講義資料「私たちは何を食べてきたのか、何を食べているのか、何を食べていくのか」 vol.3
《Cパート》
● なぜ私たちは「かけがえのないもの」を食べられないのか? ―「食べてしまいたいほど、好き」
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 私たちが、食べるもののルーツに非常にこだわる例をもう一つあげたいと思います。『サザエさん』の4コマのなかに、飼っていたニワトリをしめて作った鳥鍋を、磯野家の面々がお通夜のように囲む 、というエピソードがあります。昭和30(1950)年代、ニワトリはペットとして愛玩するものではなく、食用、卵用であったはずなのに、です。
 私たちは、そのものの固有性をはっきりと認識しているものを食べるときに、得も言われぬ抵抗を感じます。私はいまはペットを飼っていませんが、小学生のときにはミシシッピアカミミガメを2匹飼っていました。可愛がっている、というよりは、縁日で手に入れたそれを惰性で世話している、という感じでした。ずいぶん大きくなって、「地震が来たときの非常食だね」と親戚に笑われていたのですが、そう言われるたびに、私はこのカメを食べることができるだろうか、普段から世話をしている“まさにそのカメ”の肉を口にしたときにどんな抵抗があるかだろうかと、いろいろ想像しました。
 私たちが固有性を強く認めるものを食べるのに抵抗を感じるのは、別に対象が生き物であるときに限られません。生き物でなくても、固有性が強いと食べにくくなります。子供の頃、来場記念でもらったキャンディーを、何となく食べるきっかけを見いだせないままべとべとにしてしまった、などの思い出がある人は少なくないのではないでしょうか。

 しかし、とはいえ、この抵抗は、食べるものの固有性が、親密さやあるいは愛情の根拠となったときに最大となります。絵本『あらしのよるに』では、ある嵐の夜、ヤギとオオカミが同じ山小屋に避難して、お互いが互いを同類と思い込んで夜通し語りあい、意気投合します。翌日、2匹は、「あらしのよるに」を合言葉にして、小屋の前で再会することを約束します。オオカミはヤギを食べるのか? その結果はわからないまま、絵本は終わります(映画版はその後の物語も描かれています)
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 これと同じことを考えるうえで、テレビ番組「ニンゲン観察バラエティ モニタリング」で放送された、苺に語りかけられた男の兄弟の話と、ケーキに話しかけられた女の子の対比は示唆的です。留守番をまかされた兄弟は、テーブルの上にあった苺から話しかけられます。そして苺と仲良くなった兄弟は、好物であるところのその苺を食べることができませんでした。一方、同じシチュエーションでケーキに話しかけられた女の子は、仲良くなったそのケーキをぺろりと食べてしまいました。そして、彼女は空っぽのお皿に「またお母さんに買ってきてもらってね」と呟いていました。
 この例から考える限り、私たちが食べるうえで抵抗感を覚える対象が持つ性質とは、私たちが対象に抱く親密さよりも、その対象が固有であること、かけがえのないものであることのようです。なぜか。理由の一つは、食べることのかけがえのないものの喪失と結びつくからです。そして、もう一つは、あまりにも固有性の強いものを食べると、食べた者の固有性が侵食されるからです。
 対象を食べることによって私たち自身の固有性が侵食されうるからこそ、「食べてしまいたいほど好き」という奇妙で苛烈な感情も生まれえます。
 森見登美彦『有頂天家族』では、毎年、大晦日に狸鍋を囲むという伝統を持つ「金曜倶楽部」のメンバーの1人で妖艶な美女・弁天と、下鴨神社・糺の森に暮らす狸の1匹(1人)である下鴨矢三郎との、次のようなやり取りは示唆的です。天狗に一目惚れされて連れ去られた彼女は、神通力を与えられ、多くの人心を操ることに長ずる一方、自暴自棄で刹那的な振る舞いも見せています。
「何をそんなに切ながっているんです?」
「私に食べられるあなたが可哀想なの」
「食わなければ良いのではないですか?」
「でも、いつかきっと私は貴方を食べてしまうわ。食べちゃいたいほど好きなのだもの。でも、好きなものを食べたら…、そうしたら好きなものがなくなってしまうんだもの」
(アニメ版5話「金曜倶楽部」より)
 また同作品に登場する淀川教授の行動も今回の話と重なります。彼は狸一般を愛していると公言していますが、金曜倶楽部のメンバーでもあります。「狸が好きだと言う事と、食う事とは矛盾しない。貴方の様に渋々喰っていたんではしょうがないが、僕はいつも喜んで食う。旨い旨いと食うてやるのが礼儀と言う物です」(同上より)という自説を持つ彼は、彼自身がかつて怪我の手当をしたことがある狸(代替不能な“まさにその狸”)に対しては同じ姿勢を貫くことができず、宴の席から“その狸”の入った檻を奪って逃げることになります。
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● 私たちは何を食べたがっているのか? ―それがまさに「賜りもの」であるかのようにふるまうこと
 忌避される食べ物とは、それを食べることによって生じる変容がネガティヴだと感じられるものであり、食べることに抵抗を感じる食べ物とは、それを食べることによって生じる喪失と変容がラディカルなものだと、ひとまず整理することができます。それでは、私たちは何を食べたがっているのでしょうか。
 ここで、人類が数万年前から食事に際して行ってきたことを思い返してみましょう。それはつまり、眼前にある採取された食べ物、収穫された食べ物を、超越的な何かからの「賜りもの」であると見なして行われる様々な儀礼です。

