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#001 デカルトの『情念論』には何が書いてあるのか?
■背景
 先日、塩谷さんと伊藤さんと、浅草の「駒形どぜう」でどじょう鍋をつつきながらお話していたときに、ふと、塩谷さんがと言われた。「一般的なデカルト理解は『方法序説』に偏っているよね。じつは僕も『情念論』を読んだことがないんだけれど」。「私、読んだことありますよ!」とすかさず言い、淀みなくその結構を説明しようと試みたが、読んだことあるがあるにもかかわらず、箸を持ったまま絶句。
 デカルトの『情念論』には何が書いてあるのか、覚えておけばよかった。

■素材

省察・情念論 (中公クラシックス)

デカルト / 中央公論新社



■覚えていた断片
・デカルト(1596-1650)は、『方法序説』(1637年)のなかで、「暫定的道徳」をかかげている。
 →「暫定的道徳」の内容までは覚えていない。
1.自分の国の法律と習慣に従うこと。
2.一度決心したことは断固かつ毅然として行うこと。
3.つねに運命よりも自分に克つことにつとめ、世界の秩序よりも自分の欲望を変えるように努力すること。

・『情念論』(1649年)にはそんな「暫定的道徳」でなく「決定的道徳」の構想がなされている。

・その決定的道徳のキーとなるのが「高邁générosité」という概念。
 →「高邁」だったか「誠意」だったか、記憶があやふやだったが、「高邁」、これが正しい。

・情念一般に対してデカルトが取る態度は、「欲望」を土台とする情念passions(=受動passions)を、知性および意志(=能動actions)によって統御しようというもの。それが自由で高貴な生き方に繋がる道である。
 →『情念論』は読み味としては、モンテーニュ(1533-1592)の『エセー』に近いものがあるけれど、デカルトはこの本を読んでいたのか?

・しかし、デカルトは、情念一般が有害なものであると考えているのではない。(ストア派的な無感動を目指しているわけではない)
 →この当時、魔女狩りの風習がまだ残っていたはずだが、一般的にフランスでは情念一般についてどのような解釈がなされていたのか?

■デカルトの『情念論』には何が書いてあるのか?
by warabannshi | 2011-07-14 23:25 | メモ | Comments(0)
探索記録39「人はその食べるところのものだ Der Mensch ist, was er isst」
 私を含めた都心在住の人にとって、ここ数日間の「放射能汚染」を最も身近に感じるのは、食べ物や飲み物を通してだと思います。「自分が食べている、飲んでいるこれは、安全か?」という問い、これは適切です。ところで、いったい私たちは何によって「食べていいものと、いけないもの」を判断するのでしょうか。
 私たちは311以前にも、「放射性物質」と比肩しうる発癌性が危惧されていたり、どう人体に作用するか不分明な化学調味料を、コンビニ弁当やレトルト食品、その他諸々で摂取しつづけてきました。でもそれらは「食べていいもの」としてカテゴライズされていました。これからもそうでしょう。べつに、コンビニ弁当やレトルト食品を食べるな、と言いたいわけではありません(本当に便利ですし)。あくまでもここでの問いは、「私たちは何によって、食べていいものと、いけないものを判断しているのか?」です。
 「人体に対する科学的安全性、あるいは有効性が確かめられたから(食べてもいい)」という答えは早計です。人体という複雑な物理化学系のすべてを私たちが知っているわけではないからです。例えば、全身麻酔がどのように成立するのか、そのメカニズムはいまだ解明されていません。私たちは日常生活において、「科学的検証」という名で偽装されたプリミティヴな直感で、「食べていいものと、いけないもの」を判断してはいないでしょうか。それが露呈したのが、今回の買占め騒動だと思っています。「よくわからないけど怖い」、だから「それを食べてはいけない」。
 「食べてはいけない」に関する忌避と禁忌が世界のあらゆる文化圏にあることを、人類学の研究結果は教えてくれます。例えば、イスラム教徒は不浄としてブタを食べません。ヒンドゥー教徒は神の使いであるとしてウシを食べません。マダガスカル人は、敵に出会うと丸くなるハリネズミを食べると憶病になると嫌います。これらの例に共通しているのは、食べたものに体が置換されていくプロセスです。食べるとは食べたものを消化、吸収し、自分の血肉に同化することですが、それは同時に「食べたものに食べられていくこと」でもあります。ここに、人類が食べ物に働かせる強力なシンボル化を見出すことができます。(ちなみに、「食べたものに食べられていく」現象は、分子レベルでは常に行われています。1942年にシェーンハイマー(1898-1941)が行った実験によれば、ラットに3日間、重窒素を餌に混ぜて食べさせたところ、摂取された重窒素の7割が体の中に蛋白質として取り込まれたことがわかりました)
 シンボル化の能力に媒介されることで、「食べる」という振る舞いは、現実的なものだけでなく、可能性も含み込んだものを自らのうちに取り込む出来事として、拡張されます。先の「不潔なブタを食べると穢れる」、「丸くなるハリネズミを食べると臆病になる」はネガティヴな例ですが、北アメリカのチェロキー族はシカを食べると足が速くなると信じて好んで食べていましたし、北アフリカでは小心者でもオオカミやライオンを食べると、大胆不敵な勇者になると考えられていました。
 食べたものは、物質の水準だけでなく、むしろシンボルの水準で、私たちを転成させます。ドイツのフォイエルバッハ(1804-1872)は、「人はその食べるところのものだDer Mensch ist, was er isst」という言葉遊びで彼の唯物論的立場を明らかにしていますが、これは前未来形で書かれるほうが、実情に合っています。つまり「人は、これから食べるであろうところのものだ」と。
 「食べられるけれど、食べてはいけないもの」は、「それを食べることによって引き起こされる転成transformを被ってはならないもの」と言い換えることができます。では、「私たちにネガティヴな転成を引き起こすと想定されるもの」の特徴とは何でしょうか?
 ここでヒントとなるのは、世界中にある食肉に関する禁忌です。トーテム動物はもちろんですが、共通するのは「相応しくない方法で屠殺されたものの肉」を食べてはならない、という点です。『コーラン』第2章172-173節には、禁じられた食べ物として、アッラー以外に捧げられたもの、墜落死などの偶発的な仕方で死んだもの、つまり「自分に宛てられたとはいえない食べ物」が列挙されています。(参照: http://bit.ly/aYP2Q8)。
 ここから逆に「食べるに相応しい肉とは何なのか?」という問いに答えを導くことができます。それは「私に捧げられたとされた肉」です。そして、この認識はほぼ完全に、食べる側の思い込みです。倒れた老人の糧となるために自ら火の中に飛びこんだ、ブッダの前世のウサギじゃないんですから。しかし、「そういう話」は人間にとって少なからず、必要です。とりわけ食肉において。
 繰り返しますが、「私に捧げられた肉」は思い込みの産物です。しかしだからこそ、その思い込みは重要だと書きました。なぜか。私たちはプラシーボ効果を知っています。つまり、薬理作用のない乳糖や生理食塩水を「特効薬だよ」と患者さんに飲ませると、不思議なことに効果がでる、という、あれです。端的に言って、「ゴミのように殺されたものの肉を食べること」は、自分を「ゴミを食うやつ」と位置づけることになりますし、自分が食べているものを「餌」としかみなせないとき、人は「家畜」であることからどれだけ免れられることができるでしょうか。「私が食べているのはゴミだ」、「掠め取られた誰かの食い扶持だ」と、「私が食べているのは捧げものだ」、「誰かと分かち合われた恵みだ」とでは、後者の認識のほうが間違いなく、私たちを活かすでしょう。
 では、後者の認識(思い込み)はどのようなプロセスで成立するのか。「私に捧げられた肉」など実定的には存在しない。だからこそ、食前の祈りや儀礼が開発されたのでしょう。食べ物と、食べ物がここにあることに感謝の意を表わすことで、事後的にそれが捧げられたという事実を作るというやり方が。
 「食べていいもの、食べるにふさわしいもの」を、「食べ物がここにあることに感謝する」ことで事後的に作り出す。この方法を私たちは知っています。食べていい食べ物や飲んでいい水を求めて起きている大騒動は、このやり方を思い出すことで、少しだけ沈静化できるのではないかと私は考えています。もちろん、それはあくまで主観の水準であり、「いただきます」の一言で、食物の安全性があがるわけではありません。しかし、残飯として捨てられる食物が、金額ベースで3割を超えるほど食物と疎遠なこの国では、まず食物と親しみ深い関係を取り結ぶことが、今後も長く続くだろう「食・水の安全騒動」を静める、最初の一歩です。


