カテゴリ:塩谷賢発言集( 23 )
「塩谷賢の哲学道場」@哲学塾カント 第2回ノート まとめメモ
2015年3月27日 テーマ:「知ることは力である」とはどういうことなのか?


・「知は力なり」と言ったのはフランシス・ベーコンだけど、これ、賛成する方はどのくらいいます。反対の方。よく分かんない方。うん、正直でよろしい。では、なぜ力だと思うんだろう。その場合の力って何だ。どういう条件では、知が力になるんだろう。
・例えば小学生くらいにこういう話を多分すると、頭のいいやつは学校で偉そうに見えるから知は力ですとか、単純な話になるわけだけど、前回話したジャレド・ダイヤモンドの話の中で、どうしてスペインのピサロがインカ帝国を滅ぼせたのかという話を思い出してください。
・山の中をてくてく歩いていって、食い物もろくにない。人数もせいぜい200人、馬も30頭くらい。インカ帝国の方は2万人くらいいたらしいですが、一発で勝ってしまった。いろんな要因はあるんですけど、一つはインカ帝国のほうは、ピサロたちが何者であるか全く知らなかったんことにあります。
・一方、ピサロ側はある程度の情報は伝聞で知っているわけです。新大陸に行くと、こういうことがあるよね。こういう話があるよね。こういうやつらが居るよねという形で、前もって備えができるわけです。知識にもとづいて準備をすることができる、そういう意味で、知は力だということが、まずできます。
・自然が相手になったときも同じことが言えます。日本語だと「自ずから然り」と書いてますけど、ラテン語だとnaturaです。これには、本性とかいろんな意味があるわけです。本性って何だろうというと、そいつがそいつであるための本質ですよね。
・自然というのは、人間にとって必ずしも良いもんじゃないわけです。食べ物がいつもあるとは限らない。不測の事態ということはいつでも起きる。例えば、漁師の「板子一枚下は地獄」って諺がある。自然っていうのは何が起こるか分かんないわけですよ。なぜか。われわれじゃないんだよ、自然は。
・自然自身が好き勝手やってるわけですよ。人間の思惑に従ってやってるんじゃなくて、そいつ自身の内から湧き出るものによって、そういうふうに振る舞ってる。本性としてね。それは私の本性じゃない。だから自然を知ることで、様々な事態に対処することができるようになる、楽になるわけです。
・相手を知るっていうことは、相手に対処をするための準備ができることです。これはすごいアドバンテージなわけよ。でも相手が分かんない場合もあるわけね。そもそも準備ができるってことは、相手はまだ不在なわけですよ。居ないのにどうして相手を同定できるんだ。まだ居ないのに。
・しかし、相手が不在なのに準備をするっていう形でしか、われわれは準備できないんですよ。そうすると、相手というのは、本当に今ここにある個的な現実(あんまりいい言い方じゃないですけど)ではないわけよね。だって居ないんだもん。だから、名前とかパターンとかを使わざるをえないわけです。
・名前もパターンも「同じもののくり返し」なわけですよね。抽象化して、適宜こういう形をやって、相手が居ない、不在な状況でも使えるようにするわけ。戦争と自然への対処の話をしましたが、交易でもそうですね。物々交換でもいいんですよ。何かと取り換えるためには、何を準備しておけばよいか。
・山の民と海の民が交易をするとき、例えば山の民は衣服になるような繊維を持って来る。海の民は食える魚を用意する。でも前と同じ繊維を持って来るかどうか分からないし、相手が何を欲しがるか分かんないわけね(マグロばっかり食いたいやつかもしれないし、マグロが嫌いかもしれない)。
・そのとき、マグロもタイもイワシも「魚」って言葉で処理しちゃうわけ。「魚」と「繊維」を交換しようって。この一般化を続けていくと、相手が誰でも使える「お金」になる。準備するためには相手を特定しなければならないという条件を、どれだけ緩めていくかっていうことが、我々にはあるわけよ。
・これは真理っていうことの一つの側面でもあるわけですよ。いつでもどこでも正しい。いつでもどこでも正しいから、いつでもどこでも使い、いつでもどこでも何に対しても準備できる。
・そういう形で言うと、名前というのが、非常に引っかかるわけですよ。この名前というのは何なのか。
 名前には、固有名と一般名というのがあります。固有名っていうのは、それしか指さない。今ここに居ないけど、太田和彦って人がいて、この固有名は彼しか指さない。まあ、同姓同名ってこともあるけれど。
・一般名の場合は指すものが幾つもある。でも、指すものが幾つもあるっていうけれど、そこではある種の指し方のパターンとか指されるものの範囲が決まっているわけです。じつは固有名っていったって、ある固有名を有している人がずっと同じかどうかって分からないわけですよ。
・一般名の場合は、その名前を当てはめることができる、ものを集める範囲や同じものと見なせるパターンの範囲っていうのが問題になります。この、言語的な名前が持ってる範囲って、実は極めて独特な形なの。
・名前っていうのは、決して物質的な形で固定されない。例えば、言語を越えても翻訳ができる。犬とdogはだいたい同じものを指します。でも、違いもある。昔はクジラは「勇魚」と言われて魚でしたが、いま私たちはクジラを魚とは見なしません。にもかかわらず、同じように魚と言えてしまう。
・一般名を使うっていうことは、全てを前もって知るわけにはいかない曖昧なものに対処しようとすることです。それはさっき言った、相手の本性(natura)を知ろうとすることでもあります。
・相手の本性を名前を通して知ろうとするっていうのは、相手の本性を名前という形で、分類できるものとして、ひとまとまりのものとして知ろうとするということであり、じつはこれは概念というもののかなり大きい側面です。
・前回も言ったとおり、哲学を語るのはラテン語という唯一の言葉だった。特にキリスト教と融合した後は。ギリシャでも、本当のことを言うと、やっぱり自分たちの使っている言葉を特別視したわけね。周りの連中、要するに野蛮人(バルバロイ)っていうのは違う言葉をしゃべるやつらだって意味だから。
・一種類の言葉によって世界を知ろうとするとき、名前はその言葉の体系の中で、まさに一つのものを指すかのように思われるわけです。だから名前をつけること、その概念について知ることが、名付けられた相手の本性を知るというふうになったわけですよ。
・さて本当にそういう形で、相手の本性をつかまえることができるんでしょうか。この相手の本性をつかまえるということは何のためにしてるか。準備して対処するためにしてるんだよね。相手の出方が分かんないときに、どういう準備をするか。
・例えば、デパートにポケットに財布つっこんで行くとするじゃない。何を買うかは決めていないけれど、デパートに行けば必ず品物がある。でも、時期のソ連では、デパートに行っても何もないわけですよね。店員はいるが品物はない。つまり、お金があっても、買い物ができる保証はないわけですよ。
・私たちはお金があればなんとかなるだろうと思っていますが、そんなこともない。さて、ここでわれわれが知るというときに、しかも哲学という知り方をするときによく出てくる問題が現れます。知ったことを、どうやって何に使うんですか、あんたらはと。
・最近、宇宙の始まりの構造はどうなってこうなってという研究をしていると言われるわけですよ。「それが何の役に立つんですか」「それに対して何十億円っていう予算をつけていいんですか」とか。それに対して、ああだこうだとみんないろいろと言い訳するわけね。
・でもその問いは一定の意味を持つように聞こえるわけ。そもそもなんで学問をやって金をもらえるのか。昔は金なんかもらえなかったわけですよ。ギリシャの連中は自分で経営してたから。別にアゴラで議論して金をもらってたんじゃないからね。では、『饗宴』でされているような議論は何のためなのか。
・ひとつは、新しい知識を得るってことが喜ばしいからです。それがあるから、朝日カルチャーセンターとか行くんだよね、基本的には。でも、それは銀行通帳にお金が溜まっていくのを見る楽しさと、どういうふうに違うんでしょう。
・もちろん、お金は即物的だし、知識は即物的じゃないっていう言い方あるかもしれないけど、使うっていう話から考えたら、そこはどっかつながってるんじゃないですかね。
 でも、やっぱり何か知識を特別扱いしたくなるのは、われわれが使っている知識、言葉というやつに影響されていくからです。
・じつのところ、ある言葉が、世界の組織のされ方、つながり方と一致しているという保証はどこにもない。われわれが一致しているだろうと思っているだけですよ。ネルソン・グッドマンのグルーのパラドクス(*)とかが示唆的ですが。
・つまり、われわれの準備の仕方は、準備の仕方のその来歴によってるわけですよ。でもその来歴によってるってことが、個々の相手に対して全部当てはまるっていう保証はどこにもないわけ。
・大体は合ってることは間違いない。でも、それは中島さんがよく言うように、明日世界がないかもしれないって可能性を考えるのが哲学だとすれば、ずっと準備してたからっていって、それがそのままいつでもいけるって保証はない。
・それにもかかわらず、哲学は真理ってことを伝統的にやってきた。だから、知は力なりっていう言葉は、相手がどうであるかということを無視して、こちらがこういうふうに相手を見てること、それが世界の真実、真理であると述べてしまうことができるという意味でも、知は力なんですよ。
・だから、対処するっていう形の「知は(手段としての)力なり」と、そしていま言った「知は(自分/相手を変化・改定させる)力なり」という2つの意味があるわけです。これは両方ともフィードバックのなかに見出すことができます。
・準備をする→相手が来る→対処をする→その結果をふまえて自分の準備の仕方を改定するという一連の流れをフィードバックといいます。フィードフォワードというのもあります。これは相手が来ないまま、これをどんどんつくり上げていく、抽象化をしていく場合です。
・フィードフォワードっていうのは、ある意味で自分の妄想の中を突っ走るわけ。これは「知は(自分/相手を変化・改定させる)力なり」が極端に働いた場合です。フィードフォワードというのは単純に間違ってるわけではないです。相手を待たないからものすごい効率がいいわけ、当たればね。
・フィードバックっていうのは相手っていうのが必ず必要なんですよ。ところが、フィードフォワードは、1人でいいんですよ。知を極めていき、概念でやっていき、ものごとの本性を見るという形で哲学ということに対するある種の完全論的な立場を立つと、どんどん後者に近くなる気がしませんか。
by warabannshi | 2016-01-08 09:06 | 塩谷賢発言集 | Comments(0)
塩谷さんお薦めの京都スポット
 「シンポジウムに登壇していただくために招聘したアメリカの研究者に京都(9月)を案内したいのですけれど」と塩谷さんに相談した結果、お薦めいただいたスポットの備忘メモ。未加工。いずれ京都の地図にプロットしたい。

