第617夜「祖父K」
 12年前に亡くなった祖父Kが、乗れないはずの自転車を引いて、「ただいま」と暢気に帰ってくる。自転車の前かごには立方体の白々とした発泡スチロールの箱。大きな銀色の出世魚の頭がはみ出しており、縁起物であることを示すためか、実をつけた稲穂が数本あしらわれている。私はもちろん、亡くなった祖父が亡くなっていることを知っているので、驚くことでこの祖父を消さないように努めつつ、「おかえりなさい」と迎える。そして、流しの前に立ったまま、家の奥にいる母Nに、故人の帰宅を伝える。
 祖父はしかし故人とは思えないほど実体的である。直上からの、まぶしいばかりで暖かさのない日光が、こちらに歩いてくる祖父の足元に黒々とした影を落としている。少しぐらい能動的であっても祖父が消えることはないだろうと私は思い、「釣ってきたの?」と聞いてみる。もちろん釣ってきたようには見えない。しかし他に挨拶の方法を知らなかった。祖父は表情を変えずに、自転車のスタンドを立て、私を見る。私は近寄り、箱からはみ出している稲穂を撫ぜ、重い粒々の質感を指の腹に覚えさせた。これと同じくらいの質感を祖父が持っていれば、祖父はこちら側の物体ということになるだろう。「いやあ、何だか久しぶりだね」とかなんとかすっとぼけたことを言いながら、どさくさに紛れて祖父のオムレツのような丸々とした手を握る。米粒と同じ質感である。しかも手の平から伝わる体温は、どちらかというと祖父のほうが高い。
 祖父は生前、それなりに可愛がってくれていたはずの私のやや及び腰の歓待に対してとくに感動を示すわけでもなく(私の態度について怒っているからでもないらしいので私は慌てはしなかったが、心配にさせるには十分だった)、前かごから魚の頭部のはみ出した箱を、どっこいしょ、持ち上げると、私に差し出した。私はピンとくる。これはきわめて象徴的な事件だと。出世魚と稲穂は明らかに縁起物である。死者から贈られた縁起物を受け取るべきか、受け取らざるべきか。私は差し出された箱を両手で受け取る。これは死者である前に祖父Kからの贈り物なのだ。青魚の生臭い匂いが色濃くたちのぼり、くしゃみをしそうになる。
 祖父はとくに満足した様子もなく、やはり淡々とスタンドを戻して、自転車に乗ろうとする。「ちょっと待ってて」と、私は箱をひとまず流しのところに置きに戻る。生前、『カルメン』の「闘牛士の歌」を1日に1回は流して税理士の仕事の気分転換としていた熱情的な祖父が、これほどあっさりと再会の喜びも何も示さないのはやはりおかしい。それとも人は死ぬと誰でも無感動になるのだろうか。「ただいま」と帰ってきたはずの祖父は、自転車に乗り、短い脚がペダルまで届かないのか、高下駄でペダルを漕ぎはじめる。私はすぐに玄関を飛び出して、祖父の後姿を追う。曲がり角を曲がったところで祖父が自転車ごと消えているかもしれないと思ったが、そんなことはなく、浅草の商店街のような雑然とした通りを、ごく自然なペースで祖父は漕ぎ去っていく。
by warabannshi | 2013-05-05 07:46 | 夢日記
<< 第618夜「宣教」 第616夜「陸錬会」 >>



夢日記、読書メモ、レジュメなどの保管場所。
by warabannshi
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
twitter
カテゴリ
全体
翻訳(英→日)
論文・レジュメ
塩谷賢発言集
夢日記
メモ
その他
検索
以前の記事
2024年 03月
2024年 02月
2023年 06月
2023年 04月
2022年 03月
2022年 02月
2022年 01月
2021年 10月
2021年 06月
2021年 04月
2020年 12月
2020年 09月
2020年 08月
2020年 06月
2020年 05月
2020年 04月
2020年 01月
2019年 11月
2019年 05月
2019年 04月
2019年 02月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 01月
2016年 11月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 01月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月
2006年 08月
2006年 07月
2006年 06月
2006年 05月
2006年 04月
2006年 03月
2006年 02月
2005年 08月
2004年 11月
2004年 08月
その他のジャンル
記事ランキング