第631夜「(三景)」
・大阪駅近くの静かな裏通りにある「土地べえ」という鰻屋。鰻屋というにはやや小綺麗で、ビストロに近い。紺ののれんが出ていて、品書きと本日のすすめを書いた厚手の和紙が出入り口のところにピンで止めてある。鰻の串揚げというメニューもあるらしい。Fが気に入ったらしいので、引き戸をあけて店内に入ると、左手にカウンターと調理場、右手にテーブル席。松尾スズキそっくりの店主が奥の席を勧めてくれる。ふと、天井を見上げると、夜空が見える。晴れた日は天井の中央を開けるらしい。テーブルには、ワイングラスもある。松尾スズキそっくりな店主は、借りる部屋を探している、という私に、それなら良い物件がある、と言い、紙ナプキンに地図を描いてくれる。

・壁面が落書きだらけの長いトンネルを歩いて抜けてきた。背後では、大きな夜祭りが催されているらしく、盛んに何かが弾けるくぐもった音が響き、夜空には幾分、薄白い光が滲んでいる。私が歩いていく方向には、露のような灯りが数えるほどしかない。星々のあいだの黒さが濃い。私は少しも休まずに歩いて行る。いつの間にか、私は紋付の着物を着こんでおり、足元も足袋と雪駄に変わっている。親指と人差し指のあいだに力を込めて、やはり私は歩いていく。
 やがて長い一本道は蛇行する坂道になる。舗装の割れた道の片側には、背の高い草本植物の枯野が広がっている。鉄筋コンクリートの残骸が、不揃いに散らばっている。何の音もしない。「もう少しで着きますよ、兄さん」。名前の知らない三男が言う。いつの間に道連れになっていたのかは知らない。迫り出した大木の影に這入り、頭の上が暗くなる。「しかし、兄さんもややこしい人だ」。「何が?」。私は聞き返す。三男はため息交じりに、「猫を驚かせて、逃げさせ、そして車に撥ねさせたことをまだ気に病んでいるのでしょう。そうでなければこんな辺鄙な場所までたどり着くはずがない。20年も前のことに、まだ責任を感じているのですか」。
 私は急に何かを思い出した。なめらかな毛並の黒猫を胸に抱いたときの温かさと重み、ダニが移るかもしれないという若干の躊躇い。闇を透かして見ると、いままさに、その黒猫が道の真ん中でこっちを見ている。その途端に声が咽喉につまって、私は口が利けなくなった。黒猫は瞳孔の奥に何かを含んでいたが、それが責めなのか許しなのかを判別することはこちらにはできず、やがて猫は何も言わずに、身を翻し、闇の奥の曲がり角の向こうに消えた。
 俄かに自分の体が重くなり、私はその場所から一歩も動くことができなくなる。息苦しく、膝を折る。三男が足音もなく近づいてきて、「これは贈り物です」と言い、眼にもとまらぬ速さで私の右耳に深紅のピアスをつける。

・あまりの天候不順で、とうとう桜が咲き始めた善福寺川沿いを歩いている。10月というのに、生暖かい風が川面から吹き上げている。「ペンギン××」という物件を内見しに行くのだが、最寄駅から遠いのが難点である。自転車は必須だ。しかし、川沿いを行き来できるのは薬であるとも思う。自動車が入ってこられないように金属の柱が立っているのを擦りぬけて、住宅街の奥に進む。コンクリートが湿気っている匂いなのか、脂肪の匂いなのか、微かに甘くて重い空気が鼻腔から頭を刺激する。
by warabannshi | 2013-10-19 08:46 | 夢日記 | Comments(0)
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