邦訳だと、上巻80頁。「もの(das Ding)」が構成する対象が、ミレール版だと「主体」に、アソシアシオン版だと「抑圧」になっています。
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「das Ding」とはもともとは、「シニフィエの外(le hors signifie)」とこれから呼ぼうと思うものです。
この「シニフィエの外」を関数にして、つまりこれとの情念的な(pathetique)な関係を関数にして初めて主体は距離を保ち、関係様式という形で、つまり最初の情動(affect)の様式という形で、構成されます。これは、あらゆる抑圧に先立つことです。『草稿』の基本的な部分はこのことが中心になっています。フロイトにとって抑圧はまだその当時十分に解明されていなかったことを忘れないで下さい。その後彼が抑圧について語ったことはすべて、いかに洗練されたとはいえ、抑圧が他の防衛形式と比較してどこに特徴があるかを解明する必要に迫られた答えであった、と考えざるをえません。
↓↓↓アソシアシオン版↓↓↓↓↓↓↓
したがって、もし、
「das Ding」が、もともと、私たちが「シニフィエの外」とこれから呼ぶことになるものであるとすれば、この「シニフィエでないもの(non-signifie)」に応じて、つまり主体がそのおかげで自分の距離を保つところの情念的なな関係に応じて、どんな抑圧にも先んじたあの関係様式のなかで、最初の情動の様式の中で―この関係様式をめぐって『草稿』の基本的な部分はできているのですが―
ある抑圧が構成されます。忘れないようにしましょう、この抑圧はフロイトにとっては、この段階では問題となっているのです。それ以降、フロイトが抑圧について言うことになるのは、すべて――彼のなみはずれた洗練のなかでは理解されず、気づきもしないのですが――いわば他のあらゆねる防衛形式に対して、特別に抑圧が何でありうるかを理解する一種の必要性、必然性以外の何ものでもないのです。
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