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探索記録20 「皮膚-外傷-空漠」
 人間の皮膚はつながっている。当たり前のことのようだけれど、ふだんの生活の中で私たちは、人間の皮膚が、頬から唇、口内へと連続していて、さらには食道、胃、十二指腸、小腸、大腸、肛門へとつながっていることを、または、気管から肺へとつながっていることを、――つまり、“体内”と呼ばれている体の部分の多くが、じつは体表の延長であることを、どれだけ「当たり前のこと」として実感しているのだろうか。(大腸菌、ビフィズス菌やウェルシュ菌などの腸内細菌が、生理的な免疫機構(=抗原抗体反応)の影響を受けずに小腸~大腸で生存できるのは、まさしくそこが体外であるからに他ならない)。体表面に視点を固定して、人間の体の形態をデフォルメしていくと、呼吸器は体表の一つの陥没であり、複雑に折れ曲がった消化器官は一本のチューブとなって体を貫通している、と捉えることが可能となり、さらにデフォルメを進めると、ついに体はドーナツ型のフォルムまで到達し、日常生活の中で充溢した“体内”として漠然としてイメージされていた消化器、呼吸器が、じつは皮膚の延長であり、外傷であり、空漠であることを暴露する。
 ――そんなことを中学生に話しても相手を混乱させるだけであることはわかっているけれど、昨日の深夜、来週の月曜日からはじまる教育実習のための授業・板書ノートを作っているうちに、消化器、呼吸器に関する着想の走り書きは自分の意図から離れてどんどん継ぎ足されていって、いつのまにかノートの二、三割を埋めてしまった。キーボードで書くときには指が勝手に動き出すことはままあるけれど、ボールペンでノートに書いているときに文章が数ページに渡って走り出すことは滅多にない。
「それは、勝手に自分の手が動いてるって思いこみたいだけじゃないの? 書く、って動作によって気持ちが昂ぶっているせいで」
「自動筆記、――ってこと?」
 金曜日の夜、講義が終わったあと、喫文会のメンバー四人と早稲田駅の正面あたりにある「一休」に飲みに行って、やはり「自分の意図を離れて文章が動き出す」という話をしたときに友人・SとMは慎重にそう言った。
「自動筆記、ってわけじゃなくて、――自動筆記っていうのは、どこか外部からの声を聴きとって筆写している状態でしょ? そうじゃなくて、自分の書いた文章を読んでると、次に書く文章はこれしかない、ってラインが見えてくるんだよ。そのラインに沿って文章を書いていくの。もっと言えば、直前に書いた一行に反応して、次の一行を書く、って感じかな」
 と言ったのは、うちだったか、友人・Uだったか忘れたけれど、
「パソコンで原稿を打ってるときには、その直前に書かれた文章を読んでから反応するまでの時間がすごく短いんだけど、鉛筆で書いてると、反応の連鎖に文字が追いつかなくて、だから神に直接書いてるときは、四行ぐらい先までの文章が頭の中にプールされてたりするんだよ」
 と言ったのは間違いなくUで、Uみたいに文章を脳内にプールしておくことがあまり得意ではなく、けれど言語反応速度だけは早いうちは、だからノートで文章を展開することが、ほとんどない。
 それはそれとして、「外傷-空漠をもった人間」という人間観は、高校にいた頃からぼんやりとうちが抱いていたもので、今回、やっと具体的な展開に至るための手掛かりを得た感触がある。教育実習で母校に戻るのをきっかけに手掛かりを得たなんて、どこか物語っぽくて嘘くさいけれど、それはあまり問題ではない。四十六億年という地質学的なタイムスケールで語られる「生物の進化」という文脈の中に人間を位置づけたときに初めてそれとわかる、人間の存在に潜在する膨大な無作為-偶発性の繰り返しをも、消化器、呼吸器という外傷-空漠は隠喩している。※

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by warabannshi | 2006-05-27 22:50 | メモ | Comments(0)
探索記録19 「まぐれだとしても」