 例えば、手食文化があげられます。現在、手食人口は25億人余りで、手食を是とする代表的なヒンドゥー教やイスラム教においては、神から与えられたものを食具で扱うことは不謹慎とされています。手食文化は、アフリカ、中近東、インド、東南アジア、オセアニアなどに広がっていますが、どの地域でも、右手が清浄、左手は不浄とされており、食事には必ず右手を使う必要があります。現在ではフォークなどのカトラリーを用いるキリスト圏でも、中世は共通の皿とナイフで料理を取り分けたあとは、手食するのがが一般的でした。フォークが普及しはじめるのは、18世紀以降のことです。
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 箸を用いる文化圏に含まれる日本も、「食べる」ことと、「賜る」ことは密接な関係を持ちます。食前食後の挨拶はもちろんですが(1人で食事をするときも「いただきます」と言うのは、キリスト教徒が1人だからといって食前の祈りを欠かさないのと構造は同じでしょう)、柳田國男は、日本語の「食べる」という言葉は、タバル、タブの受身の形であるタバハル、つまり「たまわる」(給わる)、「いただく」ということからの派生語であると位置づけています。これは具体的には、収穫物を神棚や仏壇の祖型のような場所へ供え、その後で、それを「お下がり」として頂戴するという儀礼の名残であると考えられます。これも日本に限ったことではなく、英語のration(割り当て)という言葉は、古代ギリシアの犠牲牛の分配に由来するなど、その名残は世界中にあります。また、太宰治が嫌いなものとして描いていますが、戦後までの日本の少なからぬ家庭では、食事中はみだりに口をきかず、厳かな宗教儀式のように粛々と食べていたようです。

 それでは、目の前の食べ物は誰からの賜りものなのか。多くの答えがあると思います。しかし、誰からの賜りものであるにせよ、賜りものを食べるには、私たちは「まさに賜りものであると見なしてふるまう」ことを求められます。賜りものとしての食べ物は、最初から「賜りもの」としてあるわけではないからです。食前・食後に挨拶や祈りを含めた様々な儀礼は、眼前の食べ物が「まさに賜りものであると見なしてふるまう」ということにおいて一貫しています。
 「食べ物を、まさに賜りものであると見なしてふるまう」儀礼は食事の場面に限定されるものではありません。ミレーの「落ち穂拾い」はよく知られている作品ですが、この作品に描かれている3人の女性は、この畑の小作人でも、まして持ち主でもなく、日々の糧に事欠く貧者(おそらくは寡婦)です。この絵の題材は、旧約聖書の「レビ記」、「申命記」でくり返し言及される、「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者、孤児、寡婦のために残しておかねばならない」という律法にあります。ミレーの絵と旧約聖書の律法からは、「賜りもの」としての収穫物の位置づけ、つまり私的に所有することができないものとしての位置づけを認めることができるでしょう。
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 私たちは常に、「賜りもの」を口にすること、祝福されたものを口にすることを願い続けてきました。そして、自分が食べるもののルーツを祝うのは、私たち自身です。一般的にそう思われているように、食前食後の挨拶や食卓での礼儀作法とは、道徳に関わる話ではありません。それら、「食べ物を、まさに賜りものであると見なしてふるまう」行為とは、私たちをネガティヴに変容させかねない超越的な力に対する防衛に関わる話なのです。このことは、食品廃棄率が世界一の日本に住む私たちにとって、吟味する余地がある事柄だと思えます。


