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領域(ZONE)C キース・ジャレット――『キース・ジャレット 音楽のすべてを語る』
 ぼくにとっての”欲望”とは覚醒した状態、目覚めた状態に自分がいるということであり、きれいな音を出すとか、カッコいい音を出すとか、耳ざわりのよい快適なサウンドを出すとかいうことではない。ぼく自身がそういう快適な状態にひたってしまうとしたら、もうぼくはこの先どこへも進めない。どこへも(笑)。

 ぼくがコンサートのステージへ上がった時になにをするかと言うと、聴衆の期待に対するいわば賭けをするんだ。リスクを背負うんだ。ぼくがここにいるわけは、とにかくキース・ジャレットという人間をさらけだすことだけだということをたいていの聴衆は知らない。こんなを楽しませたり、何かきちんとした音楽を弾くとか思っているわけでしょう? でもそれはぼくのやり方ではない。これは昔からそうだった。だから聴衆がそこにいる理由というのは、それはそれで正しいんだけど、ぼくがほんとうの意味で賭けているリスクについては知らない。でもぼくがもしこういうやり方をしていなくて、違う音楽をやっていたら、どこが違っていたはずだ。なんというか、社交上の集まりみたいになってしまっていたのではないかな。僕がもし誰も彼もがすばらしいと思うような音楽をやっていたとしたら、それは社交上の集まりに過ぎなくなってしまう。

 ぼくは音楽家として次にはこういうのをやろうとか、何をやろうとか考えることはない。これはさっき言ったこととまったく同じルールに従っている。自分にそれが聴こえてきて、覚醒した状態であれば、それを弾くべきなんだ。ぼくという個人がそうしたいとか、その響きが好きだとか、そういうことはあまり関係ない。
 ぼくとしては音楽を通じて、あの”欲望(longing)”を伝えたいと思っているだけだ。
 演奏する場合、コミュニケーションするひとつの方法として、聴衆に本質をゆだねるということが考えられる。音楽的本質をゆだねる。つまり紙に全部書いてしまわない。彼らがここにもう少し加えたらどうかと思う直前でやめておくわけね。
 たとえばきみが質問する。でもほんとうの答というのはその質問と答えとの間にあるんだ。ぼくの答えがほんとうの答えなのではなくて、質問と答えの間の緊張が真の答えなんだ。だから今、ぼくが演奏でやろうとしているのは、この緊張を聴衆に示そうとすることであって、聴衆に答えを与えるということではない。
 「あなたの疑問はよくわかります。これが答えです」と言っているのではなく、「ぼくにも同じ疑問があります」ということかな。その疑問と答えとの緊張以外に答えはないんだ。すべてが息づいている状態はこの緊張から生まれてくる。

 よく観察してみればわかるけれど、自然というのは12平均律みたいなものではない。自然というのは、アイデアとか個人的なスタイルとかいった次元を超えている。だから昔の音楽、12平均律というアイデアのもとで作られていない音楽のほうが自由用だと思った。本物の音楽なんだ。単に自分のちょっとしたアイデアを12平均律の土台の上で弾いて楽しんでいるだけではリアルな音楽はできない。
 だから完璧さを追求するということは可能だけれど、同時にそれが実際には存在しないということも知らなくてはならない。完璧さを追求する。でもそれが不可能であることを理解している、ということ。芸術家の宿命はここにあると思う。
 不可能ではあるが、できるだけ近づくことは可能であるという事実を認識することだ。自然にできるだけ近づく。すると、自然が完璧な完結したシステムではないということがわかってくる。それでもなお、我々が知っている再考のシステムかが自然の中にある。生命を営む唯一のシステムだ。それは間違いない。



 ぼくは普通の生活を営んでいるし、自分自身の限られた人間的感情も持ち合わせている。だからってわざわざそれを表現し続ける必要がどこにあろう?(笑)


 音楽が僕以上に踊りだすんだ。それについていくためには、音楽がぼくを引きずっていけるように、錨を下ろさずに演奏しなければならない。風に運ばれていくことを選ぶのだ。むずかしいことさ。そんな風に運ばれていくのは。ひとつのスタイルが、自由が、自分に固有の奏法が必要なんだ。けれども風に運ばれていきたければ、スタイルを捨て去ることができなければならない。そこからなんだ、大部分の人が運ばれていくことなど考えもしないその瞬間からなんだ、ほんとうの芸術が始まるのは。
by warabannshi | 2006-07-10 19:36 | Comments(0)
領域(ZONE)B グレン・グールド ――『グレン・グールド書簡集』
 to バンクォー・グールド(グールドの飼っていたコリー)――ソ連の犬事情