「これは積極的に捉えられることだと思うんだけれど、オータ君の文章には悪意がないよね。オータ君の文章を読んでると、言葉を使って第三者を攻撃しよう、って意図があまり、というか、ほとんど感じられない。――そこは評価できるポイントだと思うんだけれど、でもここであえて言っておきたいのは、言葉をあまり無自覚に使いすぎてはいないかってことなんだ。つまり、無自覚に発した言葉によって、第三者を傷つけてはいないかってこと。言葉っていうのは必然的にいろんな意味。社会的、文化的、政治的な意味を引き寄せるものだから……。
 たとえば、オレがここ最近で一番あり得ないって思ったのは、……アラカワシュウジ、だっけ? 半月くらい前に、芸大に来た建築家、オータ君が聴講に行ったっていう、……荒川修作か。その荒川修作のあとで、オータ君が、掲示板に書き込んだ記事のタイトル、覚えてる? 『開放された自閉症児』、って、書いてたよね。オレはあれはあり得ないと思ったね。オータ君は他意なしに、荒川修作のもっとも適した表現として、『開放された自閉症児』って言葉を使ったんだろうけど、じゃあ、それを見た『開放されてない自閉症児』の親はどう思うか、ってことだよ。もしくは、君が自閉症児の父親だった場合、自閉症児の息子を持っていた場合、果たして『開放された自閉症児』っていう表現をすることができたかどうか。あるいは、君が車椅子に乗っているとして、『翼を持った車椅子の少年』っていうフレーズを聞いたときに、どう感じるか、ってことだよ。
 言葉っていうのは十分人を傷つけうるものだってことを、たとえ、オータ君がそんな気がまったくないとしても、言葉は相手を傷つけうるものだってことを、いまの四〇〇倍くらい意識したほうがいいと思う」
 金曜日の夜六時ごろ、早稲田の文学部キャンパスの食堂で苺ジャムのケーキと沖縄そばを食べながら友人・Sが言っていたことが、その夜からいまにかけて、キーボードを打とうとするたびに頭に浮かんできて反復されている。それはSの「言葉は相手を傷つけうるものだってことを、いまの四〇〇倍くらい意識したほうがいいと思う」という言葉に意識が固着してしまっているというよりも、むしろ、Sがくり返し使っていた、「言葉が人を傷つける」という表現そのものに違和感を感じて、それがなかなか解消されないからなのだろう。
「え、じゃあ、オータ君は言葉で傷つけられたことないの?」
 やっぱり沖縄そばを食べている友人・Mが言う。というか、Sの沖縄そばはもともとMのだ。「炭水化物をできるかぎり摂らないようにしている」Mは沖縄そばのそばをSに手伝ってもらっていて、けれどそのお昼ご飯はエビ入りポテトサラダとおむすびだった。
「いや、言葉で傷つけるっていう、慣用表現があることはわかるよ。
 でも、実感がまったくともなわない表現だな、って思う。
 傷つける、っていう動詞は、こうやって直接的に皮膚を傷つけることじゃん。(とりあえず、スパゲッティー・カルボナーラを食べるのに使っていたフォークを逆手に持って腕、手首からひじにかけての腕を引っかいてみた)。言葉っていうのは徹底的に抽象的なものでしょ? だから、なんていうのか、言葉で悲しくなる、怒る、ってことはありうるけれど、それで、言葉で傷つくっていうのが悲しくなる、怒る、っていうのの強調表現だっていうのはわかるけど、ただそれだけなんだよね。そういう意味で、皮膚感覚と、言語っていうのがうちの中で、もう、ぜんぜん乖離してるのかもしれない」
「もしかしたら、人からすごいネガティブな言葉をかけられた経験が少ないのかもしれないね。経験の総量が」
「そもそも、言語システムに対する感覚、というか距離感っていうのは全部後天的に決定されるわけ?」
「……というか、どっからこの話になったんだっけ?」