・大徳寺(大仙院、高桐院)→今宮神社&〔あぶり餅 かざりや〕→上賀茂神社→〔イノダ珈琲〕で休憩→妙心寺(「瓢鮎図」;禅問答の解説)→予算があれば〔阿じろ〕で休憩
・三十三間堂→養源院(血天井)→智積院
・金閣寺→竜安寺
・相国寺→うどん
・二条城→神泉苑
・平安神宮(後ろから入る)
・京都御所(修学院予約)
・苔寺(要予約)
・嵐山の川下り
・東福寺

=食事処+おやつ=
・鰻@祇園う
・東寺どら焼き@笹屋伊織
・からいた煎餅@水田玉雲堂
・豆大福@出町ふたば
・大徳寺納豆@大徳寺
・南禅寺の豆腐
・鴨川納涼床
・中東(完全予約)
・四条烏丸に庶民的な店多し
☆菱岩(日本風弁当:新幹線のなかで食べられる。要予約。11時30分から販売)

=京都大近くのシンポジウム後に10人くらいで使える飲み屋=
門、おむらや、もぐらの宴
by warabannshi | 2015-11-22 13:34 | 塩谷賢発言集 | Comments(0)
「塩谷賢、哲学を語る」@哲学塾カント 第1回「哲学は学問か?」 #02

 その前に断っておいたほうがいいや。まず、学問とは、という話をやったときに、同時に私は学者かという問いがあるはずだよね、真面目に考えて。学問というのは普通、学者の専門領域だということを普通みんな理解してますよね。つまり学者とはある種のプロフェッショナルだということになる。
 果たして私はプロの学者なんでしょうか。ここで皆さんから1000円なり2000円なりをいただいて、中島さんから上がりの一部をかすめ取るという形でやっているので、プロと言えばプロと言えるかもしれない。
 でも、今現在の状況において、学者は何をするかというと、学術雑誌、あるいは各大学の紀要に論文を載せるということをします。論文を載っけるか載っけないでガタガタみんなに言われ、論文が載ったらそれが印刷されて、最近はウェブで載っかってることもありますが、そういう形でやりとりをして、「論文から構成される雑誌」という一連の流れをつくっていくということをするのが標準的アカデミクスです。そういう意味で、私は論文を1本も書いてない人として(書いてないわけじゃないんだけど)悪名が高いんで、その限りでは、今のシステマティックな意味での学者では多分ありません、はっきり言って。
 さらに、私が、私は学者じゃないなと思う理由として、私は思い付きはいっぱいしますし、いろいろ考えるんですが、学問というのは当然ながら「知る」っていう言葉が入るんだよね。感じるだけじゃ学問じゃない。芸術は学問じゃないですよね。知るっていう言葉が入んなきゃいけない。知るはいろんな意味があるんだけど、ヨーロッパ系、英語だとKnowですよね。ドイツ語だったらWissenだけど、知るというのはものすごくきつい言葉として、伝統的には使われるんです。なぜか。知るとは「正しいことを知る」でなきゃ駄目なんですよ。正しくないことは知ってるとはいえない。だから「知る」ためには正しいということを確認しなければならない。思い付いたから正しいとは限らない。ということで、なんというか、もう嫌ったらしいぐらい地道な作業をやるんですよ。ロマン主義の時代に天才という概念があったけれども、すごいでしょう? 思い付いてワーッとやってる人が居る。でも思いつきだけじゃなくて、それがちゃんと知るということになるためには裏打ちがなされるようなことをしなきゃいけないんですよ。
 往々にしてすごい学者っていうのは、例えば社会学のルーマンとかは、思い付くことと、それからそれを確認することを分業する場合があります。で、分業する場合は弟子筋が多い。こういう思い付きだ。おお、いいぞ、いいぞと言って、確認の分業をすることによって、学派というのができるわけですね。そういう意味で、さっきジャーナルアカデミックというのは、知るということを確認するために作られたシステムだと言えます。知るということをきちんと押さえるために分業ということがなされ、知るということを押さえるために書くということが中心になったわけです。
 書くというのはつまり、思い付きを共有するんじゃなくて、書いたことによって、そうじゃない立場でも大丈夫にするということです。さっき言ったけど、知るというのはもう少し強い言葉なの。
 知るは必ず真実だっていうことと関わりがあるとすると、これも何が真実かって問題はあるんだけど、――真というのは、いろんな意味がありますし、皆さん、いろいろ思うところはあると思うけど、一つの、間違いなく言えるのは、「真」といった限りはどこに行っても「真」なんですよ。例えば、条件付きで真だったら、その条件においてはどこでも真なんですよ。О君は男である。アフリカに行こうが、アメリカ人が見ようが、犬が嗅ぎ付けようが、О君が男であるのは間違いはないと。ただ、もしかしたらSFの世界に行ったらО君は女になってるかもしれない。でも、その場合は、「この世界でО君は男である」というふうにすれば、ここはSFの世界じゃないんだから、それを削って、やっぱりこれ、この世界のどこでもずっと使えますということになるわけ。
 どこでもずっと使える、ということが、真という言葉の中に入ってくるということは、受け取る人間とかなんかによらずに、それが真である(=どこでもずっと使える)ということを確保しないと知るということにならないということになるわけで、そのときに書くということは一つの重要な役目になると。書かれたものを誰がどう読むということと、書いたつもりで読むということのギャップがあるわけだ。みんな言うわけですよ。俺はこういうふうに書きたかったんだ。おまえらの読み違えだっていうのがある。でも、もし、真を言うんだったら、――もちろん読み方の、読み手の問題もあるけど――その真だっていうことは、自分が書きたかったからということで担保されるもんじゃないですよ。
 そして学者というのはそういうことに関わらざるを得ない。だから、すごく地道なことをする。実験とかいろいろ、みんなちびちびやるわけです。大学へ毎日行って、ヒヨコの何かを調べるために、孵化器を持ってきて、温度調節してというのを1年くらいやって、それで間違いないねって話にして書く。でも、それだって、そのある今言った条件付けの中でしかできない。だから、知るっていうことはものすごく、そういう形ですごく強く「真」という言葉を取ると、知るっていうことはもうちびちびとしかできないんですよ。

