探索記録28「暗唱したり、丸暗記することに関しての覚書 その一」
 「詩」と、「小説」の、ジャンル的違い。その違いとは何か? そもそもそこに違いはあるのか? そこに違いがあるとして、その違いは名指せるものなのか? その違いを測定する基準には何を採用するのが妥当なのか? いや、「ジャンル」という基準が極めて曖昧なカテゴリー分けの行為自体が雑すぎるから、この問いにはナンセンスなのではないか? ――そういう躊躇をペンディングしたうえで、いわゆる「詩」と、いわゆる「小説」の違いについて考える。そのとき、両者のあいだのある違いを説明するときに、こう問いかけることができるだろう。
「それは暗唱されるか、暗唱されないか。暗唱されることをわたしに誘いかけるか、誘いかけないか」
「それは丸暗記されるか、丸暗記されないか。丸暗記されることをわたしに誘いかけるか、誘いかけないか」
 この問いかけは、こう変奏することもできる。
「なぜ詩はいつのまにか暗記、暗唱されてしまうのか? なぜ小説は努力しても丸暗記することができないのか? この傾向は、ある詩、ある小説が優れていれば優れているほど強まるような気がする……」
 この問いかけを、二つに分けて考えよう。まずは前者「なぜ詩はいつのまにか暗記、暗唱されてしまうのか?」について。
 「詩」のほうがテキスト容量が小さいから暗唱できる、という俗流唯物論的な回答では、この問いかけのなかの「“いつのまにか”暗唱される」を満足させられない。それに対して、「詩には韻律がある」という側面を私的することもできるだろう。そう、韻律は、もちろん無視することはできない。中世ヨーロッパの吟遊詩人が膨大な叙事詩を暗記することができたのは、その叙事詩が同音・類音の反復構造をもっていたからだし、定型句(日本の俳句、和歌でいえば、枕詞にあたるような)は暗唱の呼び水となっただろう。けれど、すべての詩がいつのまにか暗記され、知らず知らずのうちに口ずさまれるわけではない。その一方で、ある人にとっての代替不可能なある詩は、信仰者における教典のように、絶対的な顕現、絶対的な可視性のインパクトそのものとして受け取られる。そしてまさに教典がそうであるように、私において反復されるごとにその詩から与えられる衝動は、摩耗するどころかいよいよ力を増す。しかも、そのとき反復されている詩は、すでに詩人の(ディキンソンの、宮澤賢治の。ボブ・マーレィの。ムーンライダースの面々の)ことばではなく、真理を告げる神託のことばのように受け取られる。
 いったいなぜなのか。
 前回の探索記録27の文末に私はこう書いている。
 だから、“この”白昼夢や“この”夢を再現することは原理的に不可能なのだけれど、それを了解しても、“この”白昼夢や“この”夢を作品にしたいという衝動は依然として衰えることがない。おそらく、ダリをはじめとしたシュール・レアリストの一群もそんなこと(“この”白昼夢や“この”夢”を再現することは原理的に不可能)は承知していたことだろう。それでも、“この”白昼夢や“この”夢に偏執するのはなぜかといえば、「不可能なものに憧れていくのが芸術という営為だ」からではまったくなくて、“この”白昼夢や“この”夢の「圧倒的な面白さをもう一度、細部にわたって再び体験したい。再び体験できないわけがない」と、ある一群は信じきっているからのように思える。
 
 「“この”白昼夢や“この”夢」を、「“この”詩の与える“この”強烈なインパクト」と置き換え、それを「作品にしたい」衝動は「回顧したい」衝動と置き換えよう。そして、じっさいに置き換えたときに引用文の印象はどのように変化するだろうか。
「“この”詩の与える“この”強烈なインパクトを再現することは原理的に不可能なのだけれど、それを了解しても、“この”詩の与える“この”強烈なインパクトを回顧したいという衝動は依然として衰えることがない」
 私自身は置き換えの前後で文章の印象はほとんど変わらないように思える。つまり、私は「“この”詩の与える“この”強烈なインパクト」と「“この”白昼夢や“この”夢」とを区別していない。重要なのは、この非区別が、あらゆる土俗宗教(いまやすっかり信者数を増やしたキリスト教や仏教も含めた)に見られる神憑りの際の恍惚と異言の混同との類似だ。キリスト教を例にとってもう少し細かく言えば、グラッソラリア(*1)における発話という行為と意味作用は一致は、「そんなことは当然あり得ない」と常識的に思わせる一方で「そういえばそんなこともあったかもしれない」という憧憬をかなり広域的に(キリスト教圏域において)誘い込む。
 いずれにせよ、詩における暗記、暗唱は多分に原始宗教的なメカニズムと近接しており、おそらくは小説というジャンルはそのメカニズムからの「遠さ」がポイントになってくるように思われる。

   (つづく)

(*1)
「グロッソラリア(異言glossolalia)とは、意味論的・統語論的に難解で無意味な音声発話である。直訳すると、声門・咽頭から発するものいう意味。キリスト教会の中には、トランス状態に入った信者が発する意味不明なうわごとのことを、神の言葉として扱う宗派がある。」
 引用元は、http://www.genpaku.org/skepticj/glossol.html
by warabannshi | 2008-10-17 23:42 | メモ
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