<   2008年 10月 ( 16 )   > この月の画像一覧
第209夜 NHKの権力的腐敗がハロウィンの夜にかいま見える
 NHKの夜のニュースを見ている。
 NHKの夜のニュースにふさわしい、落ちついた様子の三十代くらいのアナウンサーがいる。

 中継:1。
 新製品の色鉛筆のデモンストレーションの様子が撮されている。
 科研がどこかが作ったその色鉛筆で塗ったところを押すとピアノの音が出るらしい。しかも塗った色合いによってピアノの音階は変わるのだ。
 ということを白衣の男性がやってみせると、百人くらいの幼稚園児(ちらほら、コーカソイドやネグロイドもいる)がいっせいにピアノの鍵盤を模した長い長い白紙に、思い思いの絵を描いて、押しはじめる。
【ずらーっと描かれた、百人分くらいの幼児園児的な絵。自画像のようなものが多い。
 なかには、一人一マス(←鍵盤を模した紙なので)のルールをやぶって、右半身と左半身を隣り合ったマスに描いている子もいる。ということは、なにも描けなかった子が一人以上いるのだろうか? もしかしたら、隣の子とすごく仲が良くて、共同で一人の架空のキャラクターを描いたのだろうか? 後者であるなら、すばらしい才能だと思う】

 中継:2。
 無数のタロイモがベルトコンベアーに乗せられて、自動的に洗われている。
「各地で夏の特産品であるタロイモの収穫がピークをむかえています」
とかなんとか、あのアナウンサーがナレーションを入れる。
 ピアノの音が出る新製品の色鉛筆にくらべるとつまらないのでいい加減に見ていると、いつまでたってもタロイモの映像が止まらない。それなのに、アナウンサーは野球選手のインタビューなんかをはじめてしまう。
(アナウンサー、気づけ、映像切りかわってないよ!)
 画面にむかって念を送っていると、アナウンサーが急にしどろもどろになって、沈黙。
 ベルトコンベアーで画一的に洗われるタロイモがまだまだ続いている。
 が、パッと野球選手のインタビューの中継に切りかわる。
 が、また画面が切りかわって頬杖をついてつまらなそうな顔をしているアナウンサーを撮すスタジオカメラの映像になる。
 数秒後、あわててアナウンサーが事の次第に気がつき、
「すいません、スタッフの不手際にふてくされていました……」みたいな言い訳をはじめる。
 まったくもって見苦しい。
 しかも、スタジオカメラが故障しているらしく、いよいよ次の映像に移り変わらない。
「Cコード抜いてみて、Cコード!」
 いかにもADらしい、キャップを前後逆に被った口髭のおじさんが画面に映り込み、カメラの後ろに腕を回す。こういうADは民放もNHKも同じだなあ。と思っていると、まるで漂白されていくように、慌てている様子のアナウンサーと疲れた顔のADが消えていく。

 そして、酒池肉林の様子が撮される。
 高層ビルの最上階とおぼしきフロアでおこなわれている、これは、ハロウィン・パーティなのだろうか?
 コンパニオンの女性は全員、露出度の高いサンバ・カーニバルの格好をしているが、厚化粧で肥満している。おそろしい醜女ばかりで、整形手術をしないとこんな顔にはならないだろう、というような人までいる。
 なかでも圧巻なのは、唇の左右の両端を輪ゴムで結び、それをもって乳首に模している女性で、どう考えてもこの一発芸のために人体改造をしている。
 彼女らにまざってスーツ姿の上品な会社役員たちがシャンパンを飲んでいる。
 たるんだ二の腕に数えきれないほどの小さなピアスをつけたブス・コンパニオンの一人が彼らの一人と話していて、彼はでれでれしている。
 スーツの彼らはNHK上層部の役員たちに違いない。
 こんなデカダンなハロウィン・パーティをやってしまうほどに、NHKの権力的腐敗はすすんでいたのか。
by warabannshi | 2008-10-31 23:02 | 夢日記 | Comments(0)
第208夜 『誰がヴィトゲンシュタインを殺したか?』
 光が丘公園で、映画『誰がヴィトゲンシュタインを殺したか?』の撮影をしている。
 監督は岩井俊二。キャストは、『リリィ・シュシュのすべて』と重なっているところが多い気がする。けれど、役者が両作品のあいだで明確に重なっているというわけではなくて、役柄になんとなく共通性があるから、「キャストが重なっている」という印象を受けるのだろう。
 とは言うものの、『誰がヴィトゲンシュタインを殺したか?』にどういう役柄が配置されているか、まったく思い出せない。