 きっとソ連の犬について知りたいんじゃないかな。本当にほとんどいない。大半は戦争中に殺されてしまったそうだ。そのとき以来ペットを飼うのはとてもブルジョワなことだと考えられているらしい。それでもいちばんよく見かけるのは毛を刈りこんでいないプードル。雑種はいくらかいるけれど、コリーとおぼしきイヌは一匹もいない。おまえがここにいたら、わがもの顔で街を闊歩できるよ。今朝僕の部屋の外で猫が喧嘩をしていたけれど、こいつをじゃまして欲しかったな。お皿をきれいにして、いい犬でいるんだよ。


 to E.A.ライト(ヘロルド社の担当者)――背がもう少し緩やかな椅子を

 見計らいのためにお送りいただきました貴社の折りたたみ椅子(♯五〇三)を確かに受け取りました旨、ご連絡いたします。この椅子は頂戴いたしますので、請求書をお送りいただければ幸いです。
 私の使用目的(覚えておいででしょうか、私はピアノ用の椅子が欲しかったのです)からしますと、唯一の欠点は、椅子の背がほとんど垂直なことです。つまり、座るところと背のつなぎ目がほぼ九〇度になっているのです。これは、異例にも座る人が垂直に背筋をのばさなければならなくなるという快適ならざる傾向を持っていて、背の詰め物がそれを助長しています。ひれと同じ折りたたみ椅子で、背がもう少し緩やかなカーブをもつモデルはほかにありませんでしょうか。参考までに申し上げますと、この前にお話した例のロンドンの会社の♯一〇〇の椅子は、もう少し快適です。それは背の角度が九〇度以上あるからです。今回いただいた椅子と同じモデルを改造して、九〇度をわずかに上まわる角度のものができるようでしたら、それを試してみたいのですが。
 ご協力に深く感謝いたします。

※ピアノに向かう時、グールドは低く座るのを好んだ。ピアノ用の通常の椅子ではこれは無理だったので、父親のバート・グールドが折りたたみ椅子を用意した。バートはできる限り軽い折りたたみ椅子を購入し、それぞれの足に真鍮のねじをとりつけ、息子が高さを自由に調節できるようにした。椅子にはクッションがついていたが、しだいにほころび、ついに使い物にならなくなってしまった。グールドは折にふれ、代わりの椅子を探したが、結局見つからなかった。


 to ユサフ・カーシュ(写真家、グールド初期の写真を撮影)――アンケートに答えて

4) 同じ曲目を繰り返し演奏することについてのご質問はたいへん鋭いところを突いていて、コンサート・ビジネスの心理の問題もからんできます。役者が、ブロードウェイや公演先で同じ約を何度も、例えば五百回も、続けて演じることがどうしてできるのか、私にはまったく理解できません。完全に本能的にできるようになるのだと彼らはいいます。おそらくそのとおりなのでしょうるしかし、退屈や倦怠の要求が除去されることはありませんし、このよう杞憂は必ず犠牲を生むように思われます。私の場合、体力の許す限り曲目を替えますし、同じレパートリーの枠の中でも頻繁に組み替えを行います――活力と情熱を失わないためならなんでもやりますよ。


 to グラディス・リスキンド(友人。ジャーナリスト)――私は俳優になった

 この一週間、私はこの世の頂点にいます。NFB(カナダの公的なドキュメンタリー映画会社)の映画のスポットライトの輝きの中で贅沢三昧をしていて、この世での私に最もふさわしい場所を見つけたと信じています。私は、言ってみれば、俳優になったのです。あいつならやりかねない、と私の群集が以前からうすうす感じていた職業です。ここ一週間、ニューヨークの場面を撮っていました。あすはアプターグローヴの場面を始めます。詳細は八月にあったときにお聞かせしますが、いまの私は高邁なる自我の上に立って今。この雲がいつまでも消えてなくならないことを願うばかりです。この映画撮影は、私の意気込みを、そしてまさに生きる情熱そのものを高めてくれました。私の記憶する限り、ここまで高めてくれたものはこれまでありません。


