横浜の、一度、自転車で通過したことはあるけれどどこかはわからない、よく区画整理された駅前で、桜の巨木が満開を迎えている。彼女Fは愛用の一眼レフカメラを持って、その有様を撮ろうとしている。桜はソメイヨシノのようであるが、その花弁は嘘のように小さく、風に吹かれると気流の隙間に棚引き、渦を巻いて舞った。
「すごいね。ピンク・フロイドだね」
私は溜息をつきながら言う。
「よくわからない」
「英語で、靄のことをフロイドって言わなかったっけ?」
「fogでしょ、靄は。たぶんcloudと、mistと、そういうのと混ざってる」
淡紅色の靄をまとう巨大な桜の周りは、小さな木の柵で囲われていて、上に向かって張り出した枝振りと、地中に広がっているであろう根とを考えると、その囲いは紙縒りのように頼りなく思われる。その囲いは桜の周りを他と分かつためというよりむしろ、平日の昼間であるからかひときわ多く集まっている、スーツを来たサラリーマンの若い男女にちょっとした非日常間を味わってもらうためのギミックである。