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探索記録23 「健やかなる発情のために probe-ベータ版」
probe
[動](他)
 1 〈傷などを〉探り針で探る.
 2 …を綿密に調べる, 精査する.
[名]
 1 (動物の)触角, 触手;(外科用の)探り針(explorer).
 2 (…の)厳密[綿密]な調査, 精査;
 3 宇宙探測機.
 4 《軍》偵察.
 5 (飛行機の空中給油用の)燃料補給パイプ.

(あなたはあなた自身を人間にするべきなのだと、……「人間」を自称するあなたは、励起した青緑色の携帯電話の向こう側に広がっている雑木林の暗闇の深奥に立ち、おそらく話し相手と同じ星座の配置を見上げながら、四十億年ほど前の海底火山の赤黒い火口からこの瞬間へと静かに連なって運搬されつづけてきた遺伝暗号の一部を体現した無数の葉の下で、それらの一枚一枚からゆるやかに吹き出されつづける二酸化炭素の濃密な湿気と、朔へと向かい闇のなかへ欠けはじめた満月の反射光と、いまだ深層に陽光の記憶を宿した温かい黒土の匂いを呼吸し、固く弾力性のあるゴム製の持ち手のついた銀色の自転車のハンドルの先端を汗のにじむ繊細に発達した左手で握りながら、あなたとの交通を望んだ、けれど哀願することのできなかったヒトに、ヒトの発した((わたしは人間だろうか?))という問いかけへの沈黙という形式によって、「あなたはあなた自身を人間にするべきなのだ」と告げ、胸郭から囁かれる声の色彩変化を探ろうと平衡感覚が失われるほど鼓膜に神経を集中させたヒトは、眩暈の外側で変わらぬ息遣いと意図を触知し、声なき声という暗号の解読、隠された意味の探査こそが、「人間」という振る舞いの文字どおり“すべて”であることを果たして知っているのか、――いや、もちろんそれが「人間」であると“すべて”承知しているあなたの暗黙を荷電した粒子を介して施される。困惑や恐怖、小心さや妥協に発しない無言は人間に許された、ヒトが発するある種の問いかけへの最善の返答であることを「人間」は知っている。
 人間はヒトを飼育する。ヒトは人間に仕えながら、人間を教育され、獣となり、人間に傷を返礼して人間を不動から解き放つ。)

ベータ版 (beta version)
ソフトウェアの開発途上版のこと。特に、製品版(無償ソフトウェアの場合は正式配布版)の直前段階の評価版として関係者や重要顧客などに配布され、性能や機能、使い勝手などを評価される版を言う。ベータ版は他の開発途上版と比べて重点的にバグ(プログラムの誤り)を解消しており、正式版の機能を一通り備えた完成品に近い状態だが、バグがあったりシステムに影響を与える場合があるため扱いには注意が必要である。また、一定期間が過ぎると使えなくなるベータ版もある。

(口腔と樹々のあいだで宙吊りになったヒトの問い、((わたしは「人間」だろうか?))はやがて自身の伝播すべき内容に興味を失い、百億ほどの波へと拡散して消えていくが、問いそのものが消滅することは決してない。なぜならそれは自らを「悪」となした人間に対する懲罰への唯一の免罪符として機能するから。懲罰はまず火という現象として飛来する。即ち、熱。融けた鉄の白熱。火によって焼き尽くされた皮膚の残滓の下から露出した脊椎だけを見てもそれがヒトのものか人間のものかの判別を下すことは誰においてもむずかしい。雄々しく振動する巨大な家型の機械のなかに放り込まれ、頭蓋を割られ、肛門を裂かれ、顎を砕かれ、煮えたタールに沈められ純白の羽毛を塗されて鉄鋼の剛質な砲身から虚空に向けて発射される人間の精液/卵巣はすでに強制的に抜き取られており、惨劇の依頼主は決して明らかにされることはないが、それがかつて((わたしは「人間」だろうか?))と問いかけていた人間自身であることをじつは誰もが知っている。自涜や自傷ではあまりにも容易に解決されてしまう問い。微笑という、誠意を値切られた回答に飼い慣らされて糊化した問い。かつて世界に対して真剣に問いかけていたあなた自身を収容する檻と化した問い。だからヒトは人間に問いかける、少しだけ洗練されたプロトコルで、「人間」の肉体に退化した爪と歯牙のすべてを奉仕させ、((あなたは「人間」だろうか?))と。『自分自身の鎖を解き放つことができなくとも、他者の鎖を解き放って救うことのできる者は少なくないのだ。』)

プローブ(Probe);「探査針」
遺伝子の存在を検出するために使うDNA(またはRNA)の断片試料。DNAはアデニン(A)とチミン(T)、グアニン(G)とシトシン(C)がそれぞれ対を形成するが、検出したいDNAに対して対を形成する(ハイブリダイズと言う)DNAをプローブとして用いる。

(自身の肉体に陥入している/突起しているいくつもの器官の複雑さに笑ってしまったことはない? あなたの時折漏らすうめき声とも歌ともつかない声は産声の延長にあるものなの? わたしのオルガスムスとあなたのオルガスムスを交換したら二人とも得をしたような気分になれると思う? 勃起しないときのあなたの血液の熱さはどこに向かって凝集しているの? 膣口が堅く絞られる瞬間の感覚は括約筋の緊張と似たようなものなの? 瞼を閉じて口を開けたときに青白い曲線が漂う暗闇の色が微妙に揺らいだりすることはある? あなたの背中を一度も半個体状で灰褐色の生体組織を通さないで眼球だけで視覚したら、信じられないくらい怖いものに見えると思う? あなたは爬虫類と新生児のどちらにそっくりだと言われたい? 乳房に充溢しているのは肺や肋骨の砕けた破片だとわたしの両手の触覚は伝えるのだけれど、それは誤作動だと思う? あなたが時折ハミングする理由を教えてくれる? 首筋の大動脈をわたしが噛み破ったら、あなたの体のどこが一番最初に冷たくなると思う? わたしたちが初潮、精通を迎えるより以前に交尾できていた猫がまだ何億匹も生きていることについてどう思う? 体の南極はどこにあるか知ってる? 体液が泥土のように喉に絡まるとしたら羊水もまた飲みくだすには骨が折れるだろうね? 重力って、なに? 陸上部の投げ槍を逆手に持ってみぞおち辺りを貫きたい衝動にかられたことはある? 赤く錆びた水に裸の下腹部、太股、ふくらはぎ、踵を浸したまま人間は何分黙っていられるのだろう? そっちにいっていい? ためらいを印象づけるにうってつけの尻尾が尾てい骨から伸びていないことへの不満はある? 初めてのとき、腕の付け根に埋め込まれた肩胛骨の可動域の広さに驚嘆しなかった? あなたの腹部に収められた打楽器の空漠に吸いこまれそうになるのはわたしがまだ幼いから、それとも充分に成熟したから? 月経に至る器官をもってみないとわからないことは幾つあると思う? 眠っているあなたの顔から痩せた四肢まで溶かした赤土で縄文の文様を描きたいと思うのは変態趣味になる? ――――)

アンドロイドの、

(ヒトは過剰なる現実を、人間は過剰なることばを持ち寄り、過少なる現実とことばの織りなす光り輝く自然、絶対的な幸福から離脱するための掛け金となす。――「了解した。わたしは人間を開始する。あなたに賭ける。」「了解した。わたしはヒトに回帰する。あなたに賭ける。」――自身の変形を飛躍の掛け金として相手の変形に賭けること。何物にも保証されず、祝福を受けないその透明な跳躍行為こそがある種の「愛」の機能であると、人々は各々の固有の場所と現実の時間、懲罰から離れた調子において燦然と知るだろう。)

健やかなる発情のために。


●懲罰の調子や暴力の専制が性的衝動に近接するのはサディズム/マゾヒズムと同様の駆動原理が働くのと同時に、両者がともに対象の時間の静止(=連続する変形の完了)という反転された自身の欲望を命ずる点で錯覚を起こしやすいことに由来する。
by warabannshi | 2006-10-15 15:01 | メモ | Comments(0)
探索記録22 「健やかなる発情のために siege-アルファ版」
siege [名][U][C]
1 (城塞(じょうさい)などの)包囲攻撃;包囲[攻囲]期間
2 (つきまとう)病気, 災厄, 悩み;((米))(災厄・悩みの)長く苦しい期間
3 [U](執ような)努力.
 lay siege to ...
 (1)…を包囲する.
 (2)…を執拗に説得する, くどく, せがむ.

