探索記録16 「熱狂の七日間/『好き』と、『受け』のこと」
ルイス・ブニュエル 『アンダルシアの犬』
ルネ・クレール 『明日を知った男』
イングマール・ベルイマン 『第七の封印』
ロベール・ブレッソン 『スリ』
パーシー・アドロン 『バグダッド・カフェ』
スパイク・ジョーンズ 『マルコヴィッチの穴』
イエジー・カクレロヴイッチ 『尼僧ヨアンナ』
グリゴーリー・コージンツェフ 『ハムレット』
スタンリー・キューブリック 『フルメタル・ジャケット』
                 『博士の異常な愛情』
テオ・アンゲロプロス 『ユリシーズの瞳』
              『永遠と一日』
              『旅芸人の記録』
アキ・カウリスマキ 『カラマリ・ユニオン』
            『マッチ工場の少女』
            『罪と罰』
            『レヴィ・ド・ボエーム』
            『コンタクト・キラー』
            『浮雲』
ジム・ジャームッシュ 『ストレンジャー・ザン・パラダイス』
              『コーヒー&シガレッツ』
ヴィム・ヴェンダース 『ブエナ☆ビスタ☆ソシアル☆クラブ』

 あと、『シャーロック・ホームズの冒険 完全版』を四本借りたから、総計二十六本。あらためて数えてみたら、そんなに本数は観ていないことがわかって、少し驚く。この一週間は、じつは小説をほとんどまったく書いていない。映画を観ていた。いつもは小説を書いている時間を映画に回していたから、てっきり五十本ぐらい観ている気になっていた。(おととしの秋。大学を自主的に休んで、部屋でチャップリンと黒澤明の作品を一週間、昼夜かまわずぶっ続けで観たことがある。そのときはたしか、一週間で三十五本観ていたはずで、その次の一週間は、軽い失語症になっていたはずだ。“はず”という言葉が連発するのは、その期間の記憶が曖昧だからで、一つ一つの情景は白昼夢のように鮮明なのに、編集を間違えたフィルムのようにめちゃくちゃにつながれている)
 今月の十日から、今日までの九日間使えたTHUTAYAの半額クーポンを目一杯使った感はあるけれど、いかんせん、映画を観るのに回せる時間が足りなさすぎた。フェデリコ・フェリーニ監督作品も三本借りてきたのだけれど、結局観ている暇がなくて、再生することもないまま返却ボックスに入れてきてしまった。睡眠時間を削れば、それも観られたとは思うけれど、映画を一本見終わった後でとる数十分の仮眠は、たぶん映画を観ているのと同じだけの意味が充満している時間だという感覚があるから、やっぱり借りすぎなのだ。それでも、こういう借り方、鑑賞の仕方しかできないのには、やっぱり理由がある。

 「好き」という感情の強度は、どこかで、「量の多さ」と結びついているように思う。あるいは、例えば映画を「好き」であるということは、まさに映画を観ている時間、映画について考えている時間、映画について語る時間が、一般の人間よりも圧倒的に多い、次元が違うほど多い、という事実でしか証明できないように思う。ここで、わざわざ証明という言葉を使うのは、「私は映画が好きだ」と第三者に向けて宣言をすることを前提としているからではない。それ以前に、なにより、「映画が好きな私」というセルフイメージを形成する拠り所として、「量の多さ」を位置づけているからだ。
 これは個人的な話だけれど、自分は、何かが「好き」であるという感情に自信がない。映画にしろ、小説にしろ、「好き」であるという感情を、時間-数量的な確認なしに、感じることができない。自分にとって、「好き」であるということは、好きなそれをたくさん観たり聴いたり、隅々まで触ったりつついてみたりすること、そんな働きかけに満たされた時間を長く過ごす、ということに他ならない。
 それは恋愛感情に特に顕著で、自分にとって、「好きな女の子」とは、ほとんどイコールで「長い時間、一緒に過ごした子」なのだ。いままで好きになった女の子は、最短で約二年間の、最長で六年と半年間の、「その子を好きになるために必要な時間」があった。その後、その子と付き合っていた期間というのは、「その子を好きになるために必要な時間」よりも短かったりするのだけれど、それはそれで置いておいて、恋愛を語る上で、世間的には重要と見なされているルックスや仕草、体型、性格の差異みたいなものは、自分の場合、逆にその子に誘引されていく形で、その子に合わせて、逆に好きに“なっていく”。つまり、目の前にいる彼女次第で、好みがあっという間に変わる。「好きなルックス」、「好きな仕草」が、「好きな女の子」から供給されるという逆転現象が平気で起こる。これも、一緒に過ごした時間の量、という要素が、その他の恋愛感情を形成する諸要素に比べてはるかに先行しているからなのだろう。だから、いわゆる倦怠期を察知することが苦手で、高校のとき付き合っていた子に呆れられたことがある。というか、倦怠期がどういうものなのか、いまだに実感としてわからない。わからないといえば、一目惚れという現象も理解しがたいものだけれど、あれは「好きなタイプの女の子」を想像の上で設定して、常に反復しながら確認し、現実にそのイメージと近似的な女の子と出会ったとき、彼女を好きになる、と考えれば納得できる。一目惚れとは、二人称的な幻想が先行して発生する恋愛感情なのだろう。