---せっかくなので、コラムにしたものも掲載---


 『変わる家族、変わる食卓―真実に破壊されるマーケティング常識―』で岩村暢子は、若年層の問題として語られていた食生活の乱れを、子供のいる「普通の家庭の食卓」のなかにこそ見出している。1960年以降に生まれた子供を持つ主婦を対象に、1998年から2002年まで、のべ111世帯で行われた調査の結果は衝撃的だが、詳細はここでは省く。第1章で、岩村は、現代を「飽食の時代」ではなく、衣食住遊の中の「食」の相対的下落時代、「食」軽視の時代として位置づける。食べることに興味がない、と傭踏なく言う主婦は珍しくない。忙しくて食事を支度する時間がないと言う主婦の多忙の理由は週3回のテニスである。子どものお稽古事のある日のお昼はコンビニのお握りで、食べることに手をかけるより、親として、子どもにしてやりたい大切なことがある、という声もある。
 自国の食料自給率の低さを嘆き、食の安全と消費者の信頼の確保を求めるその一方で、朝に菓子パン、昼にコンビニ弁当をほおばり、連日居酒屋で外食し、家族がそれぞれの好物をそれぞれの気分で食べていることにまったく違和感を覚えないとしたら、それは端的に不思議な事態である。自炊を心がけている家庭もあるだろう。しかしそれは食費を切り詰めるためであったり、まとめ買いした特売品をゴミにせずに使いきろうとする「処理」ではないだろうか。いや、私は栄養バランスを重視して、1日30品目を欠かさない、という人もいるだろう。だがそれは、食材を栄養・機能で記号化して捉え、その種類や量を優先し、ワンメニューで効率よく多種の「記号」を網羅しようとする「配合飼料型メニュー」ではないだろうか―。
 そう問いかける本書には少なからぬ反発が沸き起こった。統計のサンプル数が少ない、解釈に作為が感じられる、等である。それらの反発にも一理あるだろう。が、むしろそれらの反発に接して再確認できるのは、私たちは日常的に食べているものをとやかく言われると非常に居心地悪く思う、という事実だ。私が食べているものをあなたが「ゴミ」扱いしようと「餌」扱いしようと、私は何の不快感も覚えない、と言えるほど、私たちは食に無頓着になりきれない。
 19世紀のドイツの哲学者フオイエルバッハのある論文の題名は、示唆深い。日く、「人はその食べるところのものだ,er Menschist , was erisst」。そう、私たちは食べたものでできている。食べるとは食べたものを消化、吸収し、自分の血肉に同化することだが、それは見方を変えれば、食べたものに食べられていくことでもある。
 食とは、本来、人類にとって危険な行為なのだ。食べ物に関する忌避と禁忌は世界のあらゆる文化圏にある。例えば、イスラム教徒は不浄なブタを食べない。マダガスカル人は、敵に出会うと丸くなるハリネズミを食べると憶病になると嫌う。北アメリカのチェロキー族はシカを食べると足が速くなると信じて好んで食べ、北アフリカでは小心者でもオオカミやライオンを食べると、大胆不敵な勇者になると考えた。ここに、人類が食べ物に働かせる強力なシンボル化を見出すことができる。シンボル化の能力に媒介されることで、「食べる」という振る舞いは、現実的なものだけでなく、可能性も含み込んだものを自らのうちに取り込む出来事として、拡張される。普段口にするものを「ゴミ」扱いされたときには、自分自身がゴミ扱いされたような不快を覚えないだろうか。また、目の前の食品が「餌」のように見えるときとは、自らを家畜とみなす投げ遣りな気分に陥ったときではないだろうか。
 忌避される食べ物は、それを食べることによって私たちをネガテイヴに変容させるものと言い換えることができる。それでは私たちをネガテイヴに変容させない食べ物とは、何か。「ゴミ」でも「餌」でもないもの。それは「贈りもの」だ。『柳田国男集』(定本第19巻)によれば、そもそも「食べる」という動詞は、ダブル、タブの受身形であり、タバハル、つまり「(一度お供えした物を)賜る」ことと密接な関係を持つ。では、目の前の食べ物は誰からの賜りものなのか。
 日々の糧を与えてくれる超越的な存在に祈る習慣は、すでに私たちから遠い。しかし、「賜りもの」としての食べ物は、最初からそれとしてあるわけではない。私たちは食前・食後に挨拶をして、食べ物と、食べ物がここにあることに感謝の意を表す。そのことにより、目の前の食べ物が賜りものであることを事後的に認めるのである。この順番は逆ではない。賜りものがあることを感謝・するのではなく、感謝することでそれが賜りものとなる。
 農業問題がいくら報道されようとも、多くの日本人にとってく農〉は依然として縁遠いトピックである。その縁遠さは「食」の軽視の構造と通低する。一般家庭から毎年廃棄される約1,000万トンの生ゴミのうち、まだ食べられる品質である「食べ残し」は38.8パーセントを占め(2002年)、その中の11パーセントは買ったままの状態で捨てられる。外食産業、コンビニを含めると、この量はさらに増える。「いただきます」の一言で、この数値が大きく変動するわけではない。だが、私たちが食べ物と親しみ深い関係を取り結ぶ試みは、〈農〉の再興の過程において不可避ではないだろうか。
by warabannshi | 2011-03-24 23:42 | メモ | Comments(0)
【購入物+感想】第11回文学フリマを終えて。
 12月5日(日)に行われた第11回文学フリマで、下記を購入。
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B-19:トラウマ児童文学レビュー「トラウマ児童文学レビュー集 懐かしい傷」[読了]
K-9:佐藤「文学フリマ殺人事件」
N-4:around STONE「around STONE vol.0」
O-7:ナタリー「一九九八年のキャッチボール」
O-7:ナタリー「ボオドレエルの一行未満。」[読了]
O-7:ナタリー「一羽の鳥が飛行機から飛び降りる」[読了]
R-10:西瓜鯨油社「物語群」
R-10:1103号室「少女23区」
S-07:青年文化ゼミ有志「文化と表現vol.1」[読了]
S-07:青年文化ゼミ有志「文化と表現vol.4」
S-07:青年文化ゼミ有志「文化と表現vol.5」
S-07:青年文化ゼミ有志「文化と表現vol.7」[読了]
ア-1:project .review「.review 002」
ア-7:早稲田大学現代文学会「LIBRERIA 2010」
ア-20:書肆べう「ながしろばんり創作噺」(CD)
ア-20:書肆べう「彼の岸 vol.7」
エ-19:双葉文学カフェ「FLOWORDS Vol. 1」
エ-1:アニメルカ製作委員会「アニメルカ vol.3」
どこだか忘れてすみません:木葉揺「ぽえむっしゅう」

 ほかの参加者の方々がどのようなものを購入されたかについては、「第十一回文学フリマ」感想集 http://d.hatena.ne.jp/jugoya/20101205 を読むことができます。

 とりあえず、読んだものの感想。
・B-19:トラウマ児童文学レビュー「トラウマ児童文学レビュー集 懐かしい傷」
 twitterで見つけてから買おうと思っていた電書。十代までにどれほど那須正幹とやなせたかしと三田村信行から教育を受けてきたかを思い出した。つまり、「世の中には往ったきり還ってこないこともある」ということを私は彼らから学んだ。
 「非トラウマ児童文学」――例えば『母を訪ねて三千里』では、主人公マルコは行方の知れない失われた母親を世界の果てまで探しにいく。そして、苦難の末に再会をはたし、物語は終幕をむかえる。また『ニルスの不思議な旅』では、悪童ニルス・ホルゲションはガンの一行とともに世界を見聞して自らの傲岸や無知を恥じ、周期的な渡り鳥の移動にしたがって無事、彼自身の日常に帰る。
 しかし、「世の中には往ったきり還ってこないこともある」。
 母親を殺された復讐のために、母親を殺した狼に弟子入りし、その狼を殺したあとで「狼でも羊でもない、得体の知れないぞっとする生き物」として咆哮する羊の『チリンの鈴』(やなせたかし)。ある日、歩道の敷石のくぼみをきっかけに気紛れにいつもと違う道を歩いて帰宅すると、家には〈クラゲのようなぐにゃっとするもの〉が二体いる『どこにもゆけない道』(三田村信行)。
 「世の中には往ったきり還ってこないこともある」。
 慎ましさと節度を妥協と小心さ以外の理由からはじめさせるのは、いつもこの教えだ。

