カテゴリ:論文・レジュメ( 13 )
没原稿「詩句を暗唱することと暗唱するにたる詩句について」
 オーシプ・マンデリシタームの妻は、当局からの検閲をかいくぐるために夫の詩を暗記し、暗唱をくり返すことでそれを守ったという。聖職者めいた勤行に彼女を押しやったものは何だったのか。夫と彼の作品への愛情だったとは言わない。具体的な相手に向けて話すことは、詩句から大気と飛翔を奪う。なじみの人に話しかけているとき、私たちはなじみのことについてなじみ深い語法でしか話すことができない。自分自身の喉の奥から発せられた言葉に驚きたいという願い、その言葉の新しさ、思いがけなさに魅了されたいという願いがなかったとすれば、彼女は暗唱者でありえなかっただろうし、彼女の暗唱の時間において、マンデリシタームの詩は生き延びなかっただろう。暗唱される詩句と暗唱者にとって、思いがけないものが大気となる。発語される言葉が発語される前から十分に意味や情緒や感興を保証されているとしたら、詩句は飛翔することができるだろうか。たとえ何千回と暗唱されようとも、次の暗唱はまったく思いもよらないものとなることがある。それを知る暗唱者だけが良い暗唱者だ。
 マンデリシタームの紹介を忘れていた。1891年、彼はロシア帝国領リトアニアのユダヤ人の商家に生まれた。1910年代からペテルブルグの流派アクメイズムの詩人として活躍。1925年の春から5年間は翻訳のみを行った。1938年にウラジオストク郊外の収容所で亡くなった。
by warabannshi | 2014-05-05 23:54 | 論文・レジュメ | Comments(0)
講義資料「私たちは何を食べてきたのか、何を食べているのか、何を食べていくのか」 vol.3
《Cパート》
● なぜ私たちは「かけがえのないもの」を食べられないのか? ―「食べてしまいたいほど、好き」
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 私たちが、食べるもののルーツに非常にこだわる例をもう一つあげたいと思います。『サザエさん』の4コマのなかに、飼っていたニワトリをしめて作った鳥鍋を、磯野家の面々がお通夜のように囲む 、というエピソードがあります。昭和30(1950)年代、ニワトリはペットとして愛玩するものではなく、食用、卵用であったはずなのに、です。
 私たちは、そのものの固有性をはっきりと認識しているものを食べるときに、得も言われぬ抵抗を感じます。私はいまはペットを飼っていませんが、小学生のときにはミシシッピアカミミガメを2匹飼っていました。可愛がっている、というよりは、縁日で手に入れたそれを惰性で世話している、という感じでした。ずいぶん大きくなって、「地震が来たときの非常食だね」と親戚に笑われていたのですが、そう言われるたびに、私はこのカメを食べることができるだろうか、普段から世話をしている“まさにそのカメ”の肉を口にしたときにどんな抵抗があるかだろうかと、いろいろ想像しました。
 私たちが固有性を強く認めるものを食べるのに抵抗を感じるのは、別に対象が生き物であるときに限られません。生き物でなくても、固有性が強いと食べにくくなります。子供の頃、来場記念でもらったキャンディーを、何となく食べるきっかけを見いだせないままべとべとにしてしまった、などの思い出がある人は少なくないのではないでしょうか。

 しかし、とはいえ、この抵抗は、食べるものの固有性が、親密さやあるいは愛情の根拠となったときに最大となります。絵本『あらしのよるに』では、ある嵐の夜、ヤギとオオカミが同じ山小屋に避難して、お互いが互いを同類と思い込んで夜通し語りあい、意気投合します。翌日、2匹は、「あらしのよるに」を合言葉にして、小屋の前で再会することを約束します。オオカミはヤギを食べるのか? その結果はわからないまま、絵本は終わります(映画版はその後の物語も描かれています)
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 これと同じことを考えるうえで、テレビ番組「ニンゲン観察バラエティ モニタリング」で放送された、苺に語りかけられた男の兄弟の話と、ケーキに話しかけられた女の子の対比は示唆的です。留守番をまかされた兄弟は、テーブルの上にあった苺から話しかけられます。そして苺と仲良くなった兄弟は、好物であるところのその苺を食べることができませんでした。一方、同じシチュエーションでケーキに話しかけられた女の子は、仲良くなったそのケーキをぺろりと食べてしまいました。そして、彼女は空っぽのお皿に「またお母さんに買ってきてもらってね」と呟いていました。
 この例から考える限り、私たちが食べるうえで抵抗感を覚える対象が持つ性質とは、私たちが対象に抱く親密さよりも、その対象が固有であること、かけがえのないものであることのようです。なぜか。理由の一つは、食べることのかけがえのないものの喪失と結びつくからです。そして、もう一つは、あまりにも固有性の強いものを食べると、食べた者の固有性が侵食されるからです。
 対象を食べることによって私たち自身の固有性が侵食されうるからこそ、「食べてしまいたいほど好き」という奇妙で苛烈な感情も生まれえます。
 森見登美彦『有頂天家族』では、毎年、大晦日に狸鍋を囲むという伝統を持つ「金曜倶楽部」のメンバーの1人で妖艶な美女・弁天と、下鴨神社・糺の森に暮らす狸の1匹(1人)である下鴨矢三郎との、次のようなやり取りは示唆的です。天狗に一目惚れされて連れ去られた彼女は、神通力を与えられ、多くの人心を操ることに長ずる一方、自暴自棄で刹那的な振る舞いも見せています。
「何をそんなに切ながっているんです?」
「私に食べられるあなたが可哀想なの」
「食わなければ良いのではないですか?」
「でも、いつかきっと私は貴方を食べてしまうわ。食べちゃいたいほど好きなのだもの。でも、好きなものを食べたら…、そうしたら好きなものがなくなってしまうんだもの」
(アニメ版5話「金曜倶楽部」より)
 また同作品に登場する淀川教授の行動も今回の話と重なります。彼は狸一般を愛していると公言していますが、金曜倶楽部のメンバーでもあります。「狸が好きだと言う事と、食う事とは矛盾しない。貴方の様に渋々喰っていたんではしょうがないが、僕はいつも喜んで食う。旨い旨いと食うてやるのが礼儀と言う物です」(同上より)という自説を持つ彼は、彼自身がかつて怪我の手当をしたことがある狸(代替不能な“まさにその狸”)に対しては同じ姿勢を貫くことができず、宴の席から“その狸”の入った檻を奪って逃げることになります。
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● 私たちは何を食べたがっているのか? ―それがまさに「賜りもの」であるかのようにふるまうこと
 忌避される食べ物とは、それを食べることによって生じる変容がネガティヴだと感じられるものであり、食べることに抵抗を感じる食べ物とは、それを食べることによって生じる喪失と変容がラディカルなものだと、ひとまず整理することができます。それでは、私たちは何を食べたがっているのでしょうか。
 ここで、人類が数万年前から食事に際して行ってきたことを思い返してみましょう。それはつまり、眼前にある採取された食べ物、収穫された食べ物を、超越的な何かからの「賜りもの」であると見なして行われる様々な儀礼です。

 例えば、手食文化があげられます。現在、手食人口は25億人余りで、手食を是とする代表的なヒンドゥー教やイスラム教においては、神から与えられたものを食具で扱うことは不謹慎とされています。手食文化は、アフリカ、中近東、インド、東南アジア、オセアニアなどに広がっていますが、どの地域でも、右手が清浄、左手は不浄とされており、食事には必ず右手を使う必要があります。現在ではフォークなどのカトラリーを用いるキリスト圏でも、中世は共通の皿とナイフで料理を取り分けたあとは、手食するのがが一般的でした。フォークが普及しはじめるのは、18世紀以降のことです。
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 箸を用いる文化圏に含まれる日本も、「食べる」ことと、「賜る」ことは密接な関係を持ちます。食前食後の挨拶はもちろんですが(1人で食事をするときも「いただきます」と言うのは、キリスト教徒が1人だからといって食前の祈りを欠かさないのと構造は同じでしょう)、柳田國男は、日本語の「食べる」という言葉は、タバル、タブの受身の形であるタバハル、つまり「たまわる」(給わる)、「いただく」ということからの派生語であると位置づけています。これは具体的には、収穫物を神棚や仏壇の祖型のような場所へ供え、その後で、それを「お下がり」として頂戴するという儀礼の名残であると考えられます。これも日本に限ったことではなく、英語のration(割り当て)という言葉は、古代ギリシアの犠牲牛の分配に由来するなど、その名残は世界中にあります。また、太宰治が嫌いなものとして描いていますが、戦後までの日本の少なからぬ家庭では、食事中はみだりに口をきかず、厳かな宗教儀式のように粛々と食べていたようです。

 それでは、目の前の食べ物は誰からの賜りものなのか。多くの答えがあると思います。しかし、誰からの賜りものであるにせよ、賜りものを食べるには、私たちは「まさに賜りものであると見なしてふるまう」ことを求められます。賜りものとしての食べ物は、最初から「賜りもの」としてあるわけではないからです。食前・食後に挨拶や祈りを含めた様々な儀礼は、眼前の食べ物が「まさに賜りものであると見なしてふるまう」ということにおいて一貫しています。
 「食べ物を、まさに賜りものであると見なしてふるまう」儀礼は食事の場面に限定されるものではありません。ミレーの「落ち穂拾い」はよく知られている作品ですが、この作品に描かれている3人の女性は、この畑の小作人でも、まして持ち主でもなく、日々の糧に事欠く貧者(おそらくは寡婦)です。この絵の題材は、旧約聖書の「レビ記」、「申命記」でくり返し言及される、「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者、孤児、寡婦のために残しておかねばならない」という律法にあります。ミレーの絵と旧約聖書の律法からは、「賜りもの」としての収穫物の位置づけ、つまり私的に所有することができないものとしての位置づけを認めることができるでしょう。
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 私たちは常に、「賜りもの」を口にすること、祝福されたものを口にすることを願い続けてきました。そして、自分が食べるもののルーツを祝うのは、私たち自身です。一般的にそう思われているように、食前食後の挨拶や食卓での礼儀作法とは、道徳に関わる話ではありません。それら、「食べ物を、まさに賜りものであると見なしてふるまう」行為とは、私たちをネガティヴに変容させかねない超越的な力に対する防衛に関わる話なのです。このことは、食品廃棄率が世界一の日本に住む私たちにとって、吟味する余地がある事柄だと思えます。