 to H.L.オースティン(ファン)――聴衆とのコミュケーションは不要

 あなたのおっしゃる、演奏家と聴衆との不釣合いな結婚を私は目の当たりにしてきましたが、そうした趨勢に影響されてしまう演奏家は、何よりもまず音楽以外の刺激に依存しすぎているのではないかという気がします。おかしな話ですが、私はスタジオでレコードや、ラジオやテレビの番組を作るほうが昔からずっと好きです。私にとってマイクロフォンとは友人です。敵ではありません。そして、聴衆が存在しないこと、つまり、スタジオが演奏家の匿名性を完全に保障してくれることによって、自分に対する自分自身の要求をを満たすための最大の刺激がもたらされる。しかもそのとき聴衆の側の知的欲求(あるいはその欠如)を考慮する必要もなければ、それによって修正される必要もないのです。逆説的ですが、他者に喜びを与えるという芸術家の本質的な義務は、芸術的な満足をこの上なくナルシスティックに追求してこそ、最良の形で果たしうる。それが私の見解です。


to ハンフリー・バートン(ブロードキャスター、音楽番組を多く制作)――演奏会をやめる

 現在、来シーズンにヨーロッパへの演奏旅行をするつもりはありませんし、実は来シーズン以降もないのです。二か月前、次のシーズンが終わったら、もう後悔演奏を行わないと決めたからです。これは十八歳のときから毎年公言してきた計画なのです。この宣言を真剣に受け止めないファンたちもこちらにはいますが、今度こそは本気でいます。反対に、私がやめる気のないもののひとつがテレビです。あまりに楽しくて、この魅惑的なメディアとの接触を断つことなど不可能です。ですから、満足のいく合意が得られれば、私はあなたのために何かを作りたいとずっと思っていますので、もしも五月末にお会いできれば、お互いの興味をかき立てるような企画案が作れるでしょう。そのときまでお元気で。


 to ルイーズ・サイモンズ(ファン)――楽器から離れて作品を学ぼう

 現代音楽とその学び方についてのご質問ですが、簡単には答えられません。そもそも人は一般にどのように学んでいるのでしょうか。その方法との比較がまず必要なのです。私の持論としましては、作品を学ぶには、その作品の時代にかかわらず、楽器から完全に離れて行うのがいちばんうまくいきます。つまり、まず純粋に分析的な角度から研究するのです。もちろんこの分析的な角度も、曲目によって多少の違いはあるでしょう。シェーンベルク(※)の作品をベートーヴェンのソナタとまったく同様に分析すすることは当然できないはずです。まあそれでも十六世紀から今日に至るまでのあらゆる音楽の作品構造に共通基盤を持ち出すことはきっと可能です。

※ アルノルト・シェーンベルクはオーストリアの作曲家。12音技法(※※)を創始したことで知られる。初期の「ペレアスとメリザンド」や「浄められた夜」などの作品において、後期ロマン主義の作品を書いていたが、調性の放棄=無調による作品を志向するようになっていく。30年代のナチスの台頭により退廃芸術家として彼は排斥され、戦後、再評価される日まで全く忘却されてしまったこともあり、彼の1920年代の活躍の果たした役割は過小評価されていることは否めない。


※※ 一つの音の繰り返しもない12の音を平等に使ってメロディーを作るがごとく並べた音列を、半音ずつ変えていって12の音列を得る。そしてその反行形(音程関係を上下逆にしたもの)を作りそこから12の音列を得る。更にそれぞれの逆から読んでいく逆行を作り、基本音列の逆行形で12の音列を、そして反行形の逆行形で12の音列を得ることで計48の音列を作り、それを基にしてメロディーや伴奏を作るのが12音音楽である。一つの音楽に使われる基本となる音列は一つであり、別の音列が混ざることは原則としてない。 したがって、この12音音楽は基本となる音列が、調性に代わるものであり、またテーマとなっていくのだ。そして音列で作っている限り、音楽としての統一性を自然と得られる仕組みとなっている。


 to ロバート・ウールトヴァン(ファン)――お湯の儀式と手袋について

 私が舞台に立つ前に行う儀式についてのご質問にお答えします。私にとってお湯は筋肉をほぐすのに一番の方法なのです。それから一年十二か月を通じて私が特性の手袋をはめているのは事実です。その手袋の目的ですが、これは人々をおもしろがらせるためではなく、冷たい会場に入ったときに両手の温度を一定に保つためのたいへん実用的な手段に過ぎないのです。