 思い出そうとしてみたけれど、思い出せない。三日前の金曜日のあの瞬間は、たしかに思い出せて、それで元の話題に戻っていったのだけれど、今では元の話題が何であったかも忘れてしまった。けれど、交わされた言葉を書き出しながら思い出していたのは、今月の1日、芸大の第三講義室で聴いた荒川修作の声だった。(荒川修作が来たのは、茂木健一郎というクオリア(質感)という概念を提案した脳科学者の講義で、彼のブログに荒川修作の講演が録音されたmp3があるから、時間がある人は聞いてみてください)。講壇の正面に置かれた、簡素なプラスチックの黒いイスに足を組んで座った彼の声は、奇妙に低音で、よく通り、響きとしては人の声というよりコントラバスのような管楽器の音に近い感じで、隣の女の子はノートを丹念にとっていたけれど、うちはとてもノートをとれるような雰囲気ではなかった。「言葉に傷つけられる」という表現は、やっぱり過剰表現というか、倒錯したもののだと思うけれど、言葉を皮膚感覚で知覚した(この表現も、おかしいか)のは、荒川修作の声が初めてのように思う。じっさい、教室で聞いているときも、上腕三頭筋の筋肉がぴくぴく痙攣を始めたり、さらに上野公園まで荒川修作を追いかけていって話を聞いたときは、(もちろん一人で追いかけていったわけではなく、七、八人くらい本物の芸大生らしき人たちも話を聞くために彼についていったからそれに混じった。結局荒川修作はブランコがある広場みたいなところで立ち止まり、後についてきた学生に追加でいま手がけている制作品について話してくれた)、姿勢がめちゃくちゃに崩れてしまって、妙な猫背になってしまい、なんというか、猿人みたいな姿勢になっていたように思う。「まるで猿人みたいだ」とか思いながら、荒川修作の声を受けていて、けれど、こういう姿勢でなければ荒川修作の声を声として受けることはできないのだから仕方ない。「意識を言葉に固着させるな」とつぶやくように言った荒川修作の言葉には、最初から最後まで、留保されている情報がほとんど何もなく、ほのめかし、迂回、誘惑といった隠喩的な作用とは無縁に、直線的な意味作用に奉仕されていた。しかしそれは、「言葉は差異の体系である」と唱えるレヴィ=ストロース以降の構造学者の完成し、閉ざされた言語観とは異なり、実践、行為のうちに直接的に開かれている。その声に賭けられているものは限りなく大きく、言葉に賭けられているものは限りなくゼロに近い。

 一気に話は飛ぶけれど、今日、来週の月曜日から三週間続く教育実習のために、東武東上線の「池袋」~「志木」間を各駅停車で往復しながら板書ノートを作っていたら、ふと、化学繊維の座席に座って揺れている自分の体が、無数の偶然の集積であるかのような感覚に陥った。感覚に陥った、というか、「自分の体が無数の偶然の集積である」という考え方、捉え方がリアリティをもって現前した、と言えばいいのかわからないけれど、枕木の鳴る規則的のようで不規則な硬質な音と、窓の外の「午後三時すぎから雨になる」と予報されていた群青色の空に、高圧電線の黒い直線が六本、交差しているのを目にしながら、「自分の体がここに存在していることは、驚くべきことではないか?」という問いかけが唐突に現れ、じわじわと広がっていった。
 膝の上に広げられているノートには、中学校理科の「生物の分類」で「五界説」の説明の仕方のメモが走り書きしてあって、メモといっても半年ぐらい前から文章でしかメモが取れなくなった自分のメモは、五日後に教壇で発せられる声を先取りするような話し言葉でこんなことを書いている。

 五界説は、時間が経てば、モネラ界の生物がどんどん原生生物界に移っていって、原生生物界の連中も、植物界とか菌界とか動物界にいっちゃうような錯覚に陥るかもしれないけれど、それはあくまでも錯覚であって、ウソだからね。
 あと、数万年後には、節足動物の先に「超・節足動物」が現れたり、脊椎動物の先に「超・脊椎動物」が現れるかもしれなくて、それが進化なんだ、とか思うかも知れないけれど、それもやっぱり錯覚だからね。五界説はあくまでも、いま、存在している生物種を、組成の複雑さを一つの基軸として分類してみただけのモデルでしかないんだから。(ちなみに、末端にいくほど高度な機能を持っているわけでもないよ。菌界の生物種は動けないことに注意。ただ、仕組みが複雑で適応度が高いだけ)。
 生物のぜんたいは、人間の作った、二界説や五界説、あるいはドメイン説のはるかに先を行っていて、人間の作った分類体系-モデルは、生物のぜんたいに決して追いつくことはできないんだよ。できるのは、可能な限り、生物のぜんたいににじり寄っていくことだけで。
