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●いま、そこにある官能-感応と不自由――仮装としての嗜癖
 突然だけれど、個人的にアダルトビデオが好きじゃない。好きじゃないどころか、場合によっては耐えられない。耐えられないのは、セックスシーンがグロテスクに見えるとか不潔だとか、そういうのではなくて、なんとなく退屈で消してしまったり、寝てしまったり、(普通の映画でもつまらなくなるとよく寝る)、面白いところ、興奮しそうなところを探そうと三倍速で流しているうちに早々と事が終わってしまったりして「なんだかなあ」と不毛な気分になるからで、わざわざそんな気分になりたいと思わないから観ない。
 まだよくできたアダルトビデオを観てないだけかもしれないけれど、大概の作品はセックスに過剰な意味づけをしていて、それが余計すぎてうるさい。(うるさいのと退屈なのは両立しないと思うかもしれないけれど、クレッシェンドやシンバルの強打だらけの音楽が単調に聞こえるのと仕組みは同じだと思う)。過剰な意味づけ、というか、セックスに大層な意味を持たせすぎてると言えばいいのか、……例えばそれは、行き詰まったカップルが寝たら仲直りしました、みたいな安易な期待の成就だったり、“女子高生”や“巨乳”という社会化された記号への偏った執着、好奇心だったり、世間的には犯罪と見なされる行為だけれど相手が満足したので免罪されるという快感の圧倒性を誇示することだったり、「セックスが人間の本源的な力を露出させる」というテーゼの反復だったりして組み合わせのバリエーションはそれなりに豊富なのだけれど、その一方で、男が女を押し倒す設定だとか、激しく感じていることを示す表情、動作、「男が女を満足させる」という筋書きの大枠は律儀に守られていて、そういったぜんたいに対してこっちはどういうリアクションをとっていいものか困ってしまう。だからアダルトビデオより犬や猫の一つ一つの動きを見ていた方がよっぽど興奮できる、――と、これだけ言うとまた「ああ、獣姦ね」と一気に誤解する人がいてまいるけれど、動物の官能性についてはまた後で詳しく話すことになるだろうと思う。ひとまず言えるのは、官能とは表面的には静かな、それでいて徹底的に即物的なものだということだ。
 なんというか、アダルトビデオのセックスは抽象に還元されすぎている。アダルトビデオは抽象的すぎると言い換えてもいい。いや、これはアダルトビデオに限ったことではないか。ほとんどの性産業は抽象的すぎる。いや、性産業というくくりで捉えられる内容でもない。もっと茫漠としたセックス周辺の雰囲気全体、あるいはセックスを語る上で使用されるスキーマが色濃く抽象性を帯びている。……と言うと、さらにわけがわからなくなるだろうか。
 アダルトビデオや青年誌に“抽象的”なんて形容は合わないと思えるかもしれないけれど、でもそれらを駆動させている因子は、ポルノやエロという社会的な参照事項から供給される欲情、あるいは「良いペニスはヴァギナを求め、良いヴァギナはペニスを求める」みたいな政治的幻想が多くを占めてはいないだろうか。それはやっぱりセックスの場の具体性に起因するものではなくて、別の場所に賭けられているものなのだ。相手の唾液が思いのほか苦かったとか、背中にいつついたかわからない細かい擦過傷があったことを教えられたみたいな、具体的で現場的な(あるタイプの人から見れば、どうでもいいような)情報はアダルトビデオでは捨象されていて、(日活ロマンポルノの『赤い髪の女』という作品はそこもきちんと撮っているという話を聞いたことがあるけれど、まだ観ていない)、それが描かれていないと「ザツだなあ」という印象が、どうしても拭えない。――あるいは、粗雑な作りであるからこそ受け手は安心して息を抜き、緻密な振舞いの連動から解放されてオルガスムに達しやすくなるのかもしれない。(セックスシーンをビデオに撮って素人物としてネットで公開するのが趣味、という人を知っているけれど、彼は“素人物”という演技の枠組みが外側から与えられることによってリラックスするのだろう。ただし、大味な演技が許されることによってリラックスできるのか、強固な枠組みが与えられることによってリラックスできるのかは曖昧だけれど)
 抽象化、あるいは概念化は、情報演算処理を効率化するために作られたショートカット・ルーティンだという話は前に記事で書いたように思うけれど、それはセックスのスキーマで、あまりに多用されすぎているのではないだろうか。
