない食べ物とは、何か。「ゴミ」でも「餌」でもないもの。それは「贈りもの」だ。『柳田国男集』(定本第19巻)によれば、そもそも「食べる」という動詞は、ダブル、タブの受身形であり、タバハル、つまり「(一度お供えした物を)賜る」ことと密接な関係を持つ。では、目の前の食べ物は誰からの賜りものなのか。
 日々の糧を与えてくれる超越的な存在に祈る習慣は、すでに私たちから遠い。しかし、「賜りもの」としての食べ物は、最初からそれとしてあるわけではない。私たちは食前・食後に挨拶をして、食べ物と、食べ物がここにあることに感謝の意を表す。そのことにより、目の前の食べ物が賜りものであることを事後的に認めるのである。この順番は逆ではない。賜りものがあることを感謝・するのではなく、感謝することでそれが賜りものとなる。
 農業問題がいくら報道されようとも、多くの日本人にとってく農〉は依然として縁遠いトピックである。その縁遠さは「食」の軽視の構造と通低する。一般家庭から毎年廃棄される約1,000万トンの生ゴミのうち、まだ食べられる品質である「食べ残し」は38.8パーセントを占め(2002年)、その中の11パーセントは買ったままの状態で捨てられる。外食産業、コンビニを含めると、この量はさらに増える。「いただきます」の一言で、この数値が大きく変動するわけではない。だが、私たちが食べ物と親しみ深い関係を取り結ぶ試みは、〈農〉の再興の過程において不可避ではないだろうか。
by warabannshi | 2011-03-24 23:42 | メモ
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