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探索記録33「音声入力について、さらに」
 音声入力ソフトAmiVoiceを買って、その性能の高さに驚いたことは、以前にこのブログでお話ししましたが、このAmiVoiceを使って、これからは「基本的に文字入力をキーボードではなく音声入力で行うこと(夢日記を除く)」を、25歳からの方法論的抱負としたいと思います。
 肉体という、強固な、寝ても醒めてもはなれがたい建築物を通して、「声に出して書く」ことで、現行の文体がどのように変わっていくのか。どのような変化を余儀なくさせられていくのか。それが楽しみです。あと、この肉体の精度と機能も知りたい。これはキーボードに向かうよりも、発声したほうが、すくなくとも私の場合は、圧倒的に高い有効数字でわかります。滑舌が良い(=誤入力が少ない)のはどの時間帯なのか。自転車で長距離を走ったあと、どれくらい適度な興奮は持続するのか。ビールを飲みながら話す効果はどのようなものか。「声に出して書かれた」テキストの固有な調子を削がないような推敲・添削とは……、などなど、試してみたいシチュエーションや実験・観測は山ほどあります。あと、ライブコーディングみたいにネットラジオと連携させて記事が書かれる実況中継もやってみたい(というか「実況中継」がそのままテキストになるのですが)。
 じつは四年ほど前からこの「声に出して書く」方法は構想していたのです。が、 例えばIC レコーダで一時間ほど声を録音した場合、テキストデータに起こすのにだいたい四時間から六時間くらいかかってしまうのですね。なので、面倒くさくて、結局放置して、死蔵、ということがつづき、頓挫していました。だからこの音声を直接入力できるソフトが可能にしてくれた選択肢は、どれもこれも本当に豊かなものです。
 ところで音声入力ソフトを使ううえで、「声の書き込み」ができる「場所」は重要なファクターとなります。一つは、べらべら独り言をしゃべっていても迷惑でない、そして雑音が入ってこない、ある程度防音されたところ(つまり自室)が、主にこの「声に出して書く」舞台となるということです。まあ、 IC レコーダーで録音すれば、屋外で「声に出して書く」困難さもわりと解決することができるような気がします。雑音の問題は依然として残りますが……。もう一つは、「場所」というファクターが、どのようにテキストに影響を与えるかについてです。これは常々、実験したいと思っていたことです。宮沢賢治は岩手・花巻の農村を早足で歩きまわりながら『春と修羅』をメモ帳にシャープペンシルで書きまくっていました。西欧美術史において、19世紀中ごろからバルビゾン派が、アトリエで肖像画などを描くことが常識だった絵画を、郊外で風景を描くことができるものへと、その方法論的な選択肢を根本から作り出したように、日本文学史においてもまた、モバイルや、こういう音声入力ソフトの技術的発達によって、ある風景・風土のただ中において書かれた散文作品を作り出すことが可能となることでしょう。(郊外での絵画制作は、「チューブ入り絵の具」の開発という技術的発展が可能にしたものです)テクノロジーはそのようなやり方で、私たちに影響を与えます。21世紀、小説家はその執筆において、ICレコーダを片手にお気に入りの場所に行くことが、何より大切なことになるかもしれません。
 ICレコーダを片手にもつ小説家が練磨しなくてはならないのは、何よりもその「語り」です。太宰治あるいはカムイユカラの歌い手のように、トリュフォーの『華氏451』に出てくる"本人間"(書物を読み、所有することを禁止された近未来において、書籍を丸ごと暗記する人々)のように、肉体という建築物の構成要素を言語で賄わなくてはならなくなるでしょう。同時に展開する理路の矛盾にどもったり、言いよどんだり口篭ったりしながらそれに耐えることが、最適な文脈に沿うことを可能にするのではないかと、いまはそう思っています。
by warabannshi | 2010-02-01 01:26 | メモ | Comments(0)
探索記録32「音声入力について」
 音声入力のためのユーティリティソフト「AmiVoiceEs2008」を、一週間ほど前に買いました。
 テープ起こしを大量にしなければならないのと、あとここ一年あまり、自転車にたくさん乗っていないせいか、肩こりの症状が出てきたので、できるだけキーボードを打たずに文字を入力するために。それで、その「AmiVoiceEs2008」。音声認識能力の高さには、正直なところ、感動しました。ほんとうに抜群の水準です。革命的。これに比べると、Win7に搭載されている音声入力ソフトは、おもちゃに思えます。ICレコーダとの相性も悪くないです。べつにアドバンスト・メディア(=開発元)から広告料をもらっているわけではないですが、「AmiVoiceEs2008」は褒め称えるに足る性能だと思います。

 ところで。キーボードに向かって文字を打ち込むのと、そしてそれを読むのと、声に出して、そして打ち込まれて、並んだ文字を読むのは、やはり体験として何かが違う、ということを「AmiVoice」を使っているとき、感じます。もっと正確に言えば、私は音声入力をしているとき、自分の声を聞き、自分が話した内容を読んでいるわけです。つまり話したことを聞き、さらに読んでいるわけです。この場合、話していて退屈なことは、そもそも言葉になって出てこない。これは単に慣れの問題なのか、どうなのか。
 Twitter はつぶやき声という意味ですけれど、 Twitter を使っているときよりも、 AmiVoice を使っているときの私の方がよっぽどつぶやいている、というか、もう本来の字義においてつぶやいている。(この記事もまた、「AmiVoiceEs2008」を使って音声入力されています) 独り言をいうくせが抜けない人がいるのも、うなづける。文章をキーボードで打ち込んだり、紙にペンで書いたりするのは、腕をつたって、何か黒い流体のようなものを画面や紙に流し込んでいく感覚に近いわけですが、独り言をいうときは、振動音を使って、遠くのものを揺り動かすような感覚に近いです。超能力(念動力)を使える人がものを動かしてみせる感覚は、こんなものなのかもしれません。
 
by warabannshi | 2010-01-23 09:56 | メモ | Comments(0)
探索準備06-2 日本ラカン協会ワークショップ 発表草稿ver.2
日本ラカン協会ワークショップ 発表草稿ver.2
「宮澤賢治と精神分析 不道徳さと隣りあうためにあるいは、どう転んでもまともではない真実について
日本ラカン協会 第7回ワークショップ

   日程 2009年6月28日(日)
    開始時刻・場所は現在未定

   発表者 Rodion Trofimchenko(武蔵野美術大学大学院博士課程)
         発表タイトルは未定ですが、ラカンの精神分析理論による
         現代芸術分析をおこなう予定です。
   発表者 太田和彦(東京農工大学大学院修士課程)
         発表タイトルは未定ですが、ラカンの精神分析理論による
         宮沢賢治の思想の読解をおこなう予定です。
    
