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第13夜 「真夜中のプールは遊泳禁止」*
 真夜中のプールは遊泳禁止だ。
 だいたいどこの中学校でもそうだ。
 理由はわからない。
 けれど、卓球ならやっても良いことになっている。
 理由はわからない。
 だから、5人の生徒たちは卓球のラケットをもってプールサイドに忍び込もうとする。
 途中、教師らしき人物に咎められるが、卓球ラケットを見せて了承される。
 プールが屋外で本当によかった、と思う。

 プールには一点だけ、スポットライトが当てられていて、あとは真っ暗。
 みんな、準備体操も着替えもせずに、ひゃっほい、とか言いながら飛び込んでいく。
 これで、泳ぎおわってみると人数が、
 一人増えたり、一人減ったりするんだろうけれど、
 そんなことはどうでもいい。
 真夜中のプールで泳ぐ友人たちを見ているのは気持ちいい。
「泳いだ方がぜったいに気持ちいいよ!」
 友人の一人がプールのなかから、プールサイドで体育座りしているうちをひっぱる。
 暗いせいで、誰だかわからない。
「どうせ、見つかったらお前ももう同罪なんだからさあ!」
 それもそうだよね。
 準備体操も着替えもせずに、飛び込む。
 真っ黒の水がとろとろしている。
 スポットライトの光の断片が冷たい水の対流とともに流れてくるけれど、ほとんど、黒。
 だから、あっちからあっちまでの距離が25メートルだなんて信じられない。
「水がとろとろしてるね」
 一緒に泳いでいたさっきの友人に言う。
「あ、それ、オレも言って、怒られた」
 誰に?
 これで、泳ぎおわってみると人数が、
 一人増えたり、一人減ったりするんだろうけれど、
 そんなことはどうでもいい。
by warabannshi | 2006-11-26 09:25 | 夢日記 | Comments(0)
●(すべての夏至と冬至を永遠の淵で肯定できますように。)
 秋が深まってもなかなか木々が紅葉しないと思っていたら、あっという間に十一月が半分過ぎてしまった。秋の虫たちの姿も声も消えてしまい、今日は夕方から遠くで雷が鳴って大粒の冷雨が降りだした。もう冬になってしまったかのようだ。いや、もう冬なのかもしれない。けれど、気温や雲の厚さが変化しても、琥珀色に染まったイチョウの落ち葉や、虫の鳴き声といった、季節を感じさせる幻想的な現象が中途半端にしか起こらないと、時間が流れている気がしない。曇天を眺めていると、時間の濃度が薄まっていく感じがして、人生の一季節分を、損した気分になる。
 当たり前のことだけれど、人間が経験できる季節は、それぞれ平均して七十数回ぐらいで、だからうちの場合はうまく行けば、あと五十回くらい秋を過ごすことができるのだけれど、うちにとって今年が最後の秋である可能性がゼロだとは、まったく言い切れない。いまからすごい楽しみにしているキース・ジャレットの来日コンサートだって、来年の五月までうちもキース・ジャレットも生きていられる保証はどこにもないわけで、そう思うととても心細くなるということを話しても、誰もすんなり理解してくれない。「ああ、大地震は心配だよね」と話を合わせてくれる人もいるけれど、そういうことが言いたいのではなくて、大地震じゃなくても自動車事故やハリケーンなどの不慮の事故にあって命を落とす確率は、いまはたいして問題ではない。
 これも当たり前のことだけれど、来年の五月までこの現実が延長しているのかを確認することはまったく不可能なのだ。この、まったく想像できない時間の未知性が心細さ、というか不安定感を生み出しているわけで、つまり「来年の五月まで生きているかわからない」という不安定感は、「来年の五月が存在しているかわからない」という底なしの闇によってもたらされる。この底なしの闇を直観することが、簡単なことなのか、むずかしいことなのか、うちにはわからない。ただ言えるのは、この底なしの闇がもたらす不安定感、あるいは焦燥を絶えることなく感じつづける限り、人間は生きることに、ぜったいに退屈しないに違いないということだ。
 焦燥は、尾てい骨を振動させる。振動は下半身全体へと伝播して、わけのわからない絶叫へと導かれる。これは比喩ではない。
 小学四年から六年にかけて、秒読みをしてもらうことがやたらと好きだったことがある。当時通っていた中野の学習塾で毎週行われているテストのたびごとに、ストップウォッチを片手に秒読みをする講師の先生がいて、テストの出来具合なんかよりも、その秒読みによって引き起こされる焦燥こそがうちにとっては重要で、残り時間が五分になって、三分、一分、三十秒、十五秒、十秒、……。小学生時代の記憶のなかで、この焦燥は非常に鮮烈に残っている。より強烈な切迫感を引き出すために、わざと回答用紙を空欄のままにしておいて、一分を切ったあたりから、あらかじめ問題用紙に書いておいた回答を一気に書き写しはじめることもあった。消しゴムを使う時間なんてないから、書き損ねたら正しいはずの回答も間違いになってしまうわけで、だから緊張と焦燥が入り交じって、ほんとうに悶絶しはじめて、当時は存在を知ることもなかったキース・ジャレットみたいに中腰の姿勢でうめき声をあげて回答したかったのだけれどぎりぎりのところで制止して、テストが終わった後で脱力していたら、隣の子に異様な目つきで見られていたこともあったけれど、彼はそんな体験をしたことがなかったのだろうか。