 ――べつに、一目惚れのメカニズムをわざわざ考えたり、納得する必要なんてないじゃないか。そんなことしてなんになる。と、一部の人は思うかもしれないけれど、「好き」、という、人間という存在を語る上で避けては通れない感情ですら、なんというか、“書き換え可能”な人にとっては、一目見ただけで相手に心を惹きつけられてしまうこの現象は、どうしても気にかかってしまうものなのだ。一目惚れ、が、できる人たちというのは、“書き換え不可能”な領域に、すでに恋愛対象のイメージ、というか、ビジョンが設定されているのだろうか。自分にとっては、指紋や生年月日、筋肉組織中の速筋と遅筋の割合、睡眠欲求くらいに“書き換え不可能”な領域に、「好きなタイプの女の子」が書き込まれているとしたら、それはもう本当に、一目惚れする人としない人のそれぞれの世界観は、まったく異質なものになるんじゃないだろうか。
 ちなみに、自分はヒトに一目惚れすることはないけれど、モノに一目惚れすることはある。
 この記事の冒頭で並べた二十二本の映画の中でも、テオ・アンゲロプロスと、アキ・カウリスマキの作品がとくに多いけれど、二人とも、それぞれの撮った作品を一本観て、一発で好きになってしまった監督だ。(アンゲロプロスは『永遠と一日』、カウリスマキは『過去のない男』が、一目惚れのきっかけとなった最初の一本だった)。アンゲロプロスの、無音の緊張感に満ちたロングショットは、「見る」ことと、「聴く」ことの限界と掟(?)をおしえてくれるし、カウリスマキは、人間の無力さを、苦痛も絶望も、諦めすらも附帯しないまま、小さなユーモアすら交えつつ淡々と展開していく。黒澤明、小津安二郎、チャーリー・チャップリン、ジャン=リュック・ゴダール、……言語化できないほどの密度と強度のある情報を、映像と音声から放射してくる監督には、自分はあっけなくまいってしまう。できれば、最初の一本を映画館で観たかった、とさえ思うのは、どこかで、この一目惚れを物語仕立てにすることを願っているからだろうか。「こんなに感動的な出会いだったんだよ!」と、第三者に向かって、あるいは、「好き」という感情に根拠を持つことができない自身に向かって宣言するために。
 物語化、といえば、アンゲロプロスにしても、カウリスマキにしても、それらの良さを自分が内発的に発見したわけではない。二人の監督の名前を知ったのは、映画を月に数十本のペースで観ている大学のゼミの後輩・Hに、「これ、オススメですよ」と言われたのがそもそものきっかけだし、小津も、去年、早稲田の講義に潜っていたときに、高橋世織という、いまは退官してしまった教授が熱烈に小津を誉めたたえていたのが、少なからず印象にあったから、THUTAYA浜田山店の棚の中から彼の作品を選び出したのだ。決して、自分の潜在的な「好き」が先行していたわけではない。……

 「好き」という感情を、人間は物語化の作用なしに抱けるものなのだろうか。いや、「物語化の作用なしに」、なんて言い方は、どこかで物語の存在を保証して、そこから逃げている響きがあるからおかしい。物語化を排した「好き」、なんていうのも、やっぱり物語の産物だ。
 ただ、「好き」という感情が発生している状態がいい。と、いうわけでもない。ただ、「好き」。と言うときも、ただ、という言葉が、「好き」である状態に不自然な透明さをもたらしてくる。あまりにも、その「好き」は光に満ちすぎている。白々しい光に、目が眩みそうだ。まるで、好きである何かの対象よりも、「好き」という概念が先行してしまっている。そうではない。それは「好き」ではない。「好き」は、光に向かってまっすぐに、直線的に上昇していくような感情ではない。見たり聞いたり感じたりする時間に、不規則にあらわれるブランク。不透明さ、澱み。……それらを意識しはじめると、時間がとても微分できるようなものではないことがわかってくる。
 近代から現代にかけての時間感覚は、どこかで、時間が微分可能であることを前提としているように思う。なめらかに連続して、過去に回帰することもなく、いま、という一点において、急激に、なんて言葉すらおこがましいほど一瞬のうちに、なにかが変化することもありえない、時間。けれど、未来に向かってひたすら綿々と、無限に続いていく、時間。――グラフに書けばわかりやすいのだけれど、フォトショップを動かしているあいだにイメージが崩れてしまいそうなので、それぞれの頭の中でイメージして下さい。高校の数学の教科書にのっている、二次曲線、三次曲線の右の端は、無限の彼方へと伸びているはずで、それこそが、その曲線の微分可能性を保証しているものであり、また、現代を生きる人々の多くが持っている時間感覚を基礎づけるものだ。(そもそも、時間をグラフという可視的なもので表現しようとすること自体が、現代の時間感覚の大きな特徴だとも思うけれど、その話はまた次の機会にしたい)。でも、くり返しになるけれど、時間はとても微分できるような代物ではない。過去から未来に向けて、なめらかに進んでいくのではなく、いま横にあるモノから、過去や未来に向けて、さざ波のように広がっていくものだろう。そんな時間を生きていたら、ただ、「好き」。なんて単純な表現はできない。ただ、も、「好き」も、言っている余裕もヒマもない。もう、内から外から至るところから突き上げてくる「好き」を、一身に受けるよりほかない。受け続けるために、もうひたすらに映画を観る。
by warabannshi | 2006-02-20 00:24 | メモ
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