……続く……

【告知】
中島義道さんの哲学塾カントで「塩谷賢の哲学道場」が始まりました!
2回目は以下のとおり。
日時: 3月28日(土) 19:30~21:15
参加方法: 要事前申し込み。HP(http://gido.ph/ )のアドレスからどうぞ。先着20名程度。
by warabannshi | 2015-03-21 23:33 | 塩谷賢発言集 | Comments(0)
「塩谷賢、哲学を語る」@哲学塾カント 第1回「哲学は学問か?」 #01
――【k123934-3】「塩谷賢、哲学を語る」@哲学塾カント 第1回「哲学は学問か?」――

●「哲学は学問か」というお題について考える

 哲学は学問かという話ですね。日本語だと当然こうなってるから学問だということはあるし、少なくともドイツのカント先生の時代から、大学に哲学という科目ができてしまったという限りでは、哲学は学問という形であるわけです。ところが、歴史的に見ると、大学というのは別にドイツの大学が(今、日本もそれを踏襲してますけど)初めて作ったわけじゃなくて、皆さんご存じのように、大学と名前を冠したものはもう中世の早いうちに、いわゆるカロリングルネサンスの時期の後からできています。有名なのはイギリスのオクスフォード大学、一番古いのはパドヴァ大学かな、いわゆるローマの辺りからではないのが、スペインにあったサラマンカ大学ですが、そこではみんなが哲学をしているわけではなかったです。例えば、ボローニャ大学で一番有名だったのは、医学なんですよね。哲学の強かった大学というのはどこかというと、パリ大なんです。
 この時期は大学の学生と先生という区別がなくて、要するに、知的なことで世間からはみ出してしまった人たちが、しようがないから寄り集まった。寄り集まった上で、でも、頭がいいからいろいろと使えると。それで、教皇庁とかあたりでお伺いを立てる(強迫したのかもしれないけど)、認可を取って一緒になるような、これはある種の共同体として大学ができたわけです。その中で先に進んでた人と後からくっついていく人というのが居て、一緒に勉強しながらやっていくと。
 日本では、仏教のお寺がそういう機能を平安期は持ってたんです。学生(がくせい)は、学生(がくしょう)ですからね、もとは。坊さんが偉くて教える、特に禅仏教のときにそういうような師父というのでイメージが付いたけれども、本来、そうじゃなくて、 学生らが一生懸命いろいろがちゃがちゃとやりながら、宗教、仏教に対する教理問答とかやってたというのがもともとの古い、奈良朝ぐらいから平安朝の前期のお寺で、日本の大学も多分にそういうのを受け継いでいるのではないでしょうか。
 さて、では「学問」という語をどう受け取ったらいいだろう。非常に困るんですよね。これ、やっぱり独特の言葉で。ドイツ語だとWissenschaftという言い方がある。これは非常に広い概念でWissenschaftという言葉を使えるわけです。「知ることを軸にして何かすること」という意味ですね。一方、サイエンスは、もともとScientiaという概念があって、分けて何かするっていう話だった。今、サイエンスっていうと自然科学が思い出されると思うけど、英語では社会科学(natural science)と自然科学(social science)の2つがあります。問題は人文科学という言葉が日本にあるけど、向こうにはhuman scienceはないですね。普通はhumanityという言い方しかしない。これは人文の意味です。ところが、humanityというのは非常に広い範囲の学問ですよ。アリストテレスから由来するところもあるし。

…続く…

【告知】
中島義道さんの哲学塾カントで「塩谷賢の哲学道場」が始まりました!
2回目は以下のとおり。
日時: 3月28日(土) 19:30~21:15
参加方法: 要事前申し込み。HP(http://gido.ph/ )のアドレスからどうぞ。先着20名程度。
by warabannshi | 2015-03-17 10:10 | 塩谷賢発言集 | Comments(0)
【告知】 塩谷賢さん10'後期「科学哲学」講義の音声ファイルです。
 塩谷賢さんが、10'後期に、法政大学@市ヶ谷キャンパスで行われていた「科学哲学」講義の音声ファイルをアップしました。
 アップ先は、NAVERのオンラインストレージ「Nドライブ」です。
 WMA形式で保存されています。
 音声ファイルへのアクセス方法なのですが、これがちょっと面倒くさくて、以下の手順をふんでください。
 1.「Nドライブ」サイトへ移動。
 2.メールアドレス「warabannshi0201@yahoo.co.jp」、パスワード「shiotani」で入ってください。(このメールアドレスは仮登録のものです。メールを送信されても、太田は対応することができません)
 3.最初に出てくるウィンドウ上の講義ファイルから、mp3ファイルをダウンロードしてください。

 第8回と第10回は行方不明です。(このときちょうど新しいICレコーダへの過渡期だったので…)見つかり次第、アップしたいと思います。
 また、ストレージサーバの容量の都合上、09'後期の音声ファイルは消去させていただきました。ご了承ください。09'後期の音声ファイルがご入用の際はコメント欄にてご連絡ください。宅ふぁいる便などでお送りします。
by warabannshi | 2011-01-11 21:14 | 塩谷賢発言集 | Comments(3)
塩谷賢発言集 「Qualia ML」〔後編 4/Oct/1999~9/Aug/2002〕
 茂木健一郎さんが管理人をつとめていた「Qualia ML」というメーリングリストに収録されている塩谷賢さんの投稿をまとめました。PDFファイル化してアップします。これで「塩谷さんの文章をGoogleのように検索することができる」はずです。

塩谷賢発言集 「Qualia ML」〔後編 4/Oct/1999~9/Aug/2002〕

※ PDFの検索方法――
 ① PDFファイルを開く。
 ② [Ctrl]+[Alt]+[ F ]の三点押しで検索ウィンドウを表示
 ③ 検索したい語句を入力し、検索開始

 Qualia MLのすべての投稿はすでに一般公開はなされているので、塩谷さんのクオリアMLの全データ(塩谷さん以外の茂木さんなどの発言)を閲覧したい方、前後のコンテクストを確認したい方は、下記URLに圧縮ファイルで保存されているテキストをご覧ください。
Qualia ML
by warabannshi | 2011-01-07 11:01 | 塩谷賢発言集 | Comments(0)
塩谷賢発言集 「Qualia ML」〔前編 10/Mar/1999~20/Sep/1999〕
 茂木健一郎さんが管理人をつとめていた「Qualia ML」というメーリングリストに収録されている塩谷賢さんの投稿をまとめました。PDFファイル化してアップします。これで「塩谷さんの文章をGoogleのように検索することができる」はずです。

塩谷賢発言集 「Qualia ML」〔前編 10/Mar/1999~20/Sep/1999〕

※ PDFの検索方法――
 ① PDFファイルを開く。
 ② [Ctrl]+[Alt]+[ F ]の三点押しで検索ウィンドウを表示
 ③ 検索したい語句を入力し、検索開始

