富士見が丘にある塾の教室で生徒を待っているが、定刻を過ぎても一人も来ない。大きすぎるベランダの窓の外の景色はスモッグで紫がかっていて、物悲しい。この建物には、いや、それどころかこの世界のあらゆる校庭から、小学生が消えてしまったかのようだ。
ずしずしという無遠慮な足音が階下から廊下へ続き、そして、私が教卓で控えている教室へと近づいてくる。現れたのは、身の丈三メートルはあろうかという、髭の白色人種である。
まるまると突き出た太鼓腹を揺らして、彼は私の前に立つ。
「太田というのは君かね?」流暢な日本語である。「君の英語の授業は、これから私が代行することになった。短い付き合いにだろうが、よろしく。君は親しい人からオタカズと呼ばれているようだが、私は、スズミ、と呼ばせてもらうよ。スーツを来たネズミのようだからね。そうだ、忘れないように書いておこう」
彼はそう言うと、シャープペンシルを取り出す。私のツイードのスーツの両肩に「スズミ」と書こうとするが、もちろん書けるわけがない。そして、この一方的な侮辱に甘んじている私でもない。私は無礼な男を睨みつける。だいたい、この男から見れば、たいていの日本人は「スーツを来たネズミ」なのではないか?
彼をぎゃふんと言わせる腹案を練っていると、満足したように彼は言う。
「さあ、講師控え室に行こう。そして、代行を承認した旨を書面に書くんだ」
私はむしろ、彼の傍若無人を告発するために、講師控え室に行くことにする。
出勤簿に押すための「太田和彦」という判子をしまおうとすると、彼は愉快そうに笑う。
「そうか、新しい判子が支給されるまでの辛抱だ、スズミ」
なぜか私は急に不安になる。カバンのなかで、自転車の鍵につけている鈴がちりちりと鳴る。その音がまた彼に私に付けこむ隙を与えるようで、私はいそいで鍵を握りしめる。彼のあとをついて階下へと向かう。
階段には、キルケゴールが腰掛けている。彼もまた免職されたのだろうか。憔悴しているようだが、青いバラの花束のつぼみを舐めて、ほころばせようとしている。