 だとすれば、小説に可能なのはそのスキーマを小説の振舞いの中で横滑りさせつづけることだろう。官能-感応の無数のバージョンを期待させつつ、そのすべてを事前に使い尽くして無効化し、セックスの現場の外で快楽を保証するものを失笑すること。
 小説で展開される官能-感応は、ゲイでもヘテロでもバイでもなく、不能でも不感症でも漁色家でもニンフォマニアでもなく、オーラルでもアナルでもサド=マゾでもスカトロでもロリコンでも自慰でも痴漢でも凌辱でも乱交でも近親相姦でも獣姦でも死姦でもなく、およそ性器すら問題にされない類のものだ。そう、セックスを鬱血したペニスとヴァギナの結合に還元してしまうならば、性器もまたセックスの現場の外にある。それらはみな、小説の運動が始まる以前において消尽され、仮装以上の機能を果たさない。(逆説的に、これらの嗜癖をカーニヴァルの仮装として走行させることもできるだろう)
 たぶん、人間は快楽を享受することに過度の興味を持ちすぎたのだと思う。あるいは、〈人間であること〉に関心がありすぎる。いままですんなり理解された試しがない言葉をここでも言うと、うちは「女の子の髪とか指先を撫でてるだけでかなり満足する」。そんなの性愛に入らない、ただ単にプラトニックなだけだ、と言われるだろうし、うちもそれがセックスどころか前戯にすら含まれないことを充分承知しているけれど、挿入、ピストン運動、あるいは双方がオルガスムに至るまでの過程と同じくらい、あばら骨を撫でたり横隔膜からの呼吸を聴いたりしながら微かな振動を伝え合っている時間は官能的ではないだろうか? それともこれこそが倒錯の最果てなのだろうか? 過激で倒錯的な性体験をことさらひけらかす人間にもアダルトビデオ同様、うちは退屈してしまうのだけれど、そういう話を本当に面白がって話したり聞いたりする人はどれくらいいるのだろうか?
 セックスの現場で欲望そのものを0から始めること、――それはひどく不自由な試みだろうけれど、その不自由は(あなた)の肉体が存在することの発見であり、そして(あなた)の欲望を起動させた〈彼〉〈彼女〉が、そこに紛れもなく、圧倒的に存在しているということの発見でもある。小説がその発見に、ささやかな呼び水として寄与できれば、もうそれで充分すぎるほどの機能を果たしていると思う。


●松浦理恵子『優しい去勢のために』というエッセイ集は、これと意味内容はほとんど同じだけれど、もっと語る方法自体が緻密になった素晴らしい作品です。ぜひ、本屋で買いましょう。ブックオフ、古本屋はだめです。彼女の才能にふさわしい印税を。
by warabannshi | 2006-08-19 22:28 | Comments(0)
●瀕死であること――「帰ったら続きをしましょ」
 いまさら説明するまでもないことかもしれないけれど、『新世紀エヴァンゲリオン』という十年前に放映された全26話のアニメの、その最後の2話分をまったく別のストーリーで描いた劇場版の中盤近くで、“エヴァンゲリオン”という巨大な人造人間のパイロットの頭部に入って“使徒”という正体不明の敵を倒しつづけてきた惣流アスカ・ラングレーが、新造された他の9体の“エヴァ・シリーズ”と戦う場面がある。その“エヴァ・シリーズ”をアスカは一度すべて破壊するものの、月から降ってきたロンギヌスの槍に左目を貫かれ、最終的に復活した“エヴァ・シリーズ”に囲まれて機体ごと(文字通り)食われてしまう。“使徒”との戦いに疲れ果てていた主人公・碇シンジは、アスカの弐号機の残骸を目の当たりにしてエヴァの内側で恐慌状態におちいり、それと呼応するようにして映画のストーリーも(エヴァの映画にストーリーという言葉がふさわしいとは思えないけれど)、綾波レイが巨大化したり、サード・インパクトが起こって人類がすべて液状化したり、不意に実写シーンが挿入されたりと、どんどん意味不明な展開をはじめる――
 この劇場版エヴァ「Air/まごころを君に」を初めて観たのが大学一年の五月で、「映画はわけがわからないから見ない方がいいよ」というのが高校の友人たちの一致した意見だったのだけれど、「Air/まごころを君に」は、こうやって小説について考えはじめるとき、その動きの大部分の基調を間違いなくなしている。