●参考資料他
〈食〉に関する資料諸々。「★」はジェネラル・レクチャーで直接、参照したもの。
[文献]
★網野善彦・石井進(2000)『米・百姓・天皇制―日本史の虚像のゆくえ』大和書房
・石毛直道監修(1998-99)「講座食の文化」全7巻、農村漁村文化協会
 第一巻『人類の食文化』吉田集而編集
 第二巻『日本の食事文化』熊倉功夫編集
 第三巻『調理とたべもの』杉田浩一編集
 第四巻『家庭の食事空間』山口昌伴編集
 第五巻『食の情報化』井上忠司編集
 第六巻『食の思想と行動』豊川裕之編集
 第七巻『食のゆくえ』田村眞八郎編集
★池上甲一他(2008)『食の共同体―動員から連帯へ』ナカニシヤ出版
★池上俊一(2011)『パスタでたどるイタリア史』岩波書店(岩波ジュニア新書)
★大平健(2003)『食の精神病理』光文社(光文社新書)
・河上睦子「食文化から見る日本の近代化 福沢諭吉と森鴎外の西洋食論」、石塚正英他編著『戦争と近代』社会評論社、2011年。
★木村裕一[文], あべ弘士[絵] (1994)『あらしのよるに』講談社
★クラウス・エーダー、寿福真美[訳](1988=1992)『自然の社会化―エコロジー的理性批判』法政大学出版(叢書・ウニベルシタス)
★近藤弘(1976)『日本人の味覚』中央公論新社(中公新書)
・桜澤如一(1941)『戦争に勝つ食物』大日本法令出版
・鯖田豊之(1988)『肉食文化と米食文化』中央公論新社(中公文庫)
・デボラ・ラプトン、(1999)『食べることの社会学 食・身体・自己』新曜社
★原田信男(2010)『日本人は何を食べてきたか』角川学芸出版(角川ソフィア文庫)
・伏木亨(2006)『おいしさを科学する』筑摩書房(ちくまプリマー新書)
・ブリア=サヴァラン、関根秀雄・戸部松実訳(1967)『美味礼賛』全2冊、岩波書店(岩波文庫)
・辺見庸(1997)『もの食う人びと』角川出版(角川文庫)
・松永澄夫(2003)『「食を料理する」哲学的考察』東信堂
・宮下規久朗(2007)『食べる西洋美術史』光文社(光文社新書)
★宮本常一・塩田鉄雄(1978)『食生活の構造〈シリーズ食文化の発見2〉』柴田書店
★森見登美彦(2007)『有頂天家族』幻冬舎
★長谷川町子『サザエさん〈6巻、19巻〉』、朝日新聞社
★藤原辰史(2012)『ナチスのキッチン』水声社
★柳田国男(1963)『定本柳田国男集〈第19巻〉』筑摩書房
・矢谷慈国・山本博史[編](2002) 『「食」の人間学』ナカニシヤ出版
・レオン・R・カス、工藤政司他訳(1995=2002)『飢えたる魂 食の哲学』法政大学出版
★『GIGAZINE』 2013年5月23日「3Dプリンターで食べ物を印刷へ、既存の食事を置き換える可能性もあり」http://gigazine.net/news/ 20130523-3d-printed-food/ (2013年9月30日アクセス)


[映像]
★ヴァレンタイン・トゥルン[監督](2011=2013)『もったいない!』T&Kテレフィルム
★ニコラウス・ゲイハルター[監督](2005=2007)『いのちの食べ方』エスパース・サロウ
・マーク・フランシス、ニック・フランシス[監督](2006=2008)『おいしいコーヒーの真実』アップリンク
★フーベルト・ザウパー[監督](2005=2006)『ダーウィンの悪夢』ビターズ・エンド
・リチャード・リンクレイター[監督](2006=2008)『ファーストフード・ネイション』トランスフォーマー
by warabannshi | 2013-11-09 16:58 | 論文・レジュメ | Comments(0)
講義資料「私たちは何を食べてきたのか、何を食べているのか、何を食べていくのか」 vol.2
《Bパート》
●私たちは何を食べていくのか? ― 3Dプリンタで印刷される、航空部品、模型、食べ物
 不安感と不快感の考察をする前に、もう少し話を続けましょう。「私たちは何を食べていくのか」です。
3Dプリンタという、レイヤーを重ねていくことで複雑な構造物でも作成できる機械があります。ジェットエンジンの製作や、CTスキャンと組み合わせた「手術前の検討用のモデル」の製作といった場面で活用されています。
 そして現在、NASAから約1300万円の資金援助を得て、食べ物を作り出す3Dプリンタの開発がアメリカで進められています。

 1家に1台の3Dプリンタがある未来において、人々はオイルや専用のパウダーを使い、それぞれの体にあった栄養価の食事を取れるようになるでしょう。例えば、年配の男性なら炭水化物は少なめ。スポーツマンは反対に炭水化物が大めでカルシウムが少なめ。妊娠中の女性はオメガ3脂肪酸を十分にとって……といった具合に。
 しかし何より重要なのは、あらゆる生き物から栄養を取ることが可能となる点です。3Dプリンタで現在は食べ物と見なされていない、藻や浮き草、昆虫などを食べることができるようになります。また、30年は保存のきくパウダー状の材料から作られるため、食品廃棄の問題もなくなります。いずれ100億人を超える人口を支えるために、3Dプリンタによる食べ物の印刷は大きな希望を持っていると言えます。もちろん、すべての食べものが、3Dプリンタで印刷されたものに代替されるわけではないでしょう。電子メールが行き渡った現在でも、私たちは旅先から手書きで暑中見舞いを出したりします。しかし、食糧生産が世界規模の貧困と不可避であり、さらに輸送コストがかかる以上、代替は広範囲に及ぶことになるでしょう。
 それらのことが頭ではわかっていても、やはり、3Dプリンタでパウダーを用いて印刷した食べ物を日常的に食べることに、少なくとも私は抵抗があります。
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 なぜでしょうか? 私が「3Dプリンターで食べ物を印刷へ、既存の食事を置き換える可能性もあり」という記事を見たときに、まっさきに思い浮かべたのは『サザエさん』のこの4コマ漫画なのですが、なぜワカメちゃんは嫌がっているのでしょうか。“お節句のご馳走”がサプリメントでは味気ないから? でも、3Dプリンターで作られる食事は常にサプリメントの形をしているわけではありませんし、例えば東京・合羽橋で売られている食品サンプルの造形をプログラムすれば、ちゃんとパスタの形をした食べ物を印刷することも可能でしょう。さらに、現在は蟹や豚骨などの風味を、原材料をまったく使わずに化合物だけで再現することもできます(そもそも味覚は水溶性の化学物質を受容することでおこる感覚なので別に不思議はないのですが)。でも、3Dプリンターで印刷された「海の幸スパゲティ 白ワイン仕立て」を前にすると、やはり戸惑うと思います。たとえ、それがトウモロコシと藻とバッタを原料にしたものでないとしても、です。なぜでしょうか?




● 食べたもののルーツを、人間は考えずにいられない
 やがて普及するであろう、3Dプリンターで印刷された食べ物への抵抗感は、なぜ生まれるのか。「私たちは何を食べてきたのか」、「私たちは何を食べているのか」という問いかけを通して概観してきたことをふまえると、次の仮説を提起できます。それは、「私たちは食べるものに、何らかのルーツを見出したがる傾向がある」ということです。
 ある食材を食べることによって、私たちはその食材を含む、象徴的な食物連鎖に連なることになります。
 私たちは、私たちが伝統的に食べてきたものであると言われると安心感を覚えます。食材が、私たちがイメージしているのとは異なる生態系内での位置を占めていると、不安を抱きます。あるいは私たちが普段食べているものが、果たして食べ物なのか、ゴミなのか、わからなくなるほどの食品廃棄の現場を見ると、混乱します。そして、自分が食べているものがパウダー状に加工される前は何だったのかわからないと、より食材について神経質になります。
 つまり、その“食材”がどのようなルーツ、どのような食物連鎖の、どのあたりに位置しているかがわからないことが、雑食ウシや代用魚に抱かれる忌避感の一つの要因になっているのではないでしょうか。ある“食材”を食べることによって、食べる私たちは“食材”の食物連鎖に連なることになります。それは、物質循環の問題というより、むしろ履歴の問題なのです。

 食べ物が作りだす象徴的なつながりが重視された事例として、第二次世界大戦期のドイツのいくつかの政策があげられます。
 テイラー主義の成功とともに、工場労働の一般化し、それに伴い、働き方が画一化していった20世紀初頭。その波は、建築学や家政学などを通じて台所にまで至りました。そして、その時代は奇しくも、「伝統的な食材を用い、伝統的なレシピで、伝統的な食習慣に則って食事をする」というある種の規範が広まった時代でもあります。イタリアでパスタが「国民食」となったケースを見ましたが、ナチス政権下のドイツでは、もっと強力に「伝統的な食」という規範が推し進めされました。
 1933年の秋、ナチスはドイツの全国の家庭およびレストランに「アイントプフの日曜日」を義務化します。アイントプフは、野菜や肉の煮込みで、ドイツの家庭料理です。食費を節約し、浮いた金額を募金させ、それが冬季の貧民救済に使われました。「家族全員がアイントプフの日を、ドイツ民族の結束を讃える日として感じることができる」というコンセプトは決して便宜上のものではなく、ヒトラーを首相に任命した当時の大統領のパウル・フォン・ヒンデンブルグは、「私はライ麦パンしか食べない。愛国者はライ麦を食べる」と明言していました。
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 ヒンデンブルグの、アーリア人の胃袋は、ドイツ原産の純血種の生物で満たされるべきである、という思想は、「血と土」のスローガンを思い起こさせますが、それと同時に食べ物が作りだす象徴的なつながりの強さをうかがわせます。ドイツには、「人はその食べるところのものだ(Der Mensch ist. was er isst)」という諺がありますが、まさに私たちは食べたものでできています。食べるとは食べたものを消化、吸収し、自分の血肉に同化することですが、それは見方を変えれば、食べたものによって私たちが変容すること、食べたものに食べられていくことでもあります。

 別の事例を考えてみましょう。例えば、レストランで海鮮スパゲティを美味しく食べているとします。その横で誰かが同じメニューを、①「まずい」と言い、元の味がわからなくなるくらいにタバスコをかける。②匂いだけ嗅いで顔をしかめ、「こんなものは豚の餌だ」と言われる。③床に落とされて、さらに足で踏まれるなどされると、非常に不愉快になると思います。あなたの食べているスパゲティに何ら味の変化はなく、衛生上、何の問題がないにしても、です。
 なぜでしょうか。なぜ私たちは、“ゴミ扱いされたもの”を食べられないのでしょうか。
 先ほどのドイツの諺に沿って考えましょう。私たちが“ゴミ扱いされたもの”を食べられないのは、それを食べると私たち自身もまた“ゴミ”になってしまうからではないでしょうか。
 食べたものによって私たちが変容するという構図、食べたものに食べられていくという構図は、世界の様々な食文化と関連しています。例えば、マダガスカル人は、敵に出会うと丸くなるハリネズミを食べると憶病になると嫌います。その一方で、一部のロマはハリネズミを、その棘によって外部の穢れから守られている動物として祝い事のときに食べます。北アメリカのチェロキー族はシカを食べると足が速くなると信じて好んで食べ、北アフリカでは小心者でもオオカミやライオンを食べると、大胆不敵な勇者になると考えます。
 これらの食文化を未開だと思うでしょうか。私たちがサプリメントやエナジードリンクを飲み、ゼリー飲料で10秒チャージするときに、打ち捨てられたような疎外感と、ほのかな快感(「ああ、私も捨てたものではない…」)を感じるのは、“燃料補給のような食事”によって、私たちが自分自身を“生産力の高い機械”と見立てているからではないでしょうか。
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 ここに、人類が食べ物に働かせる強力なシンボル化を見出すことができます。シンボル化の能力に媒介されることで、「食べる」という振る舞いは、現実的なものだけでなく、可能性も含み込んだものを自らのうちに取り込む出来事として、拡張されます。
by warabannshi | 2013-11-09 13:30 | 論文・レジュメ | Comments(0)
講義資料「私たちは何を食べてきたのか、何を食べているのか、何を食べていくのか」 vol.1
2013年10月2日(水) ジェネラル・レクチャー@聖心女子大学
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 「私たちは何を食べてきたのか、何を食べているのか、何を食べていくのか」という、ちょっと変わったタイトルは、次の作品の題名から借用しました。フランスのポスト印象派の画家、ポール・ゴーギャンの《私たちはどこから来たのか、何者か、どこにいくのか》(1897-98)です。
 ゴーギャンのこの作品は、19世紀末に描かれました。無線通信が遠い都市を結び、映像による記録が行われるようになり、進化論の衝撃がまだ咀嚼しきれていない時代です。無線通信は、空間を瞬時に越える連絡を可能としました。映像は編集されることで、一度も現在でなかった過去を記録する産業を(つまり映画産業を)生み出し、進化論は、人間が宇宙の中心でもなんでもないことを示す天動説以来のラディカルな仮説として人々の旧来の価値観に変更を迫りました。《私たちはどこから来たのか、何者か、どこにいくのか》という題名は、変容のスピードが激化する世界に人間が生きはじめるようになった最初の時代に生まれた問いです。
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 唯物論と信仰のあいだで人々が揺らいでいたゴーギャンの時代から、およそ120年後、私たちは言語や国境を瞬時に越えることができるインターネットと、食べ続けなければ生きていくことができない身体とのあいだで、揺らいでいます。そんな私たちを考える上で、「私たちは、何を食べてきたのか、何を食べているのか、何を食べていくのか」という問いかけはそのヒントとなると私は考えています。
 講義は大きく3つのパートに分かれています。
 まず、「伝統食」がここ150年くらいで作られた経緯から、先進国でいつでも手に入る豊富な食材の裏側までを紹介するAパート。ここでは私たちが当然と思っていることが、実は偶然と努力と、作為の結果であることを示します。
 次に、急増する人口を養うために導入されるであろう、3Dプリンタによる食品の印刷を紹介して、印刷された食物へ感じる抵抗感、ナチス政権下で行われた「アイントプフの日曜日」などを紹介するBパート。ここでは、食べるものの由来を知ることで、食べる側の態度が変わる・変えさせられる私たちのある種の傾向を示します。
 そして、「食べてしまいたいほど好き/好きであるが故に食べられない」という背反と、「栄養補給のような食事/その一方でなされる大量の食品廃棄」という病理に焦点をあてるCパート。「私たちは何を食べたがっているのか?」という問いに、「賜りもの」という位置づけを行います。


