探索記録18 「忘れえぬ人は必ずしも忘れて叶うまじき人にあらず」
 タイトルの文章は国木田独歩『忘れえぬ人々』の冒頭の一文だった、……と思う。曖昧なので確認しようと【青空文庫】で調べてみたら、『忘れえぬ人々』は[作業中の作品]のカテゴリの中に入って、うちの部屋の南の壁の本棚を探してみても、『牛肉と馬鈴薯・酒中日記』しか見当たらない。『忘れえぬ人々』が入っているはずの文庫本、『武蔵野』は、西早稲田中学で国語の教員をやってる父が、四年くらい前の春に、小型ダンボール箱いっぱいの文庫本を抱えて部屋に入ってきて、「BOOK OFFで百円だったから買ってきたんだけど、オレんとこにもう一冊あった本が、じつはこんなにたくさんあったんだ。二冊あっても、一冊しか読まないから、……いるか? いらなきゃ捨てる」と半ば強引に、(「いるか? いらなきゃ捨てる」と言われれば、たいがいの物品は受け取ってしまうのではないだろうか?)、くれた中に入っていたはずだ。でも、本棚には見当たらない。けれど、よく考えてみたら、『忘れえぬ人々』の内容は憶えているのだから、本はなくてもべつにかまわない。
 「忘れられない人というのは、忘れてはならない人のことではない」。
 独歩は、「忘れえぬ人」とは、両親や、世話になった教師・先輩・友人のような絶対に忘れてはならない人のことではなく、まったくの他人で、忘れてしまったところでなんの義理も欠かない人だ、と言う。そして、独りで机に座ったまま人恋しくなったとき、「主我の角がぼきりと折れて」、人知れず思い出されてくるのは、後者の人々の方で、彼らも自分も、天地の間にぽっと生を受けて、すっと死んでいくような存在なのだと思うと、「懐かしさのあまり泣きたくなる」。
 ――「主我の角がぼきりと折れて」、「懐かしさのあまり泣きたくなる」だけは、原文でもそんな書き方をしていると思う。終盤の二、三段落にあるはずで、読み返してみたいけれど、なんせ本がない。( ゼファー生さんのブログから飛べる、國木田獨歩「忘れえぬ人々」によると、「主我の角がぼきりと折れて」、「懐かしさのあまり泣きたくなる」の部分はやっぱり多少違うようで、いちおう旧仮名と仮名の二つをここにも載せて置くことにしました。仮名にする途中で、ずいぶんと手を入れてしまったところもあるので、原文仮名を読みたい方は新潮社から出版されているはずの『武蔵野』をどうぞ。テキストは、moreで読むことができます。ゼファー生さん、ありがとうございました)。この箇所と、タイトルの一文だけ鮮明に憶えているのは、うちが『忘れえぬ人々』と同じような思考ルーティンを経て小説なり、記事なりを書いているからなんだろう。じっさい、「書かずに叶うまじき人」、あるいは出来事が、多すぎる。「これはぜひ記事に書いておこう!」「書かいでか!」とその時々では思っていても、(関係ないけど、「書かいでか」「やらいでか」って、どこかの方言なんだろうか、それとも古語?)、いざ部屋に戻って書く段になると、腕立て伏せをしたり、緑茶を淹れたり、半荘ほどネット麻雀を打ったりして三〇分どねばった後、「今日はそういう調子じゃないんだ」と納得して、思いついたことを指にまかせて書きはじめる。“書きたいのに書けていないイベント”は手帳の中に堆積してしまっていて、いままでの記事を見返しても、3/25の小島信夫さん・保坂和志さんの対談@世田谷文学館、4/9のyutaさんのポイ・パフォーマンス@荻窪 ミュージアム東京、5/1の荒川修作の講演会@芸大 第三講義室、5/5のKのアドバイス@池袋西口公園、……どれもこれも、原稿用紙の二、三十枚じゃ語り尽くせないほどのイベントで、でも、そういう気負いこそが、ディスプレイの上で展開されるはずの言葉の連鎖を阻害している。
「じゃあ、オオタ君。たばこ吸いに行こうか」
 先週と同じように、友人・Uと喫煙スペースでたばこを吸っていたら、たばこの煙は、それを眺めていると気負いを取りのぞいてくれることをあらためて確認させてくれた。嫌煙家の人はわかってくれないけれど、たばこの煙は、線香や爪を燃やしたときの煙よりも濃くて、不定形で、中空に白さを保ったまままま、滞留してくれる。そういう質の煙は、たばこ以外では、本当に得難いもので、たばこの煙は煙というより、一つの音楽に似ている。手元にある薄緑色のパッケージには、「NATURAL AMERICAN SPIRIT」というロゴと、長パイプを吸っているインディアン、ネイティブ・アメリカンの図柄が入っていて、バッケージの中に入っている製品が決して自分をトランス状態に導いてくれるような代物ではないとわかっていても、なんとなく、彼らと同じように鎮魂の効果が、口にくわえたそれにも宿っていると信じてしまう。(ネイティブ・アメリカンにとって葬式とたばこの回しのみは不可分の関係にあったようで、それはパイプの先から出る煙とともに、死者の霊が世界中に拡散していくことを願ったため――ということを、半年くらい前に『世界ふしぎ発見!』でやっていた)