 Qualia MLのすべての投稿はすでに一般公開はなされているので、塩谷さんのクオリアMLの全データ(塩谷さん以外の茂木さんなどの発言)を閲覧したい方、前後のコンテクストを確認したい方は、下記URLに圧縮ファイルで保存されているテキストをご覧ください。
Qualia ML
by warabannshi | 2011-01-06 13:28 | 塩谷賢発言集 | Comments(0)
◆塩谷賢「科学哲学」講義@法政大学#3 :10年10月4日[1/5]
●「何かを生み出すような何か」について――〈直接性〉と〈機能〉とnaturance

 前回と前々回の注釈を兼ねて、ちょっと今回の発展につなぐかたちで〈直接性〉について補足したいと思います。
 前回は、〈直接性〉を単純に「A地点からB地点への具体的な矢印」として見ないでほしいということを言いました。むしろどちらかというと、数学の人がよくやるみたいに「AからBまでの速度が積分されていく数式[註:速度の積分は距離]」として感じてほしい。こういう感じ、直接的って。僕が言おうとしていることは、何かがそこにあって見られているのではなくて、何かを作りだそうとしているということです。例えばこの「AからBまでの速度の積分」はA地点からB地点までの距離を作り出しているわけですよね。ただ通常の場合、このように書くと、距離を作り出す本体は、結局時間だ、という話になってしまうのだけど、そうではなくて、とりあえず何かを作りだすことに即して考えましょうというのが、前回お話したことでした。〈直接性〉において僕が言いたいのは、最初に言ったように、僕らが哲学を“している”という行為、哲学が何かの結果を生み出す行為であるということについて考えようということです。……そうだと思っていてください。
 この「何かを生み出すような何か」について、言葉として正確ではないのですが、とりあえず言葉がないので、〈機能〉とか、〈働き〉とかの言い方を僕はしています。これはまったく僕自身の用法で、すごく曖昧に使っています。その言い方のなかに〈直接性〉もあると考えてください。これらは結構マジックワードで、嘘っぱちなんですけどね。きちんと説明してないから、というかできないから。
 一つ注意点ですが、機能という言葉は非常にいろんな使われ方をしています。哲学の文脈では、機能主義(functionalism)って言う言葉があるんですけどね。これには広い意味と狭い意味があります。広い意味では、ライプニッツなどの、何かものを生むことをベースに考えるという、有機体論とかそういうものが機能主義に入ります。――また余計なことを言っちゃうけど、nature・自然に対して、ラテンの頃に、四つの分類がありました。つまり「生んで生まれない自然」、「生まれて生む自然」、「生まれて生まない自然」、「生みも生まれもしない自然」です。生む/生まない、生まれる/生まれないをね、受動態と能動態で四つに分けて、それを神学的な分類に当てはめたんですよ。現実の世界を生成する、つまり生む能力がある「生んで生まれない自然」を、能産的自然(nature naturance)といいます。これと対になる、「生まれて生む自然」を所産的自然(natura naturata)といいます。前者は神様、始原の神様です。自ら生まれることはないけど、すべてを生むというのが、始原の神様。で、その創造物の途中にあって、こうやって生んでいるというのが、後者です。後者が普通の意味で、われわれの見ている自然なんです。それから、「生まれるけど生まない自然」というある種のターミネーションがあるわけですが、これはたとえば私たちの精神とかそういうものを考える。で、「生まれもしなければ、生みもしない」というのがじつは、本当の、存在を超越した、永遠の神様である、という四つの分類がありました。[註:自然の四分類については、ヨハネス・エリウゲナ『ペリフュセオン』参照]この分類で考えるときの「能産的自然」を、ライプニッツらが組み込んで考えることについて、機能主義という言葉が使われます。
 もう一つは、最近流行の「心の哲学」というやつね。本当は哲学に関わっているんだから、ドイツ観念論だとかも官位するはずなんだけど、今、心の哲学というときは、英米系の分析哲学から派生した、心に対する哲学で、さらに、脳科学とのハイブリットも入ってくるものを指します。心の哲学の文脈において、機能主義という言葉はどう使われるのか。身心問題とか身脳問題があったときに、幾つか対処方法があるわけですが、そのなかで脳と心がどう関係しているかに着目することがある。両者は無関係です、っていうのもあります。一つは消去主義で、心というのは無い、脳の機能で全部説明が付くとするのがある。それから、随伴現象説というのがあって、脳と心は違う、何が違うかというと、脳のほうは本物で心は現象である。現象だけど、現象ということで独特の位置があるんだ、とする立場があります。いま言った、消去主義のもとは行動主義です。脳なんて見かけであってそれは行動なんだっていいます。それに近いところに、物理的機能主義というものがありまして、脳の、物理学的な機能が心の本体なんだ、という言い方をします。この場合も機能主義という言葉を使います。今、東京とアメリカで「機能主義」って言うと、この物理的機能主義を指すことが非常に多いです。心の哲学の物理的機能主義は、非常に狭い意味で、僕が使おうとしている機能主義と違いますので、気をつけて区別してください。まったく別です。
 心の哲学における機能主義は、物理的な事実、物理学的機能を実在物と認める。つまり、「実在の一種として物理的機能を認めている」わけです。そうではなくて、僕が考えていたり、あるいはライプニッツなんかが考えていたであろう〈機能〉というのは、むしろ「実在のあり方が機能的なんだ」という見方なんですよね。naturance;作るという力が、存在するということなんだ、という立場です。
 この間、直接的に対して、「私が直接、○○を××する」という構文ではなくて、「○○を××するという仕方での〈直接性〉の結果としての私」という構文で捉えるという言い方をしました。この入れ替えと同じような感じで、物理的機能主義と、広い意味での機能主義の近いを捉えてもらえればと思います。
 最初の授業の最後で、「科学」の記法としての「数学」、「社会」の記法としての「言語」をそれぞれ考えようという話をしました。――後者の実例について今回の授業で、ふれようと思います。
 どのように「数学」と「言語」を考えていくかといえば、機能のレベルから、つまり、〈直接性〉をあてはめようとするかたちで議論を始めるとしたい。そのためには、「数学」や「言語」から「科学」や「社会」へ持ち上がったときに、なにをもって持ちあがったとするかということを言っていかないと分からない。ということで、まずシステム論を少し解説しなければならない、ということになるんです。