・O-7:ナタリー「ボオドレエルの一行未満。」
・O-7:ナタリー「一羽の鳥が飛行機から飛び降りる」
 芥川龍之介は致死量の睡眠薬を飲んで自殺した。芥川龍之介は短編小説しか書かなかった。芥川龍之介は鈴木三重吉が創刊した『赤い鳥』にも童話を寄せている。内田百閒の「山高帽子」に出てくる顔の長い先生は芥川龍之介がモデルだろう。百閒曰く、「芥川は、こちらから何を話しても、聞いてはいるらしいが、向うの云う事はべろべろで、舌が動かないのか、縺れているのか、云う事が中中解らない。どうしたのだと尋ねると、昨夜薬をのみ過ぎたのだと云う。そんな事をしてはいけないだろうと云えば、それは勿論いけないけれど、そんな事を云うなら、君だってお酒を飲んで酔っ払うだろう、などと云って、そう云ったかと思うと、人の前で首を垂れて、眠ってしまった」(「亀鳴くや」)。
 まだ一冊未読だけれど、ウワノソラー(上の空でいることが多い人)としての芥川龍之介を意識するきっかけとなった。今回の文学フリマでは「上の空割引」をやったおおかげでブースを訪れてくれた方々からたくさん上の空話、白昼夢を聴くことができたが、それにもまして、日本文学におけるウワノソラーの系譜をたどってみたくもなった。

・S-07:青年文化ゼミ有志「文化と表現vol.1」
・S-07:青年文化ゼミ有志「文化と表現vol.7」
 高校の友人・四竈と八年ぶりに邂逅した。私たちは雑種だった。いろいろなものを混ぜる実験場として自身を使っていた。何かを生み出すために混ぜているわけではなかった。AとBを混ぜたらCが生まれる。欲しいのは「C」ではなく「混ぜたら」であり、前者を優先したときに造られるのは、それは品種であって雑種ではない。雑種の本懐は力強さであり、成績は悪かった。八年後、彼は、有斐閣で仕事をしながら映画批評を書く男になっていた。彼の力強さが衰えていないことに安堵した。「vol.1」の随筆で出てくるクサオが誰だったか思い出せそうで思い出せない。
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 なにはともあれ、無事に終わってよかった。
 今回の文フリでは四竈にも会えたし、around STONEの後藤さんにも会えた。
 後藤さんと出会ったのは三年ぶりで、これが二回目。最初に会ったのは私(と後藤さん)が塩谷さんを初めて知ったときなのでよく憶えている。2007年5月28日、塩谷賢さんが芸大で講義「誰が見たり聞いたりするのか?」を終えたあと、上野の焼き鳥屋での二次会には、すっかり塩谷さんの学識の驚異にあてられた六人が集結していたが、なぜか一人も芸大生がいなくて(つまり全員もぐりの学生で)、そのなかでも後藤さんは「俺は頭が良いから大学なんて行かなくても良いと思っていたんですよ…」とその恵まれた体格とともに異彩を放っていた。
 あと、牟礼鯨さんの大学時代の友人という「青森県に住むクセルクセス氏」が非実在青年であることを知り、ブースを訪なうであろう彼から早稲田時代の鯨さんのことを訊こうとしていた私は残念だった。
by warabannshi | 2010-12-09 14:23 | メモ | Comments(2)
【感想】コミティア94拡大specialを終えて。
 コミティア94拡大specialに参加の皆様、おつかれさまでした。『笑半紙』、『そこ意味』それぞれ4冊ずつの売上となりました。前回は2冊ずつだったので、二倍です。なんという慎ましき前進。お買い上げいただいた方、ブースを訪れてくださった方、本当にありがとうございました。笑半紙は、2011/2/13(日)に予定されているコミティア95はお休みし、次々回のコミティア96に参加する予定です。

 以下、購入した物品紹介。


[創作系・文芸]

牟礼鯨『奇貨おくべからず』500円
 日本各地の同人誌即売会で活躍している西瓜鯨油社の新刊。現代版、紫上育成計画。23歳の男性と9歳の女の子との共同生活は、偏屈と偏見と健気さと微笑ましさとに彩られている。幼女の愛らしさは、それがエロティックな対象であるから発動するのではない。そうではなく、育成という営みこそが本質的にエロティックなふるまいなのだということを、この百ページに満たない本は気づかせてくれる。
 彼の札幌・塾講師時代の「朝起きたら室温がマイナス2℃」、「そっちはいま何度?」「零度」「へえ、意外と北海道は暖かいんだね」「あ、室温だった」という苛酷な環境で綴られただけあって、ディティールの生々しさも良い。『奇貨おくべからず』を含めた、西瓜鯨油社のすべての作品(『掌編集』、『複雑系』、『コルキータ』)を推薦したいところであるが、ほかの作品と同様、すでに品切れとのこと。残念。


鳥久保咲人『或る飛び跳ねた熱帯魚の場合』300円
 高校二年の現代文の問題演習で吉本ばななの『TUGUMI』の一節をやったときに「ボクっ娘」というジャンルがあることを習った。「ボクっ娘」は知性的であるが、心が屈折していて、大人になりたがらない。というか大人は〈敵〉である。そんなジュニア小説の伝統を『或る飛び跳ねた熱帯魚の場合』は受け継いでいる。そして、伝統的にそうであるように、子供は不安をわだかまらせつつ、子供を終える。高校生の女の子が、もう一人の高校生の女の子に告白するまでの百二十四頁。


[創作系・漫画]

えのころ工房『えのころ漫画館』〈3〉1000円〈4〉800円
 この冒険漫画の登場人物たち(全員、猫)は、しょっちゅう何かに驚く。そして大工道具を引っ張り出して手元の材料から何かを作っている。それは飛行機だったり迷路だったり潜水艦だったりする。それらは失敗と試行錯誤を繰り返して、いよいよ物語の終わりには完成するのだが、結果はともあれ、それまでの頁で“上手くいまどうか分かんないけど、なんだかわくわくする”という気分がゆっくりと醸成されていくのが堪らなく良い。そしてどんなときでも一緒にやってくれる仲間がいるという無窮の安心感が、この気分を下支えしている。
 内容もさることながら、装丁と構成にかける丁寧さには脱帽するしかない。おまけの袋とじイラストロジックも含めて、本棚に置くだけで居心地のよさを提供してくれる。既刊8巻。お勧め。


亀屋玄武堂 ポストカード 100円
 雑誌Fellows!で連載中の『イン・ワンダーランド』の作者・薮内貴広氏のサークルだということに帰宅してから気づきました。今回のコミティアで一目惚れした絵柄。来年の五月のコミティアでは必ず漫画『蛇足氏を探して』を買おう。


[批評系]

サークルファイブエム「HYPERINFLATION」 100円
 各々の紹介者のFavoriteが圧縮された漫画レヴュー・ペーパー。このボリュームで100円は廉価。紹介されている作品群のなかの『とある科学の超電磁砲』と『へうげもの』しかわからなかった。が、それをもって2010年の日本において私の漫画リテラシーが高いほうではないとは決して言えない。マニアック。


●サークルファイブエム「5M vol.04」(特集:萌え4コマ的世界観が21世紀を支配する)1000円
 コンテンツの詳細は http://5m-web.com/?p=106 へ。
 随分前にある方から勧められた漫画が『スケッチブック』だったか『ひだまりスケッチ』だったかどうしても思い出せない。でもこの際どちらも読んでみようと思わされる、そういうレヴューが載っている。
 以前、「全自動萌え4コマ製造サイト」なるものがあるというニュースを読んだことがある。バラしたコマ(それは一瞬の風景だけのこともあるし、一つのエピソードの叙述であることもある)を特定の規則で並べると、なんとなく「萌え4コマ」っぽくなるという。真偽のほどは定かではないが、重要なのは、大小長短どのレベルでもかまわないから「コマ」という単位をつなぎ合わせることが人間になにかを感知させているということで、それは人間が普段、風景やエピソードの記憶を細かく厳密なかたちで保存しているのではなく、まさに「コマ」という単位にまとめて持ち歩いていることに起因しているように思える。萌え4コマは、だから私たちの記憶様式の縮図なのかもしれない。


反アニメ批評『アニメルカ vol.1』1000円
 コンテンツの詳細は http://animerca.blog117.fc2.com/blog-entry-10.htmlへ。
 畏友・村上裕一の『WHITE ALBUM』論が掲載されている。村上裕一の文章は癖になる。それはデヴィッド・リンチが癖になるのと同じように、公開されているものは出来・不出来の下馬評を問わず、全部読みたくなるのである。それは私たちが惹きつけられているのが内容ではなく、作り手の思考の呼吸そのものだからだ。内田百閒曰く「噺家はオチで笑わせるうちは下である」と。至言である。そしてたいていの中毒症状がそうであるように、読めば読むほど、乾きは止まらなくなるのだ。彼の処女作の出版が待たれる。
 そういえば初夏に勤務先の高校で行った「エヴァ/ヱヴァ特別授業」でゲスト出演してもらった折も『WHITE ALBUM』を熱く推薦されたがまだ未視聴である。『WHITE ALBUM』一気見の日を作ろうと思う。
by warabannshi | 2010-11-17 12:05 | メモ | Comments(2)
探索記録38「ホフマンスタールは、R・シュトラウスは、『アラベッラ』で何をしたかったのか?」
 いま初台の新国立劇場でやっているオペラ『アラベッラ』について、新宿・ローレルで塩谷さんから伺った話の備忘メモ。前のと同じく、どこからどこまでが塩谷さんの発言で、どこからどこまでが太田のリプライか不明。