   司 会  福田肇(フランス・レンヌ第一大学哲学科博士課程)

***


 宮澤賢治には不健康なまでの過剰さがあります。
 「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」、「正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである」、「われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である」(「農民芸術概論綱要」)という宣言。また、「ほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない」(「銀河鉄道の夜」)というジョバンニの自己犠牲。
 宮澤賢治は近代日本文学史のなかでは異端としてあつかわれ、その作品群は挿絵を付けられて子供向けの絵本として広く馴染まれています。しかし、一読すればすぐにわかるとおり、彼の作品群は童話というジャンルの雰囲気におさまるものでは決してありません。また、吉田司(1997) は、賢治の作品が戦時下の満州国において戦意昂揚に用いられていた事実を指摘しています。満州建国大学の学生のあいだで「雨ニモマケズ」、「精神歌」が朗読されていたということ、「五族協和の王道楽土」を信じて日本をあとにした人々のなかで、賢治の断言がある種の精神を高揚させつづけていたということは、あまり知られていない賢治の一つの側面です。
 大澤信亮(2007) が指摘している通り、「これらの極端な感覚がどこから来るのか」という疑問は、彼を聖人視しなければ当然ありうるものです。「この過剰さはおそらく、読者の欲望を吸引する原因にもなっている」ことでしょう。

 賢治の高揚した調子でなされる宣言文にさらに注目するならば、そのなかには必ずある種の形容詞が入っていることがわかります。つまり、「まことの」、「ほんたうの」、「正しい」……という、真実性をことさら強調する、そしてそれらがじつは嘘・偽であった可能性を意識させる形容詞です。「まことの」、「ほんたうの」、「正しい」……という形容詞とともに語られる、燦然とした風景の発生現場。それは美しく、平穏かつ幻想的であると思われがちですが、隠喩やレトリックの水準に決してとどまるものではありません。
 列挙すれば限りがないのですが、たとえば、彼が生前に自費出版した唯一の童話集『注文の多い料理店』(1923年 大正13年)の序文。
これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。
 ほんとうに、かしわばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。
 ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでしょうし、ただそれっきりのところもあるでしょうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでしょうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。
 けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。(強調引用者)

 あるいは、『注文の多い料理店』に収録された九編の童話の一つ、「鹿踊りのはじまり」の冒頭。
 そのとき西のぎらぎらのちぢれた雲のあひだから、夕陽は赤くなゝめに苔の野原に注ぎ、すすきはみんな白い火のやうにゆれて光りました。わたくしが疲れてそこに睡りますと、ざあざあ吹いてゐた風が、だんだん人のことばにきこえ、やがてそれは、いま北上の山の方や、野原に行はれてゐた鹿踊りの、ほんたうの精神を語りました。
(強調引用者)

 非常に夢幻的な印象を与えるこの序文と、童話の冒頭は、しかし賢治の言葉に直接耳を傾けるなら、つまりこれを隠喩やレトリックと見なして何かを理解しようとしないなら、幻聴・譫妄、あるいは疲れ果てたすえの入眠幻覚、さらには「わけがわからない」正体不明な挿話を食べ物となして読者の歓待を熱心に試みる倨傲を読みとることができるでしょう。
 また、農業青年の県代表として上京した保阪嘉内あての書簡(1919年 大正8年)には、あらゆる不幸と興奮が渦巻いています。
(……)私の手紙は無茶苦茶である。このかなしみからどうしてそう整った本当の声が出やう。無茶苦茶な訳だ。しかしこの乱れたこゝろはふと青いたひらな野原を思ひふっとやすらかになる。あなたはこんな手紙を読まされて気の毒な人だ。その為に私は大分心持がよくなりました。みだれるな。みだれるな。さあ保阪さん。すべてのものは悪にあらず。善にもあらず。われはなし。われはなし。われはなし。われはなし。われはなし。すべてはわれにして、われと云はるゝものにしてわれにはあらず総ておのおのなり。われはあきらかなる手足を有てるごとし。いな。たしかにわれは手足をもてり。さまざまの速なる現象去来す。この舞台をわれと名づくるものは名づけよ。名づけられたるが故にはじめの様は異ならず。手足を明に有するが故にわれありや。われ退いて、われを見るにわが手、動けるわが手、重ねられし二つの足をみる。これがわれなりとは誰が証し得るや。触るれば感ず。感ずるものが我なり。感ずるものはいづれぞ。いづちにもなし。いかなるものにも断じてあらず。
見よこのあやしき蜘蛛の姿。あやしき蜘蛛のすがた。
今我にあやしき姿あるが故に人々われを凝視す。しかも凝視するものは人々にあらず。我にあらず。その最中にありて速にペン、ペンと名づくるものを動かすものはもとよりわれにはあらず。われは知らず。知らずといふことをも知らず。おかしからずや、この世界は。この世界はおかしからずや。人あり、紙ありペンあり夢の如きこのけしきを作る。これは実に夢なり。実に実に実に夢なり。而も正しく継続する夢なり。正しく継続すべし。破れんか。夢中に夢を見る。その夢も又夢のなかの夢これらをすべて引き括め、すべてこれらは誠なり誠なり。善なり善にあらず人類最大の幸福、人類最大の不幸
(強調引用者)


 宮澤賢治は、彼自身のある一貫したやり方で真実性を追求しています。そして彼の作品のなかで啓発、自己犠牲、あるいは信仰などの経路でその過剰さが発露するとき、心象スケッチや書簡、未定稿では「まこと」、「ほんたうの」、「正しさ」をめぐる執拗なまでの言及がそこここにあらわれます。その言及は苛烈であり、病的でさえあります。ここで病的と言うのは単なる比喩ではありません。賢治は童話・心象スケッチ作品のほとんどを決定稿とせずに、推敲を繰り返していました。そのなかでも、とりわけ推敲や原稿の入れ替えが頻繁に行われている情景の一つに、癲癇の症状を思わせる“世界が光り輝く瞬間”、“光の爆発”があげられます。天沢退二郎(1987) は『銀河鉄道の夜』の第一稿から第四稿までの推移をたどりつつ、いきなり眼の前がぱっと明るくなってジョバンニが思わず何べんも眼をこすってから、そのジョバンニが夜汽車に乗っていることに気がつくまでの、きれいにマス目を使って書かれた一枚余の原稿が、幾度となく場所を入れ替えられる過程を追っています。
いきなり眼の前が、ぱっと明るくなって、まるで億万の蛍烏賊の火を一ぺんに化石させて、そら中に沈めたといふ工合、またダイアモンド会社で、ねだんがやすくならないために、わざと穫れないふりをして、かくして置いた金剛石を、誰かがいきなりひっくりかえして、ばら撒いたといふ風に、眼の前がさあっと明るくなって、ジョバンニは、思わず何べんも眼を擦ってしまいました。