●システム論とオートポイエーシス

 去年もやったんですけど、システムという問題を考えようとしたときに、そもそもシステムとはなんぞやって言われると、なんなのかよく分からないんですよ。みんな簡単にシステム、システムって使うんだけど、システムってホントは何だよって言われたら、各自で想定しているものはばらばらだったりする。同じように、「言語システム」と言うときに、まさにそれはシステムとして位置付けられているようだけど、じゃあ「言語」何か? というと、よく分からない。
 システム論は社会学をスタートとしている分野だけど、そもそも何がシステムか、という“そもそも論”が無いんですよ、どこにも。目の前にシステムがあるでしょ、で、そのシステムをこのように具体的に捉えると、こういうことが説明できます、……ということで、みんなやっているわけです。システム論のなかにも、いくつかの潮流があるのですが、大概は現象記述なんですよね。「社会システム」という概念を出して何をやっているかというと、人間の集団がいつどこを動いていて、どのような振る舞いをして、っていう統計の資料を取ったり、グラフを書いたりする研究が多いわけです。中学生や高校生が、夏休みの自由研究でやるような調査報告型の説明が多い。そして、それとは逆に本体を考えるタイプの社会学、たとえば経済学・法学などでは、システムに対して、システムを動かしているものは外部から与えられていると考えているわけです。財をどのように分配するかとか、どのようにお互いに能動性を絡ませるかという現象のレベルとしてシステムを考えている。
 しかし、これはオートポイエーシスの話のなかで繰り返していることですが、脳もまた、一種のシステムだと考えることができます。脳では、生化学的反応に伴ういろいろな電気パルスが絶えず起こっている。にもかかわらず、脳みそのなかには心というものがあるらしい(脳みそのなかに、と言うと語弊があるけど、少なくとも、脳みそがないのに心があるということは、人間には考えにくい)。そういう場合に、やっぱり心は一種のシステムだろうというふうに、当然考えるわけです。なぜなら、この授業も含めて、全て人間の心をベースにして、コミュニケーションをとる、何かが起こるということを前提にしているわけだから。
 心を対象にしているせいで、これは先ほどの心の哲学と同じように見えますが、両者のやり方は全然違います。心の哲学は人間の言語における命題を中心にして脳はどうかっていう問いを立てるけど、オートポイエーシスは事実的なシステムとしての脳からどうやって原理が生まれてくるんだろうという問いを立てます。
 神経生理学者のウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・ヴァレラが、1970年代に初めてオートポイエーシスを提唱したとき、そこには四つの特徴があると彼らは言いました。(1)自律性、(2)個体性、(3)境界の自己決定、(4)入出力のなさ、です。最後の、(4)入出力のなさが、一番珍しいんですよね。ふつう、システムってブラックボックスや機械のイメージで考えるんですよ。入力があって、出力がある。でも、オートポイエーシスの考え方では、入出力はないって言っちゃうんですよ。自分自身のなかで全部閉じる。そして、自分自身を作る。だから、周りの影響は単なる撹乱とか、相互浸透、構造的カップリング(structural coupling)っていう言い方もしますけど、伴って変わるだけであって、入力として何かをもらって出力として出すということではない、という発想なんです。
 オートポイエーシスは、有名な人がもう二人います。神経生理学におけるマトゥラーナの発想に対して、ウンこれは使えるぞって社会学で一般化したのが、ニコラス・ルーマン(Niklas Luhmann, 1927-1998)です。けっこうね、トシが面白いんだよ。最近死んじゃったデリダ(1930-2004) よりちょっと上くらい、ドゥルーズ(1925-1995)とかの年代ですね。ルーマンの本業は社会学で、哲学としてはまったく傍流です。アメリカに行って、タルコット・パーソンズのもとで意思決定論のかなり理論的なことをやって、ドイツに戻って、社会学の観点から哲学的なことをたくさんやりました。彼が社会学から、神経生理の現象を、社会学に一般化したんですよ。初期の代表作は、『社会システム理論Soziale Systeme』(1984)です。ルーマンは、マトゥラーナが物理的イメージとして使っていたオートポイエーシスのモデルに対して、コミュニケーションに着目することで社会学のほうに持ち込みました。
 これに対して、成功しているかどうかは別なんですが、日本でオートポイエーシスを現象学に応用した人がいます。東洋大学の哲学の先生をやっている、河本英夫(1953- )です。日本でオートポイエーシスに関する本をたくさん出しているのは河本さんです。紹介もやっている。山下和也さんが『オートポイエーシス論入門』のなかで、マトゥラーノ、ルーマン、河本の三人を見比べながら、「科学として使えるオートポイエーシスを作りましょう」という標語のもとにオートポイエーシスという概念を解説しています。
 まず、オートポイエーシスに至る前段階からいきましょう。


テープ起こし: 藤枝侑夏
by warabannshi | 2010-10-24 16:47 | 塩谷賢発言集 | Comments(2)
◆塩谷賢「科学哲学」講義@法政大学#2 :10年9月27日[3/3]
●質疑応答.1 

[質問者] ちょっと先生のおっしゃったことが難しくてよくわかっていないのですが、いまの間接性のお話は、〈私〉と対象との間接性ですよね。

 いまの場合はね。

[質問者] 直接性の場合、「××を△△するという仕方(-様態)での直接性(という働き)、その結果(-効果, 余剰)としての私」という言い方が控えているわけですが、それに対応するものなのでしょうか。

 そう考えていただいて結構です。つまり、いま言った評論家の例だと、「結果としての私」まで変動が及んでこないようにするわけですよね。

[質問者] 議論の順番としてなのですが、媒介によって知ることが間接性であると。私とものとの関係が間接的であると言ったときには、そこに因果性が絡んできて――

 それは物理的な世界にける接触の場合ですね。想像の一千万円と現物としての一千万円の話には、意味的なものが絡んできます。

[質問者] 思考することがなんらかの行為である。それがものをぶつけるのとは違う行為であると。

 私たちには違うように見えますね。

[質問者] こちら側で何か働きかけて、その結果として何かが起こったということを知るのが「結果としての私」なのかと捉えたのですが…

 ここのところの直接性というのがどういうことかといえば、じつはまだ何も規定していません。正確に言うと、直接的な思考がどこからおこるか、全然わかりません。けれどabnormalな事柄すべてをいっぺんに見て取ることはありえないはずです。神様だったら一回しか起こらなかったことのすべてを見て取ることができるでしょうが、私たちはフィルターを通して見て取るようにしているわけであり、そのフィルターはnormalなものとして設定されざるをえない。私たちはnormalなものの影響下にあります。ですから、いきなり直接性そのものを考えるということは――それは目標ではあっても――たぶんできないでしょう。そうしたときに、abnormalなものを作り出して、テストするしかない。いま言われたときの私は、テストをするときの私です。このとき、反省という行為がなされる。反省という行為はabnormalさをnormalな仮定に組み込むという形でなされます。
 直接/間接というのは、いま言った構造で表わされるのですが、実際のところ、私たちはmediationを通すことに縛られているからこそ、対応させることができないんですよね。「××を△△するという仕方(-様態)での直接性(という働き)、その結果(-効果, 余剰)としての私」という説明は、概念でこう説明しているだけであって、この説明が“直接的な話”なわけではありませんから。
 これは哲学をやるときの困った矛盾です。ヴィトゲンシュタインは「言語が休んでいるときに哲学は行われる」と言っています。私たちは会話をしているとき、その会話のなかで自分がいまどういう立場にあって、しゃべるときにどのように反応を変えるかを常に調整しています。相手も変わるでしょう。あらかじめ「こう言われたらこう応えよう」と答えを用意しておくこともできますが、それでは辞書を引くのと変わりません。
 必ずしも直接性というのは行為に限定されるものではありません、ただし、私たちの行為は必ず直接性にかかわっているという話です。行為が直接性の一側面であるともいえます。

[質問者] エージェントということを考えるのであれば、反省ということも、何が行われているかが不透明になりますね。

 不透明ですよ。ただ、abnormalさをnormalな仮定に組み込むことを「反省」だと言ってしまえることが、〈私〉を一つの原点として置くという構造的な決断だと言えます。
 実際には、〈私〉というものは底が抜けています。例えば、概念のレベルではなく因果のレベルから捉えたとき、結果から、原因としての〈私〉を規定しようとすると、脳の話になります。目の前に現物の一千万円があったときに、〈私〉がそれを働きかける。そのときのagencyは何か。少なくとも物理的なつながりがいくつもあるはずで、それらの物理的なつながりを中心として、遡っていくと、感覚器官があり、神経系があり、脳があって――そして終点がどこにもないということがわかる(笑) ベルクソンが『物質と記憶』のなかで「脳は中継器に過ぎない」と言ったのはこの点においてです。ただし、ベルグソンは因果のつながりを一つしか考えていません。ベーシックに存在しているものが一種類だと考えます。つまり、「ある」ということのベーシックさ、一義性を前提としています。
 〈私〉を〈私〉として止めるにはなんらかの装置が要ります。ウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・バレーラという二人の神経生理学者は、〈私〉という概念を脳から説明するために、そしてずるずると後退させないために、オートポイエーシスという概念を新しく入れました。でも彼らもオートポイエーシスを下支えするもの、決定的に存在しているものが一種類だと考えている。僕はそれを「仕方」とか「様態」という言い方で複数化したい。この複数化によって、さまざまな直接性が可能となる。それぞれが独立しているとは言いません。重なり合っていることもあるでしょう。それは後で話しますが〈忘れる〉ということの大事さとつながります。また、重なっているからこそ、組み換えができる。