《Aパート》
●私たちは何を食べてきたのか? ― 「伝統料理」「民族を代表する料理」の新しさ
 さて、まずはタイトルのそれぞれの問いを考察していきたいと思います。「私たちは何を食べてきたのか」。その問いには、多くの場合「私たちは伝統的に○○を食べてきた」という答えが用意されています。しかし、あえてもう一歩、「私たちは“いつから”○○を食べてきたのか」と問うと、じつはその伝統は、たかだか100年ほど前に作られたものでしかないかもしれません。
 例えば、イタリア料理に欠かせないトマト。イタリア人はずっとトマトを食べていたようなイメージがあります。しかし、トマトは、もともとイタリア半島に自生していたではありません。500年ほど前にメキシコへ上陸したスペイン人がその種を持ち帰ったのが最初です。しかもトマトは当初、ベラドンナ、ヒヨス、マンドラゴラなど、毒性で知られる植物との類似から危険視され、ほとんど受け入れられませんでした。17世紀に栽培が始まったときにも、その鮮やかな色のため、菜園、庭、バルコニーに観賞用として植えられ、食用ではありませんでした。そして、18世紀頃、品種改良を経て現在のトマトとなったのです。ルネサンスの巨匠たち、ラファエロやミケランジェロは、トマト料理を口にしたことはなかったわけです。
 さらにトマトソースとなると、話がまた変わってきます。ナポリを中心としてトマトソース作りが始まったのは17世紀末からで、19世紀初頭に、行商人がトマトソースを売って歩くようになった記録が現れます。ブォンヴィチーノ公イッポリト・カヴァルカンティは、『理論的・実践的料理』(1839年)で「トマト入りヴェルミチェッリ」のレシピを記載していますが、これが文献上に初めて現れる「トマトソースをかけられたパスタ」だそうです。
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 ここで考えたいのは、いわゆる伝統料理、民族を代表する料理とはいったい何か、ということです。そうしたものは意外と歴史が浅かったり、上流階級の食べ物だったものが100年ほど前、19世紀後半から20世紀前半に庶民に普及したものだったりします。
 パスタは、イタリア半島で古くから食べられています。しかし、パスタは現在そうであるよりずっと“ご馳走”でした。小麦は、貧しい農民が気安く食べられるものではなかったからです。それが改善されたのは20世紀初頭以降、工業化によってイタリアの経済状況の改善してからです。また、パスタがごった煮ではなく、レシピのある料理として整理されたのは19世紀後半、「イタリア料理の父」たるペレグリーノ・アルトゥージ(1820-1911)によってでした。この背景には、ナショナリズムによって”国民食”が求められたという事情があります。そもそも「イタリア料理」はイタリアができてから現れた概念です。そして、イタリア王国が建国されたのは、1861年。アルトゥージが、「イタリア料理」という概念を初めて体系立ててまとめた本、『料理の科学と美味しく食べる技法』を出版したのは、1891年のことでした。同書は、さまざまな地方料理のレシピを厳選したもので、まさに“料理の国民統合”の足掛かりとなったといえるでしょう。アルトゥージに明確な政治的意図はなかったようですが、彼の父親が青年イタリア党のマッッィーニ派だったことや、彼が近代イタリアの担い手となるブルジョワに属していたということが、その料理書の構成・内容に密かに影響しているのではないかと、『パスタでたどるイタリア史』(2011年)の池上俊一さんは指摘しています。また、カトリックの、特にマリア信仰の強いイタリア半島において、「母(マンマ)の作る料理」というイメージの強いパスタを食べることは、「イタリア人は自分がイタリア人であることを自覚する」ための重要な紐帯となりました 。

 イタリアの話をしましたが、日本の国民食と言えば、お米、ジャポニカ米ですね。日本人はずっと米食を続けてきたようなイメージがあります。しかしこのイメージも、戦時中のコメ配給制によって農山村部にまで米食を普及させるのと併行して作られたものです。網野善彦や、原田信男をはじめとする先行研究が明らかとするように 、列島には、アワやヒエ、芋、豆など、コメではないものを常食とする集団がずっと存在していました。特に、列島を東西に分けたときの東側の味覚文化圏には、ヒエ食が広く定着していました。例えば、岩手県下のヒエの作付面積は、明治15(1882)年では、20,761町歩。昭和15 (1930)年では、14,839町歩です。明治初期から昭和初期にかけてヒエの作付面積は3/4になっていますが、根強く食されていることがわかります。日本人が広くコメを食するようになったのは戦時中以降のことでした。日本人全体が白米をお腹一杯食べられるようになったのは、戦後の高度経済成長期以降のことです 。
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●私たちは何を食べているのか? ―フード・ドキュメンタリーから見える不愉快な世界
 ここからは、現在、先進国に生きている私たちが何を食べているのかについてを、3つのフード・ドキュメンタリー作品から見ていきましょう。内容を不快に感じる人がいるかもしれませんが、あまりえげつなくないものを選んでいます。
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 1つめは、フーベルト・ザウパー監督の『ダーウィンの悪夢』(2005年)です。マクドナルドのフィレオフィッシュ・バーガーの中身は白身魚ですが、私たちが白身魚として口にしているもの、それは何なのでしょう。ふつう、白身魚といえばタラやスズキが思い浮かべられます。しかし、私たちがじっさいに口にしているものは、私たちの抱いているイメージと、異なるものかもしれません。ファミリーレストランなどにおける塩焼き、付け焼き、蒸し物など、外食産業や総菜屋における「白身魚」といわれるもののほとんどが、ナイルパーチという魚です。スズキ科の魚ですが、ナイルパーチの大きさは1.8mにもなります。そして外来種として放流された場合、地域の生態系に壊滅的な打撃を与えます 。

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 2つめは、ニコラウス・ゲイハルター監督の『いのちの食べかた』(2005年)です。ウシは皆さんもご存知の通り、草食動物です。4つの胃を持ち、反芻を行います――野生下では。しかし、とくに合衆国で飼育されている一部のウシは雑食動物といって良いものです。本来は食べないトウモロコシを食べ、成長を早め、肉付きをよくするために、肉骨粉を食べています。私たちは、私たちがそうであるとイメージしているものとはずいぶん違うものを日常的に口にしていると言えます。

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 食べ方はどうでしょう。私たちは大量の食品を廃棄しつづけています。毎年、日本では1,800万トンの食料が、人の口に入らず廃棄されています。一般家庭から毎年廃棄される約1.000万トンの生ゴミのうち、まだ食べられる品質である「食べ残し」は38.8パーセントを占め(2002年)、その中の11パーセントは買ったままの状態で捨てられます。現状のイメージを得るには数値よりも、ヴァレンタイン・トゥルン監督の『もったいない!』(2011年)を観た方が早いかもしれません。

 こういう事情を知ったとき、少なくとも私は得も言われぬ不安を感じたことを覚えています。何となく、私たちが食べているものが“汚れている”ように感じられました。安全管理は徹底されているでしょうし(そう願いたいものです)、少なくとも、私の味覚では、スズキとナイルパーチを、トウモロコシと肉骨粉で育てられたウシと干し草で育てられたウシを識別することは困難です。けれど、嫌だな、と思いました。なぜなのか。
by warabannshi | 2013-11-09 11:56 | 論文・レジュメ | Comments(0)
「宮沢賢治と精神分析―奇妙さと隣り合うために―」【後編】
4.宮沢賢治の作品の推移と、真正性のあり方

4-1.「氷河鼠の毛皮」他――創作の起源

 賢治をおとなう幻覚・幻聴を生み出す要素現象が、彼においては〈世界〉と呼ばれること、そしてそれを症状の形成へと展開させるメカニズムが、「まこと」、「ほんたう」としてくり返し表明される真正性への希求であることをこれまで見てきた。初期の短歌制作期において、了解不能な要素現象はひたすら奇妙なものであり、不安の源泉であり、彼の精神に闖入するものであった。
 しかし、賢治はこの了解不能なものと折り合いをつけることになる。『注文の多い料理店』の「序文」や同書所収の「鹿踊りのはじまり」においてもそう言明されていたとおり、賢治の作品の多くは彼によって、どこかから飛来してきたものとして扱われる。例えば、童話「氷河鼠の毛皮」(1923)は、次のような言明が作品に挿入されている。

 このおはなしは、ずゐぶん北の方の寒いところからきれぎれに風に吹きとばされて来たのです。氷がひとでや海月やさまざまのお菓子の形をしてゐる位寒い北の方から飛ばされてやつて来たのです。

 これが多分風の飛ばしてよこした切れ切れの報告の第五番目にあたるのだらうと思ひます。

 これが風のとばしてよこしたお話のおしまひの一切れです。

 あるいは、短編童話「黄いろのトマト」(制作年不明)は、「博物局十六等官 キュステ」が、小さい頃博物館の剥製の蜂雀から開いた話に関する、成人してからの回想録であり、しかもその回想を賢治が翻訳するという二重の構造を採っている。また、賢治が亡くなった翌年に発表された童話「ポラーノの広場」(1934)も、「十七等官 レオーノ・キュースト」の作品を翻訳したものとなっており、賢治の作品が彼自身の企図から生まれたものでないことを示すひとつの形式となっている。
 これらの言明や形式は、創作に伴う緊張として――そこに何かがある(生き生きとした体系的妄想がある)ことはわかっているが、その何かが、どこから来たのかはわからないという緊張として表れる。くり返すとおり、この緊張をもたらすものが、賢治の場合は〈世界〉であった。そして〈世界〉からの真正な引用方法として、賢治は諸々の自然科学と法華経(宗教的価値)を採用する。