 これから話していくことになると思うけれど、原生生物界から植物界に移っていくときに、“陸上への進出”っていう現象がポイントになるんだけれど、彼らは、新しい生活の空間を求めて、自発的に陸にあがっていったわけではない。五界説のモデルで見ると、まるで彼らが「自発的に陸上進出を果たした」ように見えるけれど、それは時間を逆向きにさかのぼっているからそう見えるだけ。これも、この五界説の図が引き起こしやすい錯覚の一つで、「よくわからないけれど、気がついたら、造卵器と造精器ができていて、この体で生きていけるところを探したら、陸上しかなかった」というのが、進化の場で起こっている現象で、そういう変化はいつでも、いつのまにか起こっているものなんだと思う。
 その変化の理由なんていうのも、当然、人間の後付けでしかないわけで、原核生物(モネラ界)から真核生物(原生生物界~)への進化も、食細胞にミトコンドリアやシアノバクテリアが、なんの拍子に、なんのきっかけで共生をはじめたのかなんてわからないんだよね。食細胞も、ミトコンドリア(好気性細菌)も、それぞれ別個の生物だったわけで、それが突然合体して共生をはじめるなんて、普通はあり得ないことでしょ? なのに、それは起こった。
 さらに、生命の起源まで遡ると、オパーリンって化学者が、電流を原始海水に流し続けて、アミノ酸を作るのに成功して、教科書では「原始の海から声明は生まれた」なんて簡単に紹介しちゃってるけど、でも、アミノ酸は生物ではないでしょ? アミノ酸からDNAの塩基配列が偶然作られる確率は、数億分の一で、その数億分の一がなかったら、いまだに地球に生命は存在しなかったわけで、

 ここまで書いて、さっき言ったような、「自分の体がここに存在していることは、驚くべきことではないか?」という問いが、目の前に投げ出された。その問いに感じる「実感」は、日常生活の中で感じている実感とは異質なもので、なぜなら前者では後者の実感を発生させている具体性は、ほとんど皆無であるからだ。なのに、その問いの強度は、自分の脇腹の筋肉を数分に渡って痙攣させるほどに確かなもので、だからこの問いは、差異の体系としての言語として解析されうる素材ではなく、一つの声として処理されるべき命題なのだろう。言葉に傷つけられている、という状態は、この感覚のネガティブな側面が強調されたものなのだろうか。
by warabannshi | 2006-05-22 20:33 | メモ | Comments(0)
探索記録18 「忘れえぬ人は必ずしも忘れて叶うまじき人にあらず」
 タイトルの文章は国木田独歩『忘れえぬ人々』の冒頭の一文だった、……と思う。曖昧なので確認しようと【青空文庫】で調べてみたら、『忘れえぬ人々』は[作業中の作品]のカテゴリの中に入って、うちの部屋の南の壁の本棚を探してみても、『牛肉と馬鈴薯・酒中日記』しか見当たらない。『忘れえぬ人々』が入っているはずの文庫本、『武蔵野』は、西早稲田中学で国語の教員をやってる父が、四年くらい前の春に、小型ダンボール箱いっぱいの文庫本を抱えて部屋に入ってきて、「BOOK OFFで百円だったから買ってきたんだけど、オレんとこにもう一冊あった本が、じつはこんなにたくさんあったんだ。二冊あっても、一冊しか読まないから、……いるか? いらなきゃ捨てる」と半ば強引に、(「いるか? いらなきゃ捨てる」と言われれば、たいがいの物品は受け取ってしまうのではないだろうか?)、くれた中に入っていたはずだ。でも、本棚には見当たらない。けれど、よく考えてみたら、『忘れえぬ人々』の内容は憶えているのだから、本はなくてもべつにかまわない。
 「忘れられない人というのは、忘れてはならない人のことではない」。
 独歩は、「忘れえぬ人」とは、両親や、世話になった教師・先輩・友人のような絶対に忘れてはならない人のことではなく、まったくの他人で、忘れてしまったところでなんの義理も欠かない人だ、と言う。そして、独りで机に座ったまま人恋しくなったとき、「主我の角がぼきりと折れて」、人知れず思い出されてくるのは、後者の人々の方で、彼らも自分も、天地の間にぽっと生を受けて、すっと死んでいくような存在なのだと思うと、「懐かしさのあまり泣きたくなる」。