[質問者]  因果性、行為、リアリティなど、いろいろな理論系が複雑につながっていてわかりにくいのですが…。

 こう理解してください。こうなって、こうなって、こうなって……という論理的な基礎付けの段階をふまえて僕は話をしていません。モザイクのように、こことここはこうつながっています、という示唆をその都度行っているだけです。存在論的なつながり、論理的なつながりについてはもっと検討しなければならないでしょう。それは地道にやっていかなければならない作業です。その作業の前にある見取り図として、こういうものを出しています。今日、僕は情報をたくさん提示してしまいましたが、それらが必須要素であることはなく、理解しやすいように随時消してもらってもかまいません。イスラム教にミニアチュールがあるじゃないですか、微細なものが関連しているんだけれど、ぱっと見たときの印象ってあるでしょう。その印象を受けてくれれば充分です。微細なところは矛盾していたり、循環したりしてエッシャーの絵みたいになっているかもしれないけれど。


●質疑応答.2

 今日のここまでの議論を整理しましょう。直接性のベースが幾つかある。まず距離という、私たちが通常表象しているものから、直接/間接という概念があるということを指摘しました。それでは距離とは何か、という問いに対しては、agencyを持ち出してきた。そのagencyの一つの働きとして介入説を入れました。カントのリアリティの話は、私たちが〈考える〉ということをどう行為に持っていくかということをやるとき、agencyの話がどのように使えるのかということの一つの例です。
 これらはいかに思考のイメージを「私が××を△△する」という形に縛られているか、ということを示します。例えば、文章を書くとき、自由な思考があって、それを言葉に直す、というイメージがありますが、そもそも思考には枠組みがある。思考の自由度は、文章の細部に、どのような名詞や形容詞、語尾を選ぶか、というところにあるように通常は思われています。が、枠組みに自由度はあるのか、という話はあまりなされません。そこにこだわって、いろいろと話をしました。

[質問者] 少し異なる角度からの質問になりますが、よろしいでしょうか。

 どうぞ

[質問者] 考えることを行為として捉えるとき、そこにはエージェントの介入する可能性があるというお話がありました。そして「考えた結果」を決めることができないと。いま、例えば私が一千万円の札束を思い浮かべるようとしたとき、行為として考えようとすると、一千万円の札束の使い道や、この教室は涼しいな、とか、そんなことよりお腹が空いたなとか、余計なことが「一千万円の札束を思い浮かべる」ことを阻害し、思い浮かべることに失敗することも充分ありうると思うのですが、それが先生のおっしゃっている、行為として考えていることになるのでしょうか?

 先ほど、原因と結果はまず先にあるのではなく、後付されるものだということをお話しました。そして、脳科学においては、〈私〉の底が抜けているせいで終点がないことが問題となることもお話しました。じつは、そういう立場からいくと、本来ベースに置くべきは、「→」なわけですよ。でも「→」には、スタートとゴールがあるかのように思えるじゃないですか。僕が問いたいのは、どういう意味でスタートとゴールがあるか、ということなんですよ。まさにいまこの状況において、これをスタートとして、これをゴールとする、ということが、「結果」として出てくることなんですよ。
 例えば原因と結果を2地点だとすると、「→」は2地点をつなぐ線に見えるよね。距離という例を出すときには長さになりますが。でも、実体として「→」があるという話ではありません。「→」は働きです。働きが、ちょっきり2地点をつなぐようになるか。なりませんね。「→」のゴールが幾つもぐちゃぐちゃと出てくるかもしれないということが、「→」の形態を表わしているわけです。しかもゴールはいわば未来ですから、開いているわけです。
 問題は、normalとabnormalといったときに、normalさとabnormalさの区別をどうやってつけているのか、という問いです。私たちはその区別を抽出したときに、それを「本質」などの言葉で表現します。いま、ここ(スタート)から僕がチョークを投げたときに、チョークは放物線を描いてチョーク箱(ゴール)に入るでしょう。でも現実には、途中で誰かが投げた消しゴムに当たって軌道がそれて入らないかもしれない。個々のケースではいろいろなことが考えられる。けれど「通常は何回繰り返してもこうなるだろう」というかたちでnormal(なスタートとゴール)ということを取り出して、それによって私たちは生きているわけです。
 ですからnormalさ、と言うとき、考えることに、いままでの反復や積み重ね――この言い方は正確ではありませんが――ある種のパターンが内に含まれていることがわかります。しかもその反復は、歴史的な時間として含まれているというのではなくて、むしろ歴史的な時間としてしか記述ができないような機能として含まれている。オートポイエーシスはいろいろ問題があるのですが、この側面をよく捉えています。単純にいえばオートポイエーシスはスタートもゴールもない閉鎖系で、ぐるぐるぐるぐると回っている円環構造をなしています。これは「→」の延長構造ではわからなかったnormalさを表現することができるわけです。
 外にnormal/abnormalの基準をたてると、どうしても2点間の長さの問題が出てきてしまうわけです。そしてその長さを測定している私はどこにいるのか、という問題が出てきてしまう。「私が××を△△する」に対して、「私が「私が××を△△する」を観察する」、「私が「私が「私が××を△△する」を観察する」を観察する」……という具合に。
 思考は、おそらく、繰り返し使えるものとして、私たちに身についています。それは神様の思考のように一回限りのものではない。しかし困ったことにキリスト教圏では、思考を司っているのは神様なんだよね。「Patris, et Filii, et Spiritus (父と子と精霊と)」のなかの、Spiritus(精霊)はドイツ語ではGeistです。そしてGeistは精神も指す語です。つまり、人間が思考するということは神様の思考が分与されているというイメージがあるわけです。だから、思考の本態として繰り返しがどのように起こっているかとか、繰り返しが機能としてどう含まれているかということについては議論があまり無いんですよ。あるとすれば、学習という歴史的な時間の形態から入っていく。ヒュームが言っているような習慣の話にしかならないんですよ。もちろん習慣は重要なんですが、では現実にあったことだけが思考のすべてを構成しているかといえばそんなことはない。それはabnormal云々という話ではなく、normalのなかでの解説の域をでないわけです。
 「→」のゴールが幾つもぐちゃぐちゃと出てくるかもしれないということが、「→」の形態を表わしている、というところに戻りましょう。このときには「××を考えている」の「××」をしぼり出すことが困難になる。しぼり出すために何かをしなければならなくなる。例えば、「→」のつなぎ方を変えたりね。その差分を、「××」を取り出す一つの手段とする。私たちには視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚という感覚器があって、さらに心的なものもあるわけだけれど、それらは私の機能として、私のうちで出会うことができる。それら複数の「→」の総体があって、初めて「考える」ということが意味を持つんです。それでもGeistが、論理が、神の設計図が、まず決定的にベーシックとしてあってね、という話についついなってしまうのは、私のうちで出会うものの総体を統一するのがとても難しいからです。だから、ひとまず「決定的にある」ということにしてやっていきましょう、とやってきた。逆に言えば、私たちにとってのコミュニケーションや他者、abnormalさを、思考のレベルだけで表わすこともできたんですよ。いま言語哲学とかがやっている括りだし方の問題はここにかかわってきます。でも、現在では、脳科学や精神医学における投薬の効果などが現実問題としてからんでいるわけで、思考は、私のうちで出会うことのできるものの総体とともに捉えざるを得なくなった。
 去年、僕は評論家風に科学の影響力の強さについて、そして科学の気持ち悪さについて話したんだけれど、具体的に哲学でこういう思考の捉え方をする要素が、現にあるわけですよ。しかも科学を解説するときには、どうしても物理的因果という一本の「→」にすべてを収めようとしてしまう。科学そのものは、たくさんの「→」の出会いを作ったという点で私たちにとってものすごく大事なんですよ。ただ解説するときには一本の「→」になってしまう。この違いを私たちは知らなければなりません。その違いを、私が行為するという現場で考えていきたい、ということでよろしいでしょうか。
by warabannshi | 2010-10-07 19:04 | 塩谷賢発言集 | Comments(0)
◆塩谷賢「科学哲学」講義@法政大学#2 :10年9月27日[2/3]
●因果の介入説について―agencyと、実物の札束/想像の札束の違い