(三日間つづいた雨と風が過ぎ去ったあとの巨大な半球状の鏡面のように広がる青い空の硬質の下で白くあふれている太陽の光を反射させ、乾いた焦茶色の地表の上に整然と並んでしんと静まりかえっている冷たい灰汁色の液体がそのまま氷点に至って凝固したかのような墓石の一つの前でしばし立ち尽くして後、ふと両の掌を胸の前で合わせたとき、右手と左手、馬手と弓手の狭間で瞬時に波立つ触れると触れられているの二重の同心円状のさざ波の交錯に性的とも言える奇妙な昂奮を憶えるのは果たして倒錯なのか自慰なのか、あるいは完全な幸福なのか、いずれの名が無窮に奉仕するその行為の上に附されるにせよ、なにも刻まれていない御影石のモノリスを濡らしているのは唾液でも誘い水でもなく足下の地面の暗闇からイドを経て汲み上げられた井戸水の冷ややかさであり、それゆえに合掌する人間は錆と微熱を帯びた銅貨によく似たホルモンの匂いを限りなく粘性がゼロに近い空気の渦から嗅ぎとることも出来ず、手桶にもたれている底の抜けかけた杓子から水滴が一吹きの風をきっかけに裸足に滴り落ちるまで、無音のまま斜めに射しこんでくる陽光の眩しさを進化の末に獲得した不定形な緑の葉の連続と密集で形づくられるミヤマザクラの樹の影で祈りの諸段階の導入に頑是なくも留まりつづけることとなる。それは樹々ほどに繁茂することのできぬ自らの形象の貧しさゆえか、肉体の翳りの深奥へと近付くことへの躊躇ゆえか。)

アルファ版 (alpha version)
ソフトウェアやハードウエアの開発初期版のこと。特に、製品版(無償ソフトウェアの場合は正式配布版)のごく開発初期のものをテスト目的で配布し、性能や機能、使い勝手に対する要望を受け入れるための版と言える。アルファ版でソフトウエアの使用感などをヒアリングし、その結果を元に仕様を固めたベータ版を配布、更なるバグフィックスを行なうといった手順が一般的である。アルファ版は一般的に動作確認を行なう環境が不十分であるなどの理由から未知のバグが存在していることが多く、しかもシステムに影響を与える致命的なエラーが発生する場合もあるため取り扱いには注意が必要である。

(祈りつづけるあなたが此処に立つときにあなたの無防備な背中を見ることが許されていることを、眼球という直径約24mmの球状構造物に感謝する。愛情と感情移入ではなく、観察と組成検証の方があなたの肉体を構成する、恐らく一千を決して下らない器官のときには誤信を起こす緻密な複合に対してそれに相応しい畏敬を払うことになるのだろう。目をつむったまま微笑みをつくるあなたの頬に触れるのがひたすらに好きだ。それは指先を伸ばし、天敵や同胞を威嚇するために発達したという表情筋の温かい輪郭を指の腹や側面で柔らかく、くりかえしなぞるたびに、ホモ・サピエンス・リンネの存在を人間ではなく肉体のままで肯定する調子が内臓の底から上昇しながら湧きだすからで、それは意識から遠い右手に面状に広がった指と掌の皮膚感覚が神話よりも古い時代にはヒトにも許されていたという本能行動ほど鈍磨していないことの証明としても機能する。人間は肌に覆われているのではなく、肌によってヒトの形あるいは心の形を保っていることを忘れがちだ。)

【性的不能(Impotenz)】

(明かり取り用の小さな窓から満月の光の射しこむ仄暗い闇の底であなたの躰の観察を一時停止してモノと化し、鬱血した性器と沸き立った周辺へのファナティックな刺激をはじめることは容易い、ふと我に返って一本調子な姿の滑稽さに吹きだしてしまわないならば、白昼の太陽の下でも行為をせがむことができるだろうほどその享楽は享楽の意味そのものを忘却させ、傷と傷を結び合わせるための志向性を発揮する。)

人間の、

(眠れないときに眠ったふりをしながらあなたは隣に寝ている人間の右手で遊ぶ。機械を操作するように右手を頭をこすりつけたり口に含んだりするときにすでに洗い流された知覚の無惨な残骸が自由神経終末から微かに押し寄せつづける活動電位のさざ波に触覚と圧覚と温覚を通じて相手が反応することを感謝し、讃美する。しかし、いずれにせよ人間は、肉体の水深の高みにおいて惚けつづけるには脆弱すぎる。欠如を押しつけ合う物語は駆動を始めそして動物が終わり、人間が始まる。)

健やかなる発情のために。
by warabannshi | 2006-10-07 21:46 | メモ | Comments(0)
探索記録20 「皮膚-外傷-空漠」
 人間の皮膚はつながっている。当たり前のことのようだけれど、ふだんの生活の中で私たちは、人間の皮膚が、頬から唇、口内へと連続していて、さらには食道、胃、十二指腸、小腸、大腸、肛門へとつながっていることを、または、気管から肺へとつながっていることを、――つまり、“体内”と呼ばれている体の部分の多くが、じつは体表の延長であることを、どれだけ「当たり前のこと」として実感しているのだろうか。(大腸菌、ビフィズス菌やウェルシュ菌などの腸内細菌が、生理的な免疫機構(=抗原抗体反応)の影響を受けずに小腸~大腸で生存できるのは、まさしくそこが体外であるからに他ならない)。体表面に視点を固定して、人間の体の形態をデフォルメしていくと、呼吸器は体表の一つの陥没であり、複雑に折れ曲がった消化器官は一本のチューブとなって体を貫通している、と捉えることが可能となり、さらにデフォルメを進めると、ついに体はドーナツ型のフォルムまで到達し、日常生活の中で充溢した“体内”として漠然としてイメージされていた消化器、呼吸器が、じつは皮膚の延長であり、外傷であり、空漠であることを暴露する。
 ――そんなことを中学生に話しても相手を混乱させるだけであることはわかっているけれど、昨日の深夜、来週の月曜日からはじまる教育実習のための授業・板書ノートを作っているうちに、消化器、呼吸器に関する着想の走り書きは自分の意図から離れてどんどん継ぎ足されていって、いつのまにかノートの二、三割を埋めてしまった。キーボードで書くときには指が勝手に動き出すことはままあるけれど、ボールペンでノートに書いているときに文章が数ページに渡って走り出すことは滅多にない。
「それは、勝手に自分の手が動いてるって思いこみたいだけじゃないの? 書く、って動作によって気持ちが昂ぶっているせいで」
「自動筆記、――ってこと?」
 金曜日の夜、講義が終わったあと、喫文会のメンバー四人と早稲田駅の正面あたりにある「一休」に飲みに行って、やはり「自分の意図を離れて文章が動き出す」という話をしたときに友人・SとMは慎重にそう言った。
「自動筆記、ってわけじゃなくて、――自動筆記っていうのは、どこか外部からの声を聴きとって筆写している状態でしょ? そうじゃなくて、自分の書いた文章を読んでると、次に書く文章はこれしかない、ってラインが見えてくるんだよ。そのラインに沿って文章を書いていくの。もっと言えば、直前に書いた一行に反応して、次の一行を書く、って感じかな」
 と言ったのは、うちだったか、友人・Uだったか忘れたけれど、
「パソコンで原稿を打ってるときには、その直前に書かれた文章を読んでから反応するまでの時間がすごく短いんだけど、鉛筆で書いてると、反応の連鎖に文字が追いつかなくて、だから神に直接書いてるときは、四行ぐらい先までの文章が頭の中にプールされてたりするんだよ」
 と言ったのは間違いなくUで、Uみたいに文章を脳内にプールしておくことがあまり得意ではなく、けれど言語反応速度だけは早いうちは、だからノートで文章を展開することが、ほとんどない。
 それはそれとして、「外傷-空漠をもった人間」という人間観は、高校にいた頃からぼんやりとうちが抱いていたもので、今回、やっと具体的な展開に至るための手掛かりを得た感触がある。教育実習で母校に戻るのをきっかけに手掛かりを得たなんて、どこか物語っぽくて嘘くさいけれど、それはあまり問題ではない。四十六億年という地質学的なタイムスケールで語られる「生物の進化」という文脈の中に人間を位置づけたときに初めてそれとわかる、人間の存在に潜在する膨大な無作為-偶発性の繰り返しをも、消化器、呼吸器という外傷-空漠は隠喩している。※