 そう信じてしまうのは、友人・Uも同様のようで、最近のUの二つの短編では、喫煙と死者との邂逅が近接して反復されている。(彼の最初の作品にまで遡って、喫煙と死者との邂逅の関係を調べてみたかったのだけれど、『対位性……(忘れてしまった)』が、ファイルのどこを探しても見当たらない)。
「たばこには二種類の吸い方があってね、一つは普通に肺に入れる方法で、もう一つは肺に入れないで、ぶかぶかふかすだけ。中学生とかが、とりあえず格好つけるために吸うときは後者で、――それは煙がたくさん出るからで、無駄に早く燃え尽きちゃうんだけど、煙を肺に入れるって動作は、実際、初めはとてもむずかしいんですよ。小学校とかでやった避難訓練とか思い出すとわかると思うけど、煙っていうのは、温度が高いから、上へ上へと昇っていっちゃうわけで、だから、吸気を肺に入れるのを意識的にしないと百パーセント咽ることになるわけですよ。たばこ吸ってると、呼吸に意識的になるんですよ」
 おととい、飲み会のときに彼氏がなけなしの一五〇円で買ったホープの、(ホープは二箱で三〇〇だから、つまり、誰か別のもう一人と相談して一五〇円ずつ出し合って買ったのであろうホープの)、その最後の一箱を隠してしまったという嫌煙家のMにたばこの吸い方について語っているUはなんとなく嬉しそうで、それに対してMは笑顔で、薄緑色のパッケージの下半分に書かれている注意文を指でなぞって見せる。
《喫煙は、あなたにとって心筋梗塞の危険性を高めます。疫学的な統計によると、喫煙者は心筋梗塞により死亡する確率が非喫煙者に比べて約1.7倍高くなります。(詳細については、厚生労働省のホームページhttp://www.mhlw.go.jptopics/tobacco/main.htmlをご参照ください。)》
 心筋梗塞を危惧しているわけではないけれど、(ゼロではないとは言わないけれど)、うちは「中学生とかが、とりあえず格好つけるために吸うとき」の方法であるところの口内喫煙が基本だ。肺に吸い込まないで、口からゆっくりふき出すと、煙はそのぶんだけ濃くなって、その煙を鼻から吸いこむと、ただ肺に入れているときよりも香りが楽しめたりする。肺に入れると、どうしても呼気と一緒に煙が遠くに散ってしまって香りも薄まってしまう。(たばこの匂いが苦手、という人は、このブログでよく紹介しているまいとさんを始めとして結構いるけれど、Uの言うことには、「この前、院生と合同のゼミがあって、休憩時間にたばこ吸ってたら、院生の一人がいきなり近づいてきて、やべッ、怒られる! とか思ったら、『…すいません、一本くれますか? 副流煙がおいしくって』――」「副流煙って、おいしいの?」「主流煙も副流煙も大差ないよ。フィルター通ってるか通ってないかの違いなんじゃないの? ああ、でも、メンソールは違うよ。顆粒がフィルターに入ってるから」)。(ちなみに、葉巻とパイプは口内喫煙が基本らしくて、去年の春休みにイタリアで買ってきた「マフィアのボスがひざの上で寝ているペルシャ猫をなでながら吸ってそうな」葉巻を、和田堀公園のベンチで吸ったとき、知らずに深々と肺に入れたら、三十分ほど眩暈と嘔吐感が続いた)。
 どうでもいいことだけれど、たばこの吸い方なんて、みんな、誰に教えてもらったのだろうか? 高校一年の秋に吸ったマイルドセブン(セブンスターだったか)のメンソールは、当時書いていた文化祭直後の教室を舞台にした掌編で、たばこを吸う描写がどうしても必要だった、というのもあって、ずいぶん、その一本をわけてくれた友人・Iの口元、たばこを人差し指と中指ではさむやり方、灰の落とし方、みたいなのを見てそっくり真似して、そのままなんとなく覚えたのだけれど、そのIにも、やっぱりたばこの吸い方を観察していた頃があったはずで、でも、Iが煙にむせている光景を実感のあるイメージとして結ぶのはむずかしい。飛躍しすぎだ、と言われるかもしれないし、単なる連想にすぎないよ、と思われるかもしれないけれどあえて言うと、それは新生児のころのIを想像することができないのと同じような質のむずかしさで、Iが、Iの両親の性交の結果、ここに存在しているというテーゼを実感することへの禁忌を同伴した躊躇でもある。