僕が、そこに座っている彼に傘で殴りかかったら、彼は彼の傘でそれを意識的に止めるかもしれない。ここでagencyということを考えましょう。agency、つまり社会学でいうところの主体性です。subjectivityという語には、主観/客観という図式が染み付いてしまっているから、何かするものという中立的なニュアンスで使うagentに関わるagencyを採用します。agencyというものによって、介入が図られるわけです。agencyは同じ質に対して、距離を測る。距離というのは常に、何かがそこに介入するという可能性のことだと言いましたね。
 それでは、物理的な距離とは何でしょうか。物理的な距離というのは、見てとっている距離ではありません。ちゃんと物理学者は、物理的に何か無いと距離って認めてはいけないと言っていますよ。一番いい例が、アインシュタインの相対性理論です。彼は光が走っている距離がちゃんと測れなければ、距離は測れないと主張します。普通はそうではなくて、見てとって、――まさに見てとって、空間がありますね。距離はこれくらいですね、と言うわけです。ところが、有名な相対論の列車のすれ違いの実験がある。列車の外にいる人と、光速近くで走る列車の中にいる人とでは、それぞれ時計で測ったときに過ぎている時間が違う。両者のあいだで何が違うのでしょうか。走っていることですね。光速度が一定だという仮定がありますけど、スピードに対して、それぞれが進んだ距離がずれている。距離と時間の相関に光というagencyがどのように働くかが問題になっているわけです。だから、物理的な距離に関しても、agentが介入する可能性があるかないかが重要となる。
 因果に対して、介入ということはどうなるでしょうか。そもそも因果とは何か、というのが問題です。Aが原因となり、その結果としてBが起こった。離れている気がするけど、一応繋がっていると。ところがそれが因果じゃなくて、偶然に起こったっていいじゃないか。Aが起こって、Bが起こったというだけなら、それを因果で繋がっていると言って良いんですか? というのが、議論の種だったんですよ。
 例えば、デイヴィッド・ヒューム(David Hume, 1711-1776)。カントが『プロレゴメナ』の序説で、「ヒュームの警告が、まさしく、はじめて私の独断的まどろみを破り、私の探究にまったく別の方向を与えたものであった」と言っていますね。ヒュームは、私たちは因果なんて分からない。私たちはただ見ているものがあって、AとBが続いてあるというところしか見ていない。ところが恒常的にそれが起こると、そこに因果を見てとってしまう。もしくは因果を、夢想してしまうんだ。ということで、因果ということをhabitat、私たちの条件付けられた習慣であると、考えたのがヒュームなんですよ。それはちょっといくらなんでも無茶な……、と普通は思うでしょう。カントもやっぱりそう思いました。カントは若い頃、地球がどうやってできたとか太陽系がどうやってできたとか、物理学の議論をやっているのですが、そういう物理的な世界、人間がいない世界で、誰も見ていなかったら因果は成立しないのか。それでは、物理学が不可能じゃないか。それはまずいだろう。という検討があって、カントは純粋悟性概念という十二のカテゴリーの中に因果を入れました。
 ところが、じゃあ因果はやはり成立するということでいいのか? という問いがずっとあったわけですよ。カントは彼の理論の全体を通して非常に心理学的な比喩を用い、かつその世界は超越論的観念論と呼ばれる世界だから、いわゆる普通の科学的実在論と相性が悪い。(厳密に言うと、本当に相性が悪いのかという問題はあるんだけど、通常悪いと言われている) だから因果についてもう一度検討しようという話になり、20世紀初頭に出てきた分析哲学のなかで、因果に関する言語分析をきちっとやろうという話になってきた。
 AがBの原因である、Aが原因だとBが結果する、「A cause B」、「AがBを引き起こす」ということの分析をやっていったときに、でも、「AならばB」という文章とどう違うんだろうという話になったんですよね。「AならばB」、「AがBを引き起こす」。形ほとんど変わらないじゃん、と。細かい議論は分析哲学を勉強すると分かると思うんですけど、ほとんど同じ話だと。差が無いといった話までした人がいるんですよ。だから、因果は論理なんだと。物理の世界の話と論理の世界は違うとしたときに因果に対して出てきた話が、反実仮想でした。
 これは私たちには、馴染みがない概念なんだけど、欧米圏の言語では馴染みが深い。なぜなら、現実にない仮定を置いたときに、向こうでは文法そのものが異なるからです。僕ら日本人は、現実にあろうがなかろうかあまり気にしてないんですよね、文法が変わらないから。しかし「AならばB」という言い方をするときに、欧米圏の彼らはAが現実にある場合と、Aが現実にありえない場合と全く違う文章を作らないといけないんですよ。フランス語なんかその傾向が特に強い。ドイツ語も。
どういう意味で、あるかないかが頭にあるから、厳密になります。
 ふつうは「A cause B」。Aが現にある場合は「A implies B」です。
 ところが、反実仮想が何をするかというと、Aが現にある場合は「¬B implies ¬A」。Aが現にない場合は「¬Adoesn’t cause B」、Aが起きなければ、Bも起きないんだよという話をする。論理学の範囲内では、妥当な論理として決定することができないですよね。マッチを擦らなければ火はつかなかった、マッチを擦ったから火がついた。と言ったときに、本当は酸素が無くても火はつかないし、マッチが水に濡れていても火はつかない。いろんな条件があるわけです。全部のことを言おうとすること困る。だから主要なものを取り出してきましょう。その前に主要なものをスクリーニングしましょう、という話になる。じつはスクリーニングという操作は凄く問題を含んでいるんだけど、とりあえず飛ばします。
 「現にあるようではないことを考えよう」という反実仮想、その問題とは何か。それは、「現にあるようではないこと」ということの意味は何なのだろうということです。「現にあるようではないこと」の同一性はどうなるんだ、とか、そういう話は過去ずっとあったわけです。
 それに対して、立てられたのが因果の介入説です。これは十数年前にオーストラリアからでてきたんですけど、そもそも因果という概念を独立したものとしては考えない。因果の本体はじつは、因果のnormalなスタートに対して私たちが介入することにあるのではないか。そう考えます。
 これは僕の解釈なんだけど、介入説にもとづくと、反実仮想も、私たちが「現にあるようではない」としたらどうなるか、という問いになります。
 反実仮想がそうなるというのは、思考で言っているだけであって、実際にそうじゃないかどうかということは、実験しなきゃいけないわけですよ。例えば、マッチを擦ったけれど火がつかなかったとき、何がいけないか。実は、火がつくこととマッチを擦ることは関係ないかもしれない。いろんな付帯状況を確かめて、それを細かく分けなくてはならない。その作業をいままで私たちは、実験や経験を通して行うしかなかい。そうしたときに、そもそも私たちの介入、限定、状況の選択ということが「マッチを擦ると火がつくという因果」そのものを作っているのではないか。因果という概念を理解するためには、私たちが介入しうるということが重要なのではないか。そうすると、さっき言った因果って言うのは、私たちが行為的に介入するagencyがどうなっているかなんですよ。
 今の議論だと、原因から結果といったときに、原因と結果があってこうなるというのではなく、まずAが起こっている、そしてBがある。Bがどういう性質かによって、Aが原因といわれ、あらためてBがAに引き起こされた結果といわれるわけですよ。agencyとしての私たちがBの性質を測ることで、それらは原因・結果と言われる。途中にAが介入することによって、AがBに影響しうるから、「AがBを引き起こす」という言葉を使えるわけです。
 つまり、最初に原因・結果というものを立てて、それぞれの性質があるかないか選ぶのではなく、起こっていること、このagencyは何かということを問うなかで、原因・結果を当てる。こういうふうに介入説を考えることができます。
 一般的に、介入というのは距離の議論だということをやっている人は、多分いないと思うんですよ。なぜかというと、「因果をどうする?」という問いから来ているから。「因果とは何か?」という問いにいかない。ただ今言ったように、距離が何であるかということと、agencyということを組み合わせることによって、「agencyは同じ質に対して、距離を成立させる」ということが出てくる。そうすると、心的因果(Mental Causation)ということも分かるわけです。心的因果、つまりどうやって心が動くんだろうかという問題については、ロックが「タブラ・ラサ(tabula rasa)」と言ったり、デカルトが、それは物的因果とは異なるという説明をしています。ではどこで心的因果は成立するのか、というとみんな困ってしまう。対象はある。では因果はどこにあるのか、と。デカルトは、脳の奥の松果体だ、と言い出した。いまも、心身因果は、心身問題・心脳問題として扱われています。