 ――「主我の角がぼきりと折れて」、「懐かしさのあまり泣きたくなる」だけは、原文でもそんな書き方をしていると思う。終盤の二、三段落にあるはずで、読み返してみたいけれど、なんせ本がない。( ゼファー生さんのブログから飛べる、國木田獨歩「忘れえぬ人々」によると、「主我の角がぼきりと折れて」、「懐かしさのあまり泣きたくなる」の部分はやっぱり多少違うようで、いちおう旧仮名と仮名の二つをここにも載せて置くことにしました。仮名にする途中で、ずいぶんと手を入れてしまったところもあるので、原文仮名を読みたい方は新潮社から出版されているはずの『武蔵野』をどうぞ。テキストは、moreで読むことができます。ゼファー生さん、ありがとうございました)。この箇所と、タイトルの一文だけ鮮明に憶えているのは、うちが『忘れえぬ人々』と同じような思考ルーティンを経て小説なり、記事なりを書いているからなんだろう。じっさい、「書かずに叶うまじき人」、あるいは出来事が、多すぎる。「これはぜひ記事に書いておこう!」「書かいでか!」とその時々では思っていても、(関係ないけど、「書かいでか」「やらいでか」って、どこかの方言なんだろうか、それとも古語?)、いざ部屋に戻って書く段になると、腕立て伏せをしたり、緑茶を淹れたり、半荘ほどネット麻雀を打ったりして三〇分どねばった後、「今日はそういう調子じゃないんだ」と納得して、思いついたことを指にまかせて書きはじめる。“書きたいのに書けていないイベント”は手帳の中に堆積してしまっていて、いままでの記事を見返しても、3/25の小島信夫さん・保坂和志さんの対談@世田谷文学館、4/9のyutaさんのポイ・パフォーマンス@荻窪 ミュージアム東京、5/1の荒川修作の講演会@芸大 第三講義室、5/5のKのアドバイス@池袋西口公園、……どれもこれも、原稿用紙の二、三十枚じゃ語り尽くせないほどのイベントで、でも、そういう気負いこそが、ディスプレイの上で展開されるはずの言葉の連鎖を阻害している。
「じゃあ、オオタ君。たばこ吸いに行こうか」
 先週と同じように、友人・Uと喫煙スペースでたばこを吸っていたら、たばこの煙は、それを眺めていると気負いを取りのぞいてくれることをあらためて確認させてくれた。嫌煙家の人はわかってくれないけれど、たばこの煙は、線香や爪を燃やしたときの煙よりも濃くて、不定形で、中空に白さを保ったまままま、滞留してくれる。そういう質の煙は、たばこ以外では、本当に得難いもので、たばこの煙は煙というより、一つの音楽に似ている。手元にある薄緑色のパッケージには、「NATURAL AMERICAN SPIRIT」というロゴと、長パイプを吸っているインディアン、ネイティブ・アメリカンの図柄が入っていて、バッケージの中に入っている製品が決して自分をトランス状態に導いてくれるような代物ではないとわかっていても、なんとなく、彼らと同じように鎮魂の効果が、口にくわえたそれにも宿っていると信じてしまう。(ネイティブ・アメリカンにとって葬式とたばこの回しのみは不可分の関係にあったようで、それはパイプの先から出る煙とともに、死者の霊が世界中に拡散していくことを願ったため――ということを、半年くらい前に『世界ふしぎ発見!』でやっていた)
 そう信じてしまうのは、友人・Uも同様のようで、最近のUの二つの短編では、喫煙と死者との邂逅が近接して反復されている。(彼の最初の作品にまで遡って、喫煙と死者との邂逅の関係を調べてみたかったのだけれど、『対位性……(忘れてしまった)』が、ファイルのどこを探しても見当たらない)。
「たばこには二種類の吸い方があってね、一つは普通に肺に入れる方法で、もう一つは肺に入れないで、ぶかぶかふかすだけ。中学生とかが、とりあえず格好つけるために吸うときは後者で、――それは煙がたくさん出るからで、無駄に早く燃え尽きちゃうんだけど、煙を肺に入れるって動作は、実際、初めはとてもむずかしいんですよ。小学校とかでやった避難訓練とか思い出すとわかると思うけど、煙っていうのは、温度が高いから、上へ上へと昇っていっちゃうわけで、だから、吸気を肺に入れるのを意識的にしないと百パーセント咽ることになるわけですよ。たばこ吸ってると、呼吸に意識的になるんですよ」