 それは“隠されていたのに、覆された宝石群”のイメージとして、作品番号一七九「谷の昧爽に関する童話風の構想」の下書き(2)~(6)でも数年にわたってくり返して書き直され、最終的には大きな×印で除去されてしまいます。 (*1) 突然の、圧倒的な光の爆発の描写の執拗な反復とその打ち消しに関して、癲癇発作に類似した症状への危機的な幻惑を見ることは可能でしょう。

 また、未完の作品『学者アラムハラドの見た着物』(1923年/27歳)の学者アラムハラドは、彼の塾で学童たちにこう問いかけます。
「火はあつく、乾かし、照らし騰る、水はつめたく、しめらせ、下る、鳥は飛び、またなく。魚について獣についておまえたちはもうみんなその性質を考えることができる。けれども一体どうだろう、小鳥が啼かないでいられず魚が泳がないでいられないように人はどういうことがしないでいられないだろう。人が何としてもそうしないでいられないことは一体どういう事だろう。」

 アラムハラドは人間の本質を通俗自然科学の人間観(二足歩行や発話)に求めず、そして、「私は饑饉でみんなが死ぬとき若し私の足が無くなることで饑饉がやむなら足を切っても口惜しくありません。」という大臣の子の宣言に涙します。
「そうだ。私がそう言おうと思っていた。すべて人は善いこと、正しいことをこのむ。善と正義とのためならば命を棄てる人も多い。おまえたちはいままでそう云う人たちの話を沢山きいて来た。決してこれを忘れてはいけない。人の正義を愛することは丁度鳥のうたわないでいられないと同じだ。」

 けれど、正義を愛することを人間の本質と説く老師に対して、塾内で最も年少のセララバアドは、「人はほんとうのいいことが何だかを考えないでいられないと思います。」と答え、そして、しばし瞑目したアラムハラドが、
「うん。そうだ。人はまことを求める。真理を求める。ほんとうの道を求めるのだ。人が道を求めないでいられないことはちょうど鳥の飛ばないでいられないとおんなじだ。おまえたちはよくおぼえなければいけない。人は善を愛し道を求めないでいられない。それが人の性質だ。これをおまえたちは堅くおぼえてあとでも決して忘れてはいけない。」

と言ってその日の講義を終えることが、賢治の作品に流れる最高の調子だとするならば、真実性についての探求をさまざまなパースペクティヴにおいてなすことは、彼の作品とふれ合う幅を決して減らすことはありません。


……つづく……



(*1)
「谷の昧爽に関する童話風の構想」の当該箇所の変遷は以下の通り。
 下書稿(2)
 「じつにそらはひとつの宝石類の大集成で ことに今夜は古いユダヤの宝石商が 獲れないふりしてかくして置いた金剛石を みんないちどにあの水面にぶちまけたのだ」
 下書稿(3)
 「じつに今夜は そらが精緻な宝石類の集成で 金剛石のトラストが 獲れないふりをしてしまって置いた幾億を みんないちどにぶちまけたとでもいう風だ」
 下書稿(4)
 (ここでいったん当該箇所は除去される)
 下書稿(5)
 「ダイアモンドのトラストが 獲れないふりのストックを みんないちどにぶちまけたり」
→「東銀河の連邦の ダイアモンドのトラストが かくしておいた宝石を みんないちどに鋼青いろの銀河の水に ぶちまけたとでもいったふう」
 下書稿(6)
  下書稿(5)の五行は、下書稿(6)の第一形態にもほとんどそのまま継がれているが、最終手入れでは除去され、全集本文ではそれを確認することはできない。





▼参考文献▼
・『宮澤賢治殺人事件』吉田 司 太田出版 (1997/03)
 およびそれを受けた柄谷行人・吉田司・関井光男・村井紀の共同討議「宮澤賢治をめぐって」(「批評空間」II―14)も参照のこと。
・「宮澤賢治の暴力」大澤信亮 『新潮』(2007/11)
・ 『エッセー・オニリック』天沢 退二郎 思潮社 (1987/06)

by warabannshi | 2009-06-10 23:11 | メモ | Comments(0)
探索記録31「ねぎ姉さんのことで」
 『ねぎ姉さん』、という四コマ漫画群を知っているだろうか? あるいは読んだことがあるだろうか?
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 知っているのならば、あるいは読んだことがあるのなら、話はとても早い。あの『ねぎ姉さん』がついに1000話を突破した。このことが、めでたい出来事なのか、醜悪なのか、判別がつかない。とにかく、あの『ねぎ姉さん』が、1000話を突破したのだ。レトリックではなく、頭が痛くなる。
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 三年ほど前、2006年4月7日。深夜から明け方にかけて、農工大のある友人の部屋で、彼を含めた二人の友人たちと過ごした。一人の友人が題名の知らないギャルゲーのテキストをひたすら音読しつづけ、私を含めた残り二人は、その朗読をBGMにして、一つのディスプレイで『ねぎ姉さん』を読み耽るという黒ミサめいた時間の過ごし方をした記録が、携帯電話のムービーフォルダに残っている。だから、日時はデッチあげたものではない。

 きちょうめんに、私たちはディスプレイ上の数字を一つずつクリックして、頭のおかしい四コマ漫画を一つずつ読み進めた。お酒を飲んでいたわけではなかった。なぜそんな閑人の暇事をしたのかわからない。よほど暇だったのだろう。当時、『ねぎ姉さん』は346話までしかなかったけれど、それらを通読するのに四時間ぐらいかかった。「まったくもって無駄な時間をすごしてしまった」とそのとき一緒に読んでいた友人は言った。私はもう自分の名前が思い出せないくらいに疲労していた。

 346話ぶんを読み終わるのに、四時間。
 ということは、1000話ぶんの四コマ漫画を通読するのには十二時間かかると、概算は教える。

 1000話ぶんの四コマ漫画、例えば、『サザエさん』、『となりの山田くん』、あるいは『コボちゃん』を通読するのと、1000話ぶんの『ねぎ姉さん』を通読するのは、その体験の質が明確に異なる。前者は日常を補強し、後者はそれを破壊する。……けれど、こんなまとめ方にはまったく意味がない。「まったくもって無駄な時間をすごしてしまった」と、なんのてらいもなく言うことができるのは、後者である。これだけで充分だ。
by warabannshi | 2009-06-06 00:52 | メモ | Comments(0)
探索準備06-1 日本ラカン協会ワークショップ 発表草稿ver.1
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真理、真実、まこと、透明さ、一致、ほんとうのこと、普遍、証明……、それらは厳しい錬磨や戒律、苦痛、弛まぬ努力を、それらを問題にする者に不可避に要求する。にもかかわらず、人類史のなかでそれらを問題にしない者がいなくなった例しはない。なぜそれらは、私たちにとって、これほどの誘惑なのか? なぜそれらは、私たちを、幾たびも幾たびも、恍惚とさせるのだろうか?