 「小説が運動をはじめる」という言い方をうちはよくするけれど、その「運動」はけっして幸福なものではなく、「Air/まごころを君に」で瀕死のアスカが狂気のように、青空を旋回しているエヴァ・シリーズに右腕を伸ばすシーンから始まる。右腕は当たり前のようにエヴァ・シリーズに届かず、「殺してやる殺してやる……」というアスカの呟きは反復され、上空のエヴァ・シリーズから投げ落とされた9本の槍で、アスカのエヴァ弐号機は大地に串刺しにされる。彼女と、彼女の機体は動くことができない。なにもすることができない。無力であること。いつもそこから「運動」は開始され、「運動」は、「運動」となるに至った諸力、あるいは暴力、あるいは一つの法と形式を書き手と読み手の両者に教育する。その振る舞いは多くの場合、唐突にはじまる。それも、ひどく洗練されていないやり方で。
 ただし、「運動」は、酸鼻を極める「ストーリー」によって促されているのではない。「運動」に奉仕する者は、その者、人間にとっては闇、狂気、呪われているとでも、あるいは聖別されているとでも呼ぶしかない力を隠すために(本人もそうと気づかないまま)、「ストーリー」を便宜的に作りれだすしかなくなる。緊密なつなげられた振舞いによって――エントリープラグ内部のアスカの右腕に連動して、大地に刺しとめられた弐号機の右腕が太陽に向って伸ばされ、けれど、その破損した右腕は、眩いほどの逆光で影にしか見えない純白のエヴァ・シリーズにあくまでも触れることなく、カメラはアスカの視線と同一化した状態を保ったままで、暴走した右腕がエヴァ・シリーズの放った槍によって真っ二つに縦裂きされるまでを写しつづける一つの連動によって、はじめて「運動」は生まれることができ、それまで続いていた"夢-現実"からの離脱をはじめる。

――「ねぇ?」「何?」「夢って、何かな?」「夢?」「そう、……夢。」
――「わからない。現実がよくわからないんだ。」「他人の現実と自分の真実との溝が、正確に把握できないのね。」「幸せが何処にあるのか、わからないんだ。」「夢の中にしか幸せを見いだせないのね。」「だから、これは現実じゃない。誰もいない世界だ。」「そう、……夢。」
――「だから、ココには僕がいない。」「都合のいい、作り事で現実の復讐をしていたのね。」「いけないのか?」「虚構に逃げて、真実をごまかしていたのね。」「僕一人の夢を見ちゃいけないのか?」「それは夢じゃない。ただの現実の埋め合わせよ。」
――「じゃあ、僕の夢はどこ?」「それは、現実のつづき。」「僕の現実はどこ?」「それは、夢の終わりよ。」

 『新世紀エヴァンゲリオン』が放映されたのは九五年で、「Air/まごころを君に」は九七年だから、どっちも十年近く前になるわけだけれど、エヴァンゲリオンが配給したショックとリアリティを正面から受け止め、引き継いだアニメ作品は、いまだ存在しないのではないだろうか。秋葉原の電気街が流行の先端をいく場所になり、メイド喫茶が香港や上海にまで開店したところで、そんなものは全然、皮相的な現象で、アニメの作り手が既存の“萌え要素”を順列組み合わせ的に並べ替え、観客の享楽を強制的に引き出す装置を量産している限り、アニメーションという形式は自閉的共犯へと退行し、そこに未来はない。(最近のアニメについてどうこう言えるほど見ていないのだけれど、アニメに詳しい何人かの友人たちに聞いてみてもエヴァ以降の可能性を引き継いだアニメについて語るところは非常に少ない)。問題はアニメだけではなくて、小説にしてもマンガにしても、フィクションを見たり聞いたり読んだりする人びとすべてに関わる。つまり、フィクションをフィクションとして楽しむという、当たり前といえば当たり前な姿勢が、どれだけ特殊なものであるかについてを、「Air/まごころを君に」は、後半の過剰な混乱とによってあからさまにしてしまった。逆の言い方をすれば、すでに今日の場所では現実は明らかにされつくされているために停止しており、死んでおり、フィクションによって演じられなくては「運動」をつづけることができなくなっていることをフィクションの場所で演じてみせた。さらに、こうも言うことができる。
 現実はフィクションによって演じられることで、初めてフィクションとして救われるという可能性がある。