 おととい、飲み会のときに彼氏がなけなしの一五〇円で買ったホープの、(ホープは二箱で三〇〇だから、つまり、誰か別のもう一人と相談して一五〇円ずつ出し合って買ったのであろうホープの)、その最後の一箱を隠してしまったという嫌煙家のMにたばこの吸い方について語っているUはなんとなく嬉しそうで、それに対してMは笑顔で、薄緑色のパッケージの下半分に書かれている注意文を指でなぞって見せる。
《喫煙は、あなたにとって心筋梗塞の危険性を高めます。疫学的な統計によると、喫煙者は心筋梗塞により死亡する確率が非喫煙者に比べて約1.7倍高くなります。(詳細については、厚生労働省のホームページhttp://www.mhlw.go.jptopics/tobacco/main.htmlをご参照ください。)》
 心筋梗塞を危惧しているわけではないけれど、(ゼロではないとは言わないけれど)、うちは「中学生とかが、とりあえず格好つけるために吸うとき」の方法であるところの口内喫煙が基本だ。肺に吸い込まないで、口からゆっくりふき出すと、煙はそのぶんだけ濃くなって、その煙を鼻から吸いこむと、ただ肺に入れているときよりも香りが楽しめたりする。肺に入れると、どうしても呼気と一緒に煙が遠くに散ってしまって香りも薄まってしまう。(たばこの匂いが苦手、という人は、このブログでよく紹介しているまいとさんを始めとして結構いるけれど、Uの言うことには、「この前、院生と合同のゼミがあって、休憩時間にたばこ吸ってたら、院生の一人がいきなり近づいてきて、やべッ、怒られる! とか思ったら、『…すいません、一本くれますか? 副流煙がおいしくって』――」「副流煙って、おいしいの?」「主流煙も副流煙も大差ないよ。フィルター通ってるか通ってないかの違いなんじゃないの? ああ、でも、メンソールは違うよ。顆粒がフィルターに入ってるから」)。(ちなみに、葉巻とパイプは口内喫煙が基本らしくて、去年の春休みにイタリアで買ってきた「マフィアのボスがひざの上で寝ているペルシャ猫をなでながら吸ってそうな」葉巻を、和田堀公園のベンチで吸ったとき、知らずに深々と肺に入れたら、三十分ほど眩暈と嘔吐感が続いた)。
 どうでもいいことだけれど、たばこの吸い方なんて、みんな、誰に教えてもらったのだろうか? 高校一年の秋に吸ったマイルドセブン(セブンスターだったか)のメンソールは、当時書いていた文化祭直後の教室を舞台にした掌編で、たばこを吸う描写がどうしても必要だった、というのもあって、ずいぶん、その一本をわけてくれた友人・Iの口元、たばこを人差し指と中指ではさむやり方、灰の落とし方、みたいなのを見てそっくり真似して、そのままなんとなく覚えたのだけれど、そのIにも、やっぱりたばこの吸い方を観察していた頃があったはずで、でも、Iが煙にむせている光景を実感のあるイメージとして結ぶのはむずかしい。飛躍しすぎだ、と言われるかもしれないし、単なる連想にすぎないよ、と思われるかもしれないけれどあえて言うと、それは新生児のころのIを想像することができないのと同じような質のむずかしさで、Iが、Iの両親の性交の結果、ここに存在しているというテーゼを実感することへの禁忌を同伴した躊躇でもある。

 煙草の煙を肺に入れるという感覚が理解できなかったし、吸い込みながらでないと火がつかないということだって知らなかった。口に含んで吐き出すだけのふかし煙草だったが、それでも煙は沢山出るので楽しかった。ただ、いたずらに煙草を沢山消費するのが玉に瑕だった。

 二十歳になる前、告白すれば一度だけ、落ちていた煙草を拾って、咥えるだけ咥えてみたことがある。思えばあればメンソールだったと今になって判別するが、当時の僕にそんなのが分かるはずなどなかった。第一、フィルターの存在を知らなくて、どちらをくわれば良いのかも知らず、隠れてこそこそと試みたことだから、葉っぱがむき出しの側を咥えていても、その間違いを正してくれる人なんて一人もいなかったし、今、こうして普通に吸うようになってみても、そんなことを教えてくれた人は一人としていなかった。