 to ジョン・モーラー(ファン)――シュナーベルはアイドルだった

 あなたくらい若かった頃、私にだってアイドルはいました。少なくともピアニストで言えば、私のアイドルとはアルトゥール・シュナーベル(※)でした。彼のピアノ演奏をほかのピアノ演奏よりも高く評価していたからというわけではありません。シュナーベルは音楽への大きな愛を伝える手段としてピアノを用いた人物であって、ピアノを何か個人的なものをひけらかす機会として考えた人ではなかった、と感じたからです。そしてこれこそが、実際にピアノを弾くときの正しい心構えだと、つまり、音楽の魅惑的な世界への接近を可能とする方法にほかならないと思ったのです。

※ アルトゥール・シュナーベルはオーストリア生まれのピアノ奏者、作曲家。指揮者・フルトヴェングラーらと共演を重ね、1927年にはベートーヴェンのピアノソナタの全曲演奏を七夜にわたって開催したり、ピアノソナタの解釈を詳細に記載したシュナーベル版を編集したりと、「ベートーヴェン弾き」として有名。シュナーベルは大げさな表現をよしとせず客観的な表現に特に重きを置いた。


 to キティ・グヴォーズデワ――演奏会活動には戻らない

 昨年は実には波乱に富んだ都市でした。ひとつには、かなりの量の執筆を行ったことです。数多くの公演をこなし、いろいろな雑誌記事を書き、初めて本も出しました。小さな本です、シェーンベルクについての(と聞いて、あなたは顔をしかめそうですね)。そしてこの本のおかげで、さらに多くの本を出したくてたまらなくなりました。昨年はまた、旅行と演奏会活動に対する気持ちがはっきりしたとして゛てもありました。こかの気持ちについてはすでに何度もお話してありますね。とにかく、ひとつの場所にある程度根を下ろし、多くの時間を施策や執筆に使える換気用に身を置けたときにこそ、私は生産的になれるのだとわかったので、あの恐ろしい、はかない生活に戻るなんて、まったく想像もできません。ご存知のように、ああいう生活を楽しめたことなんてそもそも一度もなかったのですから。


 to 岡田和子(鍵盤演奏者)――私は人を教えた経験がない

 残念ながら、現在のスケジュールでは教育活動に従事することはかないません。実は私は人を教えた池県がまったくないのです。また、教えることはそれ独自のたいへん特殊な規則を伴ったひとつの技術ですから、誰もが気軽に始められるものではないと考えております。


 to ロイ・ヴォート(マニトバ大学経済学部教授)――対位法は声部がそれぞれの生を営む

 確かに私が番組に適応しいのは、音楽の分野で「対位法的」と呼べるような形式です。しかしそれを「対位法」に例えたことが悪かったとは思いません。なぜなら、あくまでも個人的見解ですが(もっとも二十世紀の歴史学者はほとんどが同じ見解のはずで、前世紀の歴史学者とは対立するかとは存じます)、対位法は動機を変形させていく無味乾燥な純理論的演習ではなく、むしろ、うまくいけばの話ですが、独立した個々の西部がそれぞれの生を営む作曲技法なのです。(※)当然そこでは、どれほど複雑な対位法的テクスチュアを築くにせよ、個々の音楽的要素には、ある程度の譲り合いがどうしても必要となります。全体の和声やリズムのペースに順応してもらわなくてはならないからです。しかし本当は、音楽で言えば、お手紙でご指摘の全体主義的な理念がより緻密に現れるのは、ホモフォニーな音楽のほうではありませんか。ホモフォニックな音楽ではひとつの主題(たいていはソプラノの声部)が注目を集めることが許されており、残りの声部は伴奏役を担うべく統率されているのですから。

※「時としてグールドは、ホモフォニックな響きの音楽を演奏しながら、見計らっては音符にアクセントわつけ、あとでそれが目立つようにすることによって、一種の対位法を創造する。その音符はまるで、作曲者が提供したのではない、独立したもうひとつの旋律の声部のものであるかのように関連づけられているのだ。」 『グレン・グールド』/ジェフリーペイザントより
by warabannshi | 2006-07-08 15:14 | Comments(0)



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