 撮影現場になっているクレーター状の広場から、トイレに行こうとするのだが、あまりにも撮影現場にいたためにすっかり視界が篠田昇のカメラワークになっている。
 黒すぎてハレーションをおこしているアスファルト道路が、じつはいろんなところに通じている感覚。
(デカルト-ニュートン的な均質な空間における距離概念が退行し、それぞれの場所(ランドマーク)の、私の主観的なマッピングにおける「遠さ」「近さ」の感覚が、まったく優先されているためにおこる感覚)

 公衆トイレは異常に臭くて、その異臭のショックでその異臭以外のほとんどの記憶が忘れさられ、目が覚める。
by warabannshi | 2008-10-30 09:47 | 夢日記 | Comments(0)
◆宣伝 第7回文芸フリマ(08.11.9)について◆
 東京・秋葉原で11月9日(日)に開催される第7回文芸フリマで、友人・知人がブースを出しているのでご案内。当日、自分は所用で会場に行けないかもしれないのですが、幸運にもお暇な方はぜひ足を運んでみて下さい。

最終批評神話【ゼロアカ道場】
村上裕一 峰尾俊彦
B-65
評論
人間と批評が滅亡寸前の世界を記録する最終批評神話「re=c」
第一特集はアイドルマスター特集。あのわかむらPに超ロングインタビューを敢行。さらに元長柾木インタビューと超豪華ラインナップで文学フリマを牽引します

 村上裕一さんをどう紹介していいものか。批評とプライベートの区別がほとんどない人です。いわゆるオーソリティーに対する批評性をもって日常生活に臨むことができる人はとても多いけれど、彼の場合は彼自身の興味を惹くいくつかの対象(『エヴァ』、音楽、少年マンガ…)の背後にあるメカニズムの「観察(watching)」が、たまたま「批評(criticism)」という形式で表現されている気がします。だからもし、彼の文章をジャンル分けするとすれば、「批評」というより「調査(investigation)」にカテゴライズされるはず。ロジックの切れ味よりも、「現代日本のニチジョー(日常)のかたさ/もろさ」への継続した視線が彼の売り。

早稲田大学現代文学会
B-47
評論
早大有数の文学系サークル「現代文学会」です。
現代文学会の二大公式刊行物をお届けします。
『早大文学』・・・毎年行っている講演会の記録や、会員の作品を掲載しています。
『リブレリ』・・・年二回発行している書評誌です。