●参考資料他
〈食〉に関する資料諸々。「★」はジェネラル・レクチャーで直接、参照したもの。
[文献]
★網野善彦・石井進(2000)『米・百姓・天皇制―日本史の虚像のゆくえ』大和書房
・石毛直道監修(1998-99)「講座食の文化」全7巻、農村漁村文化協会
 第一巻『人類の食文化』吉田集而編集
 第二巻『日本の食事文化』熊倉功夫編集
 第三巻『調理とたべもの』杉田浩一編集
 第四巻『家庭の食事空間』山口昌伴編集
 第五巻『食の情報化』井上忠司編集
 第六巻『食の思想と行動』豊川裕之編集
 第七巻『食のゆくえ』田村眞八郎編集
★池上甲一他(2008)『食の共同体―動員から連帯へ』ナカニシヤ出版
★池上俊一(2011)『パスタでたどるイタリア史』岩波書店(岩波ジュニア新書)
★大平健(2003)『食の精神病理』光文社(光文社新書)
・河上睦子「食文化から見る日本の近代化 福沢諭吉と森鴎外の西洋食論」、石塚正英他編著『戦争と近代』社会評論社、2011年。
★木村裕一[文], あべ弘士[絵] (1994)『あらしのよるに』講談社
★クラウス・エーダー、寿福真美[訳](1988=1992)『自然の社会化―エコロジー的理性批判』法政大学出版(叢書・ウニベルシタス)
★近藤弘(1976)『日本人の味覚』中央公論新社(中公新書)
・桜澤如一(1941)『戦争に勝つ食物』大日本法令出版
・鯖田豊之(1988)『肉食文化と米食文化』中央公論新社(中公文庫)
・デボラ・ラプトン、(1999)『食べることの社会学 食・身体・自己』新曜社
★原田信男(2010)『日本人は何を食べてきたか』角川学芸出版(角川ソフィア文庫)
・伏木亨(2006)『おいしさを科学する』筑摩書房(ちくまプリマー新書)
・ブリア=サヴァラン、関根秀雄・戸部松実訳(1967)『美味礼賛』全2冊、岩波書店(岩波文庫)
・辺見庸(1997)『もの食う人びと』角川出版(角川文庫)
・松永澄夫(2003)『「食を料理する」哲学的考察』東信堂
・宮下規久朗(2007)『食べる西洋美術史』光文社(光文社新書)
★宮本常一・塩田鉄雄(1978)『食生活の構造〈シリーズ食文化の発見2〉』柴田書店
★森見登美彦(2007)『有頂天家族』幻冬舎
★長谷川町子『サザエさん〈6巻、19巻〉』、朝日新聞社
★藤原辰史(2012)『ナチスのキッチン』水声社
★柳田国男(1963)『定本柳田国男集〈第19巻〉』筑摩書房
・矢谷慈国・山本博史[編](2002) 『「食」の人間学』ナカニシヤ出版
・レオン・R・カス、工藤政司他訳(1995=2002)『飢えたる魂 食の哲学』法政大学出版
★『GIGAZINE』 2013年5月23日「3Dプリンターで食べ物を印刷へ、既存の食事を置き換える可能性もあり」http://gigazine.net/news/ 20130523-3d-printed-food/ (2013年9月30日アクセス)


[映像]
★ヴァレンタイン・トゥルン[監督](2011=2013)『もったいない!』T&Kテレフィルム
★ニコラウス・ゲイハルター[監督](2005=2007)『いのちの食べ方』エスパース・サロウ
・マーク・フランシス、ニック・フランシス[監督](2006=2008)『おいしいコーヒーの真実』アップリンク
★フーベルト・ザウパー[監督](2005=2006)『ダーウィンの悪夢』ビターズ・エンド
・リチャード・リンクレイター[監督](2006=2008)『ファーストフード・ネイション』トランスフォーマー
by warabannshi | 2013-11-09 16:58 | 論文・レジュメ
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