領域(ZONE)A 清水宏保 ――『神の肉体 清水宏保』より
 厳しいトレーニングをやっていると、なんか動物に近くなるような感覚があるんですよね。もしかしたら僕らのやっているトレーニングというのは、後天的に埋め込まれた価値観を削ぎ落とす作業なのかも知れない。現在の文明や文化というのは、本当に人間に必要なものなんですかね。トレーニングをしてだんだん五感が研ぎ澄まされていくと、これは多分、動物の感覚に近くなることなんでしょうけど、そうするとなんか、今の社会には余計なものが沢山あるような感じに思えるんですよね」

「(ほとんど息をせずに負荷をかけた自転車をこぐ無酸素運動のトレーニングが終わった後で)筋肉が痙攣し始めると、強烈な痛みが襲ってくるんですよ。火傷した傷口に塩をまかれ、その上から抓られた感じ。でも、表層的なものではなく、内側からつきあげてくる痛さなんです。だから、激しく叩かないとどうにも我慢できなくなる。ほら、厳寒地だと冷蔵庫の中のほうが温かく感じるじゃないですか。それと一緒ですね」
 その痛みが一番辛いのは夜だという。
「痛くて眠れないんです。身体が痛みでほてっているから、身体に触れる布団の部分が厚くって眠れない。眠っていても身体が冷たいものを求めているらしく、朝に目が醒めると、壁に引っ付いて寝ていたということがよくあります。」

確かに清水は、自転車でロードを漕いでいるときも、意識は身体の動きから離れることはないと語っていたことがある。
「例えば、ペダルを漕ぐという動作でハムストリングスとお腹の底にある腸腰筋を鍛えたいとするじゃないですか。二時間なら二時間の間漕ぎながら、ハムストリングス、腸腰筋、ハムストリングス、腸腰筋……とずっと意識を向かわせ続けるんです。だからトレーニングというのは、身体以上に脳が疲れてくるものなんです」

 深復筋など、人間にはまだまだ知覚されていない筋肉があると、清水はいう。その感覚のない筋肉を清水特有の鍛え方で目覚めさせ、それをパワーやスピード、テクニックに転化させている。

「筋肉の破壊だけでいうなら、何も無酸素系のトレーニングをしなくたって、強い電気ショックを与えるなどして機械的に出来ないこともないんです。しかし筋肉だけを破壊し再生させ進化させても、同時に、筋肉を支配する脳も変容させてなければ意味がない。いくら筋肉を強化しても脳の指令の限界値が低ければ、筋肉も低いレベルで留まってしまう。辛いトレーニングは脳も変容させるので、能力の限界を押し上げることになるんです」

「申し訳ないのですが、試合の前や試合中は会話をしたくないんです。集中しようとしている時は無視させてもらいます。たとえ、親であっも試合の前に視界の中に入れたくない。多分、失礼なことがあるかも知れませんが、勘弁してください。その代わり、試合が終わったらどんなことでも喋ります」

「殻に閉じこもって、気配を消していたんです。大会の一週間前から誰とも喋りたくなかったし、新聞もテレビも見なかった。大体、調子のいい時って、ウキウキしちゃって誰かに話しかけたくなるんですよ。でも、我慢しました。自分の存在を消すことによって、エネルギーを溜めこんでいたんです」
 しかし、一週間も誰とも会話しないというのは、狂人な精神力の持ち主であっても不安になる。ましてや五輪前だ。他の選手の状態はどうなのか。どこまで仕上がっているのか。誰かと比べてそれを基軸にしなければ、今の自分の状況を判別し難いはずだ。だが、清水はそんな行動がマイナスエネルギーになってしまうと断じたのである。
「ひたすら耐えてエネルギーを溜め込むんです。そりゃあ僕だって人の子ですから、不安になったり、反対にウキウキしたりして、友人や家族に電話したい衝動に駆られましたよ。でも、じっと耐えました。余分なエネルギーを放出しないためには、存在や気配を消してしまうことが一番だったんです」
 レストランで、清水は、清水はいつも手の届くところに坐っていた。それでも私には、話しかけたいという欲求がまったく起こらなかった。清水に興味がないというわけではない。むしろあの時、誰もが清水の動向を知りたがっていた。“美味しい素材”が目の前にいるにもかかわらず、視線がそこに行かなかったのは、清水が「話しかけないで」という光線を発していたからではなく、彼自身が存在を消していたからだった。裏を返せば、清水は存在を消すという行為で、レストラン全体の空気を支配していたとも言える。

 清水は、スタート三十分ほど前から、ある儀式をすることを常としていた。言うなら、脳の視床を人為的に開き、人間の潜在能力を引き出すZONEの世界へ自分を入れる作業の採集の詰めをやるのである。それが成功した時は、真空管に閉じこめられたようになって、自分の滑るべき理想の光のラインが見えるのだと、清水は言う。九八年三月にカルガリーで世界記録を樹立した時はまさしくそんな状態だった。昨年の三月に、このソルトレイクで病み上がりながら再び世界記録をたたき出せたのも、ZONEのコントロールが成功し、眠っていた潜在能力を引き出すことが出来たからこその偉業だった。その時、清水はこんなことを言っていた。
「真空管の中に入ったようになり、観客の声も、コーチの声も全く聞こえなくなります。無音の世界といったらいいんでしょうか。それでも不思議なことに豊樹(武田)の声だけは拾うんです。それがなぜなのか、今はまだ分かりません」

「金メダルを獲ってもなぜか、達成感が湧かなかったんですよ。ですから、僕のアスリートとしての最終目標は、金メダルではないことが分かったんです。金メダルを獲ってみて、初めてそのことに気がつきました」……(略)……「いや、金メダルを獲ったことに皆さんが感動してくれたことに、僕も凄く感動したし、至福の瞬間も味わいました。でも、なんか違うんです。極めたとは思えなかった。僕が追求している部分が別にあって、その部分では満足できるものではなかったんです。僕の目的は簡単に言うなら、自分の身体を通して人間の可能性を探りたいということなんです。これまでの人間の教科書の中にはなかった新たな価値観を引き出してみたい」……(略)……「人間の能力は、まだ、まだ二割とか三割しか使われていないという説もありますよね。残りの潜在能力をいかにして引き出すか。僕はスケートという手段を選び、そのスケートの中の既存の価値観を超えて、未知の部分まで能力を持っていくのが、これまでの人間の教科書になかったもの。だからこそ、自分で探り当ててみたいと考えているんです」……(略)……「ただ、この領域は言葉に転化し難いんですよね。身体感覚とか技の追求というのは右脳で考えるので、論理的に説明できない。感覚的なものを左脳に伝えるのは難しいんです。僕がトレーニングの中で体験していることは、1プラス1は2の世界じゃなくて、3の時もあるし5のときもあるし、ゼロの時もある。言葉というのは1プラス1は2の世界のものだから、既存の言葉では説明し難いんですよね」……(略)……「これまで、感覚的なものを言葉にするのは抵抗があったんです。表現してしまうと、固定概念として脳にインプットされてしまう。自分を追い込む時に、固定概念とか規制の価値観というのは結構足かせになるんですよ。でも、結局言葉にして伝えていかないと、今自分が追求している世界が、固有体験として帰結してしまうと思った。初めはそれでもいと思っていたんですけど、もしかしたら、僕が掴んだトレーニング方法が構成のスポーツ界に役立つかも知れないと思って、少しずつ表現していこうかな、と」
by warabannshi | 2006-06-29 22:27
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