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by warabannshi | 2006-05-27 22:50 | メモ | Comments(0)
探索記録19 「まぐれだとしても」
「これは積極的に捉えられることだと思うんだけれど、オータ君の文章には悪意がないよね。オータ君の文章を読んでると、言葉を使って第三者を攻撃しよう、って意図があまり、というか、ほとんど感じられない。――そこは評価できるポイントだと思うんだけれど、でもここであえて言っておきたいのは、言葉をあまり無自覚に使いすぎてはいないかってことなんだ。つまり、無自覚に発した言葉によって、第三者を傷つけてはいないかってこと。言葉っていうのは必然的にいろんな意味。社会的、文化的、政治的な意味を引き寄せるものだから……。
 たとえば、オレがここ最近で一番あり得ないって思ったのは、……アラカワシュウジ、だっけ? 半月くらい前に、芸大に来た建築家、オータ君が聴講に行ったっていう、……荒川修作か。その荒川修作のあとで、オータ君が、掲示板に書き込んだ記事のタイトル、覚えてる? 『開放された自閉症児』、って、書いてたよね。オレはあれはあり得ないと思ったね。オータ君は他意なしに、荒川修作のもっとも適した表現として、『開放された自閉症児』って言葉を使ったんだろうけど、じゃあ、それを見た『開放されてない自閉症児』の親はどう思うか、ってことだよ。もしくは、君が自閉症児の父親だった場合、自閉症児の息子を持っていた場合、果たして『開放された自閉症児』っていう表現をすることができたかどうか。あるいは、君が車椅子に乗っているとして、『翼を持った車椅子の少年』っていうフレーズを聞いたときに、どう感じるか、ってことだよ。
 言葉っていうのは十分人を傷つけうるものだってことを、たとえ、オータ君がそんな気がまったくないとしても、言葉は相手を傷つけうるものだってことを、いまの四〇〇倍くらい意識したほうがいいと思う」
 金曜日の夜六時ごろ、早稲田の文学部キャンパスの食堂で苺ジャムのケーキと沖縄そばを食べながら友人・Sが言っていたことが、その夜からいまにかけて、キーボードを打とうとするたびに頭に浮かんできて反復されている。それはSの「言葉は相手を傷つけうるものだってことを、いまの四〇〇倍くらい意識したほうがいいと思う」という言葉に意識が固着してしまっているというよりも、むしろ、Sがくり返し使っていた、「言葉が人を傷つける」という表現そのものに違和感を感じて、それがなかなか解消されないからなのだろう。
「え、じゃあ、オータ君は言葉で傷つけられたことないの?」
 やっぱり沖縄そばを食べている友人・Mが言う。というか、Sの沖縄そばはもともとMのだ。「炭水化物をできるかぎり摂らないようにしている」Mは沖縄そばのそばをSに手伝ってもらっていて、けれどそのお昼ご飯はエビ入りポテトサラダとおむすびだった。
「いや、言葉で傷つけるっていう、慣用表現があることはわかるよ。
 でも、実感がまったくともなわない表現だな、って思う。
 傷つける、っていう動詞は、こうやって直接的に皮膚を傷つけることじゃん。(とりあえず、スパゲッティー・カルボナーラを食べるのに使っていたフォークを逆手に持って腕、手首からひじにかけての腕を引っかいてみた)。言葉っていうのは徹底的に抽象的なものでしょ? だから、なんていうのか、言葉で悲しくなる、怒る、ってことはありうるけれど、それで、言葉で傷つくっていうのが悲しくなる、怒る、っていうのの強調表現だっていうのはわかるけど、ただそれだけなんだよね。そういう意味で、皮膚感覚と、言語っていうのがうちの中で、もう、ぜんぜん乖離してるのかもしれない」
「もしかしたら、人からすごいネガティブな言葉をかけられた経験が少ないのかもしれないね。経験の総量が」
「そもそも、言語システムに対する感覚、というか距離感っていうのは全部後天的に決定されるわけ?」
「……というか、どっからこの話になったんだっけ?」
 思い出そうとしてみたけれど、思い出せない。三日前の金曜日のあの瞬間は、たしかに思い出せて、それで元の話題に戻っていったのだけれど、今では元の話題が何であったかも忘れてしまった。けれど、交わされた言葉を書き出しながら思い出していたのは、今月の1日、芸大の第三講義室で聴いた荒川修作の声だった。(荒川修作が来たのは、茂木健一郎というクオリア(質感)という概念を提案した脳科学者の講義で、彼のブログに荒川修作の講演が録音されたmp3があるから、時間がある人は聞いてみてください)。講壇の正面に置かれた、簡素なプラスチックの黒いイスに足を組んで座った彼の声は、奇妙に低音で、よく通り、響きとしては人の声というよりコントラバスのような管楽器の音に近い感じで、隣の女の子はノートを丹念にとっていたけれど、うちはとてもノートをとれるような雰囲気ではなかった。「言葉に傷つけられる」という表現は、やっぱり過剰表現というか、倒錯したもののだと思うけれど、言葉を皮膚感覚で知覚した(この表現も、おかしいか)のは、荒川修作の声が初めてのように思う。じっさい、教室で聞いているときも、上腕三頭筋の筋肉がぴくぴく痙攣を始めたり、さらに上野公園まで荒川修作を追いかけていって話を聞いたときは、(もちろん一人で追いかけていったわけではなく、七、八人くらい本物の芸大生らしき人たちも話を聞くために彼についていったからそれに混じった。結局荒川修作はブランコがある広場みたいなところで立ち止まり、後についてきた学生に追加でいま手がけている制作品について話してくれた)、姿勢がめちゃくちゃに崩れてしまって、妙な猫背になってしまい、なんというか、猿人みたいな姿勢になっていたように思う。「まるで猿人みたいだ」とか思いながら、荒川修作の声を受けていて、けれど、こういう姿勢でなければ荒川修作の声を声として受けることはできないのだから仕方ない。「意識を言葉に固着させるな」とつぶやくように言った荒川修作の言葉には、最初から最後まで、留保されている情報がほとんど何もなく、ほのめかし、迂回、誘惑といった隠喩的な作用とは無縁に、直線的な意味作用に奉仕されていた。しかしそれは、「言葉は差異の体系である」と唱えるレヴィ=ストロース以降の構造学者の完成し、閉ざされた言語観とは異なり、実践、行為のうちに直接的に開かれている。その声に賭けられているものは限りなく大きく、言葉に賭けられているものは限りなくゼロに近い。