私たちは限定されている。真理、真実、まこと、透明さ、一致、ほんとうのこと、普遍、証明……、それらについて何かを語るとき、私たちは具体的な種々の生活、支えている日常、母国語、よく歩く道、人間関係の諸事情、忙しさ、優性遺伝、声に出してみたときの語彙のなめらかさ、モニターに映し出される字面の好悪などによって、限定されている。限定はもちろん、それだけではなく、知らず知らずのうちに無数にかかっている。すべての限定を解くことは、常識的に考えれば不可能だ。

けれど、無数の限定の各々は固定的なものではない。固定的のように思えても、それらはガラスのように極端に粘性が強いだけで、それらは相関し、動き続けている。

古い人々のなかには、彼らのそれぞれの無数の限定にひるまずに、それらを受け入れ、横断し、超え出るための方法(プログラム? スタイル?)を、それぞれに一貫したやり方で作った者たちがいる。彼ら全員が哲学のトレーニングを受けているわけではない。ただ問題意識が哲学的であるとは言うことができる。

***

宮澤賢治(1896-1933)は、彼自身の一貫したやり方で真実を追求する。宮澤賢治は近代日本文学史のなかでは、やや異端としてあつかわれ、その作品群は挿絵を付けられて子供向けの絵本として広く馴染まれている。しかし、一読すればすぐにわかるとおり、彼の作品群は童話というジャンルの雰囲気におさまるものでは決してない。心象スケッチや書簡、未定稿では「まことのことば」、「ほんとうの幸い」をめぐる執拗なまでの言及がそこここに見受けられる。その言及は苛烈であり、病的でさえある。
(cf.『銀河鉄道の夜』第一稿から第四稿までの推移)
(cf. [154](1919年8月20日前後)保阪嘉内あて書簡:病的な執拗さ)

いっぽうで、宮澤賢治の作品はとても倫理的なものとして馴染まれてもいる。朗読される「雨ニモ負ケズ」の自己犠牲。ベジタリアンの聖者。だが、暴力や非道徳さから彼が離れていたわけではまったくないし、それどころか、彼自身の“修羅”の衝動と彼が折り合いをつけることは最期までなかったように思われる。
(cf.「復活の前」(1918 22歳):暴力 )
(cf.『毒もみの好きな署長さん』(1921 25歳):不道徳さ)
(cf. [488] 1933年9月11日 柳原昌悦あて書簡:折り合いのつかなさ)

宮澤賢治が病的な執拗さで求める「まことのことば」、「ほんとうの幸い」。そして、依然として失われない倫理性の、理解しがたい構造。それらをよりよく理解するために、ラカンの精神分析の視点(とくに『精神分析の倫理/セミネールⅦ』)から賢治の諸作品を考察したい。

***

仮説:宮澤賢治の諸作品の倫理性は、『精神分析の倫理』でラカンが提起する精神分析の道徳律、「汝、欲望に関して譲歩することなかれ」を介することで、よりよく理解することができるのではないだろうか?
根拠.1―人間存在は根源的には非道徳的であるという認識が、精神分析にはある。(cf.Ⅶ-1) 賢治の感じていた内奥の衝動の認識との近しさ。(前述)
根拠.2―精神分析の経験をとおして、被分析者は一種のカタルシスを味わう。それは欲望の昇華、違った形での成就である。(cf. [165](1920年6月~7月)保阪嘉内あて書簡「人間の世界の修羅の成仏」)

ラカンが示す、精神分析的見地からの、四つの命題。
1.我々が有罪たりうる唯一のこと、それは欲望に関して譲歩してしまったことです。
2.英雄の定義、それは裏切られてもひるまない者です。
3.このような感じ方は万人の手の届くものでは決してなく、それこそ普通の人と英雄の相違です。普通の人間にとって裏切りはほとんどつねに生じることですが、その結果として普通の人間は善への奉仕へと決定的に投げ返されます。しかしこの場合、この奉仕へと向かわせたものが本当は何であるかを見ることは彼には決してできません。
4.欲望への接近のために支払うべき対価でない善はありません。というのは欲望とは、我々がすでに定義したように、我々の存在の換喩です。
(Ⅶ下p.234-235)

「欲望に関して譲歩する」ことと「裏切り」の関連。
人が裏切りを容認するとき、そして、善という観念――この瞬間裏切った人の善の観念と私は言いたいのですが――に押されて、自分自身のこだわりを捨てるとき、「こんなもんさ、我々のパースペクティヴは断念しよう、我々はどちらも、でも多分私のほうが、そうたいした人間ではない、普通の平凡な道に戻ることにしよう」と納得するとき、この裏切りをめぐって何かが演じられています。ここに「欲望に関して譲歩する」と呼ばれる構造があることはお解りでしょう。(Ⅶ下p.234)


賢治が、勤めていた農業学校の卒業生に向けて語る、妥協や小心さへの、強い忌避。
(cf.「告別」『春と修羅 第二集』)

***

賢治が追い求めた「まことのことば」、「ほんとうの幸い」とは何か? それは、真である可能性がありさえすればいいのか? 違う。それは必然的に偽であるわけではないだけだ。賢治が求めるのは、必然的に真であり、つまり偽である可能性のなさだ。
 「まことのことば」とはなにか? この問いかけに関しての詳しい整理は千葉『賢治を探せ』(03)、また太田の卒業論文(08)でなされている。
 千葉はラカンの鏡像段階論をもとに、「まことのことば」を、乳児が、まだ言語を習得する以前に聞いた、大人たちの奇跡のような言語使用の無意識的記憶であると提起する。それはテレパシーのように直接的に伝わるものであり、ウソを可能にする媒介性、恣意性、つまり三人称性のないものであった。しかし賢治が言語を通してコミュニケーションを図るかぎり、三人称性を離れることはできず、したがって三人称性を排した「まことのことば」を求める賢治の希求は不可能である。そして賢治は、最終的に自らの読者に「まこと」を託すという段階に至った。
 太田は千葉の議論をふまえたうえで、なぜ賢治は読者にも彼自身にも「わけのわからない」ことを「ほんとうのこと」として作品化することができたのかについて考察する。賢治の分裂病的な側面に着目すると、発話の苦痛を和らげるために、彼が傾倒していた法華経・如来受領品のゴータマの真実と自らの真実を結節させようとする試み(とその失敗)があったことがわかる。彼は自身を法華経の行者であり、法華文学を作っていると思い込んでいたが、法華経の理論は、逆に彼の幻覚や幻聴の解釈のために使われていたのだ。


