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第10夜 侍 vs UFO
 着流しで、どこかの商店街を歩いている。
 商店街というか、秋葉原と台湾の夜市を足して二で割ったみたいに雑然とした大通り。
 海産物の煮汁を食べさせる屋台が両側にぎっしり並んでいる。ひしめいている。
 うんざりするほど、カレー粉くさいし、タバコくさい。マーガリンのにおいもする。
 大小の刀の代わりに、巨大な扇子を腰に差して歩いている。

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by warabannshi | 2006-04-29 16:40 | 夢日記 | Comments(0)
●グレン・グールド/訳:野水瑞穂 『グレン・グールド 著作集2』 (みすず書房 1990年 169-170頁)
 この過程、つまり創造的状況においてアイデンティティを示す要素が必然的に無視されるということでもっとも期待できることは、芸術を判定する場合、環境との関わり方が問題となり、もはや伝記的資料や時代的設定がそれほど重要な判定の基盤ではなくなるような風土が認知されることである。実際に、創造的状況――創造行為が個人の意見から生じ、それを吸収し、それを再構成するような過程――における個の存在という大問題は根本的に再検討されるであろう。
 音楽がわれわれの環境調整にきわめて幅の広い役割を演じているという事実は、言葉が現在われわれの日常生活のなかで演じているのと同じほど直接的で、実用的で、口語的な役割を、音楽が究極的には担うようになることを示唆していると私は思う。音楽が言葉と同じように親しみやすくなるためには、その様式、習慣、マナリズム、秘訣、慣習的な趣向、統計的にひじょうにしばしば起こる事柄、言い換えれば音楽の慣用語が、親しみやすく、だれにでも認められるべきものでなければならない。ある語法のなかに慣用語がどんな多い頻度で認められようと、かならずしもわれわれがこのような慣用語の世俗性におぼれてしまうことになるわけではない。文学的にすぐれた作品が、たまたまわれわれ凡人のしゃべっている言葉で書かれているからといって、それを低く評価することはない。われわれの日常生活のひじょうに多くは、天気をめぐる世間話の前置きや日常の挨拶などあきあきするほど慣れきった言葉に関わっている。しかしだからといってそれは自分たちの使っている言葉の輝かしい可能性に対するわれわれの評価を鈍らせるものではない。逆に鋭くする。そうしたものは、想像力に富む芸術家の生きる場所である前景が、より安定感をもって存在できるような背景を提供しているのだ。…(略)…
 もしこのような変化が十分に深いものであれば、芸術についてのわれわれの考えを表現するための専門用語を再定義する必要に迫られるかもしれない。実際、環境芸術の状況を述べるのに「芸術」という語を充てること自体、ますますふさわしくなくなるかもしれない。いかにこの語が歳月を重ね、栄誉あるものであっても、まったく廃語とまではいかないにせよ、かならずや不適切な内容物で充たされるだろう。
by warabannshi | 2006-04-26 09:45 | Comments(0)
探索記録17 「授けられたとせよ」
是枝裕和 『誰も知らない』
星護 『笑の大学』
宮藤官九郎 『真夜中の弥次さん喜多さん』
片山一良 『アップルシード』
神山健治 『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG <1> ~ <13>』
ジャン・リュック・ゴダール『気狂いピエロ』
アンジェイ・ワイダ 『コルチャック先生』
オーソン・ウェルズ 『市民ケーン』
カール・TH・ドライヤー 『裁かるゝジャンヌ』
ルイ・マル『鬼火』
      『死刑台のエレベーター』
      『地下鉄のザジ』
レニ・リーフェンシュタール『民族の祭典』
                『美の祭典』
                『アフリカへの想い』
                『ワンダー・アンダー・ウォーター 原色の海』
アキ・カウリスマキ 『白い花びら』
            『愛しのタチアナ』
            『真夜中の虹』
ヴィム・ヴェンダース 『都会のアリス』
             『まわり道』
             『さすらい』
             『アメリカの友人』
             『パリ、テキサス』
             『東京画』