4-2.「青森挽歌」――トシの死

 しかし、1922年12月、賢治のもとに新しい要素現象が到来する。最大の理解者であった妹トシの死である。心象スケッチ「青森挽歌」(1923年8月)の内容は、題名の通り、死んだトシへの哀悼である。長大な作品の最後の部分は以下のようになっている。
青森だからといふのではなく
大てい月がこんなやうな暁ちかく
巻積雲にはいるとき……
     《おいおい、あの顔いろは少し青かったよ》
だまってゐろ
おれのいもうとの死顔が
まっ青だらうが黒からうが
きさまにどう斯う云はれるか
あいつはどこへ堕ちやうと
もう無上道に属してゐる
[……中略……]
     《もひとつきかせてあげやう
      ね じっさいね
      あのときの眼は白かったよ
      すぐ瞑りかねてゐたよ》
まだいってゐるのか
もうぢきよるはあけるのに
すべてあるがごとくにあり
かゞやくごとくにかがやくもの
おまへの武器やあらゆるものは
おまへにくらくおそろしく
まことはたのしくあかるいのだ
     《みんなむかしからのきやうだいなのだから
      けっしてひとりをいのってはいけない》
ああ わたくしはけっしてさうしませんでした
あいつがなくなってからあとのよるひる
わたくしはただの一どたりと
あいつだけがいいとこに行けばいいと
さういのりはしなかったとおもひます

 注目すべきは、この最後の、二重括弧の中の言葉に地の文の言葉が反論している部分である。心象スケッチ集『春と修羅』では括弧が頻繁に用いられているが、その多くが、挿入される語り手の所感(「春光呪詛」など)、風景描写の補足(「丘の眩惑」など)である。
 異なる語りが相互に越境しあう関係になっているのはトシの死に関する作品のみであり、とりわけ、「あたらしくぎくっとしなければならないほどの/あんまりひどいげんじつ」とされるトシの死をどのように受けとめるかが問われている「青森挽歌」では、それまでは留保されていた、そもそも存在しない引用元への指示・参照の仕方こそが問題となる。つまり、〈あんまりひどいげんじつ=トシの死〉がここで新しく、了解不能なものとして賢治に見出されることとなったとき、その了解不能なものへの真正な接近方法とは、いったいどのようなものかが、「青森挽歌」およびそれ以降のいくつかの作品での主題となっている。
 愛する者の死における「まこと」とは何か。その最も確実な検証方法は、死んだトシ自身に尋ねることである。
かんがへださなければならないことは
どうしてもかんがへださなければならない
とし子はみんなが死ぬとなづける
そのやりかたを通って行き
それからさきどこへ行ったかわからない
それはおれたちの空間の方向ではかられない
感ぜられない方向を感じやうとするときは
たれだってみんなぐるぐるする

 作品の内容は死んだトシの痕跡を探り、死後のトシの姿やトシが今いる場所の情景を描く試みで構成されている。しかし作品の中ほどで、賢治はトシから受け取ったという通信について、「私のうけとった通信は/母が夏のかん病のよるにゆめみたとおなじだ」と言い、それが真正のものであると信じきれていない。また、死んだトシが「大循環の風よりもさはやかにのぼって行った」と言い、「わたくしはその跡をさへたづねることができる」と、トシが死後に見たであろう幻想的な風景が30行以上にわたって描写されるも、その美容者の最後には、「わたくしのこんなさびしい考は/みんなよるのためにでるのだ」とされ、「まこと」とは承認されない。
 死後のトシについて思考を巡らそうとする努力とそれを虚しいものと見なしてしまう否定的思考が交互に現れるという形で、心象スケッチは書き続けられ、その最後に二重括弧内の対話が出てくるのである。この問答の内容に注目すると、ここでも「まこと」の様態が演じられていることがわかる。
 「《おいおい あの顔いろは少し青かつたよ》/だまつてゐろ/おれのいもうとの死顔が/まつ青だらうが黒からうが/きさまにどう斯う云はれるか」の箇所では、真正性が死んでいくトシの顔色や眼の色の描写というありふれた正確さとされることが強く否定されている。「《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けっしてひとりをいのってはいけない》/ああ わたくしはけっしてさうしませんでした」では、先述の事実における対立とは対照的に、価値においての一致が表されている。
 トシは生前、賢治とともに法華経に入信した唯一の理解者であったが、賢治は彼女の死後、いよいよ法華経に傾倒する。それは、〈あんまりひどいげんじつ〉への真正の接近方法が、価値においての一致として見出され、その価値の内実として採用されているためであると考えられる。
 「青森挽歌」において新しく表れた要素現象、トシの死への接近方法は、この価値においての一致として受け入れられる。だが、賢治の作品史をたどれば、最終的にこの一致もまた、疑問視される。その疑問が中心的なテーマとなっているのが、「青森挽歌」の翌年、1924年の秋から書かれはじめた童話「銀河鉄道の夜」である。

4-3.「銀河鉄道の夜」――「まこと」への真正の接近方法

 これまで宮沢賢治の諸作品を、ヤスパース-ラカンの精神病論と併読することで、“異常な”賢治を、“異常な”私たちが理解・共感できるとはどういうことなのかを探ってきた。そのなかで、ある固定された症状の単位として賢治を考えるのではなく、賢治、そして私たちは、同時に複数の症状の、その形成過程を生きているのではないかという提起を行った。「要素現象」を複数もつことは、病気においては不可能であるが、人間においては不可能ではない。「要素」とはあくまでも症状の要素であり、人間の要素ではないからである。
 賢治の場合、その要素現象は、まず〈世界〉、そして〈あんまりひどいげんじつ=トシの死〉と名付けられうるものであった。この併存する要素現象を展開するメカニズムこそが、「まこと」、「ほんたう」などで示される真正性である。そのため、賢治の作品は、私たちにも、理解・共感しやすいものとなっている。
 それでは、賢治はその創作史の最後に、いったいどのような知見に至ったのか。それを考えるには、賢治童話の代名詞ともいえる「銀河鉄道の夜」が良い素材となる。同作は、賢治の死の直前まで、およそ9年間かけて改稿が繰り返されている作品で、三次稿から最終稿のあいだに非常に大きな改変が加えられている。「一、午后の授業」、「二、活版所」、「三、家」、そしてカムパネルらの溺死という箇所は賢治の最晩年に初めて付け加えられたものである。
 「銀河鉄道の夜」の初期形、いわゆる「ブルカニロ博士編」は、作品が「ケンタウル祭の夜」から始まり、「ジョバンニの切符」の終末部分が大きく変り、最終稿と結末が異なっている。「ブルカニロ博士編」において、カムパネルラの溺死は語られていない。そして、その代わりに、カムパネルラがいなくなったあとの銀河鉄道の車内に「黒い大きな帽子をかぶっ青白い顔の瘠せた大人」が現れ、次のようにジョバンニに告げる。
「けれどももしおまへがほんたうに勉強して実験でちゃんとほんたうの考えとうその考えを分けてしまへばその実験の方法さえへ決まればもう信仰も化学と同じやうになる。けれども、ね、ちょっとこの本をごらん、いいかい、これは地理と歴史の辞典だよ。この本のこの頁はね、紀元前二千二百年の地理と歴史が書いてある。よくごらん紀元前二千二百年のことでないよ、紀元前二千二百年のころにみんなが考へてゐた地理と歴史といふものが書いてある。だからこの頁一つが一冊の地歴の本にあたるんだ。いゝかい、そしてこの中に書いてあることは紀元前二千二百年ころにはたいてい本統だ。さがすと証拠もぞくぞく出てゐる。けれどもそれが少しどうかなと斯う考へだしてごらん、そら、それは次の頁だよ。紀元前一千年だいぶ、地理も歴史も変ってるだらう。このときは斯うなのだ。変な顔をしてはいけない。ぼくたちはぼくたちのからだだって考だって天の川だって汽車だってたゝさう感じてゐるのなんだから、そらごらん、ぼくといっしょにすこしこゝろもちをしづかにしてごらん。いゝか。」
 そのひとは指を一本あげてしづかにそれをおろしました。するとジョバンニは自分といふものがじぶんの考といへものが、汽車やその学者や天の川やみんないっしょにぽかっと光ってしぃんとなくなってぽかっとともってまたなくなってそしてその一つがぽかっとともるとあらゆる広い世界ががらんとひらけあらゆる歴史がそなわりすっと消えるともうがらんとしたたゞもうそれっきりになってしまふのを見ました。[……中略……]
「さあいゝか。だからおまへの実験はこのきれぎれの考のはじめから終りすべてにわたるやうでなければいけない。それがむづかしいことなのだ。けれどももちろんそのときだけのものでもいゝのだ」

 実験の方法さえ決まれば、信仰も化学と同じようになるという言明に、賢治が真正性として自然科学的な手法をイメージしていたことを読み取ることもできるが、より重要なのは、ここでは〈真正性そのもの〉への真正の接近方法が主題となっていることである。この主題はすでに、タイタニック号の乗客であった青年とジョバンニとのあいだの以下のような会話で表されている。
「あなたの神さまってどんな神さまですか。」青年は笑ひながら云ひました。
「ぼくほんたうはよく知りません、けれどもそんなんでなしにほんたうのたった一人の神さまです」
「ほんたうの神さまはもちろんたった一人です」
「あゝ、そんなんでなしにたったひとりのほんたうのほんたうの神さまです」
「だからさうぢゃありませんか。わたくしはあなた方がいまにそのほんたうの神さまの前にわたくしたちとお会ひになることを祈ります」
[……中略……]ジョバンニはあぶなく声をあげて泣き出さうとしました。

 さらに、先に2-2で引用したジョバンニとカムパネルラが互いに「ほんたうのみんなの幸」のために「どこまでもどこまでも一諸に行かう」と誓い合う場面のあとの会話。
「けれどもほんたうのさいわひは一体何だらう。」ジョバンニが云ひました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云ひました。
「僕たちしっかりやらうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力が湧くやうにふうと息をしながら云ひました。

 いずれも〈真正性そのもの〉への真正の接近方法が、銀河鉄道における別れのシーンで口にされている。これは、〈トシの死〉への真正の接近方法が主題であった「青森挽歌」とは異なる。最終稿で付け加えられる、ジョバンニの親友カムパネルラの死という事態は、「青森挽歌」におけるトシの死ほど過剰な意味づけがなされていない。なぜなら、ジョバンニはカムパネルラとの通信に、すでに成功しているからだ。「ジョバンニはそのカムパネルラはもうあの銀河のはづれにしかいないといふやうな気がしてしかたなかったのです」、「ジョバンニは思わずかけよって博士の前に立って、ぼくはカムパネルラの行った方を知ってゐますぼくはカムパネルラといっしょに歩いてゐたのですと云はうとしましたがもうのどがつまって何とも云へませんでした」という確信は、「青森挽歌」において、賢治は死んだトシとの通信の結果に尽きせぬ疑惑を抱いていたことと対象的である。
 逆に過剰な意味づけがなされているのは、それまで要素現象=存在しない引用元を症状へと展開するメカニズムであった、真正性そのものである。「ほんたうのさいわひ」をめぐるジョバンニとカムパネルラの対話、そしてセロのような声をした青白い顔の大人は一貫して推敲の対象となり続け、「ほんたう」は不明なものとして残る。
 ここにおいて、要素現象を展開させるメカニズムであった真正性が、要素現象そのものとなる新しい位相がある。賢治は、言うなれば、レベルの違う二つの症状を展開しているのである。

5.おわりに

 70年代のラカンが精神病論としてジョイスを扱うとき、いくつもの要素現象(=〈引用元〉)が可能となる「サントーム」、中心がないのに中心が無数にあるように見える「ボロメオの結び目」を提起したのは、まさに賢治のように、“病気でない人間”の話にならないからではないか。ラカンにおいては要素現象はシニフィアンのレベルで一元化されているが、それはやはり患者の治療のためと考えるのが妥当で、“病気でない人間”の「ふつうの精神病(psychose ordinaire)」を考えるうえでは、一人の人間における要素現象(〈存在しない引用元〉)の複数性を考える必要がある。このとき、精神病論において(あるいは、病跡学において)病気と人間は別のものとして切り離され、人間の精神の振れ幅をより深く理解する枠組みを示唆しはじめるのではないだろうか。