 でも、心身因果の因果って何? って、誰も言わないんですよ。因果ってこういうものでしょ、だから心身においても同じでしょ、って先に因果をたててしまうんですよ。それはそれで非常に重要なわけですけれど、ここには問題がある。どこかで使った「因果」を、そのまま心身に持ってきて良いのか?
 ウィトゲンシュタインは『青色本』のなかで、同じ構造の問題を扱っています。ある文章で用いられていたパッチを部分的に持ってきたとしても、そのパッチがどこで使われているか、どのような意味で、どのような組み合わせで用いられたかによって、文字が全く同じであっても、そのパッチの使用法は違ってくるかもしれないじゃないか、ということです。『青色本』はヴィトゲンシュタイン全集の六巻に大森荘蔵が訳したものが収録されています。これ、ヴィトゲンシュタインが1934年のケンブリッジの講義を学生に書き取らせたものなんだよね。今度これの新しい訳が文庫で出るという計画があるそうです。『青色本』は全集でも120ページくらいなので、安い文庫本になると思います。青色本は面白い本なんですよ。ウィトゲンシュタインの後期の中心といわれている、哲学探究のベースになっています。『哲学探究』自身は、細かいものをたくさん出して、非常に読み難いところがあるんですけれど、『青色本』は講義の形式をそのまま書いているんで、読みやすいんですよ。ただ鵜呑みにしてはいけないところがいっぱいあるんで問題があるんですけど。
 戻りましょう。言葉は同じだから文法も同じだから、ということで別の文脈に持っていったら意味は異なるかもしれないということを、ウィトゲンシュタインが『青色本』で述べた、という話です。だから、心身因果といったときに、どこかで使った「因果」を、そのまま心身に持ってきたら「因果」の意味は異なりうるわけです。agencyの概念をどこに持っていって、どういうふうに使うのか。違うagencyが重なったときに、それらはどういうふうに接合できるのか、などなど。
それでは、あらためて距離の概念を考えてみましょう。
 一千万円の札束がなかなか考えられないということと、一千万円の札束を盗んでいくということでは、agencyの違いは何でしょうか。行為の形です。それでは、考えがまとまらないという行為と、盗んでいくという行為、その差異は何でしょうか。そして、直接性が表れるところはどこか。
 後者は同質的な空間でのagencyです。実物の一千万円の札束が、実物の泥棒に盗まれていく。ところが、私が考える、一千万円の札束という表象(presentation)を考えるということは、実物の一千万円の札束がたてられる前(pre-)にあるものを考えている、という図式になります。(何の前なのかよく分からないんだけど、深入りはしません)前者のように表象を考えるということは、つまり異質なところを繋いでいるわけです。
 後者は、同質のagencyが入るだけ。だからagencyが入るか入らないか、normalな状態によって、この傘が単に雨に濡れないための道具なのか、それとも杖のように使ったときの私の触覚の先端なのか、そうじゃなくてメディアなのかは、自由に変わりえます。はっと気付く話はよくあるわけですよ、道具に対して。道具自身は直接的なんだけど、でもあるとき、abnormalなものとして、道具が私に逆らうことがあるから、これが私ではなく道具だということがわかる。これは道具の持っている二重性とか、アコーディオン効果と言われているけど。
 でも前者の場合は、現物に何かがあると決まったわけじゃない。一千万円の札束はなくてもいいわけですよ。通常はこの表象を言語だと思って、言語の内部で操作することができるわけです。このとき、逸脱という可能性、介入されるという可能性が認められるものとしての距離ということを考える枠はどうなるかというと、非常に大雑把なわけです。
 その一方で、私は一千万円の札束を直接考えているっていう言い方もあるのね。これは志向性の議論として、ウィトゲンシュタインは『青色本』で言っているし、フッサールも議論しています。私がチョークを見ているでしょ。チョークを見ているって、何事でしょうか。チョークの映像が頭の中にあるときは、現物としてチョークが無くとも、チョークを見ているといえるでしょうか。無いときにもそれを見ることができる。だから、共通のものがあるはずだと。この言い方を錯覚論法(the argument from illusion)といいます。でもその場合の「見ている」ってどういうことでしょうか。頭の中で見ている像に対しては、〈何〉を見ているのか、という問いがあるわけです。現物も表象も同じように見ているのだったら、表象の表象も同じなの? 表象の表象の表象も?
 ……そうではなくて私たちは、直接に対象を考えてるんだっていうわけですよ。直接にチョークを考えているんだ。表象を操作しているんじゃない。つまり、その場合は、現物に向けて表象をいっぺんに通しているんですよ。それを私たちは指示と呼びます。しかしそのとき、私が「チョークについての認識が間違っているかもしれない」、「このチョークは正確な像ではないかもしれない」と思い悩んでしまったらどうだろうか。つまり、ここの途中でagencyが介入する可能性を考えたらどうだろうか。このとき、私がバカであるから正確でなくなる、ということは考えませんよ、私は私でまともであり、それにもかかわらず正確でなくなると。
 直接的にものを考えている、という言い方をする場合と、表象を見て考えているんだよ、という場合とでは、agencyの介在が重要です。normalなものしかなかったら、直接的にものを考えていることと表象を見て考えていることの区別はつかないんですよ。abnormalなものがあるということ、それがどういうものかについてなんらかのことを知っているから、両者の区別は可能になるんですよ。これはある概念が規定されるにはその反対概念を規定しなければならないとか、Aという言葉を使うときには、Aが当てはまらない状況を考えなければ使えないというようなことと実質的に同じです。
 いま、Aという言葉があるとします。「目の前のすべてにAという言葉を使うことができるのであれば、Aという言葉を使わなくてもいい」、というのはよくある議論なんですよ。すべてに対して当てはまる述語は意味がないと。でも形式的にはそう言えても、「Aが当てはまらない可能性がある」ということについては何も考えられていない。つまり、agencyが介入する可能性があること、距離があるということと、〈逸脱する〉ということ、私の〈外〉であるということがどういうふうに絡まっているかについては何も考えられていない。そうなってはじめて、直接ということに実感がもてるわけですよ。
 授業の最初に出した例に戻りましょう。国際文化の評論家とパリに行って公演する歌舞伎役者の違いはなにか。パリに行った歌舞伎役者にとって、その状況はすでにnormalではないわけですよ。何が起こるかわからない。拍手喝采を受けるかもしれないし、この野蛮人! と罵声を浴びせられるかもしれない。なにかに参加するときは、この先が決まっていないわけです。この先を参加することによって作ろうとするわけですよ。その意味で直接性はオープンです。
 その一方で、評論家にとって答えは決まっているわけです。既にわかっている結果や知識から、この先をnormalに解説しようとする。abnormalであることを本当は知っているわけですよ、しかしそこから目をそらそうとする、知識や図式で吸収してこの先に届かないようにする。だから、彼は間接的にしかなりえないんです。
 〈私〉の議論も絡めると、〈私〉の本体が変動しないようにして、そこで使っている編み込みが換わるようにする。評論家ってだいたい偉そうでしょう? 他人から意見を言われてうーんと考え込んでしまう人は評論家として評価されないわけね。どんな意見を言われても手練手管でちゃんと枠に入っていることを示せる人が先生と呼ばれる。でも、それは枠を揺るがさない限りにおいて、間接的な語りしかしていないんですよ。


テープ起こし: 太田和彦 藤枝侑夏
by warabannshi | 2010-10-06 00:29 | 塩谷賢発言集 | Comments(0)



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