 アキ・カウリスマキや、ギリシャ映画の存在を教えてくれた大学の後輩・Hが言うには、
「オータさん(うちの本名だ)、この前、『カルチュラル・スタディーズって、なんでもかんでも権力構造とか、作品の外の事件とか流行に回収されちゃいそうで、なんとなく胡散臭い』って言ってましたけど、まあ、確かにそれもそうなんですけど、映画って、監督や制作国のこと知っておくと、すげー面白くなりますよ。とくに歴史。というか、世界史。いや、俺もよく知らないんですけど。スペイン戦争とか、第二次世界大戦とか、ボスニア戦争の前と後で、もうすっごい変わりますから、映画って。『カリガリ博士』だって、あれもナチスが台頭してきたころの不安定な時代背景があったことを押さえておくと、ドイツ表現主義って言うだけではくくりきれない何かが見えてくるはずですし、あ、あと、この前、オータさん、『ミツバチのささやき』観たって言ってましたよね? あれで、『フランケンシュタイン』が最初に出てくるじゃないですか。ああいうのも、スペイン内戦でフランコが勝ってから数年後のスペインが舞台になってる、っていうのを知っておくと、本当にあの映画がすごいことがわかりますよ」
 けれど、あいにく世界史の勉強をするヒマなんてないままに、THUTAYAの半額ウィークは始まってしまい、結局、いつもの通り、以前に誰か――後輩・Hに限らず、早稲田の友達や、高校のときの麻雀友達がぽろっと話していて、たまたま耳に残っていた監督の作品を、棚にあるだけ借りていった。
 そうしたら、もう面白いくらい、国も年代も、あとジャンルもばらばらになってしまった。
 イギリス、フランス、ポーランド、フィンランド、あと、日本、……。レニ・リーフェンシュタールとヴィム・ヴェンダースは、二人ともドイツの監督だけれど、活躍した時代は、まったく違う。つまり、第二次世界大戦を境にして、戦前がレニ・リーフェンシュタール。後半が、ヴィム・ヴェンダースだ。前者は、1936年ナチス政権下で行われたベルリン・オリンピックや党大会を、当時の撮影技術の極みを使ってフィルムに収め、後者は、アメリカ文化や小津安二郎の影響を受けてロードムービーやサスペンスを撮った。前者の作品、『民族の祭典』、『美の祭典』は、槍投げや砲丸投げ、棒高跳び、100m競争や射撃や飛び込みなどをしている肉体が、どれだけ、重力や自らの体重、競技のルールといった束縛を受けつつ、それらを受け入れ、その中で自由に振る舞っているかを教えてくれるし、後者の作品は、ガソリンスタンドやポラロイド・カメラを思わず好きにさせてしまう。日本の監督作品は、2000年以降のものばかりだけれど、『誰も知らない』と、『真夜中の弥次さん喜多さん』を続けて観る人は、想像だけれど、かなり珍しいだろうし、(いや、結構いるのだろうか?)、『アップルシード』と『攻殻機動隊』は、「ジャパニメーション」という造語をアメリカやフランスの一部の人間に広めたSFアニメだ。(ここ最近、「世界に広めた」という形容がよく無造作に使われているけれど、そんなの嘘だ。ジンバブエの市場で蠅を追っているおばちゃんに「ジャパニメーション」って言っても、たぶん、絶対通じない)(ちなみに、『アップルシード』は退屈だったので、三〇分ほどして寝た)