※  本論文は、日本ラカン協会「I.R.S. ジャックラカン研究」no.9/10号に掲載されています。
by warabannshi | 2013-02-20 21:38 | 論文・レジュメ | Comments(0)
「宮沢賢治と精神分析―奇妙さと隣り合うために―」【中編】
2-3.真正性が問題となる〈世界〉への接近方法

 賢治が化学や物理学、地質学、鉱物学などにも造詣が深かったこと。法華経の熱心な信者であり、日蓮主義の在家教団、国柱会に参加していたことは、よく知られている。ここから、科学者でもあり、宗教家でもあり、童話作家、詩人でもある宮沢賢治、という広く知られているイメージが培われるのだが、そもそも、賢治は自然科学や宗教という枠組みに何を求めていたのか。
 この問いの答を示唆するのが、未完成の短編童話「学者アラムハラドの見た着物」(1923)である。ある日、老学者アラムハラドは、彼の塾の学童たちに人間の本質を問う。そのとき、子どもたちがその本質を、二足歩行や言葉を話すことである、といった通俗自然科学に求めても、アラムハラドはその答えを認めない。そして、大臣の子が、饑饉がやむなら足を切っても惜しくないと宣言したとき、アラムハラドは涙し、正義を愛することこそが、人間の本質であると説く。
 しかし、そんな老師に対して、塾内で最も年少のセララバアドはこう答える。「人はほんとうのいいことが何だかを考えないでいられないと思います」。セララバアドのこの答に対して、しばし瞑目したアラムハラドは、「うん。そうだ。人はまことを求める。真理を求める。ほんとうの道を求めるのだ。人が道を求めないでいられないことはちょうど鳥の飛ばないでいられないとおんなじだ」と答え、「決して今の二つを忘れてはいけない。それはおまえたちをまもる。それはいつもおまえたちを教える。決して忘れてはいけない」と念を押す。
 やはりここでも表明されるのが、アラムハラドを通して語られる、賢治の、真正性への希求である。同短編のなかで、自然科学、宗教という枠組みは、どちらも「人間の本質」を吟味するために用いられている。
 しかし、賢治が「人間の本質」の吟味という目的のためにから考えれば、地質学や鉱物学の知識はその目的から外れている。むしろ次のように考えるべきだろう。賢治がその真正性を希求していたのは、〈世界〉への接近方法であったと。
 賢治はくり返し、『春と修羅』の作品を、詩ではなく「心象スケッチ」であると表明している。この心象スケッチには、制作年月日を入れることが常となっている。その理由について、「書簡200 森佐一あて」(1925年2月9日)で彼は、心象スケッチが「或る心理学的な仕事」のためのデータであるからだと述べている。「私がこれから、何とか完成したいと思って居ります、或る心理学的な仕事の支度に、正統な勉強の許されない間、境遇の許す限り、機会のある度毎に、いろいろな条件の下で書き取って置く、ほんの粗硬な心象のスケッチでしかありません」と。また、「書簡214a 岩波茂雄あて」(1925年12月20日)では、「六七年前から歴史やその論料、われわれの感ずるそのほかの空間といふやうなことについてどうもおかしな感じやうがしてたまりませんでした。〔心象スケッチは〕心もちをそのとほり科学的に記載したもの〔…〕厳密に事実のとほりに記録したもの」だと述べている。吟味されているのは、人間の本質だけでなく、歴史や空間も含めた〈世界〉であり、その正しい吟味の仕方、つまり〈世界〉への正しい接近方法こそが、一貫して求められている。

2-4.引用元としての〈世界〉

 ここでわざわざ〈世界〉とカッコに入れて表すのは、賢治においては、記録や歴史、あるいは地史などのデータよりも、「心象」が何よりも重要視されるからである。『春と修羅』の「序」(1924)では次のように述べられる。
これらについて人や銀河や修羅や海膽は
宇宙塵をたべ、または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから)

ところで、私たちは「世界」という言葉を理解するとき、いったい何をしているのだろうか。賢治が「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」と断言するとき、「世界」という言葉を理解したり共感したりする私たちは、何をしているのだろうか。
 判断の留保だ。「世界」という言葉は、それが結局のところどこからどこまでを指すのか、なぜその領域が世界と呼ばれうるのかについて、みずからの根拠づけを留保されている。
 それでは、判断を留保するとはどういうことか。フッサールは「エポケー」を「かっこに入れる(einklammern)」ことと言い直しているが、判断を留保するとは、かっこに入った当の言葉を、どこかの引用元から引用することに他ならない。賢治だけでなく、私たちは多くの場合、誰かがそう言っているところのさまざまな概念を引用していることを忘れたまま、それらの言葉を引用して=判断を留保して、使っている。
 それでは、かっこに入った言葉の引用元はどこなのか。ある言葉についてのそもそもの引用元、そんなものは存在するのだろうか。もちろん、存在しない。引用元がない場合、私たちは引用元を作ろうとする。言い換えれば、私たちは引用元から何かを引用してある言葉を語るのではなく、何もないところからある言葉を引用して、そのあとでその言葉の引用元を作る。この順番は逆ではない。賢治の場合、彼の表すさまざまな言葉の引用元は、〈世界〉と呼ばれるものであった。そして、賢治は、この引用元としての〈世界〉へと接近する方法、〈世界〉から引用する方法が「ほんたう」の方法であることに、非常にこだわるのである。
 引用元としての〈世界〉に、真正の方法で接近すること、真正の方法で引用することを求めるということは、ある特定の方法を真正のものとして絶対視するということではない。むしろ、その接近・引用の方法として、すでに広く敷衍している既定の回路(例えば、自然科学の法則や宗教の教義)をそのまま採用してよいのかという問いを、賢治は抱え込むことになる。
 例えば、童話「銀河鉄道の夜」最終稿の冒頭で、望遠鏡で天の川を見ると何に見えるかと先生に聞かれて、ジョバンニはそれが天文学的には星であるとわかっていても絶句する。
 ジョバンニも手をあげやうとして、急いでそのまゝやめました。たしかにあれがみんな星だと、いつか雑誌で読んだのでしたが、このごろはジョバンニはまるで毎日教室でもねむく、本を読むひまも読む本もないので、なんだかどんなこともよくわからないといふ気持ちがするのでした。
 ところが先生は早くもそれを見附けたのでした。
「ジョバンニさん。あなたはわかってゐるのでせう。」
 ジョバンニは勢よく立ちあがりましたが、立って見るともうはっきりとそれを答へることができないのでした。[……中略……]
「大きな望遠鏡で銀河をよっく調べると銀河は大体何でせう。」
 やっぱり星だとジョバンニは思ひましたがこんどもすぐに答えへることができませんでした。/blockquote>
 この場面には、引用元としての〈世界〉からの引用方法として、自然科学という方法を真正のものとして採用することへの躊躇が表れている。先の「学者アラムハラドの見た着物」においては、宗教的な自己犠牲が、〈世界〉への真正な接近方法とされることへの問いがセララバアドによって示されていた。
 もちろん賢治のすべての作品に、〈世界〉へと接近する方法、〈世界〉からの引用方法の真正さについての問いが通底しているわけではない。例えば、短編童話「やまなし」(1923)は、「小さな谷川の底を写した二枚の青い幻燈」という形をとることで、接近・引用の方法の真正性への問いに対して中立的な立場をとる。しかし、〈世界〉からの引用方法の真正さについて問い続けることが、多くの賢治作品に見られる特徴であるといえる。

3.宮沢賢治の作品と精神病論

3-1.ラカン―ヤスパースの精神病論

 宮沢賢治に対する病跡学的診断については、「躁うつ病」、「精神分裂病」、「てんかん性要因」、「緊張病」などがなされている。宮沢賢治作品の特徴として真正性に注目する本論は、河合博らをはじめとする「分裂病」説を採り、ラカンの精神病(Paranoïa)論を参考にする。
 松本卓也(2012)※1は、ラカンの精神病論がヤスパースの大きな影響を受けていることについて言及している。1955年から56年に行われた『精神病』のセミネールで、ラカンはヤスパースを批判しているが、彼自身が精神分析の診断において重要であるとして何度も言及する「基礎的現象(phénomène élémentaire)」は、ヤスパース『ストリンドベルクとファン・ゴッホ』他で言及される「原発性体験(elementares Phänomen)」に由来している。以下、phénomène élémentaire/elementares Phänomenについては訳語を「要素現象」で統一する。
 ヤスパースは、精神病の診断において、了解不能な体験が生じているかどうかを重視する。そしてこの体験が「(病的)過程(Prozess)」である場合には「要素現象」があるとは言う。なにがその要素的(elementar)なのかといえば、「幻覚(…が見える)」や「妄想(…と思う)」のようにはっきりした内容を持たず、無意味で無媒介な体験として与えられるもので、「根源的な力(Urgewalt)をもって精神へと侵入するもの」と言われている。
ヤスパースがあげる要素現象の特徴は以下の通りである。
1.先立つ心的体験から推論されえない。(原発性)
2.患者にとって直接的に体験される。(無媒介性)
3.意味の分からない体験としてあらわれる。(無意味性)
4.圧倒的な力を帯びた異質な体験として現れる。(圧倒性)
5.後の症状進展に対する基礎となる。(基礎性)

 ラカンは『精神病』のセミネールおよび「精神病のあらゆる可能な治療に対する前提的な問題」(1957)で、体系的妄想が「要素現象」という謎のシニフィアン、その明確な意味を知りえないが何かを指示していることはわかる「読めない外国語」のようなものが突然到来することによって発症することを強調する。突然到来した謎のシニフィアンは「一つの葉脈が植物全体へと発展=再生産されるような力」を孕み、そこから体系的妄想が生まれると考える。
※1 松本卓也,「『疎外と分離』からみた精神病」,臨床精神病理33,星和書店,2012年

3-2.要素現象としての〈世界〉

 この要素現象、「読めない外国語」に、先述の「引用元のない引用」の性質が相応する。何もないところから引用して、その引用元として〈世界〉を作る。そして、この要素現象としての〈世界〉は、賢治の精神に「根源的な力をもって侵入する」。
 この事態を、賢治の活動のキャリアから整理しよう。賢治は創作活動の初期から引用というプロセスに自覚的だった。賢治が、最初に採った表現形式は、短歌である。なぜ短歌なのか。心象スケッチ集『春と修羅』を、「これらはみんな到底詩ではありません」(「書簡200 森佐一あて」1925年2月9日)と言い、「〔詩のような〕いままでのつぎはぎしたものと混ぜられたのは不満でした」(「書簡214a 岩波茂雄あて」1925年12月20日)とこぼし、新しい表現形式の構想に意欲的であった賢治が、その文学的キャリアの最初に、なぜ短歌という、伝統的な、ある意味で古くさい表現形式を選んだのか。
 千葉(2003)は、もともと旧派桂園派の短歌が、「歌枕」という語があるように、古歌という先行作品を踏まえて成立する表現形式だったことに注目する。短歌は、引用というプロセス抜きには個々の作品が意味を持ちえない表現形式なのである。
 それだけではない。賢治の短歌研究においては彼の通った盛岡中学の先輩である石川啄木の影響が指摘されているが、賢治の短歌群は、啄木の叙情性の高いのものとは明らかに異質である。分類すれば、叙景歌になるのだが、それではアララギ派に近いのかといえば、それとも異なる。アララギ派が風景の観察として短歌を詠むのに対して、賢治は、観察した風景に逆に見られるという内容の歌ばかり詠むのである。以下は、歌稿A〔1912年4月〕からの抜粋である。
褐色のひとみの奥に何やらん悪しきをひそめわれを見る牛
ブリキ鑵がはらだたしげにわれをにらむつめたき冬の夕暮のこと
われ口を曲げ鼻をうごかせば西ぞらの黄金の一つ目はいかり立つなり
西ぞらのきんの一つ目うらめしくわれをながめてつとしづむなり
うしろよりにらむものありうしろよりわれらをにらむ青きものあり

