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◆環境思想・教育研究会 第11回例会
■ 第11回例会 [2008.11.29]

日時: 2008年11月29日 (土曜日) 14:00~18:00 (予定)

場所: 東京農工大学農学部 第1講義棟2階1-24講義室
(会場がいつもと異なりますのでご留意ください)。
 住所 〒183-8509 東京都府中市幸町3-5-8
 アクセス http://www.tuat.ac.jp/access/tra1.html
 校内地図 http://www.tuat.ac.jp/access/tra4.html

内容: [講演]
 「環境倫理と社会科学」 加藤 尚武氏 (鳥取環境大学名誉学長、京都大学名誉教授)

 終了後懇親会

お子様をお連れの方や具合の悪い方のための休養室「ケア・ルーム」も用意しておりますので、お気軽にご利用ください (第1講義棟2階1-18講義室)。
また、本例会は参加費は無料です。会員でない方も、ぜひお気軽にご参加ください。お待ちしております。

環境思想・教育研究会事務局
by warabannshi | 2008-11-28 23:59 | Comments(0)
『ニットキャップマン』
●『ニットキャップマン』(歌:ムーンライダーズ、作曲:岡田徹、作詞:糸井重里)
 矢野顕子と鈴木慶一のコーラス、「おー フジオさん(フジオさん)」は、肩の力が抜けていてありえないほど素晴らしい。

 このPVは岩井俊二が監督を務めている。
 『毛ぼうし』として単独作品としての鑑賞にも耐える。
by warabannshi | 2008-11-23 13:13 | Comments(3)
第213夜 「スーパーマリオワールド「観念論とコスモスの照合」」
 ゲーム「スーパーマリオワールド」を、若い俳優がやっているテレビ番組を見ている。
 ステージは「観念論とコスモスの照合コース」。
 裏面的な要素の強いスターワールドにある、8面か10面のお楽しみステージの一つ。難易度はめちゃくちゃに高くて、自分が小学生のときはこのステージから先へはついに進めなかったのだ。攻略本によれば、「マリオ・スタッフもびっくりコース」というのもあって、しかしそれがどういうステージなのか、攻略本のくせに何の情報も載っていなかった。
 もしかしたら、この番組で見られるかもしれない。

 「観念論とコスモスの照合コース」の最初は、ステージに配置された無数の音符ブロック(「♪」マークのやたらと弾性のあるブロック)をうまく使わなければならない。それらに弾かれながら、地面のない=弾かれそこなって落ちたら終わりのステージをどんどん右に進んでいく。
 若い俳優はそうとうマリオをやりこんでいるらしい。
 空中に浮かんでいる音符ブロックから「ぱよん ぱよん ぱ ぱよん」と軽快な音を立てて、マリオは移動していく。迫ってくるノコノコや、致死性の棘を、かわす。一定の間隔で行ったり来たりするリフトに、しがみつく。危ういところで。
 その曲芸にスタジオのギャラリーが「おおおお」とどよめいたり、司会者がどうでもいいコメントを発したりするのはほんとうにどうでもいい。
【後日、その番組を見ていた秋山瑞人のエッセイを、この瞬間に読む】
「ああいう(スタジオのような)空間で有象無象にちゃかされながら一人だけコントローラーを握ってゲームに興じているのはたぶんとても孤独なことで、ふつうなら適当なところで死んじゃって、照れ笑いを浮かべながら自分の席に戻るだろう。おそらくそっちの方が空気を読んでいるのだ。断然。テレビ局も、画を編集する手間がはぶける。けれど、そういう打算や諸事情を忘れてマリオをやっていた○○(俳優の名前)はできた男である。」

 途中から、マリオは洞窟内に入る。
 洞窟に入った瞬間に、マリオのテクスチャがささくれて、壊れて、黄金色の回転体になる。
 おお、マリオの中身!
 やはりスターワールドに行っただけある。真理に近づきつつある。
 黄金色の回転体は金属がこすれるような音を立てながら、せまってくる巨大な円盤ノコギリをかわして進む。円盤ノコギリはマリオ=黄金色の回転体を切り裂くのではなく、むしろそれをかき消すか、それか円盤のうちに取りこもうとしているのだ。マリオと円盤ノコギリは同じものでできている。そうか、だからマリオ=黄金色の回転体の回転音は金属……、しかしそれでは、この洞窟とトラップから、マリオは生まれたのだろうか? それとも、ある同じものがマリオと洞窟に分化したのだろうか? とか思いつつ、さらにゲームをつづける。
 ――この時点で、マリオをやっているのはスタジオの俳優ではなく、自分自身。