 四年前、早稲田一文にもぐったときからの友達であるはっしーさんは今年、参加しているのだろうか? 小説作品は、社会派。評論作品は日本近代文学史に正面から向き合っていて、どちらもハードボイルド。「熱さ」と「遠さ」の、両方の感覚。
 おそらく参加しているのは、kugyoさん。
 今年の三月に人文死生学学会で行われた『多宇宙と輪廻転生』の書評会で、彼がオーディエンスとして質問したとき、(もう質問の内容は忘れてしまったけれど)「この人の名前を聞いておかなければ…」と思ったほど、その思考は明敏。様相論理や、可能世界論についての、日常生活の感覚から演繹された世界観からするとちょっと信じられないような記事が、彼のブログでは読めます。スリリング。
by warabannshi | 2008-10-26 22:01 | Comments(1)
第207夜 「銘心高校@アリゾナの四年生ライフ」
 銘心高校という高校に通っている、高校四年生。それがうち。
 いつ留年したのかわからないけれど、留年したぶんだけ成績がいいというわけではまったくなく、しっかりと物理学実験の補習を受けている。実験の課題は、「屋上の給水塔にからまったツタが、その給水塔を旋回する風に与える影響」。これは実験というよりも、観測だ。おまけにこの観測課題は、どちらかというと生物学に属する。
 ゼミの後輩Mと、例の学校机を並べて、給水塔にからまったツタの葉の一枚一枚の動きを見ている。そして、観測用のシートに、角度とあおられかたを書き込む。もちろん風を見ることはできないので、ツタの葉の動きから風向きと強さを演繹するのだ。観測はいい加減にやっていて、あとで真面目そうなMの結果と合わせたときにあまり誤差がでないようなデータをでっちあげようと思っている。
 そこに、いかにも低脳そうな四人組があらわれる。
 四人組の灰色のパーカーを着た一人が、「亀山ゼミのゼミ生はお気楽でいいねえ」
 そう言いながら、うちの机のうえに置いたうちのハンカチで鼻をかむ。
 当然、うちは机を蹴立てて灰色パーカーに掴みかかる。灰色パーカーはちょっと逃げようとしたらしいけれど、屋上から下の階に降りる階段で、あっさりとそのパーカー部分を捕まえられる。
「さて。どっちから怒ってほしい? 軽口について? それとも、ハンカチで鼻かんだことについて?」
 細かく、灰色パーカーの頭部や頬を小突きながら階段の踊り場で彼に詰め寄る。こういうふうに相手に対して絶対的有意に立っているときは、怒っているのだけれど、気持ちが良い。

 どういうわけかその喧嘩に決着はついて、また屋上に向かうと、屋上では小学校・大学の同級生Mが首から「探索路」と書かれたプラスチックのプレートを下げていて、
「校内でキレるなよー。がくがくぶるぶる」とふざける。
 給水塔にからまったツタは、その先端部分から紅葉していて、その代わりにクリーム色だったはずの給水タンクは漂白されたかのように色が抜けている。そう、銘心高校はアリゾナにあるのだ。
by warabannshi | 2008-10-26 06:03 | 夢日記 | Comments(0)
第206夜 「ぬいぐるみを万引きする」
 UFOキャッチャーのなかに入っているような手のひらサイズのぬいぐるみを万引きする。
 万引き行為が誰かに見つからないように、ぬいぐるみを飲みくだす。
 一個、一個、つるんつるんと飲んでいく。
【飲みくだされたぬいぐるみが、圧縮されて、消化器のなかにたまっていく】
 そういうイメージが、自分の視界のなかでビデオ・キャプチャーされていく。
 もし自分の視界を誰かに覗かれていたら(ex.「笑い男」@攻殻機動隊)、万引き行為が露呈してしまう。


(08.10.23)
by warabannshi | 2008-10-25 22:35 | 夢日記 | Comments(0)
流れそうになっていた10/12記事へのコメントへのレス。
 『ドイツ零年』、観ました。
 ゴダールの『新ドイツ零年』は観たことあったのだけれど、これが元なのか。
 観た後で、コメントをまた読んでたいそう複雑な気分。
 ナチス、というかファシズム一般に観られる強烈な「総動員主義」の構造がアメリカ型の資本主義社会にも見られる。って、フロムが言ってるんだけど、じつはもうそんな時代(ファシズム=資本主義)はとっくに終わっていて、いまはもう実際的-功利的な目的すら失ったスローガンだけが暴走しているんじゃないか。
 例えば、『ドイツ零年』で元ナチ党の教師が少年に言う「弱者はもう死ぬしかない」は、社会的効果としては「貧しいのは自己責任」というのと同じで、弱者・貧困者の立場から決して発せられないタイプのことばだし、同時に弱者・貧困者「ではない」階層の高揚感をあおる。そこで重要なのは、このタイプのスローガンの効果は「ある階層の高揚感をあおること」に限定されていて、その言説の内容に論理的な裏付けがなされているかとか、統計学的なサンプルがあるとかは二次的にしか求められていないこと。つまり、スローガンの正統性よりも、その正統性へのこだわりを嫌う熱狂が支持されること。
 ここまではよくある議論。
 でも、そういうスローガンの内部に巻きこまれていないと、スローガンが供給する高揚感にからまないと生活すらできないんじゃないか。本来はそういうスローガンによって排斥されるはずの弱者・貧困者においてとりわけそういう傾向がありそうで、ちょっと考えていて暗鬱になった。