 煙草の煙を肺に入れるという感覚が理解できなかったし、吸い込みながらでないと火がつかないということだって知らなかった。口に含んで吐き出すだけのふかし煙草だったが、それでも煙は沢山出るので楽しかった。ただ、いたずらに煙草を沢山消費するのが玉に瑕だった。

 二十歳になる前、告白すれば一度だけ、落ちていた煙草を拾って、咥えるだけ咥えてみたことがある。思えばあればメンソールだったと今になって判別するが、当時の僕にそんなのが分かるはずなどなかった。第一、フィルターの存在を知らなくて、どちらをくわれば良いのかも知らず、隠れてこそこそと試みたことだから、葉っぱがむき出しの側を咥えていても、その間違いを正してくれる人なんて一人もいなかったし、今、こうして普通に吸うようになってみても、そんなことを教えてくれた人は一人としていなかった。

 Uの二番目の短編の中でくりかえされる、まだ喫煙が不慣れだったころの一つ一つの仕草は奇妙に性的で、その後に展開される近親相姦的なニュアンスをもった妹とのたばこの取り合いを準備する効果を持っているけれど、両者をつないでいる作用は、初めての喫煙と新生児をイメージの上で結びつけている作用と近似しているはずだ。ここ最近、ずっとブログで言い続けていることなので、「またか」と思うかもしれないけれど、その作用は人間の潜在的な無力さ、不自由さに起因しているように思う。
「煙を肺に入れるためには、呼吸を意識的にしなければならない」と、Uはたばこの吸い方をレクチャーしていたけれど、呼吸を意識的にしなければならない時期といえば、新生児、神経系が未発達であるがために、自分の腕すら自分のものだと認識できず、意識的に動かすこともできなかったあの特権的な時期のことで、一次性徴の記憶とともに、呼吸、あるいは運動の不自由さは性的なものとの連絡を脳の内部に設定するのではないだろうか。また、「性交の結果として望まれない妊娠をする」という物語が近代小説の中で飽くことなく書かれてきたのは、そして、特に「望まれない妊娠をする」というところにアクセントが置かれ続けたのは、やはり自らの起源を不自由さと連絡し、これを象徴する性交-妊娠にもつことの拒絶と、それによって自らの潜在的な-初期設定された無力さを隠蔽しようとする強迫観念が近代の内部に組み込まれていたからではないだろうか。けれど、隠蔽のための戦略は、小説という表現形態の中で必然的に失敗することになる。
 Uの二つの短編のうちのもう片方、『lament』は、あまり文筆業である「私」と、唖で、意思疎通のためにホワイトボードとマジックを手放せない小学生の息子・樹を中心に話が進んでいく。彼らは、共に声を持たない。
 文字というのは本当に不便なツールで、ビジュアル的に加工しないかぎりで、音楽やダンスのように、一次的な知覚に訴えて相手の興味を惹くことができず、能動的な認識を待たなくてはならない。樹は、唖であることを理由に小学校でいじめられる(ホワイトボードに中傷的な文句を落書きされる)が、樹は沈黙したまま、応答をホワイトボードに書くことをやめていく。聴覚に訴えることができず、さらに視覚においても認識までに相手の飛躍を要求する文字というツールは、その表現形態の基底に無力さを設定する。そのことを小説という形で示したUのこの作品は好きなのだけれど、やはり書かれたものであるところの小説内部では、書くことによってしか意思を伝達できない樹の書かれたことば-欠落は、作品形態との入れ子構造の複雑さによって特権的な地位を与えられてしまっている点、最終的に無言の叫びによって充足してしまう箇所の安易さはやっぱり見過ごせなくて、その克服は、小説をlament(「……を悲しむ、嘆く、後悔する」という動詞的意味のほかに、「泣き言、愚痴」という名詞的な意味をもつ)にしないための、これからの自分の課題にもつながっている。