 ホフマンスタールの原作に、リヒャルト・シュトラウスが曲をつけたオペラ『アラベッラ』は、なんというか、八〇年代の大島弓子の作品のなかにありそうな、少女漫画的な作品。ラブコメというには重いけど、勘違いとカムフラージュとどたばたありの楽しい作品。とはいえ、太田はじつはまだ『アラベッラ』を観たことはない。パンフレットの「あらすじ」を読んで、そう感じただけである。どんな話か? こんな話である。

 1860年のウィーン。退役騎兵大尉のヴァルトナー伯爵夫妻は、金もないのに年頃の2人の娘を連れて豪勢なホテル住まいをしている。都会での派手な生活に加え、わずかな蓄えも博打狂いの伯爵がすってしまい底をつくが、家族は美貌の姉娘アラベッラに金持の結婚相手を見つけることに一縷の望みを繋いでいる。

第1幕 ヴァルトナー伯爵一家が滞在するホテルの一室
 ヴァルトナー伯爵が博打に行った隙に、伯爵夫人は怪しげな女占い師を部屋に引き入れて、ウィーンでの将来を占ってもらっている。女占い師はトランプ占いで、伯爵が賭けで破産することや箱入り娘のアラベッラに結婚相手が出来ること、しかしそれを妹に邪魔されるだろう……などと、胡散臭い予言を次々並べ立てる。占いの結果に一喜一憂する夫人達を尻目に、借金取りが請求書を持ってやって来る。世間体のために男装させられて「弟」ということになっているズデンカは、手なれたもので次々あしらって追い返す。夫人と女占い師が別室に消えると、アラベッラを愛する若い軍人のマッテオがやってくる。ズデンカは親友のマッテオを喜ばせるためにアラベッラの手紙を代筆していたのだが、彼は熱っぽい手紙の文面と違う普段のアラベッラのつれない態度に絶望して自殺をほのめかす。
 入れ替わりにアラベッラが登場。ズデンカはマッテオを愛しているが、彼を救うためにアラベッラとの仲を成就させようとする。しかしアラベッラは、家族を破産から救うためには相手が金持ちでなければ結婚出来ないと言う。ふと彼女は、今朝道で見かけた立派な身なりの異邦の旅人を思い出す。アラベラが恋へのあこがれを切々と歌うと、ズデンカも歌い美しい二重唱になる。
 ヴァルトナー伯爵と夫人が帰って来る。いよいよ無一文となった伯爵は、破産から逃れるために、かつて軍人時代に仲が良かったマンドリーカという富豪にアラベラを嫁がせる話をする。ちょうどその時、召使がマンドリーカの名刺を持って現れる。喜ぶヴァルトナーだったが、招き入れたマンドリーカは、彼の知ってる男ではなかった。先代のマンドリーカは亡くなり、その甥が後を継いでいたのである。
 がっかりするヴァルトナーに、マンドリーカは彼が来た理由を語る。ヴァルトナーが叔父の気を引くために送ったアラベラの写真を見て、一目ぼれして求婚するためにやって来たというのだ。ヴァルトナーはちゃっかりマンドリーカから金をせしめると、ご機嫌になりアラベッラに紹介することを請合う。
 ズデンカが入ってくるが、臨時収入を得て浮かれきったヴァルトナーは賭博に出かけてしまう。ズデンカが呆れていると、マッテオが再び忍んできて彼女の心をかき乱す。
 最後にアラベッラが登場し、あの旅人を思いつつメランコリックなアリアを歌うと、ズデンカとともにいさんで外出する。

第2幕 舞踏会の会場
 ウィーンで夜毎開かれている御者舞踏会(フィアカーバル)のダンスホールに続く広間。
 アラベッラはあこがれていたあの旅人、マンドリーカが自分に求婚するために現れたことに驚くが、わざと素っ気無い態度を取る。しかし、マンドリーカの素朴な心情にほだされ、彼の求婚を受ける。愛の二重唱。
 人気歌手フィアカーミリが現れ、アラベッラを賛美する陽気な歌を歌う。
 アラベッラは独身に別れを告げるために、彼女に求婚していたエレメール、ドミニク、ラモーラルの3人と踊る。しかしマッテオはどうしてもアラベラを忘れられない。ズデンカはやむを得ず、自分が姉の身代わりになって彼を慰める決意をし、マッテオにアラベッラとの逢瀬を手引きする。それを偶然耳にしたマンドリーカは、あわてて2人を捕まえようとするが逃げられてしまう。半信半疑のマンドリーカの元に、アラベッラの手紙が届けられる。マドリーカはアラベッラの裏切りを確信して自暴自棄になり、フィアカーミリとともに恋人をなじる荒々しい歌を歌い踊り、大騒ぎになってしまう。

第3幕 ヴァルトナー伯爵が滞在するホテルのロビー
 ひと気の途絶えた深夜のロビー。ややあって忍んでいたアラベッラの部屋(ほんとうはズデンカの部屋)から出てきたマッテオは階段を降りて来るが、ちょうど舞踏会から帰ってきた本物のアラベッラと出くわし驚く。ついさっきまで愛し合ったズデンカをアラベッラと思い込んでいるマッテオは、アラベッラのそっけない態度が信じられず口論になる。
 揉めている二人のところに、舞踏会の連中を引き連れたマンドリーカが現れ、2人のただならぬ様子を邪推する。ヴァルトナーはマンドリーカの無礼に憤慨して、彼に決闘を申し込む。
 その時ズデンカが女性の姿で出てきて、自分のしでかした全てを告白し、「ドナウ川に身投げする」と叫ぶ。妹を優しく抱きしめるアラベッラ。一堂はズデンカの献身的な愛に打たれ、マッテオも初めて見る少女の姿のズデンカに心惹かれる。
 アラベッラは喉が渇いたといい、マンドリーカの従者にコップ一杯の水を頼むと部屋に引っ込む。
 激しい自己嫌悪に駆られるマンドリーカを残して人々が去ると、やがてアラベッラが階段をゆっくり降りてきて、マンドリーカにコップを差し出す。これはマンドリーカの故郷に伝わる、求婚を受け入れる際の風習である。マンドリーカは幸福に酔いしれ、水を飲むとコップを叩き割り、愛を誓う。「ずっといまのままでいてくれますか」とマンドリーカ。「どうして変わることができましょう」とアラベッラ。恋人たちが抱き合ううちに、幕となる。


 以上はwikipedia「アラベラ(オペラ)」にちょっと太田が手を加えたもの。
 ちょっと複雑だが、ストレートで甘い話である。初演は1933年7月1日。ナチスが台頭しているときに上演されていた作品であるとは思えない。風紀を乱すとかなんとかいう理由で禁止されそうだ。だいたい世紀末ウィーンを代表する作家、ホフマンスタールの原作だ。文句のつけようはそこら中にある。
 でも、ほんとうにこれは「甘い話」なんだろうか?
 ラストシーンの、「ずっといまのままでいてくれますか」と言うマンドリーカに、「どうして変わることができましょう」とアラベッラが応えるところ。よくあるシーンだけれど、この場合、アラベッラはいままでわりと上手く世渡りできてきたのは、いままで男装していたズデンカの陰の献身ゆえであったことがわかってショックで呆然としている状態である。そんな自失のアルベッラに、マンドリーカは「ずっといまのままでいてくれますか?」と言う。これはどう考えたっておかしい。マンドリーカは鈍ちんなのだろうか。それに答えるアラベッラもおかしい。「どうして変わることができましょう」。敗北宣言である。そして二人は抱き合って、幕。
 この場合、検討すべきは、むしろ『アルベッラ』を「ストレートで甘い話」として観る見方のほうだ。
 これはホフマンスタールが効かせた「毒」なのではないか?
 あるいは「毒」を仕込んだのはリヒャルト・ストラウスかもしれない。このラストの台本はR・ストラウスの独断だからだ。ホフマンスタールは、この劇の第一幕しか監修していない。心臓発作で亡くなってしまったからだ。フーゴ・フォン・ホーフマンスタール(Hugo von Hofmannsthal, 1874年2月1日 - 1929年7月15日)。オーストリア=ハンガリー帝国とともに生きた人だった。