 一気に話は飛ぶけれど、今日、来週の月曜日から三週間続く教育実習のために、東武東上線の「池袋」~「志木」間を各駅停車で往復しながら板書ノートを作っていたら、ふと、化学繊維の座席に座って揺れている自分の体が、無数の偶然の集積であるかのような感覚に陥った。感覚に陥った、というか、「自分の体が無数の偶然の集積である」という考え方、捉え方がリアリティをもって現前した、と言えばいいのかわからないけれど、枕木の鳴る規則的のようで不規則な硬質な音と、窓の外の「午後三時すぎから雨になる」と予報されていた群青色の空に、高圧電線の黒い直線が六本、交差しているのを目にしながら、「自分の体がここに存在していることは、驚くべきことではないか?」という問いかけが唐突に現れ、じわじわと広がっていった。
 膝の上に広げられているノートには、中学校理科の「生物の分類」で「五界説」の説明の仕方のメモが走り書きしてあって、メモといっても半年ぐらい前から文章でしかメモが取れなくなった自分のメモは、五日後に教壇で発せられる声を先取りするような話し言葉でこんなことを書いている。

 五界説は、時間が経てば、モネラ界の生物がどんどん原生生物界に移っていって、原生生物界の連中も、植物界とか菌界とか動物界にいっちゃうような錯覚に陥るかもしれないけれど、それはあくまでも錯覚であって、ウソだからね。
 あと、数万年後には、節足動物の先に「超・節足動物」が現れたり、脊椎動物の先に「超・脊椎動物」が現れるかもしれなくて、それが進化なんだ、とか思うかも知れないけれど、それもやっぱり錯覚だからね。五界説はあくまでも、いま、存在している生物種を、組成の複雑さを一つの基軸として分類してみただけのモデルでしかないんだから。(ちなみに、末端にいくほど高度な機能を持っているわけでもないよ。菌界の生物種は動けないことに注意。ただ、仕組みが複雑で適応度が高いだけ)。
 生物のぜんたいは、人間の作った、二界説や五界説、あるいはドメイン説のはるかに先を行っていて、人間の作った分類体系-モデルは、生物のぜんたいに決して追いつくことはできないんだよ。できるのは、可能な限り、生物のぜんたいににじり寄っていくことだけで。
 これから話していくことになると思うけれど、原生生物界から植物界に移っていくときに、“陸上への進出”っていう現象がポイントになるんだけれど、彼らは、新しい生活の空間を求めて、自発的に陸にあがっていったわけではない。五界説のモデルで見ると、まるで彼らが「自発的に陸上進出を果たした」ように見えるけれど、それは時間を逆向きにさかのぼっているからそう見えるだけ。これも、この五界説の図が引き起こしやすい錯覚の一つで、「よくわからないけれど、気がついたら、造卵器と造精器ができていて、この体で生きていけるところを探したら、陸上しかなかった」というのが、進化の場で起こっている現象で、そういう変化はいつでも、いつのまにか起こっているものなんだと思う。
 その変化の理由なんていうのも、当然、人間の後付けでしかないわけで、原核生物(モネラ界)から真核生物(原生生物界~)への進化も、食細胞にミトコンドリアやシアノバクテリアが、なんの拍子に、なんのきっかけで共生をはじめたのかなんてわからないんだよね。食細胞も、ミトコンドリア(好気性細菌)も、それぞれ別個の生物だったわけで、それが突然合体して共生をはじめるなんて、普通はあり得ないことでしょ? なのに、それは起こった。
 さらに、生命の起源まで遡ると、オパーリンって化学者が、電流を原始海水に流し続けて、アミノ酸を作るのに成功して、教科書では「原始の海から声明は生まれた」なんて簡単に紹介しちゃってるけど、でも、アミノ酸は生物ではないでしょ? アミノ酸からDNAの塩基配列が偶然作られる確率は、数億分の一で、その数億分の一がなかったら、いまだに地球に生命は存在しなかったわけで、