それでは、「必然的な真である=偽である可能性がない」ことばや幸福が、なぜ求められるのか? 「真である可能性がある=必然的に偽ではない」ことばや幸福で、日常生活も道徳も、万事快調ではないか。

そもそも「偽である可能性がない」ことばなど、存在するとは考えられない。(cf.ソシュールの言語論など)

だが、「必然的な真である=偽である可能性がない」ことばや幸福を求めるその過程に、中性的で硬質な美しさを感じることもある。その美しさは、「真である可能性がある=必然的に偽ではない」ことばや幸福のゆらめくような戯れとは、どちらが高尚であるということなしに、異なるものだ。

この問いかけに関して説得力のある先行研究は見られない。そこで『精神分析の倫理』から、ラカンの真実や倫理についての論考がどのように進められていたのかを賢治諸作品と合わせてたどりながら、考察したい。
by warabannshi | 2009-05-23 12:41 | メモ | Comments(0)
探索準備05 応用哲学会 第1回研究大会 予習
応用哲学会第一回年次研究大会開催のおしらせ
日時:2009年4月25日(土)26日(日)
場所:京都大学文学研究科校舎(旧称: 新館)


 そういうことで、22:50新宿発の夜行バスに乗って、京都に行って来ます。
 25日(土)には農工大で専攻している領域に重なる部分が多いプログラムがあるので大いに期待。
「生物多様性とは何か:代用物(surrogate)としての種」 中尾央
「生態学の根本的諸問題」 小野山敬一
「応用哲学としての環境倫理学 ―環境プラグマティズムを越えて―」 蔵田信夫


(詳細は明日夜、あるいは明後日夜につづく…)
by warabannshi | 2009-04-24 20:27 | メモ | Comments(3)
探索整理02 『精神分析の倫理』「快楽と現実」読書会 復習

精神分析の倫理 上

ジャック・ラカン / 岩波書店


 邦訳『精神分析の倫理 上・下』は、1959年から1960年にかけて毎週(?)火曜日に行われていたジャック・ラカン(1901-1981)の講義録で、ラカンの娘婿で弟子のジャック=アラン・ミレールの編纂による『セミネール(講義録)』だと第7巻に対応している。ちなみに原書は、
 Jacques Lacan『L'éthique de la psychanalyse』Seuil,1986
 この記事の引用文は、読書会の訳文に準じており、ページ数は原文のものを使っています。

 『精神分析の倫理』というタイトルの通り、フロイト(1856-1939)の晩年に集中した文明論や宗教論(『トーテムとタブー』(1913)、『快楽原則の彼岸』(1920)、『文化への不満』(1939)、『人間モーゼと一神教』(1939)など)に一貫して読みとることができる、ある倫理的次元について敷衍している。つまり、責務の感情(sentiment d'obligation)、死の欲動(instinct de mort)、神の問題をめぐるフロイトの考察を、精神分析から、伝統的な倫理観への、巨大な問いかけとして整理している。じっさいのところ、精神分析の登場は二〇世紀の文化史における一大事件であり、アリストテレス以来、西欧では二千年間ほど知的に流行していた目的因的な世界観は、ダーウィンの適応進化説とフロイトの精神分析とによって、作用因的な世界観へと、文字どおり、完全にひっくり返されたのだから、その逆転の余波は、『草稿』が書かれて五十年ほど経ったラカンの講義においても、そこからさらに五十年が経った今日においても、そこはかとないミスマッチな感覚として日常生活の至るところで不意に現れる。

 「フロイトの著作とそこから流れてくる精神分析の経験が私たちにもたらす新しいもの」についての、この整理の試みは、まず、アリストテレス(B.C.384-322)の『ニコマコス倫理学』への参照からはじまる。続いて、フロイトの『科学的心理学草稿』(1895)の再読により、フロイトの精神分析の枠組みにおける〈他者〉の表象であり、存在しない最高善としての「もの Das Ding」概念をカント(1724-1804)の『実践理性批判』(1788)から見直す。
 アリストテレス、カント、そして、フロイト。ラカンが『精神分析の倫理』でとりわけ注目するこの三人は、倫理(Ethics)という言葉を、じつはあまり使わない。とくにアリストテレスは倫理という名詞をまったく使わない。(註1) アリストテレスは「政治」(Politike)という語で、カントは「人間学」(Anthropologie)という語で、フロイトは「道徳的次元」(la dimebsion morale)という語で、それぞれ別の「倫理」の輪郭を浮き上がらせる。それぞれ別の倫理、ということは、それぞれの倫理の水準も、当然、異なる。
註1 アリストテレスは体系的な倫理学を書いた最初の人と言われているが、『ニコマコス倫理学』は彼によってそう命名されたのではない。アリストテレスが扱うのは政治(Politike)であり、政治(Politike)と区別された倫理(Ethike)は彼の著作には出てこない。

 今回の読書会では、アリストテレスを扱った。アリストテレスの倫理の水準は「主人」であり、彼が「正しい理法(オルトス ロゴス)」を教える生徒たち、弟子たちのための倫理である。言い換えると、アリストテレスの倫理は、将来、政治(Politike)に携わるポリスの一員に、主人としての徳、ある種の人間的理念の諸条件を示し、審美的ないし享楽的要求に対して、不節制に陥らないような実践=行為のためのある種の制限として働く。
 いずれにしても、アリストテレスが他のすべての倫理とある程度まで共通にもっているあるものがそこで浮き彫りになってきます。つまり、アリストテレスは、ある秩序に準拠しているということです。この秩序は、まず学(science)として――為されねばならないことについての学、ある種の性状(caractere)の規格、すなわちエトス(ἔθος)を定義する、異論の余地なき秩序の学として――示されます。(……)
 エートス(ἦθος)の確立は、生物と非生物つまり非活動的な存在を区別するものとして措定されます。アリストテレスが詩的しているように、みなさんが石を一個空中にどんなに長い間放り投げたとしても、石は〔上昇を描く〕軌道の習慣をつけることはありません。(cf.『ニコ倫』第二巻第一章) それに対して人間は、習慣を身につける。これがエートスです。そして、このエートスをエトスに一致して獲得することが問題となります。
 (p.30)