 そのホフマンスタールの代表作に『チャンドス卿の手紙』というのがある。失語症で書くことができなくなったあるチャンドス卿が、長い長い流麗な文体の手紙で、いかに自分が失語症になったかを語る、という話である。構成にそもそも矛盾がある。失語症なら手紙も書けないはずじゃないのか? 太田はこの構成の矛盾に「しょせんホフマンスタールはこの程度のパラドックスも見抜けないロマン作家だよ」と思いつつ、でもわりと好きだったのだが、じつはこれはある意味、ホフマンスタールの“計画”の縮図のような作品である。
 どういうことか? というか、ホフマンスタールの“計画”とは何か?
 忘れないうちに結論を書く。ホフマンスタールの“計画”とは「自らの葬儀の棺の釘を自らで打つこと」。「ロマン主義の墓碑銘を、ロマン主義で書くこと」である。
 よくホフマンスタールの生きた年代を考えてみてほしい。同時代作家に誰がいるだろうか。ロベルト・ムージル(Robert Musil, 1880年11月6日 - 1942年4月15日)、フランツ・カフカ(Franz Kafka, 1883年7月3日 - 1924年6月3日)がいる。ジークムント・フロイト(Sigmund Freud, 1856年5月6日 - 1939年9月23日)も、ウィーンで快調にヒステリー研究をやっていた。グスタフ・マーラー(Gustav Mahler, 1860年7月7日 - 1911年5月18日)は毎日決まった散歩コースを歩いていたため、よくファンからサイン攻めにあっていたという。そんな時代だ。ロマン主義? もうすでに昔の話である。そしてホフマンスタールはそんなこと当然わかっていた。でも、ホフマンスタールはロマン主義の流麗な文体で、うっとりするようなお話を書き続けた。ほとんど確信犯的に。なぜ? なぜ時代遅れといってもいいようなロマン主義を貫いたのか? おまけに彼はギリシア古典劇(『エレクトラ』、『ナクソス島のアリアドネ』)や、中世宗教劇(『イェーダーマン』)など、かび臭い題材ばかり扱う。なぜ? 彼の名前に von が付いているから=根っからの貴族だったからか?
 無論、それもあるだろう。爛熟したブルジョワ社会の末期を生きる貴族だからこそ、やらなければならないことがあった。
 いままで自らの祖先たちがたどってきた時代の、埋葬である。
 死んだものは、葬らねばならない。
 しかし、それは外側から行われるのではなく、自らの手で行わなければならない。なぜか? 一つには、外から見ている観察者には、何が死んでいて、何がまだ生きているかがわからないから。生きている者を生き埋めにしたり、死んでいるものを放置して腐乱させたりしたら大変だ。もう一つは、葬儀の仕方を観察者がわきまえているとは限らないから。
 葬儀は、徹頭徹尾、儀式的=形式的なものである。儀式としてはじまり、儀式として維持され、儀式として終わる。葬式に宗教的教義は必要ない。儀式しかない。だからこそ、「どのように葬るか?」という問いがクリティカルなものとなる。葬り方を知っている者が、まず率先して葬儀を行わなければならない。それは誰か。貴族だ。儀式的な(無駄飯食らいの)日々を何代にもわたって送りつづけた、その底力を見せてみろ。
 ホフマンスタールはそれを劇作家として、詩人として、請け負った。十九世紀のロマン主義の葬儀を。あるいはもっと遡って、物語が物語としてピュアに機能できた時代の物語の葬儀を。ぶっちゃけてしまえば、第一次世界大戦(1914-1918)以前のヨーロッパ世界の、壮大な葬儀の喪主の一人として、彼はいる。
 ただし、喪主である彼もまた、「死人」だ。ホフマンスタールはオーストリア=ハンガリー帝国の貴族である。じつは素寒貧のくせに、プライドだけは高い。『アラベッラ』のヴァルトナー伯爵と同じだ。もう後は無い。だが、いままでの生活を変えることはできない。デカダンス。自らからただよう死臭・腐臭に、ホフマンスタールが気がつかなかったはずがない。だから彼はカムフラージュする。男装するズデンカのように。まだ生きていること、闊達であることを偽装する。自らの葬儀を粛々と進める、最後に自らの棺の蓋の釘を自らで打つその瞬間まで。
 ホフマンスタールは、しかし、それを悲劇的には決して行わない。おそらくワーグナーならとびっきりの悲劇にしただろう。得意のライトモティーフで。『トリスタンとイゾルデ』のように形而上学的な救済へと導いたかもしれない。しかし、ホフマンスタールはそうはしない。『アラベッラ』に媚薬は出てこない。出てくるのは、男装したズデンカだ。『アラベッラ』は感動的な死で決着がつかない。「ずっと、いまのままで=敗北したままでいてくれますか?」「どうして変わることができましょう」。『アラベッラ』は、裏・『トリスタンとイゾルデ』だ。あるいは非常に洗練された、新・『サロメ』。
 
 葬儀など行わなくても、時間は流れていく。文明は進む。死体は腐るだろう。そして白骨化する。塵になり、風に吹き飛ばされる。それは弔おうと弔わなかろうと変わらない。しかし、どうも不安だ。なぜだかわからないが。そんなふうに塵となるようにまかせてはならない。フロイトの論文「文化のなかの居心地の悪さ(Das Unbehagen in der Kultur)」(1929)は、そういう“話”だ。「死者たちを葬らないと、気分が悪くなりますよ、しまいには病気になりますよ」。フロイトの弟子、というか継承者のラカンもそう言っている。(ちなみにレヴィナスは「死者たちを葬らないと、祟りますよ」とタルムードを片手にふれてまわる坊さんであり、バタイユは寝ても醒めても葬式のことばかり考えている寺男だ)
 ホフマンスタールは、そしてリヒャルト・シュトラウスは、感謝する死者として、自らを自らの手で葬ってみせる。かつての死者たちの功績を賛美することで。そして自らを遺産とすることで。
by warabannshi | 2010-10-11 23:22 | メモ | Comments(0)
探索記録37「どのようにしてメッセージは書かれるのか?」
 今日、初回講義があった塩谷さんの法政大学の科学哲学講義のあと、新宿・損保ジャパンビルのエクセルシオールでうかがった話の備忘メモ。どこからどこまでが塩谷さんの発言で、どこからどこまでが太田の誤解・曲解を含んだ解釈かは不明。もはや、こんなことが話されていました、以上のなにかではないです。

■どのようにしてメッセージは書かれるのか?
 ある文章が、「メッセージである」ということはどういうことなのか? 書き手がある文章をメッセージとして書いているからか。それでは「ある文章をメッセージとして書く」とはどういうことなのか。なにか文章を書くに当たり、書き手は「書かれる内容を予め決めて、それを伝達するために書く」という順序を必ずしもとるわけではない。(現に、この文章は、ほとんど行き当たりばったりで書かれているし)
 何かを伝達したい、という書き手の欲望によって、ある文章はメッセージとなるわけではない。
 読み手に読み取られることによって、ある文章は、初めてメッセージとなる。
 この順番は逆ではない。バルトを持ち出すまでもなく、「ある文章がメッセージとして生成するのは読み手においてである」。例えば漱石が修善寺で喀血して人事不省になったときに、壁にすばらしい南画の掛け軸がかかっているのを見た。回復したときに、あらためてその壁を見たら、南画だと思ったのは雨漏りのしみだった。

■書き手において、「どのようにしてメッセージは書かれるのか?」
 いや、たしかに「雨漏りのしみ」を「南画」に見せるのは読み手(この場合は鑑賞者か)である。でも、ここで考えたいのは逆の関係だ。つまり、いずれにせよ「南画」は「半紙に書かれた墨のしみ」に過ぎないわけだが、それを「南画」として描くということはどういうことか、と、そういうことだ。
 アラビア語の読み書きができない者にとって、アラビア語で書かれた文章は不可解な規則性をもってうねる線と傍点の連なりでしかない。日本語の読み書きができない者にとって、この文章は粗密が不規則に入れ替わる(漢字とひらがなが入れ替わる)記号の連なりでしかないだろう。
 読み手にとって、まるで意味がわからないものは、果たしてメッセージではないのか。
 しかし、それはすぐに解決する疑問である。つまり、ある文章の書き手は、その文章の最初の読み手であるということによって、書かれたあらゆる文章は一人以上の読み手をもつことになる。
 さて、では問題。
 ある文章の書き手が、その文章の最初の読み手であるとしたとき、「ある文章を読んでいるときには、もうそれを書いているだろう」と「ある文章を書いているときには、もうそれを読んでいるだろう」のどちらの順序を私たちは踏まえているのだろうか。
 常識的に言えば、後者だ。ここは常識に従おう。では、ちょっと変奏する。
 「ある文章を読み終えたときには、もうそれを書いているだろう」と「ある文章を書いているときには、もうそれを読み終えているだろう」。これはどうだろう?
 これもやっぱり後者だ。太田は、正直なところ、「読み終える」ということが起こったときには(つまりある文章にエンドマークがつくときには)前者のような気がしていた。というより、「ある文章を書いているときにそれを読み終えている」としたら、それを書く意味はないのではないか、書くモチベーションなんて生まれるのか、と思っていたが、そもそもいつもこのブログで書いている夢日記を書いているときには、もう「(夢を)見終えて/(夢日記を)読み終えて」いるのだ。
 例えば、ベートーヴェンは耳が聞こえなくなってから「第九」を作曲したわけだけれど、作曲しているときに、もう少し具体的に言えば、付箋紙にペンを走らせているときに、ベートーヴェンは「第九」を〈聞いてor聞き終えて)いたのだろうか。
 あと、太田が尊敬してやまないジャズピアニストのキース・ジャレットは、四十分以上のインプロヴィゼーションを行うけれど、鍵盤に指を落とすとき、彼はなにを〈聞いてor聞き終えて)いるのだろうか。
 いや、作曲、という現場では、文章を書く、という現場とは異なることが起こっている。そういう意見もあるだろう。
 そうだ。作曲は、「書く-読む」よりも「話す-聴く」に近い作業だ。そして両者は異なる。