 賢治の短歌にくり返し表れる、誰かに見られているという感覚に、自己関連づけを伴う妄想を読み取ることは無理なことではないだろう。
 短歌制作期の賢治において、〈世界〉という了解不能なものは不安の源泉であり、闖入するものであった。例えば、「書簡157 保阪嘉内あて」(1919年秋)における、「保阪さん。今日私の方の第一の関所はすっかりこわされ、あやしい軍勢がすさまじく湧きたって来ます。」/「保阪さん。今日私の方の第二の関所はすっかりこわされ、顔の漆黒な髪を被った軍勢は黒煙のやうに押し寄せます。」/「保阪さん。今日私の城はいつか地の底を堀って来た軍勢に充たされ私はある箱の中に入って身をひそめてゐます。」 という記述に見られるように。

3-3.症状を症状として形成するメカニズムの複数性

 しかし、それらの了解不能なもののいくつかは、次第に恩恵として、彼のなかで捉え直されていくことになる。『注文の多い料理店』「序文」(1924)では、次のように書かれる。
 これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。
 ほんとうに、かしわばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。
 ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでしょうし、ただそれっきりのところもあるでしょうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでしょうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。
 けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。

 「ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということ」を「虹や月あかりからもらってきた」と言い、あまつさえそれを「すきとおったほんとうのたべもの」と表現する。この変化をどのように解釈すればよいのだろうか。いや、賢治の了解不可能なものに対するこの態度の変遷を、不可解と見なすのは、そもそも内容が固定された、核となる症状があることが、私たちに前提とされているからではないだろうか。
もちろん、精神疾患の治療において、症状があるということは前提である。しかし、本論の目的は賢治の治療ではない。本論は、むしろ賢治が、内容が固定された症状を形成するその過程を生きたとみなす。そして、症状の形成過程にこそ注目する。
 心象スケッチ『春と修羅』を編む時期において、症状を症状として形成させるメカニズムこそが、賢治の場合は「まこと」、「ほんたう」として語られる真正性であり、端的に言って、それは自然科学と宗教であった。そして、要素現象、引用したあとで作られた引用先につけられる名前は、〈世界〉である。
 要素現象の症例症状の根源であるところの「要素現象」には、症状そのもののメカニズムが書き込まれているわけではない。つまり、要素現象が症状になるまでのメカニズムは、単一であるとは限らない。例えば、シュレーバーに置き換えれば、要素現象としての神と、メカニズムとしての創造を指摘することができる(だからシュレーバーは、創造を担う性、生み出す性として、女性化することになる)。
 要素現象が症状になるまでのメカニズムがあたかも単一のものであるかのようにヤスパースもラカンも書くのは〈ヤスパースは因果関係として、ラカンはシニフィアンの働きとして〉、ヤスパースもラカンも精神科医として、患者の治療が優先されるべき事柄であったという事情を加味する必要があるだろう。ヤスパースの場合は存在論的な、圧倒的な力が症状へと分化していくのを止めることによって。ラカンの場合は、「分化した症状(=体系的妄想)」がまず先にあり、そのあとで要素現象の圧倒的な力が、理論的な要請物として、“再”発見される。そして解釈者に転移を起こさせることで、症状を和らげるという手法がとられる。このような治療の理論化のためには、メカニズムはあくまでも単一のものである必要がある。

3-4.症状の形成過程を生きる

 宮沢賢治の諸作品や書簡を、ヤスパース-ラカンの精神病論の「要素現象」を手がかりにして読むにあたり、賢治はストリンドベリやシュレーバーほど、明確にパラノイアではないことについてふれておきたい。
先述のとおり、核となる症状が一つ、確固としてあれば、病気として明確に検出することができるが、賢治の場合はそうではない。だが、賢治は、症状が症状として形成される過程を生きていると考えればどうだろうか。この仮説は、宮沢賢治の作品にみられる“異常さ”に、なぜ“正常な”私たちは共感するのかという問いに呼応する。つまり、私たちもまた、ある言葉を何もないところから引用して、そのあとでその言葉の引用元を作るということを日常的に行っている。自分の言葉のそもそもの引用元として、〈他者〉を持ち出すことは容易であるが、その他者とはあくまでも後付されたものではないか。症状として形成されていないだけで、私たちが普段、行っている、言葉を話すという行為は、常に奇妙さと隣り合う。その構造を、賢治は精緻になぞる。なぜなら、言葉を話すことの奇妙さもまた、〈世界〉に含まれるものであるから。そのことが、彼の作品に私たちが引き起こされる共感の源の一つといえるだろう。
 さらに、要素現象は一つのものであるとは限らない。複数の要素現象が併存することも十分考えられる。この可能性が取り扱われないのは、要素現象が複数ある場合には、症状が症状として形成されえないため、治療の理論として不要とみなされたからだろう。
 しかし、賢治、そして私たちの多くは、むしろ複数の要素現象と、そこから生まれる複数の体系的妄想のあいだのダイナミクスを生きているのではないか。言い換えれば、私たちは、私たちの言葉のただ一つの作られた引用元を持つのではなく、複数の作られた引用元から、言葉を引用しているのではないだろうか。そして、症状が形成されるとは、たまたま要素現象が一つに限定される(作られた引用元が一つに限定される)ことにより、複数の体系的妄想のあいだのダイナミクスが失われるという事態なのではないか。
by warabannshi | 2013-02-20 21:36 | 論文・レジュメ | Comments(0)
「宮沢賢治と精神分析―奇妙さと隣り合うために―」【前編】
1.はじめに

 宮沢賢治がどのような精神疾患をわずらっていたのか診断する、というアプローチは、福島章らをはじめとした多くの先行研究にすでに多くみられる。そうであるならば、今日、宮沢賢治に関する病跡学的な研究は、〈宮沢賢治はどのような精神疾患をわずらっていたのか〉とあらためて問うよりも、〈賢治が精神疾患をわずらっていたとすれば、精神疾患とはいったい何か〉と問い直すほうが、より新しい発見を見出せるのではないか。先行研究が示す通り、宮沢賢治の“異常さ”は彼の創造性と強く関連している。賢治の精神疾患(躁うつ病、緊張病親和者、てんかん…)の特性と、創作活動や社会活動との因果関係は、すでに精緻な裏付けをもつ指摘がなされている※1。そこで本論は、賢治の“異常さ”の質を分析するのではなく、賢治作品を通じて“異常さ”の幅を広げることを目的としたい。つまり、宮沢賢治が何らかの精神疾患を抱えていて、その“異常さ”を原因の一つとして諸作品を創作したのであるとしたら、なぜ、ひとまず“正常”であるところの私たちは、その作品で示される価値や感情に対する共感が可能なのか、という問いを問う。そのことは、宮沢賢治と私たち自身の精神を理解する新しい枠組みを示唆してくれるはずである。
※1 杉林稔、高宜良「緊張病親和者としての宮沢賢治」日本病跡学雑,63,2002年

2. 宮沢賢治の作品の特徴としての、真正性への希求

2-1.宮沢賢治の受容のされ方

 宮沢賢治に関する研究本は、彼の生誕100周年を迎えた1996年をピークとして、現在も多くの量が刊行され続けている。2011年の東日本大震災の後には「雨ニモマケズ」(1933)が国内メディア、海外のチャリティーイベントでくり返し朗誦された。賢治の作品が熱を持って受容されたのは最近十数年のことに限らない。吉田司『宮沢賢治殺人事件』(1997) は、賢治の作品が日中戦時下において戦意高揚に用いられていたことを指摘している。例えば、1941年、賢治の「雨ニモマケズ」が満州建国大学のセリヨデキンによって、満州建国の理想を表すものとして朗読されている。
 一般的にそう思われている通り、賢治の作品において戦争は肯定されていない。しかし、事実として賢治の作品は祖国と生死をともにする精神を鼓舞するものとして機能したのである。賢治の作品の何が、私たちを高揚させうるのか。先の、「雨ニモマケズ」の「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」という祈念だろうか。それとも、「農民芸術概論綱要」(1926)の、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という断言だろうか。それらは、賢治の思想を表したものとして、“思想家としての賢治”を語るうえで外せないものとなっている。
 しかし、賢治は思想家なのだろうか。戦中、90年代、震災後のどの時期においても、賢治の作品の大がかりな受容が起こる時には、賢治は少なからず思想家として捉えられている節がある。しかし、千葉一幹『賢治を探せ』(2003) は、賢治を、思想家としてではなく、創作者として扱うべきだと主張する。なぜなら先の「農民芸術概論綱要」をはじめ、賢治の思想的宣言はじつのところ、国柱会の創始者・田中智学と、当時ベストセラーであった『文明の没落』、『土に還る』を書いた作家・室伏高信にそのほとんど依っているからだ。例えば、田中智学『世界統一の天業』(1904)の「世界の平和よりは、先づ一身の幸福をといふが、一身の幸福にも根がなくてはつまるまい、世界に平和の常なければ、一身の安寧幸福は根底より成り立たない。姑息の幸福は一種の禍である。禍の上に立って、その禍を自覚しないのは、眞に危険の大なるものである」という一節に、先の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という断言のルーツを見ることは難しくない。また、室伏高信の『文明の没落』や『土に帰る』は、羅須地人協会での農耕生活の実践などに大きな影響を与えている。賢治に思想家としてのオリジナリティはほとんどない。

2-2.キーワードとしての「ほんたう」

 このような背景にも関わらず、賢治の作品を読むとき“思想家としての賢治”のイメージを払拭することはむずかしい。そこには、彼の作品内に頻出する、「ほんたう」、「まことの」などの真正性に関わる語彙が関係している。同時代の他の作家と比べても、賢治作品のなかで、「まことの」、「ほんたうの」という真正性に関わる語彙は明らかに多い。しかもそれらの言葉が表れるとき、作品には極めて高揚した気分と、魅惑されている調子が混在することになる。例えば、彼の代表作ともいえる「銀河鉄道の夜」の終盤のジョバンニの独白。
「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一諸に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない。」
「うん。僕だってさうだ」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでゐました。

 あるいは、賢治が生前に唯一刊行した童話集『注文の多い料理店』に収録されている「鹿踊りのはじまり」の冒頭。
 そのとき西のぎらぎらのちぢれた雲のあいだから、夕陽は赤くななめに苔の野原に注ぎ、すすきはみんな白い火のやうにゆれて光りました。わたくしが疲れてそこに睡りますと、ざあざあ吹いてゐた風が、だんだん人のことばにきこえ、やがてそれは、いま北上の山の方や、野原に行はれてゐた鹿踊りの、ほんたうの精神を語りました。