 エートスとエトスの一致。ある実践=行為と、ある秩序、ある道徳的気風、どんな性状が望ましいかについてのある「学(science)」との一致。そして、この一致を可能にさせるやり方。あるいは一致を望んだときになぜか実践=行為のレベルで常に現れる欠陥。
 このやり方と欠陥を、アリストテレスは実践三段論法(註2)と不節制として語るが、彼の射程はあくまでも余暇を特権的に使うことができる主人に限定されている。
註2 実践三段論法とは、「善の認識(大前提)→善を目指す手段(小前提)→善の行為(結論)」という実践規則のこと。
 一般的によく知られている、推論のための三段論法は以下のようなものである
   大前提:すべての人間は死ぬ。
   小前提:ソクラテスは人間である。
   結論: ゆえにソクラテスは死ぬ。
 これを実践三段論法に書き替えると、たとえばこうなる。
   大前提:健康に良いことはするべきである。 
   小前提:トマトジュースを飲むことは健康に良い。
   結論: ゆえにトマトジュースを飲むべきだ。
 しかし、これでは「ゆえにトマトジュースを飲むべきだ」は出てきても、世の中には飲料としてのトマトジュースが嫌いな人がいるために、結論は「トマトジュースを飲む」という実践にそのまま結びつくとは限らない。
 人間を合理的な存在であると見なすソクラテス-プラトンは、「トマトジュースを飲むべきだとわかったら必ずトマトジュースを飲む」と楽観的であるが、アリストテレスは「トマトジュースを飲むべきだとわかっているのにトマトジュースを飲まない」人々について解明しようとする。
 実践三段論法へのアリストテレスの関心は、分析哲学では「意志の弱さ(アクラシア)」として今日でも議論されている。


 アリストテレスを読むフロイトを、さらに読むラカンは、一致の可能性を精神分析のなかに探し、「ひとつの解放をうながす真理」として語る。そしてその欠陥については、フロイトが『夢判断』以前の1895年の『草稿』以来、快楽原則と現実原則の対立をめぐる考察として、一生涯追究してきたものだ、とラカンは見なす。 
by warabannshi | 2009-04-12 01:17 | メモ | Comments(0)
探索準備04 第10回本郷メタフィジックス研究会 予習
日時:2009 年3 月31 日(火曜日)午後1 時30 分より
場所:東京大学本郷キャンパス 法文2号館2階・哲学研究室

●長尾栄達氏(東京大学大学院)
 ロック哲学における意味と真理の問題

 参考になりそうな部分の抜き書き。岩波文庫の“An Essay concerning Human Understanding”(『人間知性論』)が絶版? になっていて驚く。買う人がいないのか、すでに出回っている本の総数がすでに需要を満たしているのか。

人間知性論 1 (1) (岩波文庫 白 7-1)

ジョン・ロック / 岩波書店


 現在の私が目指すところ[人間の真知の起源と絶対確実性と範囲を探求し、あわせて信念・億見・同意の根拠と程度を探求すること]にとっては、人間の識別機能がその取り扱うべき対象にたずさわる様子を考察すれば充分だろう。そして、もしこうした事象記述の平明な方法で、私たちの知性がいろいろな事物について私たちのもつ思念をえるようになる道筋をなにか解明でき、真知の絶対確実性のなにかの尺度や人々の間に見いだされるはずのいろいろな信条の根拠を説き明かせたら、私は、こうした場合に私の考えてゆくことがまったくのまちがいでもなかったと思うだろう。
本書 p.33-34

 「事象記述の平明な方法」とは、超越的原理や、形而上学的原理にたよらずに考察を行うというジョン・ロック(John Locke, 1632-1704)の基本的な方法論を指している。つまり、自己の経験において、「私たちの知性がいろいろな事物について私たちのもつ思念をえるようになる道筋」を観察し、記述する内観が、彼のとる方法となる。
 ロックは超越的原理や、形而上学的原理にたよらない。つまり、神があらかじめ人間に与えた生得観念と、それにもとづく考察を否定する。
 このように生得観念を疑うことは真知や絶対確実性の古来からの根底を根こそぎにするものだと、人々はややもすれば考えるかもしれないが、その人たちの非難がどれほど正しいかを私は言えない。しかし、少なくとも私は、自分の追求してきた道が真理に合致するから、この道は真知や絶対確実性の根底をいっそう確実にすると信じている。私はこれからの議論で、なにかの権威を捨てたり、なにかの権威に従ったりすることを私の仕事としない。
本書 p.128 一部改訳

 生得観念をロックは否定する。しかし、「およそ人間が考える対象であるもの」としての観念はやはりある。ではその観念はどこから生じるのか。それは「経験」からだとロックは言う。
 
そこで、心は、言ってみれば文字をまったく欠いた白紙で、観念は少しもないと想定しよう。どのようにして心は観念を備えるようになるか。人間の忙しく果てしない心相(fancy)がほとんど限りなく心へ多様に描いてきた、あの膨大な貯えを心はどこから得るのか。どこから心は理知的推理と知識のすべてをわがものにするのか。これに対して、私は一言で経験からと答える。

 だから、長尾さんの「ロック哲学における意味と真理の問題」は、「ロック哲学における経験と、経験だけでは説明のつかない、経験の外部」についての問題になると思うけれど、どうなるかまったくわからない。政治論までやるのかもしれない。「現実に存在する間違った法律に対し、人間本性にそぐう理想の法は、どのようなものであるか」という議論にもとづく自然法思想では、真理(価値、理論)と事実は一致しているから……。



●三好博之氏(京都産業大学)
 なぜ計算を考えるのに形而上学が必要なのか

「計算のとらえどころのなさを どのようにとらえるか」
日本科学哲学会第 37 回大会ワークショップ

 以下はだいたい最初の三分の一くらいまでの私家版まとめ。

 計算をしているのは誰なのか?
 1.ある人がリンゴの個数を数えたり、九九の暗算をしている。このときに、計算しているのはその人である。
 2.ある人が筆算をしたり、算盤や、電卓機能つきの携帯電話で計算している。このときに、計算しているのはその人であり、同時に、シャープペンと紙、算盤や携帯電話などの道具でもある。
 ところでいま、「シャープペンと紙、算盤」と、「電卓機能つきの携帯電話」を、同じ道具というカテゴリーのなかに並べてしまったけれど、前者と後者は異なる道具なのではないか? つまり、「シャープペンと紙、算盤」は、「電卓機能つきの携帯電話」ほど、自立的に計算をしてくれない。(中学校、あるいは高校の数学のテストで、電卓を使ってはいけないと言われることはあっても、筆算をしてはいけないと言われることはない。)
 計算しているのは、「電卓機能つきの携帯電話」を使っている人なのか、使われている「電卓機能つきの携帯電話」なのか? これを言い換えると、次のようになる。
 3.ある人が、もうひとりの人に計算を頼んで、計算をしてもらっている。このときに、計算しているのは計算を頼んだ人なのか、頼まれた人なのか?