 ここまで書いて、さっき言ったような、「自分の体がここに存在していることは、驚くべきことではないか?」という問いが、目の前に投げ出された。その問いに感じる「実感」は、日常生活の中で感じている実感とは異質なもので、なぜなら前者では後者の実感を発生させている具体性は、ほとんど皆無であるからだ。なのに、その問いの強度は、自分の脇腹の筋肉を数分に渡って痙攣させるほどに確かなもので、だからこの問いは、差異の体系としての言語として解析されうる素材ではなく、一つの声として処理されるべき命題なのだろう。言葉に傷つけられている、という状態は、この感覚のネガティブな側面が強調されたものなのだろうか。
by warabannshi | 2006-05-22 20:33 | メモ | Comments(0)
探索記録18 「忘れえぬ人は必ずしも忘れて叶うまじき人にあらず」
 タイトルの文章は国木田独歩『忘れえぬ人々』の冒頭の一文だった、……と思う。曖昧なので確認しようと【青空文庫】で調べてみたら、『忘れえぬ人々』は[作業中の作品]のカテゴリの中に入って、うちの部屋の南の壁の本棚を探してみても、『牛肉と馬鈴薯・酒中日記』しか見当たらない。『忘れえぬ人々』が入っているはずの文庫本、『武蔵野』は、西早稲田中学で国語の教員をやってる父が、四年くらい前の春に、小型ダンボール箱いっぱいの文庫本を抱えて部屋に入ってきて、「BOOK OFFで百円だったから買ってきたんだけど、オレんとこにもう一冊あった本が、じつはこんなにたくさんあったんだ。二冊あっても、一冊しか読まないから、……いるか? いらなきゃ捨てる」と半ば強引に、(「いるか? いらなきゃ捨てる」と言われれば、たいがいの物品は受け取ってしまうのではないだろうか?)、くれた中に入っていたはずだ。でも、本棚には見当たらない。けれど、よく考えてみたら、『忘れえぬ人々』の内容は憶えているのだから、本はなくてもべつにかまわない。
 「忘れられない人というのは、忘れてはならない人のことではない」。
 独歩は、「忘れえぬ人」とは、両親や、世話になった教師・先輩・友人のような絶対に忘れてはならない人のことではなく、まったくの他人で、忘れてしまったところでなんの義理も欠かない人だ、と言う。そして、独りで机に座ったまま人恋しくなったとき、「主我の角がぼきりと折れて」、人知れず思い出されてくるのは、後者の人々の方で、彼らも自分も、天地の間にぽっと生を受けて、すっと死んでいくような存在なのだと思うと、「懐かしさのあまり泣きたくなる」。
 ――「主我の角がぼきりと折れて」、「懐かしさのあまり泣きたくなる」だけは、原文でもそんな書き方をしていると思う。終盤の二、三段落にあるはずで、読み返してみたいけれど、なんせ本がない。( ゼファー生さんのブログから飛べる、國木田獨歩「忘れえぬ人々」によると、「主我の角がぼきりと折れて」、「懐かしさのあまり泣きたくなる」の部分はやっぱり多少違うようで、いちおう旧仮名と仮名の二つをここにも載せて置くことにしました。仮名にする途中で、ずいぶんと手を入れてしまったところもあるので、原文仮名を読みたい方は新潮社から出版されているはずの『武蔵野』をどうぞ。テキストは、moreで読むことができます。ゼファー生さん、ありがとうございました)。この箇所と、タイトルの一文だけ鮮明に憶えているのは、うちが『忘れえぬ人々』と同じような思考ルーティンを経て小説なり、記事なりを書いているからなんだろう。じっさい、「書かずに叶うまじき人」、あるいは出来事が、多すぎる。「これはぜひ記事に書いておこう!」「書かいでか!」とその時々では思っていても、(関係ないけど、「書かいでか」「やらいでか」って、どこかの方言なんだろうか、それとも古語?)、いざ部屋に戻って書く段になると、腕立て伏せをしたり、緑茶を淹れたり、半荘ほどネット麻雀を打ったりして三〇分どねばった後、「今日はそういう調子じゃないんだ」と納得して、思いついたことを指にまかせて書きはじめる。“書きたいのに書けていないイベント”は手帳の中に堆積してしまっていて、いままでの記事を見返しても、3/25の小島信夫さん・保坂和志さんの対談@世田谷文学館、4/9のyutaさんのポイ・パフォーマンス@荻窪 ミュージアム東京、5/1の荒川修作の講演会@芸大 第三講義室、5/5のKのアドバイス@池袋西口公園、……どれもこれも、原稿用紙の二、三十枚じゃ語り尽くせないほどのイベントで、でも、そういう気負いこそが、ディスプレイの上で展開されるはずの言葉の連鎖を阻害している。
「じゃあ、オオタ君。たばこ吸いに行こうか」
 先週と同じように、友人・Uと喫煙スペースでたばこを吸っていたら、たばこの煙は、それを眺めていると気負いを取りのぞいてくれることをあらためて確認させてくれた。嫌煙家の人はわかってくれないけれど、たばこの煙は、線香や爪を燃やしたときの煙よりも濃くて、不定形で、中空に白さを保ったまままま、滞留してくれる。そういう質の煙は、たばこ以外では、本当に得難いもので、たばこの煙は煙というより、一つの音楽に似ている。手元にある薄緑色のパッケージには、「NATURAL AMERICAN SPIRIT」というロゴと、長パイプを吸っているインディアン、ネイティブ・アメリカンの図柄が入っていて、バッケージの中に入っている製品が決して自分をトランス状態に導いてくれるような代物ではないとわかっていても、なんとなく、彼らと同じように鎮魂の効果が、口にくわえたそれにも宿っていると信じてしまう。(ネイティブ・アメリカンにとって葬式とたばこの回しのみは不可分の関係にあったようで、それはパイプの先から出る煙とともに、死者の霊が世界中に拡散していくことを願ったため――ということを、半年くらい前に『世界ふしぎ発見!』でやっていた)
 そう信じてしまうのは、友人・Uも同様のようで、最近のUの二つの短編では、喫煙と死者との邂逅が近接して反復されている。(彼の最初の作品にまで遡って、喫煙と死者との邂逅の関係を調べてみたかったのだけれど、『対位性……(忘れてしまった)』が、ファイルのどこを探しても見当たらない)。
「たばこには二種類の吸い方があってね、一つは普通に肺に入れる方法で、もう一つは肺に入れないで、ぶかぶかふかすだけ。中学生とかが、とりあえず格好つけるために吸うときは後者で、――それは煙がたくさん出るからで、無駄に早く燃え尽きちゃうんだけど、煙を肺に入れるって動作は、実際、初めはとてもむずかしいんですよ。小学校とかでやった避難訓練とか思い出すとわかると思うけど、煙っていうのは、温度が高いから、上へ上へと昇っていっちゃうわけで、だから、吸気を肺に入れるのを意識的にしないと百パーセント咽ることになるわけですよ。たばこ吸ってると、呼吸に意識的になるんですよ」
 おととい、飲み会のときに彼氏がなけなしの一五〇円で買ったホープの、(ホープは二箱で三〇〇だから、つまり、誰か別のもう一人と相談して一五〇円ずつ出し合って買ったのであろうホープの)、その最後の一箱を隠してしまったという嫌煙家のMにたばこの吸い方について語っているUはなんとなく嬉しそうで、それに対してMは笑顔で、薄緑色のパッケージの下半分に書かれている注意文を指でなぞって見せる。
《喫煙は、あなたにとって心筋梗塞の危険性を高めます。疫学的な統計によると、喫煙者は心筋梗塞により死亡する確率が非喫煙者に比べて約1.7倍高くなります。(詳細については、厚生労働省のホームページhttp://www.mhlw.go.jptopics/tobacco/main.htmlをご参照ください。)》
 心筋梗塞を危惧しているわけではないけれど、(ゼロではないとは言わないけれど)、うちは「中学生とかが、とりあえず格好つけるために吸うとき」の方法であるところの口内喫煙が基本だ。肺に吸い込まないで、口からゆっくりふき出すと、煙はそのぶんだけ濃くなって、その煙を鼻から吸いこむと、ただ肺に入れているときよりも香りが楽しめたりする。肺に入れると、どうしても呼気と一緒に煙が遠くに散ってしまって香りも薄まってしまう。(たばこの匂いが苦手、という人は、このブログでよく紹介しているまいとさんを始めとして結構いるけれど、Uの言うことには、「この前、院生と合同のゼミがあって、休憩時間にたばこ吸ってたら、院生の一人がいきなり近づいてきて、やべッ、怒られる! とか思ったら、『…すいません、一本くれますか? 副流煙がおいしくって』――」「副流煙って、おいしいの?」「主流煙も副流煙も大差ないよ。フィルター通ってるか通ってないかの違いなんじゃないの? ああ、でも、メンソールは違うよ。顆粒がフィルターに入ってるから」)。(ちなみに、葉巻とパイプは口内喫煙が基本らしくて、去年の春休みにイタリアで買ってきた「マフィアのボスがひざの上で寝ているペルシャ猫をなでながら吸ってそうな」葉巻を、和田堀公園のベンチで吸ったとき、知らずに深々と肺に入れたら、三十分ほど眩暈と嘔吐感が続いた)。
 どうでもいいことだけれど、たばこの吸い方なんて、みんな、誰に教えてもらったのだろうか? 高校一年の秋に吸ったマイルドセブン(セブンスターだったか)のメンソールは、当時書いていた文化祭直後の教室を舞台にした掌編で、たばこを吸う描写がどうしても必要だった、というのもあって、ずいぶん、その一本をわけてくれた友人・Iの口元、たばこを人差し指と中指ではさむやり方、灰の落とし方、みたいなのを見てそっくり真似して、そのままなんとなく覚えたのだけれど、そのIにも、やっぱりたばこの吸い方を観察していた頃があったはずで、でも、Iが煙にむせている光景を実感のあるイメージとして結ぶのはむずかしい。飛躍しすぎだ、と言われるかもしれないし、単なる連想にすぎないよ、と思われるかもしれないけれどあえて言うと、それは新生児のころのIを想像することができないのと同じような質のむずかしさで、Iが、Iの両親の性交の結果、ここに存在しているというテーゼを実感することへの禁忌を同伴した躊躇でもある。

 煙草の煙を肺に入れるという感覚が理解できなかったし、吸い込みながらでないと火がつかないということだって知らなかった。口に含んで吐き出すだけのふかし煙草だったが、それでも煙は沢山出るので楽しかった。ただ、いたずらに煙草を沢山消費するのが玉に瑕だった。

 二十歳になる前、告白すれば一度だけ、落ちていた煙草を拾って、咥えるだけ咥えてみたことがある。思えばあればメンソールだったと今になって判別するが、当時の僕にそんなのが分かるはずなどなかった。第一、フィルターの存在を知らなくて、どちらをくわれば良いのかも知らず、隠れてこそこそと試みたことだから、葉っぱがむき出しの側を咥えていても、その間違いを正してくれる人なんて一人もいなかったし、今、こうして普通に吸うようになってみても、そんなことを教えてくれた人は一人としていなかった。