 これ、ぜんぜん映画の話じゃないね。
by warabannshi | 2008-10-25 22:11 | Comments(0)
第205夜 「短編小説の書かれ方」
 暗い水中。立ちのぼってくる無数の泡。
 そして、直観。そして、問い。
「短編小説で表される事柄のひとつひとつとは、それぞれ異なる泡の表面に映るひとつひとつのことであり、しかしその泡の源が泡と同じ数だけあるとは限らない」
「内蔵。それぞれの臓器が睡眠時に送るパルスは、ある夢をどう変えるのか?」
【直観とともに、映像】
 周期的なフラッシュ。果てしなく続いているかのように思える一人分の通路の踊り場に潜んでいる、無数の蜘蛛。無数の蜘蛛の巣。フラッシュ。転がっている携帯電話を、それにつながっているコードでたぐり寄せる。フラッシュ。Cメールが届いている。この場所にも電波が届くのかという点に驚く。
by warabannshi | 2008-10-21 07:05 | 夢日記 | Comments(0)
第204夜 「富士急ハイランド、廃園ド」*
 富士急ハイランドに、自家用車(クーペ)を運転して来ている。ものすごい岩山のほぼ山頂に富士急ハイランドはあるので、園内にたどり着くまでが一苦労。岩肌とアスファルトだけの山道を、切りがかかって景色も見えず、対向車もいないままひたすら上り続けていく。これに耐えられなくて、生半可な入園者はすぐに引き返す。
 また、山道は一本道でまちがいなく富士急ハイランドにつづいているはずなのに、いつの間にか富士急ハイランドを通過して、気づかないまま下り坂に入っているということもある。これは富士急ハイランドへの入園を無意識に避けている場合に起こる現象だ。(まるで『ジョジョ』のポルナレフ)

 富士急ハイランドは、その特異なジェットコースターのコースのおかげで遠くからでもすぐに識別できる。富士急ハイランドのジェットコースターのコースは信じられないほど長い。おまけに長方形。マクドナルドのマックリブのCMに出てくる長方形の観覧車を、そのままジェットコースターにしている。一回転もひねりもない。それだけに恐ろしい。なんといっても岩肌で、周りは深い霧につつまれているのだ。下降をはじめたまま、そのままの勢いで落下、自由落下運動したとしてもまったく不思議ではない。
 とても広い園内には、もちろんそんなジェットコースター以外の乗り物もある。
 なので、自分は「拷問部屋」に入る。