 このように、計算する単位を考えてみるだけでも、計算という現象がおこっている事態を適切に記述することは非常に難しい。
 なぜ難しいかといえば、それは計算のトークン/タイプの両方を記述することが不可能であるからだ。
 つまり、個々の計算をまさに行っているときに、その計算のトークンであるところの、白さ、硬さ、甘さ、酔い、鼻につく匂い……みたいな感覚は一般的な人間において生まれない(『ぼくには数字が風景に見える』のダニエル・タメットなら違うかもしれないけれど、一般的には生まれない)。皮膚感覚のレベルでの生々しい断片、トークンを想定することがきわめて難しい。さらにそれを“完全に記述すること”は不可能である(後述の無限退行におちいってしまうから)。だから、計算において「自己」の問題を考えようとすると、どこで「自己」を区切って良いのかわからなくなって、さっきのような問いかけが生まれる。「ある人がコンピュータを使って計算をしている。このとき、計算しているのはコンピュータを使っている人なのか、コンピュータなのか?」「コンピュータの電源、ネットワークの接続、計算ソフト……、それらはどのように区切られるか?」。
 また、チューリングマシンの「停止性問題」(*1)のように、ある記号列を計算するときには、その記号列になんらかのかたちで意味(言語的抽象、タイプ)が必ず附帯し、それを記述しようとするときにさらに別の記号列を必要とし、その「『ある記号列の意味』を記述するために召喚された別の記号列」が、さらに別の意味を持ってしまう(「『ある記号列の意味』を記述するために召喚された別の記号列」の意味)……、という無限退行が起きる。
 計算のトークン/タイプの両方を記述することが不可能であることは、「計算がなぜ進むのか?」という問いかけへの応答を非常にむずかしいものにしている。もちろん、通常の理工学では、適切なところで、論理的、あるいは物理的な記述の自明性にこの問いかけは委ねられるので、問題にはされない。しかし、「何かが動く(この場合は「計算が進む」)には、記述を超えたなにかが関係しているのではないか?」という問いかけによって、「計算がなぜ進むのか?」という問いかけは形而上学の問題となり、三好さんの「なぜ計算を考えるのに形而上学が必要なのか」 という提題へとつながってくる。
(*1)wikipedia「チューリングマシン」に詳しい記事が載っているため、そちらを参照してください。

●郡司幸夫氏(神戸大学)
 生命:ゆらぎを溜める・ゆらぎを開放する

(時間がないので割愛。ほんとうはこれを一番予習したかったのだけれど……)
by warabannshi | 2009-03-31 11:56 | メモ | Comments(0)
探索準備03 『ニーチェと悪循環』読書会(p.321~):?(2)回目 予習

ニーチェと悪循環 (ちくま学芸文庫)

ピエール・クロソウスキー / 筑摩書房



 『ニーチェと悪循環』全体の索引を作成中。まだ、語句を選別している段階。
 充分な索引がついていないせいで読まれなかったり、あるいは無駄に読みにくくなっている良書がどれだけあることか。おまけに『ニーチェと悪循環』ときたら、引用されているニーチェの断章が、ニーチェの遺稿のどこにあるかすら明記しておらず、おまけにこの本の邦訳はニーチェのドイツ語をフランス語訳したものを日本語で二重に訳しているわけだから、さらに事態はややこしくなっている。
 索引も引用先もあえて(?)明記しなかったクロソウスキーの気分もわからないではない。
 ふつう、小説には、索引も引用先も明記されない。ときには『百年の孤独』や『枯木灘』みたいに登場人物一覧や家系図が付記されることもあるけれど、その登場人物が、一冊の本のどのページに現れるかまでは書かれていない。
 それは小説に索引や引用先が必要ないからではない。索引や引用先は“一冊の本”というユニット性を解体させる切れ目となるからだ。(古川日出男は『ルート350』の後書きで、これと同じ理由から初出一覧が嫌いだと言っている)
 論理的な、語句レベルでの整合性を優先させて読むと、むしろ作者が素描している大意が分からなくなって読みづらくなる本は間違いなくある。そういう本は小説に限ったものではなくて、例えば保坂和志の小説論だったり、H・G・ガダマーの解釈学系の論文のすべてに言えることだったりするのだけれど、いずれの作品も、それぞれの“一冊の本”というユニットが帯びている不可思議な統率性、つまり、一般的な論理に因らない整合性こそが固有の持ち味であったりする。だから、索引や引用先が、ほんとうに稀な場合ではあるけれど、素材としての持ち味さえも減らしてしまうことがあることは考える必要がある。
 とはいえ、『ニーチェと悪循環』は、もっと読まれてほしい本であるし、ただでさえ悪文なのだから(これは翻訳がどうこうというよりクロソウスキーのフランス語がやたらと複雑であることが原因だと思う)、まだぜんぜんできていない索引が、そのうち完成して、それが読み進めるうえでのなにかしらの取っかかりになれば良いと思う。