 アスカが虐殺される前に、こんな場面がある。エヴァンゲリオンを所有する機関の作戦部長でもあり、シンジの保護者役でもある葛城ミサトは、瀕死の重傷を負いながら、虚脱状態のシンジに向かってエヴァンゲリオンに乗って出撃するようエレベーターの前で説得する。それまで自分が操縦するエヴァによって二人の親友を殺しているシンジは、ひたすらエヴァへの搭乗を拒み続ける。しかし、腹から出血している彼女の言葉に促されて、彼はエヴァの格納庫へつづくエレベーターへと乗りこむ。別れのキスをうけたシンジの唇には、ミサトの血の跡がついている。……この筋書きだけでは、ごくありきたりなつなぎの場面としか読むことができないのだけれど、ミサトは、人類を滅亡させるサード・インパクトが始まりつつあることを、映画の序盤で知っているし、さらに、シンジの乗るエヴァ初号機によって、そのサード・インパクトが誘発されることにも、あからさまではないけれど気づいている。(いま、手元に映画のDVDがないので確かめられないけれど、たしかそうだったように思う)。すでに終末を迎えている状況で、その状況を回避するための何の手立てもなく、それでも彼女がシンジを戦場へ送り出した、その理由は、動機はなにか? なんて問いの立て方をすると一気に文芸批評のようになってしまうし、そこだけを見ているとこの場面は感傷的なもの以外のなにものでもなくなってしまうからやめるけれど、逆光の中、碇シンジを金網に押しつける葛城ミサトの姿を繰り返し見るたびに、一つの可能性についてうっすらと学ぶことができる。
 すべてが終わったその今において、それでもいまだ瀕死である状態を引きずり、致命傷を隠すことなく、誇示することなく、ただ自らに引き受けるやり方がありうること。
 『エヴァンゲリオン』以降の可能性はそこにあり、小説の可能性もいまだそこにある。
 致命傷を引き受けた、自壊するフィクション。
 それは定式化-固定化できるものでは決してなく、ただ偶発的な出来事の積み重ねによってのみ、それを生きているその時間においてのみ可能となる。
 フィクション内域への自閉、そしてフィクションの侵犯を受けない現実が人間に不可能であることを『エヴァンゲリオン』は自らが引き受けた「運動」、暴力によってストーリーとしての展開を自壊させつつ、その「自壊」という偽装-演技を遂行し、証し立てる。観客は、それぞれの場所で『エヴァンゲリオン』から、それぞれが嗜好-従属しているフィクション、現実を「自壊」させる(トラブルを起こす)に至る繊細な暴力を学び取る。それは、アニメーションという多形倒錯的症候と不可分の形式においてはもっとも強力なものの一つだろう。自らの目と耳に入ってきた情報を、構造に回収させ、停止させてしまうことなしに、映像と声のままに留めること。――それは不安を生きるしぐさそのものだ。人がフィクションから現実へと、「運動」と演技の調子を備給されて帰ってきたとき、私たちを待っているのは限りなくくり返されることの続きであり、そもそもの始めから続きでしかない。
by warabannshi | 2006-08-07 15:56 | Comments(0)
●命がけの偽装
 どれだけの人が、このことを当然で平凡な事実だと思っているかわからないけれど、目の前にある現実に対して、「なにもしない」のは、紛れもない一つの行為だ。「どう行為していいかわからない」という態度も、もちろん行為なわけだし、これをすればいいと考えることも、これをしてはいけないと考えることも、あの時こうすれば良かったと思い返すことも、こうすれば何をすればいいかなんて忘れるくらい気持ちいいと言うことも、やはり忘れられなかったと言うことも、何とかしてくれと言うことも、もう何もしたくないと言うことも、すべて“行為”であって、決して“行為の代わり”として機能しているわけではない。
 ――この文章があまりに漠然としたもののように感じられるとしたら、“行為”を“演技”という言葉に置き換えてもう一度、読み直して下さい。舞台の絵に立った俳優のイメージが、なんとなく浮かぶのではないだろうか。いやいや、“行為”ではなく、むしろ“演技”という言葉の方が、これから小説のルールを設定していく上でよりふさわしいかもしれない。それは、言語によって組み立てられている小説というものが、社会や共同体と不可分なものでありながら、けれど社会や共同体が介在しない個人に向かって書かれ、個人によって読まれるものであることをあくまでも目指す性質を持つことと関係している。小説は、介在-媒介なしに個人へと届くことを目指すものだけれど、社会や共同体の価値観を潔癖に排除しようとしても、やはりどうしてもそれは混じり込んでしまうものだし、価値観をまったく無視してしまえば目指すところの個人にすら届かないのが現実だ。だからといって、社会や共同体の価値観をなぞるだけでは、小説の運動そのものが既存の枠組みの中で停止してしまう。つまり、小説が死ぬ。(「小説が死ぬ」というのは比喩ではなくて、既存の枠組みの中に自身を構成しているものの多くが回収されてしまうような小説は、なんというか小説の機能をまっとうしていない。小説という装置に可能なはずの振舞いをなしていない、という意味で、「その小説は死んでいる」)。なので、小説は自らを殺さない程度の、命がけの偽装を選びとり、自らにほどこす。この偽装するための連続した運動――「行為-演技」こそが、前回の記事で考察した「リハーサル-反復」に続く、小説を駆動させている二つ目の因子となる。