 「拷問部屋」は、中世フランスの拷問部屋をできるかぎり忠実に再現したアトラクション。
 そのわりには、洞窟というか赤茶色の土で塗り固めた鍾乳洞みたいなところが舞台。壁には牛の顔の生皮がはがされて幾つか飾られている。
 ぜったいにレプリカなのだろうが、グロい。
 「拷問部屋」は、天野喜孝がプロデュースしているのだろうか、とも思う。
 生皮は天井から糸で吊り下げられてもいる。空洞になった眼の穴から、向こう側の壁の木目が見えて、その木目がちょうど眼球のように見えて、視線が合う。
 すばらしい仕掛けだ。と感動する。
 拷問されているのは、魔女の汚名を帰せられたミスティバル夫人(@『閨房哲学』)と、ユダヤ人男性。
 これも説明によればロボットのはずなのだが、鞭打ちのたびに聞こえる悲鳴とかが尋常でないほど生々しい。
「まったくロボットとは思えない精巧な作り。とりわけゾッドのバランス制御は完璧だ。」
 そうNASAの職員が讃辞を寄せている。
 そうか、ここにはゾッド(@『ベルセルク』)もいるのか。
 拷問部屋はドーナツ状になっていて、一周してもとの位置にもどると、さっきより牛の生皮の数が増えている。
 ミスティバル夫人の拷問はすでに終わっていて、
「夫人の妊娠を避けるために、無数のペニスによる射精はとりやめになりました」
 との注意書きがされている。夫人はロボットではなかったのか? それともこの注意書きもパフォーマンスの一貫なのか?(ニューヨークの殺人課に「コロンボ警部は外出中です」のプレートがかかっているように)
 ユダヤ人男性は、最初は顔の右側面を殴られていたのだけれど、なぐられすぎて顔の右半分が無くなっている。残った左側の口腔が露出していて、とても生々しい。鼻から額にかけては、発泡スチロールが赤く塗られているだけで、その無造作なかんじにさらに嫌悪する。
 よく見ると、赤茶色の床には、彼の顔の右側面の耳からこめかみにかけての皮膚と髪の毛の一部がべちゃっと貼りついている。
 気持ちが悪くなったので「拷問部屋」から出ようとすると、すぐ近くですごい咆吼。
 ゾッドだ。天井に頭がつくぐらいの大きさで、自律二足歩行している。
 さらに、どういうプログラムを組んでいるのか、こちらを認識して、近づいてくる。追ってくる。
 天井から吊り下げられている無数の牛の生皮を避けながら、必死に「拷問部屋」からの出口を捜す。
 だが、ドーナツ状の「拷問部屋」の出口は増えつづける牛の皮に邪魔されて見つからない。ほとんど「布屋敷」だ。ただし、いまは垂れ下がっているのは緞帳のような布ではなくて、牛の顔の皮だ。
 ゾッドはロボットとは思えない、よろめきを組み合わせた歩き方で迫ってくる。

  「拷問部屋」から逃げ出した後は、一目散にクーペで富士急ハイランドから逃げ出したように思える。
「こんな富士急ハイランドは排卵してしまえ!(「排卵」を「廃園」の意味合いで使っている)」
 しかし、そんなのは、じつはまだ「拷問部屋」でゾッドに追いかけられている自分のみた幻なのかもしれない。
by warabannshi | 2008-10-18 03:44 | 夢日記 | Comments(1)
探索記録28「暗唱したり、丸暗記することに関しての覚書 その一」
 「詩」と、「小説」の、ジャンル的違い。その違いとは何か? そもそもそこに違いはあるのか? そこに違いがあるとして、その違いは名指せるものなのか? その違いを測定する基準には何を採用するのが妥当なのか? いや、「ジャンル」という基準が極めて曖昧なカテゴリー分けの行為自体が雑すぎるから、この問いにはナンセンスなのではないか? ――そういう躊躇をペンディングしたうえで、いわゆる「詩」と、いわゆる「小説」の違いについて考える。そのとき、両者のあいだのある違いを説明するときに、こう問いかけることができるだろう。
「それは暗唱されるか、暗唱されないか。暗唱されることをわたしに誘いかけるか、誘いかけないか」
「それは丸暗記されるか、丸暗記されないか。丸暗記されることをわたしに誘いかけるか、誘いかけないか」
 この問いかけは、こう変奏することもできる。
「なぜ詩はいつのまにか暗記、暗唱されてしまうのか? なぜ小説は努力しても丸暗記することができないのか? この傾向は、ある詩、ある小説が優れていれば優れているほど強まるような気がする……」
 この問いかけを、二つに分けて考えよう。まずは前者「なぜ詩はいつのまにか暗記、暗唱されてしまうのか?」について。
 「詩」のほうがテキスト容量が小さいから暗唱できる、という俗流唯物論的な回答では、この問いかけのなかの「“いつのまにか”暗唱される」を満足させられない。それに対して、「詩には韻律がある」という側面を私的することもできるだろう。そう、韻律は、もちろん無視することはできない。中世ヨーロッパの吟遊詩人が膨大な叙事詩を暗記することができたのは、その叙事詩が同音・類音の反復構造をもっていたからだし、定型句(日本の俳句、和歌でいえば、枕詞にあたるような)は暗唱の呼び水となっただろう。けれど、すべての詩がいつのまにか暗記され、知らず知らずのうちに口ずさまれるわけではない。その一方で、ある人にとっての代替不可能なある詩は、信仰者における教典のように、絶対的な顕現、絶対的な可視性のインパクトそのものとして受け取られる。そしてまさに教典がそうであるように、私において反復されるごとにその詩から与えられる衝動は、摩耗するどころかいよいよ力を増す。しかも、そのとき反復されている詩は、すでに詩人の(ディキンソンの、宮澤賢治の。ボブ・マーレィの。ムーンライダースの面々の)ことばではなく、真理を告げる神託のことばのように受け取られる。
 いったいなぜなのか。
 前回の探索記録27の文末に私はこう書いている。
 だから、“この”白昼夢や“この”夢を再現することは原理的に不可能なのだけれど、それを了解しても、“この”白昼夢や“この”夢を作品にしたいという衝動は依然として衰えることがない。おそらく、ダリをはじめとしたシュール・レアリストの一群もそんなこと(“この”白昼夢や“この”夢”を再現することは原理的に不可能)は承知していたことだろう。それでも、“この”白昼夢や“この”夢に偏執するのはなぜかといえば、「不可能なものに憧れていくのが芸術という営為だ」からではまったくなくて、“この”白昼夢や“この”夢の「圧倒的な面白さをもう一度、細部にわたって再び体験したい。再び体験できないわけがない」と、ある一群は信じきっているからのように思える。
 