 Uの二番目の短編の中でくりかえされる、まだ喫煙が不慣れだったころの一つ一つの仕草は奇妙に性的で、その後に展開される近親相姦的なニュアンスをもった妹とのたばこの取り合いを準備する効果を持っているけれど、両者をつないでいる作用は、初めての喫煙と新生児をイメージの上で結びつけている作用と近似しているはずだ。ここ最近、ずっとブログで言い続けていることなので、「またか」と思うかもしれないけれど、その作用は人間の潜在的な無力さ、不自由さに起因しているように思う。
「煙を肺に入れるためには、呼吸を意識的にしなければならない」と、Uはたばこの吸い方をレクチャーしていたけれど、呼吸を意識的にしなければならない時期といえば、新生児、神経系が未発達であるがために、自分の腕すら自分のものだと認識できず、意識的に動かすこともできなかったあの特権的な時期のことで、一次性徴の記憶とともに、呼吸、あるいは運動の不自由さは性的なものとの連絡を脳の内部に設定するのではないだろうか。また、「性交の結果として望まれない妊娠をする」という物語が近代小説の中で飽くことなく書かれてきたのは、そして、特に「望まれない妊娠をする」というところにアクセントが置かれ続けたのは、やはり自らの起源を不自由さと連絡し、これを象徴する性交-妊娠にもつことの拒絶と、それによって自らの潜在的な-初期設定された無力さを隠蔽しようとする強迫観念が近代の内部に組み込まれていたからではないだろうか。けれど、隠蔽のための戦略は、小説という表現形態の中で必然的に失敗することになる。
 Uの二つの短編のうちのもう片方、『lament』は、あまり文筆業である「私」と、唖で、意思疎通のためにホワイトボードとマジックを手放せない小学生の息子・樹を中心に話が進んでいく。彼らは、共に声を持たない。
 文字というのは本当に不便なツールで、ビジュアル的に加工しないかぎりで、音楽やダンスのように、一次的な知覚に訴えて相手の興味を惹くことができず、能動的な認識を待たなくてはならない。樹は、唖であることを理由に小学校でいじめられる(ホワイトボードに中傷的な文句を落書きされる)が、樹は沈黙したまま、応答をホワイトボードに書くことをやめていく。聴覚に訴えることができず、さらに視覚においても認識までに相手の飛躍を要求する文字というツールは、その表現形態の基底に無力さを設定する。そのことを小説という形で示したUのこの作品は好きなのだけれど、やはり書かれたものであるところの小説内部では、書くことによってしか意思を伝達できない樹の書かれたことば-欠落は、作品形態との入れ子構造の複雑さによって特権的な地位を与えられてしまっている点、最終的に無言の叫びによって充足してしまう箇所の安易さはやっぱり見過ごせなくて、その克服は、小説をlament(「……を悲しむ、嘆く、後悔する」という動詞的意味のほかに、「泣き言、愚痴」という名詞的な意味をもつ)にしないための、これからの自分の課題にもつながっている。

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by warabannshi | 2006-05-13 21:49 | メモ | Comments(2)
第11夜 「結局、こうなる運命だったんだよ」
 自分が操縦しているこの軍用輸送機が、ゆっくりと死地におもむいているのは、なんとなくわかっている。
 イヤでも先へ進まなくてはならないことも、帰りのぶんの燃料がないことも、わかっている。
 この軍用輸送機の中にいる十数人は、黙ったままだ。
 でも、なにをするために死地におもむいているかは、わからない。
 たぶん、コクピットの隣に坐っている戦友? も、後ろに坐っている十人ぐらいの落下傘部隊の兵士たちも、これから何をするか、わかっていない。
 おまけに、その死地とは戦場ではなくて、南極のことなのだ。
 南極で、いま、何が起こっているのだろう?
 というか、なぜ南極?

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by warabannshi | 2006-05-11 09:12 | 夢日記 | Comments(0)



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