 けれど、今回観た、ばらばらの場所、時代で作られた二十五本の映画は、やはりうちに何かを教示しようとしている(ような気がする)。(『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG』はテレビシリーズだけれど、個々の話の流れは一貫しているし、映画の技法が随所に使われているし、なにより、全部合わせればで十三時間強の長編なので、ここでは映画として扱ってしまう)。それは、映画を制作した彼ら・彼女らを取り巻いていた時代背景と、それに彼ら・彼女らがどのような影響を受けたのかや、彼らが現実の社会に対してどんなメッセージを送りたかったのか。――というのとは全然オーダーの違う問題だ。
 それはつまり、大仰に言ってしまえば、映画が、“映画そのもの”を次代に伝えていった、そのうねりだ。
 1895年12月28日、パリのグラン・カフェ地階のサロン・ナンディアンで、リュミエール兄弟が最初の映像『汽車の到着』を公開して以来、2006年4月10日まで、世界の至るところで(こういう文脈にこそ、「世界」という形容はよく馴染む)綿々と受け継がれてきている精神だ。いや、精神なんて抽象的なものではない。それはフィルムに取り込まれた、目には見えないものであり、耳では聞こえない音だ。
 「そんな感覚で捉えられないものと、精神に、なんの違いがあるんだ?」という人がいるかも知れないけれど、目には見えないものも、耳では聞こえない音も、ちゃんと実在している。一秒間に二十四コマのスピードで送られていくフイルムの一つ一つのコマを、人間の視覚は追い切れないし、紫外線の反射を見わけて花から花へと飛び回るモンシロチョウの視野を、人間は持つことができない。イルカの鳴き声や、甲高い犬笛の一吹き。ロケ地となった騒々しい雑踏の三百メートル先で、迷子になってしまった男の子の「ぐすぐす」と鼻をすする小さな音を、ほとんどの人間は捉えることが出来ない。さらにいえば、映画を上映しているとき、ステレオから絶えず発せられている細かいノイズも、人間の脳は無意識的に取り除くから、やっぱり聞こえないことになる。――でも、そんな事例をいくつ挙げていっても、一本の映画のフィルムの中に書き込まれている、捉えきれない“何か”の総量に達することは決してない。世界には、人間が捉えきれない情報というのが、圧倒的な量で存在していて、それは人間の想像力を遥かに凌駕するものだ、というのが現代科学が与える世界観なわけだけれども、映画はそれをもっとスマートな形で表現するし、表現し続けてきた。
 例えば、『誰も知らない』では、2DKのアパートで暮らす母親と四人の兄妹の話し声が、台詞ともなんともつかないごちゃごちゃ混ざった状態で差し出される。集音マイクは、誰か一人の声を追うわけでもなく、ただ話の交わされる場の空気――そこには、くすくす笑いや衣服の擦れ、食器の音もある――を拾い続ける。映画の設定では、四人の兄妹の父親はみな別々で、学校にも通った事がなく、三人の妹弟の存在は大家にも知らされていない。ということなのだけれど、四人とも母親を慕っていて、話の交わされる場には不思議な幸福感が満ちている。この言葉にしにくい幸福感と、ノイズすれすれの台詞の渦というか、生活雑音を結びつける説明はとても難しいのだけれど、両者のあいだに深い関係があることは間違いない。(それを知るためにはもう、実際に観てもらうしかない)。また、『ワンダー・アンダー・ウォーター 原色の海』ではいっさいの解説はなく、イソギンチャクやチョウチョウウオ、ヒドラやダルマオコゼの映像が四十五分間に渡って流れる。「弱肉強食」や「誕生と死」というありがちな物語性をことさらあおり立てることなく、魚やサンゴ、甲殻類たちの顔のアップが、なめらかな動きが、流れ続ける。決して退屈はしない。そこには、100歳を過ぎた老女の凝視がある。(レニ・リーフェンシュタールは、世界最年長者ダイバー記録の保持者でもある) 海洋生物の造形の底知れない複雑さ、フラクタル図形のような襞が、一世紀に渡って世界を映してきた人間の眼を、再び誘引する。……

 現代の映画作品にこういう表現ができるのも、映画の制作者たちが、以前に存在していたマスターピースから“何か”を書き込む術を受け継いでいるからだ。授けられている、と言ってもいいかもしれない。(『裁かるゝジャンヌ』に内包されている“何か”と、『白い花びら』に内包されている“何か”が同一のものだとは、間違っても言えないけれど) それは、表層的な部分では、ヴィム・ヴェンダースが小津安二郎に捧げた『東京画』のように、一つの徹底した畏敬となって現れる。
 今度、一緒に雑誌、というか同人誌を作ることになるかもしれない、社長というあだ名の早稲田の友人は、「雑誌製作、ひいてはほとんどの創作は、自らに後天的に与えられた良き物を残し、広げるという倫理感、正義感にもとづかねばならぬ、ということでしょうか。」と、奇しくもこの前、掲示板で言っていたけれど、まさにその通りなのだ。百数年に渡って醸成された映画というシステム、及び、圧倒的な情報量のためにブラックボックスとなっている世界が授けられたとしたら、人間は、それらを賛美するほかないように思える。
by warabannshi | 2006-04-08 16:53 | メモ | Comments(3)
第9夜 「山岳修行施設」
 五年ぶりに、山岳修行施設に行った。
 山岳修行施設がどこにあるかは、知らない。
 でも、標高はケタ違いに高いのは知ってる。というか、わかる。
 富士山山頂とか、マッターホルンみたいな、岩ばっかりの景色を歩いていく。
 

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by warabannshi | 2006-04-01 04:18 | 夢日記 | Comments(0)



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