 「“この”白昼夢や“この”夢」を、「“この”詩の与える“この”強烈なインパクト」と置き換え、それを「作品にしたい」衝動は「回顧したい」衝動と置き換えよう。そして、じっさいに置き換えたときに引用文の印象はどのように変化するだろうか。
「“この”詩の与える“この”強烈なインパクトを再現することは原理的に不可能なのだけれど、それを了解しても、“この”詩の与える“この”強烈なインパクトを回顧したいという衝動は依然として衰えることがない」
 私自身は置き換えの前後で文章の印象はほとんど変わらないように思える。つまり、私は「“この”詩の与える“この”強烈なインパクト」と「“この”白昼夢や“この”夢」とを区別していない。重要なのは、この非区別が、あらゆる土俗宗教(いまやすっかり信者数を増やしたキリスト教や仏教も含めた)に見られる神憑りの際の恍惚と異言の混同との類似だ。キリスト教を例にとってもう少し細かく言えば、グラッソラリア(*1)における発話という行為と意味作用は一致は、「そんなことは当然あり得ない」と常識的に思わせる一方で「そういえばそんなこともあったかもしれない」という憧憬をかなり広域的に(キリスト教圏域において)誘い込む。
 いずれにせよ、詩における暗記、暗唱は多分に原始宗教的なメカニズムと近接しており、おそらくは小説というジャンルはそのメカニズムからの「遠さ」がポイントになってくるように思われる。

   (つづく)