 “思想家としての賢治”というイメージは、彼のこの真正性への強い志向によって裏打ちされているといえる。だが、その気分と調子は、ジョバンニの自己犠牲や、霊感を得る恍惚にとどまるものではない。真正性は、その最初期においては非常に奇妙なものとして、さらにいえば病的なものとして表明される。
 賢治は日記を書かなかったが、多くの書簡が残っている。「書簡154 保阪嘉内あて」(1919年8月20日前後)を読むと、賢治が「まことのことば」、「ほんたうのさいわい」というとき、その真正性が、決して平穏なものではないことがわかる。
幽霊が時々私をあやつって裏の畑の青虫を五疋拾はせる。どこかの人と空虚なはなしをさせる。正に私はきちがいである。諸君よ。諸君よ。
[……中略……]あなたはこんな手紙を読まされて気の毒な人だ。その為に私は大分心持がよくなりました。みだれるな。みだれるな。さあ保阪さん。すべてのものは悪にあらず。善にもあらず。われはなし。われはなし。われはなし。われはなし。われはなし。すべてはわれにして、われと云はるゝものにしてわれにはあらず総ておのおのなり。われはあきらかなる手足を有てるごとし。いな。たしかにわれは手足をもてり。さまざまの速なる現象去来す。この舞台をわれと名づくるものは名づけよ。名づけられたるが故にはじめの様は異ならず。手足を明に有するが故にわれありや。われ退いて、われを見るにわが手、動けるわが手、重ねられし二つの足をみる。これがわれなりとは誰が証し得るや。触るれば感ず。感ずるものが我なり。感ずるものはいづれぞ。いづちにもなし。いかなるものにも断じてあらず。

見よこのあやしき蜘蛛の姿。あやしき蜘蛛のすがた。

今我にあやしき姿あるが故に人々われを凝視す。しかも凝視するものは人々にあらず。我にあらず。その最中にありて速にペン、ペンと名づくるものを動かすものはもとよりわれにはあらず。われは知らず。知らずといふことをも知らず。おかしからずや、この世界は。この世界はおかしからずや。人あり、紙ありペンあり夢の如きこのけしきを作る。これは実に夢なり。実に実に実に夢なり。而も正しく継続する夢なり。正しく継続すべし。破れんか。夢中に夢を見る。その夢も又夢のなかの夢これらをすべて引き括め、すべてこれらは誠なり誠なり。善なり善にあらず人類最大の幸福、人類最大の不幸

 賢治はこの箇所の前に「私は邪道を行く。見よこの邪見者のすがた」とも表明しており、幻聴や譫妄に、恐怖しつつ魅惑されてもいる様子がうかがえる。また、この混乱した手紙の最後では、「夢中に夢を見る。その夢も又夢のなかの夢これらをすべて引き括め、すべてこれらは誠なり誠なり」と断じる。
 また、この書簡の前年に、同人誌『アザリア』に発表された初期短編「復活の前」(1918)もまた、対象への憐憫、他方での尋常でない狂暴さという不均衡のあとの、「私は馬鹿です、だからいつでも自分のしてゐるのが一番正しく真実だと思ってゐます、真理だなんとよそよそしくも考へたものです」という真正性の独白で終わる。
 賢治を生涯、駆り立てつづけたのは、この真正性であった。
 この真正性への強い志向がもっとも端的に表れているのは、後に検討する、賢治の改稿癖である。生前、刊行されたのは『春と修羅』(1924)、『注文の多い料理店』(同)の2冊のみであること。「風の又三郎」、「セロ弾きのゴーシュ」、「銀河鉄道の夜」など、現在広く読まれている賢治の童話作品は、すべて推敲途中のものであることを、ここで強調したい。未発表作品ばかりではなく、すでに出版された『春と修羅』も、彼自身の手による書き込みでさらに手が加えられていることも明らかとなっている。
by warabannshi | 2013-02-20 21:20 | 論文・レジュメ | Comments(0)
「宮沢賢治の病跡学的研究―〈まことのことば〉をめぐって」(第3章)
 宮沢賢治の諸作品を、ヤスパース-ラカンの精神病論と併読することで、“異常な”賢治を、“正常な”私たちが理解・共感できるとはどういうことなのかを探る話。いわゆる“患者”はある固定された症状の単位として考えられるけれど、賢治、そして私たちは同時に複数の症状を生きているのではないか。いや、症状を生きるというより、症状の形成過程を生きるという方が正しい。「要素現象」を複数もつことは病気においては不可能だけれど、人間においては不可能であるとは言えない(「要素」とはあくまでも症状の要素であり、人間の要素ではないから)。
 賢治の場合、その要素現象は「世界」、「あんまりひどいげんじつ(トシの死)」、「法華経」と名付けられうるものであった。そして要素現象を展開するメカニズムこそが、「まこと」「ほんたう」などで示される真正性だった。そのため、私たちにも彼の「体系的妄想」は理解・共感されやすい。
 それでは、賢治はその作品史の最後に、いったいどのような状態に至ったのか。それを考えるには、賢治童話の代名詞ともいえる「銀河鉄道の夜」が良い素材となる。同作は、賢治の死の直前まで、およそ9年間かけて改稿が繰り返されている作品で、三次稿→最終稿で非常に大きな改変が加えられている。つまり、最終稿において初めて加えられた、「一、午后の授業」、「二、活版所」、「三、家」、そしてカムパネルらの溺死という箇所(cf.銀河鉄道の夜・原稿の変遷http://t.co/EsVi9q5Q)に注目することで、賢治が死の直前において主題歌していたことを明らかにする。

 「銀河鉄道の夜」の初期形、いわゆる「ブルカニロ博士編」は、作品が「ケンタウル祭の夜」から始まり、「ジョバンニの切符」の終末部分が大きく変り、最終稿と結末が異なっている。カムパネルラの溺死は、語られていない。 http://t.co/U6BtUU2R
 「銀河鉄道の夜」の最終形で加えられた三つの章は、いずれもジョバンニが銀河鉄道に乗る前(夢に入る前)にある。さらに四章、五章、六章には、削除された箇所が多々ある。そして、最後にカムパネルラの溺死が告げられる。 http://t.co/A43KxfEq
 最終稿の追加箇所としては、ジョバンニの溺死の方につい注目してしまうけれど、新しい作品の冒頭が、「ではみなさんは、さういふふうに川だと云はれたり、乳の流れたあとだと云はれたりしてゐたこのぼんやりと白いものがほんたうは何かご承知ですか」という先生の台詞で始まることにまずは注目したい。
 自筆原稿を見ると、じつはこの台詞の「では」は、新しく書き加えられたものだとわかる。また、次の「さういふふうに川だと云はれたり、〔…〕このぼんやりと白いものが、ぼんたうは」は、「あのぼんやりと白くがかる、銀河が」が、部分的手入れののちにいったんすべて消された後に置き換えられたものであることがわかる。
 ※入沢康夫監修・解説『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」の原稿のすべて』 には、「銀河鉄道の夜」の生原稿83葉がカラー写真で収録されている。Amazonを含め、一般書店では発売されていない。岩手の賢治関係の施設・土産店などに置かれている限定品。1700円。
 冒頭の先生の台詞の推敲で際立つのは、「では」と「さういふふうに」という二つの語句。いずれも、先生の授業がこの第一行によってはじまったのではなくて、第一行の〈その前〉があることを示す。賢治は、なぜ、ここをもって第一行としたのか? この問いを考えるうえで、再び、要素現象の話に戻る。
 くり返すとおり、これまで「要素現象」の性質を、〈引用元のない引用〉(http://t.co/42PlOvhr)として、〈何もないところから引用して、その引用先として世界を作る現象として〉位置づけてきた。賢治は、この〈引用元としての世界〉に、真正の回路でアクセスすることを求める。しかし、〈引用元〉は、「世界」や「トシの死」や「法華経」という語に置換することができても、それ自体を書きようがない。〈引用元〉は、要素現象として対象化することができない。対象化されるのは、あくまでも、「世界」や「トシの死」などの代替物の方だ。
 〈引用元=誕生〉の不思議は、これまでも童話作品において、風によって運ばれてきた物語を聴く、という形で示されてきた。「銀河鉄道の夜」の最終形の冒頭もまた、この不思議を扱っている。そして、この不思議を際立たせるのが、やはり最終稿によって加えられた、カムパネルラの溺死である。

 原稿の推移(http://t.co/EsVi9q5Q)第81葉の、級友マルソがかけ寄ってささやいた「カムパネルラが川へはいったよ」という報告は、「水へはい」、「落ちた」が消されたあとにあり、「カムパネルラが見えないんだ」も「見えなかったんだ」の消去の後にある。死についての時制。また、第82葉の「ジョバンニはすぐそこらの波の間から、「ぼくずゐぷん泳いだぞ。」と云ひながらカムパネルラが出てくるやうな気もしたり」も、「みんなはまだ、どこかの波の間から、「ぼくずゐぶん泳いだぞ。」と云ひながら〔…〕気がして仕方ないらしいのでした」と想像する主体が変更されている。
 いずれせよ、カムパネルラの死がどのように伝えられるか、あるいは誰が想像するかについて、集中的な推敲がなされている。しかし、カムパネルラの死という事態は、「青森挽歌」におけるトシの死ほど過剰な意味づけがなされていない。なぜか。ジョバンニはカムパネルラとの通信に成功しているからだ。「青森挽歌」においては、賢治は死んだトシとの通信に失敗していた。その裏返しのように、「ジョバンニはそのカムパネルラはもうあの銀河のはづれにしかいないといふやうな気がしてしかたなかったのです」という確信をえている。「銀河鉄道」では、むしろ〈死〉によって〈誕生〉がうかがわれている。
 逆に過剰な意味づけがなされているのは、それまで要素現象=〈存在しない引用元〉を症状へと展開するメカニズムであった、真正性である。「ほんたうの幸福」をめぐるジョバンニとカムパネルラの対話、そしてセロのような声の大人は一貫して推敲の対象となり続け、「ほんたう」は不明なものとして残る。

 ここに、要素現象を展開させるメカニズムの名前であった「ほんたう」が、要素現象そのものとなる新しい位相がある(「ほんたう」の意味不明さについての考察の萌芽はすでに「学者アラムハラドの見た着物」にあった)。賢治は、言うなれば、レベルの違う2つの症状を展開している。
 70年代のラカンが精神病論としてジョイスを扱うとき、いくつもの要素現象(=〈引用先〉)が可能となる「サントーム」、中心がないのに中心が無数にあるように見える「ボロメオの結び目」を提起したのは、まさに賢治のように、“病気でない人間”の話にならないからではないか。ラカンにおいては要素現象はシニフィアンのレベルで一元化されているが、それはやはり患者の治療のためと考えるのが妥当で、“病気でない人間”の「ふつうの精神病(psychose ordinaire)」(cf. http://t.co/3P5Qc8dp)を考えるうえでは、一人の人間における要素現象(〈存在しない引用元〉)の複数性を考える必要がある。このとき、精神病論において(あるいは、病跡学において)病気と人間は別のものとして切り離され、人間の精神の振れ幅をより深く理解する枠組みを示唆しはじめるのではないだろうか。
by warabannshi | 2012-07-31 19:29 | 論文・レジュメ | Comments(0)
「宮沢賢治の病跡学的研究―〈まことのことば〉をめぐって」(第2章)
 宮沢賢治の諸作品や書簡を、ヤスパース-ラカンの精神病論の「要素現象(phénomènes élémentaires, elementares Phänomen)」を手がかりにして読むことの続き。
 賢治はストリンドベリやシュレーバーほど、明確にパラノイアではない。“症状の形成過程”。核となる症状が一つ、確固としてあれば、病気としてきれいに検出することができるが、症状を生み出す「要素現象」が一つであるとは限らない。また、要素現象が症状になるまでのメカニズムは、単一であるとは思えない。ヤスパースは因果関係、ラカンはシニフィアンとして一元的に書いているけれど、それはヤスパースもラカンも精神科医で、患者を治すことが先決だったから。ヤスパースの場合は存在論的にある圧倒的な力が症状へと分化していくのを止めることによって。ラカンの場合は解釈者に転移を起こさせることで、症状を和らげる。
 ※ラカンの場合は、「分化した症状(=体系的妄想)」がまず先にあり、そのあとで要素現象の圧倒的な力が、理論的な要請物として、“再”発見される。結局のところ、力については、「なにかがあるのは(生き生きとした体系的妄想があるのは)わかっているけれど、どこから来たのかはわからない」まま。
 でも、賢治、そして私たちの多くは、むしろ複数の要素現象(とそこから生まれる体系的妄想)のあいだのダイナミクスを生きているのではないか。たまたま要素現象が一つに限定される(あるいはとりわけ鮮烈な一つがある)ことにより、“ハンドルの遊び”がなくなることで、症状となるのではないか。くり返すとおり、賢治が何らかの精神疾患を抱えていたと診断する病跡学の先行研究をふまえると、“異常な”賢治が創作活動をなしえたことよりも、むしろ“正常な”私たちが、“異常な”賢治の作品を理解し、共感できる、ということこそが、より一層、多くを考える材料になるように思う。