[『ニーチェと悪循環』索引 第一回中間段階]
【あ】
・Cercle vicieux(悪循環)
―Cercle(円環)
―signe da cercle vicieux(悪循環の記号)
―神としての悪循環
・意識
・陰謀
・運命
・Éternal Retour(永劫回帰)
―Retour(回帰)
【か】
・machnerie(機械仕掛け)
・projet((選別の)計画)
・principe de réalite(現実原則)
【さ】
・Philosophe imposteur(詐欺師としての哲学者)
・自己同一性の原則
・Sils-maria(ジルス・マリーア)
・simulacres(シミュラークル)
・maîtles(主人)
―maîtles de la terre(大地の主人) 
―des maîtles et des esclaves(主人と奴隷)
・情動
・physiologie(生理学)
・sélection(選別)
Dressage et sélection(訓育と選別)
projets de sélection(選別の計画)
【た】
・Darwin(ダーウィン)
―anti-darwiniste(反ダーウィン主義)
・Volonté de puissance(力への意思)
・singuliers(特異体質)
・esclaves(奴隷)
【な】
・日常的記号のコード
【は】
・秘教的な
・phantasme(ファンタスム)
・不可能性
―思考することの
【ま】
・マルクス主義
・philosophie de l’avenir(未来の哲学)
・無意識
・lucid(明晰さ)
・模倣
【や】
・有罪性
・prévoit(予見)
【ら】
【わ】

by warabannshi | 2009-03-20 23:49 | メモ | Comments(0)
探索記録30「ゴースト。あるいは渦、うねり。それらが立ち現れる喜ばしさ」
 先日、このブログで紹介した「東浩紀のゼロアカ道場」の第五関門に、友人・「村上裕一」が出場し、そして3名の通過者のうちの1人になった。これは非常に嬉しい。結果発表が終わった後に、思わず村上に駆けよっていって、問答無用で握手、後にハグしてしまったくらいに嬉しい。
 ちなみに、3名の通過者のうち、道場主・東浩紀氏に選ばれたのが「村上裕一」。村上隆氏、筒井康隆氏、講談社文芸局太田克史氏に選ばれたのが、やずや・やずやこと「廣田周作」さん。第五回関門見学者によって選ばれたのが、道場破りの「坂上秋成」さん。他の五名の方々もとても興味深いプレゼンテーションと、口頭諮問でした。おつかれさまでした。

 しかし、「東浩紀のゼロアカ道場」に関しては村上とまったく労苦を共にしたわけではない(それどころかほんの稀にしか連絡を取り合っていない)私が、なぜ彼のプレゼンテーションを聴き、彼の口頭試問でのやりとりを聴いた後で、彼の第五関門突破をこんなに喜んでいるのか? この喜びは「好きなサッカー選手が点を入れて嬉しい」や「在籍していた高校の野球部が甲子園に行って嬉しい」などのあの感覚と、どう違うのか? どう同じなのか? ――いやそもそも、幾つかの喜びを並列的に比べようとすることが間違っているのかもしれない。というのも、いずれにしろ、二つ以上の喜びを一緒にすることは不可能だからだ。それは、二つ以上の思想を一緒にすることが不可能であるのと形式的には近似している。

 とはいえ、二つ以上のものが、どれも同じようにそっと振動しているとき、それらの近似は形式を超えて、ある渦、うねりを浮かび上がらせる。喜ばしいのはその未知であった渦、うねりの立ち現れであり、自身がその渦、うねりの直中にはなくとも、その端緒をかいま見ることができさえすれば――。ましてや、それが友人であるのなら。

 ニコニコ動画にあげられている村上のプレゼンテーションを観ると、彼の自著は暫定タイトルをこのように述べている。
「物語の現場 ゴーストたちの共栄圏に向けて ―象徴界はゴーストたちが支配した?―」
 村上は、「ゴーストたちの共栄圏」が避けられないものとしてどのように立ち現れるかについてはごくあっさりと言い表している。(「ゴースト」の定義もヴィジョンも、文脈に依存しないほど定まっているとは言い難いが、彼はそれを知らないわけではない) また、彼が彼の批評が「創作者として物語に関わっていこうとする人たちの応援歌になれれぱ」と願うとき、「創作者」という語は、すべての人々を含意している。つまり、あらゆる欲望が矮小化されつつあるこの百年あまりの間、その矮小化に満足することができない、あるいは満足を矮小化させていないすべての人々を含意している。というのも、ゴーストは流通の直中にしか在りえず、その矮小化とはすぐに消滅を意味し、その条件において「コミュニケーションの基盤」であるという特徴を持つからだ。
 「コミュニケーションの基盤」という語に少し語を接ぎ木するとすれば、それは「“錯誤のないコミュニケーション”という幻想の基盤」である。たとえば流通の直中において、紙や鉱物という物質性も、額面すらも持たない抽象貨幣が「流通という幻想の基盤」であるように。

 「どのようなゴーストに奉仕するかを人々は考える。それをもって用意された材料をひたすら使うことが重要になってくる」。あるいは、「ゴーストは作者を規定する、そのことによって新しい倫理観が生まれてくると思う」。終盤のスライドで村上が語るのは倫理であり、ここで彼の論旨は一気にその抽象度をあげる。つまり、一方では、ゴーストへの「奉仕」は、「創作」によってなされることが示唆される(「奉仕」の一つのバージョンとして「創作」があるのではなく、むしろ逆に「創作」の一つのバージョンとして「奉仕」はなされる)。もう一方では、「奉仕」は、表現者に表現の正当性を信じさせる「信仰」と対であり、この二つは同時に起こることが示唆される。接続されていないのは「創作」と「信仰」だが、彼は「表現できないのは信仰がないから」と断言する。つまり、村上は「創造(-表現)」の前にある衝動について考えず、むしろ「創造(-表現)」からそもそもの始めを語る。

 これはなぜか? なぜ〈「創造(-表現)」とは違うバージョンに至ることがあり得たかもしれない情感〉について村上は語らないのか? それは「ゴーストが作者を規定することによって生まれる倫理観」とどのように接するのか? ――という問いかけには、いまは何の仮説も立てることができない。ただ、彼は批評だけでなく小説も書くから、「創造(-表現)」に関してまったく自由な、彼自身の「創造(-表現)」の正当性からはぐれることはできないだろうことは指摘できる。〈「創造(-表現)」とは違うバージョンに至ることがあり得たかもしれない情感〉について、彼は彼自身が知っていることを知らないようであり、また彼自身が思いもよらない形で知っていることを知ろうとしない。確かにそれについて知ることはある種の禁忌であり、しかし「知ること」は「創造(-表現)」と対であり、いつも同時に起こる。「奉仕」と「信仰」がそうであるように。だから、彼の批評が「創作者として物語に関わっていこうとする人たちの応援歌」になるときには、同時に彼自身が彼の批評を書くうえでは必然的に知らないでいる必要がある領域をよりよく見定める同伴者として淵に立っているときなのだ。

 喜ばしいのは“未知”であった渦、うねりが立ち現れ、渦、うねりとして知られたことにある。そして、渦、うねりは絶えることはないが、私たちにとっては消えたり浮かんだり、一瞬として同じ形を留めることがない。村上のゴースト論で論じられる「ゴーストたちの共栄圏」に比べると、渦、うねりの立ち現れの感覚は極めて主観的なものなのだが、それは私をついつい喜ばせる。
by warabannshi | 2009-03-14 02:10 | メモ | Comments(0)



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