『忘れえぬ人々』國木田獨歩

「もう止そう、餘り更《ふ》けるから。未だ幾らもある。北海道歌志内《うたしない》の鑛夫、大連《だいれん》灣頭《わんとう》の青年漁夫、番匠川《ばんしやうがは》の瘤《こぶ》ある舟子《ふなこ》など僕が一々此原稿にある丈けを詳はしく話すなら、夜が明けて了《し》まうよ。兔に角、僕がなぜ此等の人々を忘るゝことが出來ないかといふ、それは憶《おも》ひ起すからである。なぜ僕が憶ひ起すだらうか。僕はそれを君に話してみたいがね。
「要するに僕は絶えず人生の問題に苦しむでゐながら又た自己將來の大望《たいまう》に壓せられて自分で苦しんでゐる不幸《ふしあはせ》な男である
「そこで僕は今夜《こよひ》のやうな晩に獨り夜更《ふけ》て燈《ともしび》に向つてゐると此生《せい》の孤立を感じて堪え難いほどの哀情を催ふして來る。その時僕の主我の角《つの》がぼきり折れて了つて、何だか人懷かしくなつて來る。色々の古いことや友の上《うへ》を考へだす。其時油然《ゆぜん》として僕の心に浮むで來るのは、則ち此等の人々である。さうでない、此等の人々を見た時の周圍の光景の裡《うち》に立つ此等の人々である。我と他《ひと》と何の相違があるか、皆な是れ此生を天の一方地の一角に享《う》けて悠々たる行路を辿《たど》り、相携へて無窮の天に歸る者ではないか、といふやうな感《かん》が心の底から起つて來て我知らず涙が頬をつたうことがある。其時は實に我もなければ他《ひと》もない、ただ誰れも彼れも懷かしくつて、忍ばれて來る。
「僕は其時ほど心の平穩を感ずることはない、其時ほど自由を感ずることはない、其時ほど名利競爭の俗念消えて總《すべ》ての物に對する同情の念の深い時はない。
『僕はどうにかして此題目で僕の思ふ存分に書いてみたいと思ふてゐる。僕は天下必ず同感の士あることゝ信ずる。」





『忘れえぬ人々』国木田独歩(訳:安芸賢治)

「もうよそう。だいぶ夜もふけてきたから。まだ話はいくらでもある。北海道歌志内の鉱夫とか、大連湾頭の青年漁夫とか、番匠川の瘤のある舟子とか、僕が一つ一つこの原稿にあるだけを詳しく話したら、夜が明けてしまうよ。とにかく、僕がなぜこれらの人たちを忘れることができないかといえば、それは思い起こすからなんだ。なぜ思い起こすのか? 僕はそれを君に話してみようか――。
 要するに、僕は絶えず人生の問題に苦しんでいながら、自分の将来、という大きな望みに縛られている不幸せな男なんだよ。
 だから、僕は今夜のような晩に一人、夜もふけて灯に向っていると、この生の孤立を感じて堪えがたいほどの哀情をもよおしてくる。その時、僕の主我の角がぼきりと折れてしまって、なんだか人が懐かしくなってくる。いろいろの古いことや、友だちの身の上を考え出す。その時、油が浮き上がってくるように僕の心にあらわれるのは、つまりさっき言った人たちなんだ。いや、そうじゃない。それぞれの背景のうちに立つこれらの人たちがあらわれるんだ。自分と他人の間になんの違いがあるだろうか。みんな、世界の片隅に生を受けて長い長い道のりをたどり、ふたたび果てしない天へと帰っていく者じゃないか。そうだとしたら、自分もなければ他人もない。ただ、誰も彼もが懐かしくって、偲ばれてくる。
 僕はこのときほど心が鎮まることはない。このときほど、自由を感じることはない。このときほど、競争心が消え去って、すべてのものに深いいたわりの念を抱くことはない。
 僕は、どうにかして『忘れ得ぬ人々』という題名で、納得がいくまで書いてみたいと思っている。世界のどこかに必ず同感する人がいることを信じているから。」
by warabannshi | 2006-05-13 21:49 | メモ
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