 私たちが賢治を理解・共感できるのはなぜか、という問いを考えるうえでの仮説が、「賢治の要素現象は彼においては「世界」と呼ばれ、それ症状の形成へと展開させるメカニズムが「まこと」「ほんたう」などの真実性であった」。事実、賢治が真実性を語るとき、そこには異様な美しさと緊張がある。
 前にも紹介した、「書簡154」http://t.co/kxbTs26tの、「夢中に夢を見る。その夢も又夢のなかの夢これらをすべて引き括め、すべてこれらは誠なり誠なり。善なり善にあらず人類最大の幸福、人類最大の不幸」で終わる混乱した独白。同時期に書かれた童話「貝の火」の火の魅惑。
 「貝の火が今日ぐらい美しいことはまだありませんでした。それはまるで赤や緑や青や様々の火がはげしく戦争をして、地雷火をかけたり、のろしを上げたり、またいなずまがひらめいたり、光の血が流ながれたり、そうかと思うと水色の焔が玉の全体をパッと占領して…」、この宝石のモチーフは生涯見られる。真実性の魅惑と緊張が凝縮されているのが、「書簡165」http://t.co/b5dg1zcHのこの部分。「私は殆んど狂人にもなりさうなこの発作を機械的にその本当の名称で呼び出し手を合せます。人間の世界の修羅の成仏。そして悦びにみちて頁を繰ります。本当にしっかりやませうよ」。
 この緊張は、「何かがあるのはわかっているけれど、それがどこから来たのかはわからない」というあり方で賢治の書簡でくり返される。また、賢治の作品の多くが、どこかから飛来してきたものとして扱われる(cf.「鹿踊りのはじまり」、「氷河鼠の毛皮」、『注文の多い料理店』「序文」)。
 「誕生がわからない」という緊張が症状として表れる場合、緊張を和らげるために媒介項(他の原理)を導入が行われる。例えば、解釈など。解釈者に転移を起こさせて、症状を緩和させることもある。しかし、賢治の場合はこの媒介項を拒絶する。当然だ。賢治は症状を形成している最中なのだから。賢治はあくまでも「それがどこから来たのか」の真正性を考え続けた。彼の作品にはこの問いが鮮明に表れる。要素現象(〈引用元〉)が「世界」なので、この問いを問うための回路としては、自然科学と法華経(宗教的価値)が選ばれることとなる。

 しかし、1922年12月、賢治のもとに新しい要素現象が到来する。最大の理解者であった妹トシの死である。「青森挽歌」(http://t.co/MEwOUgRq)の内容は題名の通り、死んだトシの哀悼である。注目すべきは、その最後の部分、二重括弧の中の言葉に地の文の言葉が反論している。心象スケッチ集『春と修羅』(http://t.co/IuMOo9HP)では括弧が頻繁に用いられているが、その多くが、挿入される語り手の所感(cf.「春光呪詛」)、風景描写の補足(cf.「丘の眩惑」)。異なる語りが相互に越境しあう関係になっているのはトシの死に関する作品のみ。とりわけ、「あたらしくぎくっとしなければならないほどの/あんまりひどいげんじつ」とされるトシの死をどのように受けとめるかが問われている「青森挽歌」では、それまでは留保されていた、〈そもそも存在しない引用元〉(つまり要素現象としての「世界」)への指示・参照の仕方こそが問題となる。

 愛する者の死における「まこと」とは何か。その最も確実な検証方法は、死んだトシ自身に尋ねることである。「かんがへださなければならないことは/どうしてもかんがへださなければならない/とし子はみんなが死ぬとなづける/そのやりかたを通って行き/それからさきどこへ行ったかわからない/それはおれたちの空間の方向ではかられない/感ぜられない方向を感じやうとするときは/たれだってみんなぐるぐるする」と書かれるとおり、作品の内容は死んだトシの痕跡を探り、死後のトシの姿やトシが今いる場所の情景を描く試みで構成されている。しかし作品の中ほど、賢治はトシから受け取ったという通信を信じきれていない(「私のうけとった通信は/母が夏のかん病のよるにゆめみたとおなじだ」)。また、この箇所の後の死んだトシの描写も、「わたくしのこんなさびしい考は/みんなよるのためにでるのだ」とされ、「まこと」とは承認されない。
 死後のトシについて思考を巡らそうとする努力とそれを虚しいものと見なしてしまう否定的思考が交互に現れるという形で、心象スケッチは書き続けられ、その最後に二重括弧内の対話が出てくるのである。この問答の内容に注目すると、ここでも「まこと」の様態が演じられていることがわかる。
 「《おいおい あの顔いろは少し青かつたよ》/だまつてゐろ/おれのいもうとの死顔が/まつ青だらうが黒からうが/きさまにどう斯う云はれるか」の箇所では、真実性が死んでいくトシの顔色や眼の色の描写というありふれた正確さとされることが強く否定されている。「《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けっしてひとりをいのってはいけない》/ああ わたくしはけっしてさうしませんでした」では、先述の“事実における対立”とは対照的に“価値においての一致”が表されている。賢治が傾倒した法華経は、まさにこの“一致点”の内実として採用されている。

 「青森挽歌」はこの“価値における一致”で終わる。だが、賢治の作品史をたどれば、最終的にこの“一致”もまた疑問視される。それが、「青森挽歌」の翌年、1924年の秋から冬にかけて初稿が書かれた「銀河鉄道の夜」の最終稿である。
by warabannshi | 2012-07-31 12:22 | 論文・レジュメ | Comments(1)
「宮沢賢治の病跡学的研究―〈まことのことば〉をめぐって」(第1章)
 宮沢賢治に対する病跡学的診断については、「躁うつ病」(福島章他)、「精神分裂病」(津本一郎他)、「てんかん性要因」(老松克博他)、「緊張病」(杉林)などがなされている。ここでは河合博らをはじめとする「分裂病」説を採り、ラカンの精神病(Paranoïa)論を参考にする。
 ラカンの精神病論がヤスパースの大きな影響を受けていることについてはこちら(http://t.co/xLbyn4tl)を参照。『精神病』のセミネールで、ラカンはヤスパースを批判しているが、彼自身が精神分析の診断において重要であるとして何度も言及する「基礎的現象」は、ヤスパース『ストリンドベルクとファン・ゴッホ』他で「原発性体験」に由来している。原語のphénomène élémentaireとelementares Phänomenを比べると一目瞭然。(cf.松本卓也「「疎外と分離」からみた精神病」臨床精神病理、2012)
 ヤスパースは、精神病の診断には、了解不能な体験が生じているかどうかを重視。そしてこの体験が「(病的)過程(Prozess)」である場合には「要素現象(elementares Phänomen)」があると言う。なにがその要素的(elementar)なのかといえば、「幻覚(…が見える)」や「妄想(…と思う)」のようにはっきりした内容を持たず、無意味で無媒介な体験として与えられるもので、「根源的な力(Urgewalt)をもって精神へと侵入するもの」と言われている。付言すると、根源的というのは、“病気の”根源であって、“人間の”根源ではない。

要素現象の特徴:
1.先立つ心的体験から推論されえない(原発性)
2.患者にとって直接的に体験される(無媒介性)
3.意味の分からない体験としてあらわれる(無意味性)
4.圧倒的な力を帯びた異質な体験として現れる(圧倒性)
5.後の症状進展に対する基礎となる(基礎性)


 ラカンは体系的妄想が「要素現象(phénomène élémentaire)」という謎のシニフィアン(その明確な意味を知りえないが何かを指示していることはわかる「読めない外国語」のようなもの)が突然到来することによって発症することを強調する。(cf.「精神病のあらゆる可能な治療に対する前提的な問題」1957)突然到来した謎のシニフィアンは「一つの葉脈が植物全体へと発展=再生産されるような力」を孕み、そこから体系的妄想が生まれると考える。

 前に言及した〈引用元のない引用〉(http://t.co/42PlOvhr)の性質が、この要素現象、「読めない外国語」。何もないところから引用して、その引用先として世界を作る。…これはじつのところ、症状として形成されないだけで、私たちが普段に行っていることではないだろうか。

 賢治はこの〈引用〉というプロセスに初期から自覚的だった。賢治が、最初に採った表現形式は、短歌。もともと短歌は「歌枕」という語があるように、古歌という先行作品を踏まえて成立する表現形式だった。(この旧派桂園派の短歌に対して、革新運動を行ったのが、写実主義を標榜した正岡子規たち)
 賢治の賢治の短歌群は、盛岡中学の先輩・石川啄木の叙情性の高いのものとは異質の叙景歌ばかり。それではアララギ派に近いのかといえば、決定的に違う。アララギ派が風景の観察として短歌を読むのに対して、賢治は観察した風景に逆に見られる(吹き込まれる)という内容の歌ばかり詠む。例えば歌稿A〔明治45年4月〕(http://t.co/YDeF3KUI)にくり返し表れる、誰かに見られているという感覚(「ブリキ鑵がはらだたしげにわれをにらむつめたき冬の夕暮のこと」など)に、自己関連づけを伴う妄想を読み取ることができる。
 短歌制作期の賢治においては、了解不能なものは不安の源泉であり(「うしろよりにらむものありうしろよりわれらをにらむ青きものあり」)、闖入するもの(「書簡157」http://t.co/6MllbTrD)であった。が、そのいくつかは次第に恩恵として、彼のなかで捉え直されていく。
 『注文の多い料理店』「序文」(http://t.co/b6rQQ365)では、「ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということ」を「虹や月あかりからもらってきた」と言い、あまつさえそれを「すきとおったほんとうのたべもの」とさえ表現する。この揺れをどのように解釈すればよいのだろうか。

 しかし、この賢治の了解不可能なものに対する態度の変遷を、揺れ、と考えるのは、そもそも「内容が固定された、核となる症状がある」ということが前提とされているからだ。もちろん、症状があるということを前提にしないと治療者は何もできないのだが、自分の目的は賢治の治療ではないので、ここではむしろ賢治は「内容が固定された症状」を形成するその過程にあったと位置づける。それでは病跡学的手法はそもそも使えないのではないか? しかし症状の根源であるところの「要素現象」には、症状そのもののメカニズムが書き込まれているわけではない。症状の形成過程にこそ注目する。
 この症状を形成させるメカニズムこそが、賢治の場合は「まこと」「ほんたう」として語られる真実性。要素現象(〈引用〉)につけられる名前は、「世界」。…これは、シュレーバーに置き換えれば、要素現象としての「神」と、メカニズムとして「創造」になる(だからシュレーバーは女性化する)。
by warabannshi | 2012-07-31 02:25 | 論文・レジュメ | Comments(0)



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