 Uの二番目の短編の中でくりかえされる、まだ喫煙が不慣れだったころの一つ一つの仕草は奇妙に性的で、その後に展開される近親相姦的なニュアンスをもった妹とのたばこの取り合いを準備する効果を持っているけれど、両者をつないでいる作用は、初めての喫煙と新生児をイメージの上で結びつけている作用と近似しているはずだ。ここ最近、ずっとブログで言い続けていることなので、「またか」と思うかもしれないけれど、その作用は人間の潜在的な無力さ、不自由さに起因しているように思う。
「煙を肺に入れるためには、呼吸を意識的にしなければならない」と、Uはたばこの吸い方をレクチャーしていたけれど、呼吸を意識的にしなければならない時期といえば、新生児、神経系が未発達であるがために、自分の腕すら自分のものだと認識できず、意識的に動かすこともできなかったあの特権的な時期のことで、一次性徴の記憶とともに、呼吸、あるいは運動の不自由さは性的なものとの連絡を脳の内部に設定するのではないだろうか。また、「性交の結果として望まれない妊娠をする」という物語が近代小説の中で飽くことなく書かれてきたのは、そして、特に「望まれない妊娠をする」というところにアクセントが置かれ続けたのは、やはり自らの起源を不自由さと連絡し、これを象徴する性交-妊娠にもつことの拒絶と、それによって自らの潜在的な-初期設定された無力さを隠蔽しようとする強迫観念が近代の内部に組み込まれていたからではないだろうか。けれど、隠蔽のための戦略は、小説という表現形態の中で必然的に失敗することになる。
 Uの二つの短編のうちのもう片方、『lament』は、あまり文筆業である「私」と、唖で、意思疎通のためにホワイトボードとマジックを手放せない小学生の息子・樹を中心に話が進んでいく。彼らは、共に声を持たない。
 文字というのは本当に不便なツールで、ビジュアル的に加工しないかぎりで、音楽やダンスのように、一次的な知覚に訴えて相手の興味を惹くことができず、能動的な認識を待たなくてはならない。樹は、唖であることを理由に小学校でいじめられる(ホワイトボードに中傷的な文句を落書きされる)が、樹は沈黙したまま、応答をホワイトボードに書くことをやめていく。聴覚に訴えることができず、さらに視覚においても認識までに相手の飛躍を要求する文字というツールは、その表現形態の基底に無力さを設定する。そのことを小説という形で示したUのこの作品は好きなのだけれど、やはり書かれたものであるところの小説内部では、書くことによってしか意思を伝達できない樹の書かれたことば-欠落は、作品形態との入れ子構造の複雑さによって特権的な地位を与えられてしまっている点、最終的に無言の叫びによって充足してしまう箇所の安易さはやっぱり見過ごせなくて、その克服は、小説をlament(「……を悲しむ、嘆く、後悔する」という動詞的意味のほかに、「泣き言、愚痴」という名詞的な意味をもつ)にしないための、これからの自分の課題にもつながっている。

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by warabannshi | 2006-05-13 21:49 | メモ | Comments(2)
探索記録17 「授けられたとせよ」
是枝裕和 『誰も知らない』
星護 『笑の大学』
宮藤官九郎 『真夜中の弥次さん喜多さん』
片山一良 『アップルシード』
神山健治 『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG <1> ~ <13>』
ジャン・リュック・ゴダール『気狂いピエロ』
アンジェイ・ワイダ 『コルチャック先生』
オーソン・ウェルズ 『市民ケーン』
カール・TH・ドライヤー 『裁かるゝジャンヌ』
ルイ・マル『鬼火』
      『死刑台のエレベーター』
      『地下鉄のザジ』
レニ・リーフェンシュタール『民族の祭典』
                『美の祭典』
                『アフリカへの想い』
                『ワンダー・アンダー・ウォーター 原色の海』
アキ・カウリスマキ 『白い花びら』
            『愛しのタチアナ』
            『真夜中の虹』
ヴィム・ヴェンダース 『都会のアリス』
             『まわり道』
             『さすらい』
             『アメリカの友人』
             『パリ、テキサス』
             『東京画』


 アキ・カウリスマキや、ギリシャ映画の存在を教えてくれた大学の後輩・Hが言うには、
「オータさん(うちの本名だ)、この前、『カルチュラル・スタディーズって、なんでもかんでも権力構造とか、作品の外の事件とか流行に回収されちゃいそうで、なんとなく胡散臭い』って言ってましたけど、まあ、確かにそれもそうなんですけど、映画って、監督や制作国のこと知っておくと、すげー面白くなりますよ。とくに歴史。というか、世界史。いや、俺もよく知らないんですけど。スペイン戦争とか、第二次世界大戦とか、ボスニア戦争の前と後で、もうすっごい変わりますから、映画って。『カリガリ博士』だって、あれもナチスが台頭してきたころの不安定な時代背景があったことを押さえておくと、ドイツ表現主義って言うだけではくくりきれない何かが見えてくるはずですし、あ、あと、この前、オータさん、『ミツバチのささやき』観たって言ってましたよね? あれで、『フランケンシュタイン』が最初に出てくるじゃないですか。ああいうのも、スペイン内戦でフランコが勝ってから数年後のスペインが舞台になってる、っていうのを知っておくと、本当にあの映画がすごいことがわかりますよ」
 けれど、あいにく世界史の勉強をするヒマなんてないままに、THUTAYAの半額ウィークは始まってしまい、結局、いつもの通り、以前に誰か――後輩・Hに限らず、早稲田の友達や、高校のときの麻雀友達がぽろっと話していて、たまたま耳に残っていた監督の作品を、棚にあるだけ借りていった。
 そうしたら、もう面白いくらい、国も年代も、あとジャンルもばらばらになってしまった。
 イギリス、フランス、ポーランド、フィンランド、あと、日本、……。レニ・リーフェンシュタールとヴィム・ヴェンダースは、二人ともドイツの監督だけれど、活躍した時代は、まったく違う。つまり、第二次世界大戦を境にして、戦前がレニ・リーフェンシュタール。後半が、ヴィム・ヴェンダースだ。前者は、1936年ナチス政権下で行われたベルリン・オリンピックや党大会を、当時の撮影技術の極みを使ってフィルムに収め、後者は、アメリカ文化や小津安二郎の影響を受けてロードムービーやサスペンスを撮った。前者の作品、『民族の祭典』、『美の祭典』は、槍投げや砲丸投げ、棒高跳び、100m競争や射撃や飛び込みなどをしている肉体が、どれだけ、重力や自らの体重、競技のルールといった束縛を受けつつ、それらを受け入れ、その中で自由に振る舞っているかを教えてくれるし、後者の作品は、ガソリンスタンドやポラロイド・カメラを思わず好きにさせてしまう。日本の監督作品は、2000年以降のものばかりだけれど、『誰も知らない』と、『真夜中の弥次さん喜多さん』を続けて観る人は、想像だけれど、かなり珍しいだろうし、(いや、結構いるのだろうか?)、『アップルシード』と『攻殻機動隊』は、「ジャパニメーション」という造語をアメリカやフランスの一部の人間に広めたSFアニメだ。(ここ最近、「世界に広めた」という形容がよく無造作に使われているけれど、そんなの嘘だ。ジンバブエの市場で蠅を追っているおばちゃんに「ジャパニメーション」って言っても、たぶん、絶対通じない)(ちなみに、『アップルシード』は退屈だったので、三〇分ほどして寝た)