 話を戻すと、小説もまた、“行為-演技としての小説”であって、“行為-演技の代わりの小説”ではありえない。だから、小説として走行される文章において、言葉がただ単一の意味作用を持つことはもはや不可能となる。自身の存在を証し立てるための直接的な発言は封じられており、他人の助言を受けいれることも、また、他人に助言を与えることもできない。つまり、線的な文によって意志を伝達しあうということが小説には許されていない。意思疎通の道具としての意味作用を禁じられている小説という形式は、基本的に、不利な装置だといえる。小説に与えられている意味作用は“行為-演技”の審級にあり、そのオーダーにおいてのみ初めて充分に機能する。といっても、例えば作品の内部で山や大木やタイガー戦車を「父」の象徴、隠喩として使うことが“行為-演技”なのかといえば、そんなことでは全然なくて、むしろそれらは小説を精度の低い意思疎通の道具へとおとしめ、作品内で多層的に連動している諸機能を低下させる。
 明解なわかりやすさから、果てしなく横に逸れ続けること。
 ちょっと見方を変えると、小説はそれぞれの読み手の場所における個別の不安を配給する機能を持つ、と言える。不安、という状態は言葉で明確に説明できてしまえばもはや不安ではなく、「不安という感想を生み出す状態」なってしまうわけで、不安を配給するということは、言葉で説明できない不安定な状態のままに気持ちを宙づりにすること、その不自由に耐えることを教えることでもある。社会や共同体から与えられる感想や評価基準へと自らを登録することになぜか躊躇してしまうとき、違和感を感じざるを得ないとき、それぞれの場所で、小説はさりげなく、ささやかに、自らを殺さずに偽装するそのやり方を演じてみせる。
 だけど、くり返すとおり、小説は偽装のやり方を、直接語ることができない。だから、自らに賭けられた意味作用を理解できない相手にはそれこそ永遠に理解されないことを引き受けながら、かぎりなく長く、その「行為-演技」の諸様相を現前させる必要がある。それも、自らがせき立てられている存在であるとは決して悟られないように。
by warabannshi | 2006-08-03 23:07 | Comments(0)
●リハーサル-反復機能、既視感(デジャ・ヴュ)について
 神経科学者、ラリー・R・スクワイアの記憶分類モデルによれば、人間の身体に蓄積される記憶は、その性質の違いによって、感覚記憶、短期記憶、長期記憶の三つに大きく分類されるという。わざわざ記憶が“身体に蓄積される”なんていって、“脳に蓄積される”と言わないのは、記憶は必ずしも脳によってストックされているものではないからで、たとえばいまあげた「感覚記憶」は、目、耳などの感覚器官に一時的にストックされる情報のことで、視覚では1秒間弱、聴覚では約4秒間、かなり多くの情報量を保持することができる。テレビや映画、アニメーションの映像を認識できるのは、この感覚記憶の効果があるからで、フィルムで撮られた映画の場合は一秒間に24枚の静止画(コマ)が、ぱたぱたぱたっと連続して映るわけだけれど、(最近のデジタルカメラで撮った映像は、もっとキメが細かいのだろうか)、いま眼球に映っているコマの、その直前のコマを忘れてしまったら、コマの間のつながりもわからないから“あたかも静止画が動いている”ような錯覚を得ることはできない。あと、感覚記憶になるのかどうかわからないけれど、アメリカで心臓移植の手術を受けた男性が、移植用の心臓を提供したドナーしか知らないはずのいくつかの単語やフレーズを手術後にときおり口をついて出てくるようになった、という話を聞いたことがある。テレビでは、心臓を提供したドナーが、彼の恋人とケンカしたときにすんなり仲直りするためのキメ言葉だったとか言われていたけれど、この話は、「人を愛するこころは心臓に宿る」、「死んでも愛はつづいている」なんてくだらないことを暗に言いたがっているようであまりに胡散臭い。