■「書く-読む」と「話す-聴く」の違い。
 結論を先取りする。「書く-読む」と「話す-聴く」の違いは何か。前者は、純粋な言語行為を設定しやすいのに対して、後者は非常に設定しにくい。純粋な言語行為、というより、五感と切り離された言語行為、といったほうが適切かもしれない。つまり、「話す-聴く」においては口腔内の舌の触感や運動、そして聴覚がダイレクトに言語行為と係わってくるのがわかるのに対して、「書く-読む」においてはそこに当然介在しているはずの視覚が前面化しない。見る、と、読む、は違う行為であるからだ。薄暗くて本が読めなかったり、老眼で眼がしょぼしょぼになって虫眼鏡が必要になったときにも、それは視覚とは別の機能の衰えとして意識されるのではないかと思う。
 「書き手」と「話し手」は、それに関わるうえで、異なる。
 「ある文章を書いているときには、もうそれを読み終えているだろう」。
 「ある文章を話しているときには、もうそれを聞き終えているだろう」。 
 両者はやはり違うのだ。どこが違うのか、すぱっと示すことができないけれど、メッセージのモノ性が違う、といえば、なんとか伝わるだろうか。つまり、メッセージをモノの移動のように考えてしまう誤謬について、前者のほうが無警戒であるというか。……、何か混乱の予感がするけれど、続行。

■メッセージをモノの移動のように考えてしまう誤謬
 メッセージはモノの移動のように考えられがちである。つまり、この文章がなにかしら伝えるに値するような内容(コンテンツ)を準備していて、その内容が文章を通して、読み手であるあなたに伝わる、という構図が頭に浮かびがちである。が、それは勘違いである。太田和彦はじつはチューリングテストの応対機械かもしれない。あるいは猿が適当にタイピングした文字列が奇跡的な力によってこういう意味のある文章になっているのかもしれない。そんなの仮定にすぎない、というかもしれないけれど、少なくとも、どこに〈エンドマーク〉を付けるのか、わかったうえで文章を書く人はよっぽど真面目な人だと常々私は思う。真面目であり、そして、ちょっと鈍いと思う。
 「ちゃんとなにかしら伝えるに値するような内容(コンテンツ)を準備してから、それを伝達するために文章を書く人」にとって、メッセージはまさにモノ(=内容)の移動なんだろうけれど、それはある領域への接し方としては、ちょっと重装備すぎて、そのせいで動きが鈍くなっている。ある領域とはなにか。未来だ。
 メッセージをモノの移動のように考えてしまう誤謬を放置することで被るマイナスとは、未来(一寸先は闇)を考えられなくなる、ということだ。――と断定するのも雑なので補足すると、「メッセージをモノの移動のように考えたほうが、未来の安定性が増すように思える」のである。モノの移動、もう少し言うと、交換においては、交換の途中で交換されるモノが破損したり、迂回したり、紛失したりする可能性についてはそれを忘れることによって、「交換」というある種の賭けを安定したものとして成立させている。つまり未来の安定性が増すのである。この「都合の悪いことは忘れる、見てみぬフリをする、交換されたモノが届く時間を先取りする」営為をまとめて「信頼」と呼ぶ。
 で、メッセージをモノの移動のように考えることができるのは、そこには「信頼」があるからで(だから、メッセージをモノの移動のように考える人を私は真面目だと思うわけで)、でも「信頼」は「忘却」に基づいているわけで、「忘れたものがなくなるか」といえばそんなことはない。(だから、メッセージをモノの移動のように考える人を私は真面目だと思うのと同時に、ちょっと鈍い、と思う)
 「メッセージをモノの移動のように考えたほうが、未来の安定性が増すように思え」ても、未来はそんな「思える」などお構いなしに無茶苦茶で、底がない。
 じゃあ、未来を前にして勝手に震え上がっていろ、ということか、といえばそんなことではもちろんなく(震えていても良いんですが)、いろんなやり方で無法な未来に対しての動線を見出すことはできるはずで、その一環として、「ある文章を書いているときには、もうそれを読み終えているだろう」、「ある文章を話しているときには、もうそれを聞き終えているだろう」、というような、前未来形のもとで書かれるメッセージが(内容を越えて)あると、そう考えています。
by warabannshi | 2010-09-20 23:46 | メモ | Comments(0)
探索記録36 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』、そして「追憶の風景、記憶の闇」。
 昨年6月に公開された『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』のBlu-ray&DVDが、いよいよ明日、2010年5月26日に発売されます。本編111分49秒に加えて、製作過程に関する「Rebuild of EVANGELION:2.02」、驚愕の挿入歌『翼をください』に関する「"I Would Give You Anything"Scene NOGUCHI Ver」/、「破 劇場版特報・予告・TVSPOT」などの各種映像特典が付いていて、私は当然ながら予約開始と同時にAmazonで予約しました。Blu-rayの方で。



 「永遠に続きが出ないのではないかとなかば本気の声色で揶揄されていたとしてもおかしくはない」、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』の続編は、もちろん自主制作映画(*1)として圧倒的な動員数を記録したわけですが、しかしどういうわけか公開当時、『ヱヴァ破』に関する批評的言説は想像より遥かに少なかったように思えます。無論、ないことはない、のですが、90年代のエヴァに関して怒涛のように出版された批評・裏設定の読み解きの数々を生々しく記憶している者にとっては拍子抜けするほどの静けさでした。
今回の『ヱヴァ破』、その受容は我々の目には3パターンに分析されます。
 一 、特に批評的な関心も長年にわたるエヴァへの執着も持っていないがゆえに、普通のハリウッド的エンタテインメントとして楽しく映画を見られた層。
 二 、エヴァへの関心はあったが批評的な執着ゆえにヱヴァをDIS らざるをえない層。
 三 、14 年にわたる新世紀エヴァンゲリオンの歴史からいまだ解放されていない層。
 むろん、——もっぱら我々が三に属するモチベーションでこのようなことをしていることは間違いありません。
(mu「序文」『ASUKA IS (NOT) DEAD!!!』)

 村上裕一の呼びかけで作られることになったヱヴァ批評のコピー本『ASUKA IS (NOT) DEAD!!!』は、エヴァ直撃世代のpassion(情熱=受苦)を遺憾なく発揮している批評誌として、いや、それは批評critiqueというよりむしろ、信仰告白confessionに近い営みなのかもしれませんが、2009年8月の段階で意味有るものであったと回想します。どういうことかといえば、『ASUKA IS (NOT) DEAD!!!』に載せられたテキスト群は、私たちの世代が共有する(「世代」という雑な言い方を許してください)「欲望」とその困難を、『エヴァ-ヱヴァ』への言及を通して再認させる力を持っていたからです。
 「欲望」とは何か。それは、物質的な豊かさの希求ではなく、消費を洗練させることでもなく、「ある対象に憑りつかれるほどの思い入れを抱く困難を乗り越えること」です。これは所謂、「フェティッシュ」ではありません。そこには、「思い入れ」と並行する「困難」があるからです。「エヴァについて語る私たちは、なぜついつい熱っぽく(あるいは意図的に醒めたように)語ってしまうのか?」、「なぜ私たちはエヴァについて客観的かつ本質的な批評がなされたという達成感を抱いたということがいままでなかったのか?」という、批評する者自身に向けられる問いかけ、そしてその問いかけを忘れることができないまま「思い入れを抱く」こと。それが私たちの「欲望」です。
 なぜ? なぜ私たちは「憑りつかれ」、しかも分析的な問いをやめないのか? なぜ私たちは分析的な問いをやめず、しかも「憑りつかれる」のか?
人は言います。破はヌルい。なぜならばこれを超える想像力は既に二次創作に溢れている。——そうではない。新世紀に現れたこの新しいヱヴァを支えているのが無数に拡散した人々の想像力であるということだ。それだけだ。我々の役割は今も昔も変わらない。「これもまた一つの世界、僕の中の可能性」といって消えたシンジ。「幸せがどこにあるかは分からない。けど、これからも探し続ける」と言って消えたシンジ。我々が彼らに報いることができるのは、彼らの泳ぎが終わらないように、彼らが泳ぐ海を広げてあげることだけだ。無限にたゆたう可能性の海。しかしそれは決してただそれだけで無限なのではない。我々の想像=観測こそが、彼らの泳ぐ海を作り出す。それはまさしく、地平線の果てまでを覆っているように見えながら、その実、過不足なく人類全体まででしかありえなかったあのLCL の海の限界に他ならない。
(同上)