 秒読みのただ中にあったうちや、演奏中のキース・ジャレットが体感しているのだろう閃光のような高揚感は一種のオーガズム――射精を伴わないオーガズムで、生きているかぎり継続しうるその衝動は無限にいかがわしい。社会構成において大小の差はありつつも、ヒトは自身を人間と画定するために「私は"人間でないもの"ではない」ことを証しつづけなければならないが、それが他個体との円滑なコミニュケーションを準備するためのものではなく、一種の快楽をヒトに供給するのは、おそらく生を強烈に意識させる時間の非予見性と不可塑性を、(ひどく力劣った形で)再演するからだろう。もっとも、今日では消費経済の力能によって、その快楽すらも摩耗させられうるのだけれど……。
 人間の時間ではなく、"人間でないもの"の時間において、無限回、死につづけること。
 ただし、"人間でないもの"への飛躍は最初の一回かぎり有効であり、二回目からは単なる冗談となってしまうことは重要である。外部にその快楽の参照項を持つ種類のせき立ての快楽は、もっとも忌むべき形態であることには注意してもしすぎることはない。
 十五億回の心拍するなかで、決して、二度と、まったく同じ音を聴きとらないこと。
 五億回の呼吸するなかで、決して、二度と、同じ変化を行わないこと。
 生理学的にはドライオーガズムと呼ばれる現象に近似した前述の衝動を、脳の諸運動野における言語処理によって誤作動させることができたならば、小説は底なしの闇に耐えうる思考を――退屈することを知らない思考を訓練する装置として駆動するだろう。窒息するほどの高密度な時間、瞬間、において、人間は幾億回も廻りゆく季節の記憶を、自らの不可逆な生の裏側に張りつける。そこで人間は一瞬、人間から乖離し、物質として硬化する。新生児、あるいは瀕死者の姿を借り、永遠の淵(ニアリーイコール・ゼロ)において人間であったモノはそれ自身である歓喜を耐えしのぶ。
 すべての心拍と呼吸、すべての日没と季節が永遠の淵で物質化するように、祈ること。
 そして<私>は闇を見る。しかし、一瞬後、産まれ出た外傷というゼロ基点に<私>を留めおくことを許さない、<私>と併走する盲目の時計職人によって、<私>は再び光のなかへと連れ戻される。
by warabannshi | 2006-11-15 22:42 | Comments(0)
探索記録24 「利用可能な快楽の種類」
 大学の友人二人と待ち合わせて、だいたい一年ぶりに秋葉原の電気街に行った。電気街といえば、いわゆる「アキバ」と呼ばれる一帯で、ラジオ部品、家電、パソコン部品、ゲームソフトを扱う大小さまざまな店が秋葉原駅を中心とした同心円状に開かれていて、今日はアニメに詳しい友人のガイドで秋葉原駅から少し離れたところにあるアニメイトと、同人誌やアダルト系のパソコンソフトの店を数軒回り、へとへとに疲れてきた。
 電気街は特殊な場所で、そこで偉そうなことや利口そうなことを言おうとすると、なぜかすごく情けない振る舞いに見えてしまう。正論をもっともらしく語る人が情けないのは当たり前の話だけれど、たとえば歌舞伎町や渋谷みたいな猥雑な繁華街の居酒屋でも、いったん饒舌な人が作りだすペースに巻き込まれると、情けないはずの「もっともらしい正論」を許容できてしまう構えが聞き手や話し手自身の双方のなかに生成されてしまい、聞き手はついつい相槌なんて打ってしまって、対話が一過性のまとまりの良さへと向かう誘惑に踏み止どまれなくなる。けれども電気街では、そうやって対話のなかで概念系にもたらされた正統性(つまりは、情報の圧縮-縮減、ある種の形而上学)を、一瞬のちに電子テクノロジーの配給する膨大な情報量が浸食し、押しながして、また人間を不安と戸惑いのなかに戻していく。この周囲に蔓延したテクノロジーが持続させる不安と戸惑いが電気街に特殊な風土だと言っても言葉のあやではない。
 電気街に集積されたテクロノジーは人間に情報総体としての全体の開示を要求しないことを教育するけれど、(「もっともらしい正論」を双方が許容したときの健全な喜びは、全体を認識する作業の節約-代行ルーティンの形成の成功に依っている)、そういう場所で花開いたのが、顔と比べて大きな眼とプラスチックのように襞のない皮膚、無数のモードを搭載した無個性なキャラクターへの想像的一体化-共犯-感情移入にプレイヤーを誘い込む一連のゲームソフトやアニメ作品なのが面白い。たいして運動してもいないのに、そこに居るだけで体の芯から疲労したように錯覚させる地域から生まれたこれらの装置は、いままでモノを所有する振る舞いによって配給-配置されてきた快楽とは異なる種類の快楽を、快楽の受け手に示唆する。端的に言えば、それは所有の廃棄を目指す道のりで得られる快楽だ。

 
by warabannshi | 2006-11-08 00:52 | メモ | Comments(0)



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