 けれど、今回観た、ばらばらの場所、時代で作られた二十五本の映画は、やはりうちに何かを教示しようとしている(ような気がする)。(『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG』はテレビシリーズだけれど、個々の話の流れは一貫しているし、映画の技法が随所に使われているし、なにより、全部合わせればで十三時間強の長編なので、ここでは映画として扱ってしまう)。それは、映画を制作した彼ら・彼女らを取り巻いていた時代背景と、それに彼ら・彼女らがどのような影響を受けたのかや、彼らが現実の社会に対してどんなメッセージを送りたかったのか。――というのとは全然オーダーの違う問題だ。
 それはつまり、大仰に言ってしまえば、映画が、“映画そのもの”を次代に伝えていった、そのうねりだ。
 1895年12月28日、パリのグラン・カフェ地階のサロン・ナンディアンで、リュミエール兄弟が最初の映像『汽車の到着』を公開して以来、2006年4月10日まで、世界の至るところで(こういう文脈にこそ、「世界」という形容はよく馴染む)綿々と受け継がれてきている精神だ。いや、精神なんて抽象的なものではない。それはフィルムに取り込まれた、目には見えないものであり、耳では聞こえない音だ。
 「そんな感覚で捉えられないものと、精神に、なんの違いがあるんだ?」という人がいるかも知れないけれど、目には見えないものも、耳では聞こえない音も、ちゃんと実在している。一秒間に二十四コマのスピードで送られていくフイルムの一つ一つのコマを、人間の視覚は追い切れないし、紫外線の反射を見わけて花から花へと飛び回るモンシロチョウの視野を、人間は持つことができない。イルカの鳴き声や、甲高い犬笛の一吹き。ロケ地となった騒々しい雑踏の三百メートル先で、迷子になってしまった男の子の「ぐすぐす」と鼻をすする小さな音を、ほとんどの人間は捉えることが出来ない。さらにいえば、映画を上映しているとき、ステレオから絶えず発せられている細かいノイズも、人間の脳は無意識的に取り除くから、やっぱり聞こえないことになる。――でも、そんな事例をいくつ挙げていっても、一本の映画のフィルムの中に書き込まれている、捉えきれない“何か”の総量に達することは決してない。世界には、人間が捉えきれない情報というのが、圧倒的な量で存在していて、それは人間の想像力を遥かに凌駕するものだ、というのが現代科学が与える世界観なわけだけれども、映画はそれをもっとスマートな形で表現するし、表現し続けてきた。
 例えば、『誰も知らない』では、2DKのアパートで暮らす母親と四人の兄妹の話し声が、台詞ともなんともつかないごちゃごちゃ混ざった状態で差し出される。集音マイクは、誰か一人の声を追うわけでもなく、ただ話の交わされる場の空気――そこには、くすくす笑いや衣服の擦れ、食器の音もある――を拾い続ける。映画の設定では、四人の兄妹の父親はみな別々で、学校にも通った事がなく、三人の妹弟の存在は大家にも知らされていない。ということなのだけれど、四人とも母親を慕っていて、話の交わされる場には不思議な幸福感が満ちている。この言葉にしにくい幸福感と、ノイズすれすれの台詞の渦というか、生活雑音を結びつける説明はとても難しいのだけれど、両者のあいだに深い関係があることは間違いない。(それを知るためにはもう、実際に観てもらうしかない)。また、『ワンダー・アンダー・ウォーター 原色の海』ではいっさいの解説はなく、イソギンチャクやチョウチョウウオ、ヒドラやダルマオコゼの映像が四十五分間に渡って流れる。「弱肉強食」や「誕生と死」というありがちな物語性をことさらあおり立てることなく、魚やサンゴ、甲殻類たちの顔のアップが、なめらかな動きが、流れ続ける。決して退屈はしない。そこには、100歳を過ぎた老女の凝視がある。(レニ・リーフェンシュタールは、世界最年長者ダイバー記録の保持者でもある) 海洋生物の造形の底知れない複雑さ、フラクタル図形のような襞が、一世紀に渡って世界を映してきた人間の眼を、再び誘引する。……

 現代の映画作品にこういう表現ができるのも、映画の制作者たちが、以前に存在していたマスターピースから“何か”を書き込む術を受け継いでいるからだ。授けられている、と言ってもいいかもしれない。(『裁かるゝジャンヌ』に内包されている“何か”と、『白い花びら』に内包されている“何か”が同一のものだとは、間違っても言えないけれど) それは、表層的な部分では、ヴィム・ヴェンダースが小津安二郎に捧げた『東京画』のように、一つの徹底した畏敬となって現れる。
 今度、一緒に雑誌、というか同人誌を作ることになるかもしれない、社長というあだ名の早稲田の友人は、「雑誌製作、ひいてはほとんどの創作は、自らに後天的に与えられた良き物を残し、広げるという倫理感、正義感にもとづかねばならぬ、ということでしょうか。」と、奇しくもこの前、掲示板で言っていたけれど、まさにその通りなのだ。百数年に渡って醸成された映画というシステム、及び、圧倒的な情報量のためにブラックボックスとなっている世界が授けられたとしたら、人間は、それらを賛美するほかないように思える。
by warabannshi | 2006-04-08 16:53 | メモ | Comments(3)
探索記録16 「熱狂の七日間/『好き』と、『受け』のこと」
ルイス・ブニュエル 『アンダルシアの犬』
ルネ・クレール 『明日を知った男』
イングマール・ベルイマン 『第七の封印』
ロベール・ブレッソン 『スリ』
パーシー・アドロン 『バグダッド・カフェ』
スパイク・ジョーンズ 『マルコヴィッチの穴』
イエジー・カクレロヴイッチ 『尼僧ヨアンナ』
グリゴーリー・コージンツェフ 『ハムレット』
スタンリー・キューブリック 『フルメタル・ジャケット』
                 『博士の異常な愛情』
テオ・アンゲロプロス 『ユリシーズの瞳』
              『永遠と一日』
              『旅芸人の記録』
アキ・カウリスマキ 『カラマリ・ユニオン』
            『マッチ工場の少女』
            『罪と罰』
            『レヴィ・ド・ボエーム』
            『コンタクト・キラー』
            『浮雲』
ジム・ジャームッシュ 『ストレンジャー・ザン・パラダイス』
              『コーヒー&シガレッツ』
ヴィム・ヴェンダース 『ブエナ☆ビスタ☆ソシアル☆クラブ』

 あと、『シャーロック・ホームズの冒険 完全版』を四本借りたから、総計二十六本。あらためて数えてみたら、そんなに本数は観ていないことがわかって、少し驚く。この一週間は、じつは小説をほとんどまったく書いていない。映画を観ていた。いつもは小説を書いている時間を映画に回していたから、てっきり五十本ぐらい観ている気になっていた。(おととしの秋。大学を自主的に休んで、部屋でチャップリンと黒澤明の作品を一週間、昼夜かまわずぶっ続けで観たことがある。そのときはたしか、一週間で三十五本観ていたはずで、その次の一週間は、軽い失語症になっていたはずだ。“はず”という言葉が連発するのは、その期間の記憶が曖昧だからで、一つ一つの情景は白昼夢のように鮮明なのに、編集を間違えたフィルムのようにめちゃくちゃにつながれている)
 今月の十日から、今日までの九日間使えたTHUTAYAの半額クーポンを目一杯使った感はあるけれど、いかんせん、映画を観るのに回せる時間が足りなさすぎた。フェデリコ・フェリーニ監督作品も三本借りてきたのだけれど、結局観ている暇がなくて、再生することもないまま返却ボックスに入れてきてしまった。睡眠時間を削れば、それも観られたとは思うけれど、映画を一本見終わった後でとる数十分の仮眠は、たぶん映画を観ているのと同じだけの意味が充満している時間だという感覚があるから、やっぱり借りすぎなのだ。それでも、こういう借り方、鑑賞の仕方しかできないのには、やっぱり理由がある。