 分析な問いとは、世界に対する奉仕です。それは私たちが私たちの世界を所有しないでいるための、数少ない方策の一つであるから。私たちは私たちの情緒によって世界を、私たちにとって理解可能な範囲に丸め込み、所有しがちです。私たちが世界に対して何らかの善意を働かせているつもりになりながら、「裏切られた」とひとり怨嗟の声を漏らすとき、私たちは自身の尊大な所有欲に対してどれだけ客観的でしょうか。分析な問いとは、世界に対する奉仕です。

 私たちは私たちの世界を所有しないまま、私たちの生を生きます。そのような生を私たちはすでに退行的なものとして経験しています。退行的なものとはなにか? それは現れたり消えたりを偶発的にくり返し、教えることも学ぶこともできないため、知識の総体の網についにかかることがなく、それゆえ、私たちを失語症へと誘う内奥の快楽。それは追憶と名づけられる経験であり、そして忘却と名づけられる経験です。それは日常的な事件としては、夢や、夕暮れとして私たちに訪れるでしょう。
 私はそれらの諸経験に『エヴァ-ヱヴァ』を観る経験を加えたい。
 『ASUKA IS (NOT) DEAD!!!』に寄稿した「追憶の風景、記憶の闇」はそのようにして書かれたテキストです。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』のBlu-ray&DVD発売を記念して、ここにpdf形式で無料配布したいと思います。



(*1)テレビ版の原作・アニメーション制作であったGAINAX、製作のテレビ東京はこの新劇場版には関わっていない。また、近年のアニメ製作では常態化している製作委員会方式もとられておらず、興行形態としては自主製作、いわゆるインディーズ映画となる。

「追憶の風景、記憶の闇」テキストのみver.
by warabannshi | 2010-05-25 22:30 | メモ | Comments(0)
【第十回文学フリマ】笑半紙の購入した同人誌リスト
 第10回文学フリマに参加の皆様、おつかれさまでした。総計54冊という過分なほどの売上でした。『笑半紙』¥400は残り21冊、『其処に意味をお与えにならなかったので』¥200は残り28冊です。お買い上げいただいた皆様、フリーペーパーを手にとっていただいた皆様、本当にありがとうございました。笑半紙は、第11回文学フリマ(12/5開催)にも参加を予定しています。

 今回の文フリでは一人で売り子を務めていたため、あまり買い物ができませんでした。それでも会場を見て回れたのは一重に友人・N嬢のおかげです。二十分程度のあいまに以下を購入しました。順不同。


芝浦慶一『ぶっころせ!刑法39条ちゃん』ノンポリ天皇 ¥600
 立ち読みで文庫本を開いたときに目に飛び込んだ、「クジラとセックスをしよう」という一文で購入を決定。後悔はしていません。ちなみに刑法39条とは「心神喪失及び心神耗弱とみなされた場合の犯罪の不成立及び刑の減免」に関する法律。

ながしろばんり『文藝三行半』 書肆べう ¥500
 三篇の文芸評論集。四十年ほど前の岩波文庫よろしく活字がぎゅうぎゅうに詰まっているために電車で読むのは頗る困難。「「反」というテーゼ -宮武外骨から末期のメディアへ-」が面白いです。

牟礼鯨『ハシュカダル』西瓜鯨油社 FREE
 オイディプス王が「エディポ」(『複雑系』収録)であるとしたら、当然ながら『ハシュカダル』はアンティゴネです。モイラの女神たちの紡ぐ運命の糸目を、古代ギリシァから三千年経った現代においてもこの悲喜劇を通して見ることができます。

中澤いづみ『タロティスト』西瓜鯨油社¥500
 タロットをモチーフにした短編。運命を知るために発達したのは巫女の祭礼や哲学だけではありません。占いもまた然り。

『セックスと、料理と』QBOOKS¥200
 「すべてのテキストをネット上で無料で閲覧することができるが、あえて書籍化する」という暴挙-冒険を行っている点で、笑半紙と同じ。表紙が春画です。

野田光太郎『「はだしのゲン」論 -生きるための尻ではねる笑い-』無手勝 ¥100
 雨の日にグラウンドで遊べない小学生が教室で時間つぶしに読む本、それが『はだしのゲン』。何度も通読しているはずなのに、まとまった「はだしのゲン」論が現存しないことに関してこの書評を読むまで不思議を感じなかったのは不思議です。

電子書籍部『(15冊すべてセット)』¥1,500
 笑半紙の隣のブース。ものすごい集客率を誇っていたので、ついつい私も隣から「全部ください」と買ってしまった本=データ。PDF書籍の強みは、大量の本の持ち運びが容易いことと、キーワードやタグの検索によって欲しい本がすぐ手元に現れることで、まるでドラえもんの四次元ポケットです。

UtAGe 演奏;Sebastian『本に寄り添う音楽』(CD) 左隣のラスプーチン FREE
 「文学フリマ開催ニ週間ぐらい前に、突発的に作ることになった音楽CD」だそうですが、PC作業に非常に馴染むピアノ曲が2曲入っています。次は「月の海 ~ nostalgia & frontier ~」¥1,000も買おう。
by warabannshi | 2010-05-25 01:28 | メモ | Comments(0)
探索記録35「文芸本を持ってコミティアに参加するにあたり気をつけること」
 5/4(祝)のコミティア92@東京ビッグサイトから一週間も経ちつつあることに驚いています。
 さらに5/23(日)の文フリまで二週間をきったとは、さらに驚きです。
 一週間で、いろいろ反省点、というか、「文芸本を持ってコミティアに参加するにあたり気をつけること」が浮かび上がってきたので、備忘のために、ここにポイントを列挙してみます。
 「自費出版本の手売り」を目論んでいる方は、ご参考いただければ幸いです。

*** 文芸本を持ってコミティアに参加するにあたり気をつけること ***

●「なにでアピールしているのか」をアピールすること。
 例えば、今回私は『笑半紙』の表紙の装丁を三種類用意しました。
 表紙の色と質感が違うだけで、中身は三種類とも一緒。なぜそんなことをしたのかというと、自分の本棚に並んでいる他の本とマッチするものをお客さんが選びやすいようにするために。
 電子媒体でも読めるテキストを、書籍という形式で買ってもらうためには、「インテリアとしての本棚」という視点が不可欠だ、と思っています。
 自分の「本棚」は自分の「脳内マップ」として、部屋に招かれた人の目にさらされ、同時に、その部屋で生活する住人の潜在的な文化傾向を形作ります。つまり、「こういう本を読んでいる人間」であると他人と自分自身によって思われたい/思いたいという欲望が「データではなく、あえて本という形式で買う」という行動をキックするわけで。

 しかし、そんな胸算用も、ポップとかでアピールしなければ無駄だとわかりました。
 小説コーナーで足を止めてくれる人の少なさ。そして、手にとって触り心地を確かめてくれる人の少なさに今更ながら驚きました。見立てが甘すぎた。
 「なにでアピールしているのか」をアピールすること。テキスト媒体は中身を読まないと中身を理解してもらえないけれど、その労苦を払う人はやはり少ないわけで、中身を読まなくても中身を推察できるような工夫が必要です。
 次回はちゃんとポップを作る。ポスターも。


●無料ペーパーを作る。
 これは鉄則ですね。すぐに買ってくれる人はいなくても、潜在的なお客を増やせる。
つまり、アドレスを載せてブログを読んでもらったりとか、次回出店の日にちを載せて、来てもらうチャンスを作るとか、「次」に繋げるための布石です。
 A5版くらいのが、ペーパーを貰ったほうもかさばらなくて、こちらも最小限の情報に限定せざるをえないので良いと思いました。「簡単に捨てられないようにするには、A5よりも名刺サイズ」というコメントもあります。どのサイズにするかは無料ペーパーに「なにをどのように書くか」で左右されることでしょう。
 とにかく、無料グッズを充実させること。
 大盤振る舞いの雰囲気を出すこと。