(*1)
「グロッソラリア(異言glossolalia)とは、意味論的・統語論的に難解で無意味な音声発話である。直訳すると、声門・咽頭から発するものいう意味。キリスト教会の中には、トランス状態に入った信者が発する意味不明なうわごとのことを、神の言葉として扱う宗派がある。」
 引用元は、http://www.genpaku.org/skepticj/glossol.html
by warabannshi | 2008-10-17 23:42 | メモ | Comments(0)
『ニーチェと悪循環』ピエール・クロソウスキー(1969/1989) 抜粋――ニーチェの断章
自己のいくつかの典型的な構造化。あるいはもっとも重要な八つの問い。(つまり――)
 (1)みずからが複数であることを欲するか、それとも単純であることを欲するか。
 (2)より幸運になりたいと欲するか、それとも幸運にも不運にも関心を持たなくなりたいと欲するか。
 (3)自分自身にもっと満足したいと欲するか、それとも自分自身にもっと大きな{一つの}要求をもち、かたくなであることを欲するか。
 (4)もっと優しく柔軟で、協調性にとみ、譲歩もいとわない人間に、つまり人間的な人間になりたいと欲するか、それとも「もっと非人間的な人間に」なりたいと欲するか。
 (5)もっと配慮ができるようになりたいと欲するか、それとも細やかな配慮をすることを次第に減らしたいと欲するか。
 (6)一つの目標に到達したいと欲するか、それともあらゆる目標を避けたいと欲するか。(たとえば目標という目標に、限界や袋小路や牢獄や愚行をかぎつけてしまう哲学者のように)
 (7)もっと尊敬され恐れられたいと欲するか、それとももっと軽んじられるようになりたいと欲するか。
 (8)暴君になりたいと欲するか、それとも誘惑者に、あるいは牧人に、あるいは群れをなす動物になりたいと欲するか。」(p.160 強調本文,一部改訳)


ニーチェと悪循環 (ちくま学芸文庫)
ピエール・クロソウスキー / 1989 / 筑摩書房
ISBN : 4480088792



 基本的に、ニーチェは「主張する人」ではなくて、「問いかける人」だった。苛烈な問いかけの裏側にはなにか主張が隠されていると人々は思い、その仮定のうちに留まるが、ある問いの裏側には次の問い、次の次の問いが続いているだけだった。



 わたし固有の価値についてのいくつかの視点。ありあまるほど持っているのか、それとも欠乏によってなのか……人のなすことを見ているべきなのかそれともみずから進んで手を出すべきなのか――あるいは目をそらしその場から遠ざかるべきなのか……人が「おのずから」興奮し、昂ぶりを覚えるのは、蓄積された力から発してのことなのか、それとも単に何かに反応してのことなのか……われわれの使える要素の数は少ないので、単純なやり方で充分なのか、それとも要素のいくつかを支配して、必要とあらばいつでもそれを使えるような至高の権力が主導権を握るのか……われわれは問題なのか、それとも解決なのか……それは成し遂げることが少ない場合は完全に、あるいは目標が大きければ不完全におこなわれるのか。われわれは本物なのか、それとも俳優にすぎないのか、俳優としては本物なのか、それとも俳優を戯画化-パロディしているにすぎないのか。われわれは何ものかの代理人なのか、それとも何かに代理されているものなのか……「人格」としてあるのか、「人格」に出会う人なのか。譲歩-待ち合わせする人なのか、譲歩-待ち合わせされる人なのか……人が病むのは、病気のせいなのか、それとも過剰な健康のせいなのか……人が先頭に立って歩むのは、牧人としてなのか、それとも「例外者」としてなのか(第三の種類――「脱走者」として)。人が必要としているのは尊敬なのか――それとも「道化役」を演じることなのか、人は障害を求めなければならないのか、それとも障害に突き当たることを避けねばならないのか。人が不完全なのは、「未熟{来るべきときが来ていない}」であるせいか、それとも「発育不全{すでに手遅れ}」であるせいか、人が「諾」と言い「否」と言うのは本性からなのかむしろ人は孔雀の羽根のような雑多な色の集合をなしているのではないか。人はまだ後悔することができるのか(後悔することができる人種はどんどん稀になってきている。昔、意識には多すぎるほどの後悔の種があったものだった。最近では、意識はもはや歯軋りするための充分な歯をもっていないように思われる)。人はまだ「義務」を果たすことができるのか(――もし「義務」を奪われてしまったら、生きる喜びの最後の残滓までも失ってしまうような人間たちがいる――とりわけ女性的な魂たちであり、生まれながらに隷属的な存在たちである)……」(p.161-162 強調本文,一部改訳,下線、{}内引用者付記)

by warabannshi | 2008-10-15 09:15 | Comments(0)



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