 「好き」という感情の強度は、どこかで、「量の多さ」と結びついているように思う。あるいは、例えば映画を「好き」であるということは、まさに映画を観ている時間、映画について考えている時間、映画について語る時間が、一般の人間よりも圧倒的に多い、次元が違うほど多い、という事実でしか証明できないように思う。ここで、わざわざ証明という言葉を使うのは、「私は映画が好きだ」と第三者に向けて宣言をすることを前提としているからではない。それ以前に、なにより、「映画が好きな私」というセルフイメージを形成する拠り所として、「量の多さ」を位置づけているからだ。
 これは個人的な話だけれど、自分は、何かが「好き」であるという感情に自信がない。映画にしろ、小説にしろ、「好き」であるという感情を、時間-数量的な確認なしに、感じることができない。自分にとって、「好き」であるということは、好きなそれをたくさん観たり聴いたり、隅々まで触ったりつついてみたりすること、そんな働きかけに満たされた時間を長く過ごす、ということに他ならない。
 それは恋愛感情に特に顕著で、自分にとって、「好きな女の子」とは、ほとんどイコールで「長い時間、一緒に過ごした子」なのだ。いままで好きになった女の子は、最短で約二年間の、最長で六年と半年間の、「その子を好きになるために必要な時間」があった。その後、その子と付き合っていた期間というのは、「その子を好きになるために必要な時間」よりも短かったりするのだけれど、それはそれで置いておいて、恋愛を語る上で、世間的には重要と見なされているルックスや仕草、体型、性格の差異みたいなものは、自分の場合、逆にその子に誘引されていく形で、その子に合わせて、逆に好きに“なっていく”。つまり、目の前にいる彼女次第で、好みがあっという間に変わる。「好きなルックス」、「好きな仕草」が、「好きな女の子」から供給されるという逆転現象が平気で起こる。これも、一緒に過ごした時間の量、という要素が、その他の恋愛感情を形成する諸要素に比べてはるかに先行しているからなのだろう。だから、いわゆる倦怠期を察知することが苦手で、高校のとき付き合っていた子に呆れられたことがある。というか、倦怠期がどういうものなのか、いまだに実感としてわからない。わからないといえば、一目惚れという現象も理解しがたいものだけれど、あれは「好きなタイプの女の子」を想像の上で設定して、常に反復しながら確認し、現実にそのイメージと近似的な女の子と出会ったとき、彼女を好きになる、と考えれば納得できる。一目惚れとは、二人称的な幻想が先行して発生する恋愛感情なのだろう。

 ――べつに、一目惚れのメカニズムをわざわざ考えたり、納得する必要なんてないじゃないか。そんなことしてなんになる。と、一部の人は思うかもしれないけれど、「好き」、という、人間という存在を語る上で避けては通れない感情ですら、なんというか、“書き換え可能”な人にとっては、一目見ただけで相手に心を惹きつけられてしまうこの現象は、どうしても気にかかってしまうものなのだ。一目惚れ、が、できる人たちというのは、“書き換え不可能”な領域に、すでに恋愛対象のイメージ、というか、ビジョンが設定されているのだろうか。自分にとっては、指紋や生年月日、筋肉組織中の速筋と遅筋の割合、睡眠欲求くらいに“書き換え不可能”な領域に、「好きなタイプの女の子」が書き込まれているとしたら、それはもう本当に、一目惚れする人としない人のそれぞれの世界観は、まったく異質なものになるんじゃないだろうか。
 ちなみに、自分はヒトに一目惚れすることはないけれど、モノに一目惚れすることはある。
 この記事の冒頭で並べた二十二本の映画の中でも、テオ・アンゲロプロスと、アキ・カウリスマキの作品がとくに多いけれど、二人とも、それぞれの撮った作品を一本観て、一発で好きになってしまった監督だ。(アンゲロプロスは『永遠と一日』、カウリスマキは『過去のない男』が、一目惚れのきっかけとなった最初の一本だった)。アンゲロプロスの、無音の緊張感に満ちたロングショットは、「見る」ことと、「聴く」ことの限界と掟(?)をおしえてくれるし、カウリスマキは、人間の無力さを、苦痛も絶望も、諦めすらも附帯しないまま、小さなユーモアすら交えつつ淡々と展開していく。黒澤明、小津安二郎、チャーリー・チャップリン、ジャン=リュック・ゴダール、……言語化できないほどの密度と強度のある情報を、映像と音声から放射してくる監督には、自分はあっけなくまいってしまう。できれば、最初の一本を映画館で観たかった、とさえ思うのは、どこかで、この一目惚れを物語仕立てにすることを願っているからだろうか。「こんなに感動的な出会いだったんだよ!」と、第三者に向かって、あるいは、「好き」という感情に根拠を持つことができない自身に向かって宣言するために。
 物語化、といえば、アンゲロプロスにしても、カウリスマキにしても、それらの良さを自分が内発的に発見したわけではない。二人の監督の名前を知ったのは、映画を月に数十本のペースで観ている大学のゼミの後輩・Hに、「これ、オススメですよ」と言われたのがそもそものきっかけだし、小津も、去年、早稲田の講義に潜っていたときに、高橋世織という、いまは退官してしまった教授が熱烈に小津を誉めたたえていたのが、少なからず印象にあったから、THUTAYA浜田山店の棚の中から彼の作品を選び出したのだ。決して、自分の潜在的な「好き」が先行していたわけではない。……

 「好き」という感情を、人間は物語化の作用なしに抱けるものなのだろうか。いや、「物語化の作用なしに」、なんて言い方は、どこかで物語の存在を保証して、そこから逃げている響きがあるからおかしい。物語化を排した「好き」、なんていうのも、やっぱり物語の産物だ。
 ただ、「好き」という感情が発生している状態がいい。と、いうわけでもない。ただ、「好き」。と言うときも、ただ、という言葉が、「好き」である状態に不自然な透明さをもたらしてくる。あまりにも、その「好き」は光に満ちすぎている。白々しい光に、目が眩みそうだ。まるで、好きである何かの対象よりも、「好き」という概念が先行してしまっている。そうではない。それは「好き」ではない。「好き」は、光に向かってまっすぐに、直線的に上昇していくような感情ではない。見たり聞いたり感じたりする時間に、不規則にあらわれるブランク。不透明さ、澱み。……それらを意識しはじめると、時間がとても微分できるようなものではないことがわかってくる。
 近代から現代にかけての時間感覚は、どこかで、時間が微分可能であることを前提としているように思う。なめらかに連続して、過去に回帰することもなく、いま、という一点において、急激に、なんて言葉すらおこがましいほど一瞬のうちに、なにかが変化することもありえない、時間。けれど、未来に向かってひたすら綿々と、無限に続いていく、時間。――グラフに書けばわかりやすいのだけれど、フォトショップを動かしているあいだにイメージが崩れてしまいそうなので、それぞれの頭の中でイメージして下さい。高校の数学の教科書にのっている、二次曲線、三次曲線の右の端は、無限の彼方へと伸びているはずで、それこそが、その曲線の微分可能性を保証しているものであり、また、現代を生きる人々の多くが持っている時間感覚を基礎づけるものだ。(そもそも、時間をグラフという可視的なもので表現しようとすること自体が、現代の時間感覚の大きな特徴だとも思うけれど、その話はまた次の機会にしたい)。でも、くり返しになるけれど、時間はとても微分できるような代物ではない。過去から未来に向けて、なめらかに進んでいくのではなく、いま横にあるモノから、過去や未来に向けて、さざ波のように広がっていくものだろう。そんな時間を生きていたら、ただ、「好き」。なんて単純な表現はできない。ただ、も、「好き」も、言っている余裕もヒマもない。もう、内から外から至るところから突き上げてくる「好き」を、一身に受けるよりほかない。受け続けるために、もうひたすらに映画を観る。
by warabannshi | 2006-02-20 00:24 | メモ | Comments(0)



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