 それはともかく、感覚器官によって入力された情報は、感覚記憶、短期記憶、長期記憶の順番で次々に転送されていく。けれど、目や耳で外部から受け取ったナマの情報が、そのまま記憶になることはないわけで、転送されていくプロセスにおいて、かなりの情報化けが生じる。まず、感覚記憶から短期記憶へと転送されるプロセスにおいては、7±2まで(5から9)の情報しか保持できない短期記憶の容量に合わせるために、多くの情報が削除-変換されることになる。どの情報を捨てて、どれを残すかの選択は対象に注意を集中させることによって意識的に行われるようで、たとえば川沿いを数分間歩いたあとで、遮音した個室に入ってもらい、すぐに思い出せることとして聞こえた鳥の鳴き声をあげられる人もいれば、路がレンガ敷きだったとか、自動販売機で売ってた缶コーヒーが百円だった、とかそれぞれ憶えているものが違うのは、注意へのバイアスのかかり方が個人によって違うことによる。また、それとは別に、言語的記憶は音声的な形態に変換される。つまり、文字で書かれた言葉は、短期記憶においては音として聞こえる言葉の形式で記憶される。言葉はすべて声で記憶される、といってもいいかもしれない。この、文字で書かれた言葉が音声的に記憶されることについては、また小説を駆動させるシステムについて考えるときに出てくると思う。
 ところで、感覚記憶よりは長いと言っても、短期記憶としてストックされている情報は約20秒ほどで忘却されてしまう。これでは当然、人間に日数単位での自身の生の連続性を錯覚させるだけの役割を果たさないわけで、これを防ぐためには、短期記憶から長期記憶に記憶を転送する必要がある。そのプロセスで行われるのが、リハーサルと呼ばれる作業だ。ちゃんとしたテクニカルタームではあるけれど、脳科学をやっているなかで不意に演劇用語が出てくるところがなんとなくおかしい。この場合のリハーサルとは短期記憶の忘却を防いだり、長期記憶に転送したりするために、記憶するべき項目を何度も唱えることで、同じ情報を何度も反復する「維持リハーサル」、情報の精度をより詳細にしつつ反復する「精緻化リハーサル」、項目を視覚的-俯瞰的に思い浮かべる「視覚化リハーサル」と呼ばれる二つの聴覚的作業と一つの視覚的作業にわけられる。これらのリハーサル-反復によって、認知的な情報処理も含めたパフォーマンスを供給する長期記憶に情報を転送することができる。

 ――ここまでの記憶に関する説明が、どうして小説に結びつくのか? あえて端的に言ってしまうと、うちが、小説が有為に果たすことができる機能として、読み手の脳内で模擬的なリハーサル-反復を駆動させることを期待しているからなのだ。哲学と異なり、小説という散文形式においてはほとんどすべてに人間が登場し、特定の風景や時刻、季節が設定され、描写される。もっと言うならば、ある人間が目の前にある現実に対処する、対処しつづける営みによって小説は運動しているわけで、その運動には、なんというか、擬似的な既視感(デジャ・ヴュ)を配給する機能が期待できるのではないか。
 既視感(デジャ・ヴュ)が発生するメカニズムについてはイギリスでビクトリア朝時代から研究がなされているらしいけれど、現在は大脳の記憶処理を行う部位の――さらに詳しく言えば、"慣れ"の感覚と空間処理を担当する海馬傍回における小さな発作が原因だという説と、二つの微妙に異なる景色の、ただ注意-集中を向ける複数の対象だけが類似している場合に、目にした景色を既視であると錯覚するという説。デジャ・ヴュを起因させるのは複合的に起こる五つか六つの現象であり、一つに絞ることはできない、という説もあったりして、はっきり言えばまあ、よくわかっていない。少なくともわかっているのはデジャ・ヴュが、(生理学的な)夢のように「有意のものであるのかないのかよくわからない」現象であり、明快でわかりやすい価値判断を宙吊りにする機能を持つということだ。それは、すでに用意されている表象体系に回収されることなしに、運動しつづけるひとつの様相でもある。



●デジャ・ヴュによって再帰するのは新生児のころの自身、叫ばれるのは産声の延長たる声であり、母親を内側から犯した(変形し、変形させた)立体的なファルスとしての肉体である。
by warabannshi | 2006-08-01 17:21 | Comments(0)



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