●自家製本においては、積極的にカラー原稿をいれること。
 業者に頼むと挿絵つきだとテキストのみの場合より、二割くらい高価になるのですが、カラーだとなおさら高くなります。

 たとえばB5版で76頁の自費出版本を100部作ろうと思った場合、経費と所要日数は、
  表紙もふくめ、すべて白黒原稿 \57,800 (3-5日)
  表紙はカラー、白黒+4pカラー原稿 \70,200 (3-5日)
  表紙もふくめ、すべてカラー原稿 \476,200 (5-7日)
 ※同人誌印刷栄光さんhttp://www.eikou.com/syouhin/shouhinanai.htm「スタンダードセット」「サンバカーニバルセット」「天下一舞踏会セット」を参考にしました。

 その一方で、自家製本なら、描いたイラストをスキャナでとりこんでカラープリンタで出力すればいいだけで、手間は一緒、余分にかかる経費はトナー代くらいですから、積極的にカラー原稿を入れることをお勧めします。
 これはぱらぱら捲ってくれた人に対してのアピールになります。




■「なにでアピールしているのか」をアピールすること。
■無料グッズを充実させること。
■積極的にカラー原稿をいれること。

 「文芸本を持ってコミティアに参加するにあたり気をつけること」はこれだけに留まらないと思いますが、ひとまず以上です。
by warabannshi | 2010-05-10 09:20 | メモ | Comments(0)
探索記録34「『クォンタム・ファミリーズ』と他の本、そして「幽霊たちの囁き」と科学哲学について」
 東浩紀『クォンタム・ファミリーズ(量子家族)』を読了しました。SF小説を一気読みすることはめずらしいことではないのですが、ここ半年くらい、そういうことをやっていませんでした。自然科学という(量子力学という、計算機科学という)信仰。そして、私たちは無数の可能性の死骸のもとに立っている、という信仰告白。その白熱。所与(givenness,Gegehenheit,(Begehenheit与えることによりそう))を越えて、ある範囲を進むこと。いまの所与のものとして決まっているサイズの外に出ようとしたらどうなるか、ということ。
 また、【日本のSF作品】の書棚で『クォンタム』の近くにあった円城塔の作品も興味深いものでした。円城の作品は現代詩であるといわれても違和感のないものだと常々思っていたのですが、『鳥有此譚』は、谷川俊太郎の『日本語のカタログ』的な形式を採用していて、つまり、『日本語のカタログ』に収録されている散文詩のように絶え間ない註釈による「制御(control)」がなされていて、それが私自身の方法と近しいと感じたのです。「制御」とはなにか。たとえば夢日記を書いた後で、その記述に「起きているときにそれに沿っているところの考察に基づいた注釈をいれる営為」は、夢を書き留めた記述に「起きているときにそれに沿っているところの日付を入れる営為」と、構造的に同じではないかと私は思います。行為をしているそのまさに最中において、私たちは「制御のための技法」を行使します。つまり、所与のものにしがみつくことで、メイルシュトロームに引きずりこまれることから逃れるのです。その「技法」はいまの所与のものとして決まっているサイズの外に出ようとする営為を補うものです。私たちが「次」に進むときには、個別のものの「頑固さ」が、よかれあしかれ常にかかわってきます。
 「制御のための技法」。抑圧、あるいは打算というかたちではなく、しかも欲しいままにしないこと、ある形式を受け入れること。それを複数の場所で考えること。それは、享奢の八〇年代に生まれ、廃墟の九〇年代に育てられた私たちの世代にとって(そういうことが果たして適切かどうかはわかりませんが、「私たちの……」という言葉遣いでしか通ることのできない理路もまた、あると思います)責任をもって論じるに値するテーマではないかと考えています。私たちは具体的なもののうえに足をおいて、個別のデータに基づいて、全体的なものを書き換えるということはしません。私たちは理論の収束による、当該理論の過剰適応が、ロクな結果を生み出さないということを政治的にも思想的にもよく知っています。収束しないこと、それは私たちが試みる禁欲であり、「巫者」としての務めです。
 それでは、「巫者」たちはなにを聴きとのか。「幽霊」の囁きを。残響音としての、あるいは確率論的な、あるいは鎮魂すべき「幽霊」の囁きを。
 そして「巫者」たちは聴きとった「幽霊」の囁きを翻訳する。しかし翻訳するということは、どういうことなのか。
 チョムスキーは、「翻訳」と「理論」は違う二つではなく、似たようなものだと、バリエーションであると考えました。どちらもデータを与えられたときに、私たちの言語へ移しかえるわけであるから。
 「翻訳」のプロセスにおいて常になされているのは、「yes/no」の判断、「手をあげた」のか、「手があがった」のかの判断、つまり、「解釈の決定」です。天動説と地動説のどちらを採用するか。創造説と進化論のどちらを信じるか。落ちていくリンゴに対して、それが知恵の実の落下なのか、重力場のなかでいちばん短い線を通っていく質量なのか、その解釈を決定すること。――ただし、「量子的に考えて不確定だから、翻訳できません」と言うことはできません。翻訳は、しなければならない。これは命法です。
 「翻訳における解釈の決定」について考えるときには、クワインの「根元的翻訳(radical translate)」と、デイヴィッドソンの「根元的解釈(radical interpretaion)」の違いについても考えておくことが、導線となりえます。二人の立場の違いには以下のように言及することができるでしょう。
 例えばクワインは、「外部世界に関する知識と経験の関係は、それが可能ならば、いかなるものか」という問いをたてます。それに対してデイヴィッドソンは「発話された語(他人のことば)を理解するためにいかなる知識または解釈が必要か。その知識または解釈は、どう構成されているか」という問いをたてます。
 クワインにおいてもデイヴィッドソンにおいても、私たちの立場は、未開社会に調査に来た言語学者として、仮想的におかれえます。使っていいものは、現地人の物理的音声、それから行動、発生時の周囲状況であり、それらを観察し、私たちはそれらを客観的データとして扱います。(このとき、現地人と私たち論理構造は一緒(古典一階述語論理)だとする「善意の原則」が採られます)。
 このとき、クワインは「翻訳をすすめましょう」と言うし、デイヴィッドソンは「理解をしよう努力しましょう」と言うでしょう。両者は似ているようですが、厳密にいうと異なります。つまり、翻訳は必ずしも理解を必要としないという点において。
 わけがわからないものを「理解をする」には、まず意味を想定する必要があります。この場合の「意味」とは「刺激意味」(*1)では、無論ありません。真理条件意味論によってもたらされるところの「意味」。つまり「文Sが真ということは、P(Sの表す命題)である。ただし、Pは述語で表せない(cf.嘘つきパラドックス)」という方式によるところの「意味」です。これは「善意の原則」を、全面的に拡大して、理解をしようとする戦略であり、現代の分析哲学では非常に評判の高いものです。
 しかし、そのとき、「証明の個別性、複数性」というのはどういうことになるのでしょう。
 それぞれの全体のパターンによって理解が生じる、クーンのパラダイム論は、ここでは当てになりません。(もちろんクーンのパラダイム論が無効であるとは思っていませんが) 重要なのは、「幽霊の囁き声」という理解される対象のほうに、理解される内容がある、というそのことなのですから。
 おそらく、ここで「体系、文の集積」とは別様の運動を持ち込まなくてはなりません。
 それについて何か実のあることを言うことはできないのですが、一つのヒントとして、フランス系の科学哲学、エピステモロジーを置くことができます。英米系の科学哲学は、科学を体系、文の集積として考えますが、フランス系のエピステモロジーは、科学を「精神」の活動として考えます。この場合の「精神」は、個人の精神ではなく、時代精神、科学的精神のようなものです。ただし、この「精神」の働きは、私たちの行為に直接浮かび上がるものではありません(科学的精神が働くとき、私たちが合理的にふるまう、ということではない)。
@池袋ジュンク堂4F喫茶店 17:20

(*1)「刺激意味stimulus meaning」とは、ある場面文に対して、現地人・被検者のyes/noを促す刺激のクラスのこと。クワインは「刺激意味」を「意味」とみなす。この「刺激意味」がわけのわからない言語の安定的な部分を取り出して、それとlogicをもって「翻訳可能な中核」を析出する。このとき、わけのわからない言葉を話す現地人が、発話状況に際してある出来事をどう理解しているかということは、勘案されない。
 クワインが「刺激意味」を通して遂行的に伝えるメッセージとは、「翻訳可能な領域」(私たちがどうこうしようと変わらずにあるように思える)と「不確定な部分」(私たちの意図や予断にかかわる)では、変動しやすさがちがうということだ。刺激的な意味は固定されているけれど、それがどのように固定されているかについて言語的に言い表すのはむずかしい。

by warabannshi | 2010-02-14 20:43 | メモ | Comments(0)



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