 ついに、洞窟もクリアして、巨大な球状の空間に出てくる。
 黄金色の回転体から、テクスチャはマリオのそれに戻っている。
 いよいよボス戦か。
 と進んでいくと、安っぽくピンク色に光り輝く「?」「!」が浮かんでいる。
 その隣には、「?」「!」をはめこんでください、といわんばかりの空漠がある。
 おそらくこの二つのポリゴンを適切な位置にはめこめばステージ・クリア(「コスモスの照合」の完成?)なのだろう。
 まったく納得がいかない。
 こんなとってつけたような完結は願い下げだ。
 コスモスは照合せず、マリオは制限時間いっぱいまでさまよい続けるのが訓というものだ。
 しかしこれはゲームだし、と思い、いそいそと「?」「!」を適切な位置にはめこむ。

 ステージ「観念論とコスモスの照合」はクリアできたが、夢からは醒めてしまった。
by warabannshi | 2008-11-22 08:27 | 夢日記 | Comments(0)
(無題)
Remettre à la place la véritable fonction du plaisir.
(To put instead the real function of the pleasure in a proper place.)
by warabannshi | 2008-11-21 17:30 | Comments(0)
『フランドルへの道』クロード・シモン(1960/1978) 抜粋
 彼は手に一通の手紙を持っていたが、目をあげて僕を見つめ、それからまた手紙を見、それからまた僕を見た。彼のうしろに、水飼い場に連れて行かれる馬たちの代赭色がかかった赤褐色の反転が言ったり来たりするのが見え、あまりに泥が深くてくるぶしまでもぐりこんでしまうほどだったが、いまでも覚えているのは、たしかその夜の間に急に氷がはりつめ、ワックがコーヒーを部屋に運んできたとき、犬どもが泥をくらいました、といったことで、ぼくは一度もそんな言いまわしを聞いたことがなかったから、まるでその犬どもとやらが、神話のなかに出てくる残忍な怪物のように、縁が薄桃色になった口、おおかみのように冷たい白い歯をして、夜の闇のなかで真黒い泥をもぐもぐ噛む姿、おそらくなにかの思い出なのだろう、がつがつした犬どもが、すっかり平らげ、地面をきれいにしてしまう姿が目に映るような気がしたのだった。いまは泥は灰色をしていて、われわれはいつものように朝の点呼に遅れまいとして、馬の蹄の跡が意志みたいにこちこちに凍った深いくぼみに、あやうく足首をくじきそうに、足をよたよたさせて走っていたところだったが、すこしたって彼が母上から手紙をちょうだいしたよといった。やっぱり、やめてくれといっておいたのに母が、勝手に出紙を書いたのであって、ぼくは自分の顔があかくなるのがわかり、彼も微笑かなにかそういった表情を浮かべようとしてだまりこんだが、きっと彼には、愛想よくすることではないとしても(たしかにそうしたいとは望んでいたのだから)あのよそよそしさを抹消することはできなかったのにちがいない。その表情はわずかに、ごましおまじりのごわごわしたちょび髭を左右に引きつらせただけで、年じゅう戸外で生活している人間に特有の、あの渋色に日やけした顔の皮膚、くすんだ色の皮膚には、どこかアラブ人的なところがあり、きっとシャルル・マルテルが殺しそこねたアラブ人のだれかの名残なのだろう、だから彼はおそらく、タルン県の彼の隣人である小貴族たちとおなじように、《わが家の祖先聖母マリア》の後裔だと自称していただけでなく、さらにその上、きっとマホメットの子孫だとも自称していたにちがいなく、われわれはいずれにしろ親戚だからね、そう彼はいったが、思うに彼の頭のなかでは、すくなくともぼくに関しては、親戚というそのことばはむしろ、蚊とか虫とか蛾とかなにかそういった程度のものを意味していたようで、またしてもぼくは、彼の手のなかにその手紙を見つけ、それがでれの用箋がわかったさっきとおなじように、怒りで自分の顔が赤くなるのを感じた。
(p.7-8)



小説の自由
保坂 和志 / 2005 / 新潮社
ISBN : 4103982055
 5章「私の解体」は脱線が多いけれど良質なクロード・シモン論で、p.89-90に上の引用がやはりなされている。「いちいち内容を理解(ないし記憶)しようとして丁寧に読まずに、勢いに任せてダーッと読んでいく方がいいみたいで、そうすると文章もうんうん唸りながら進む泥でなく、歯切れよく活発で機敏に感じられてくる」という保坂和志の意見は一理ある。けれど、「うんうん唸りながら進む泥」が真冬に果てしなくつづくような『フランドルへの道』だからこそ生命力を予感させることもあるのだ。
by warabannshi | 2008-11-20 09:14 | Comments(0)
第212夜 「試験:AA(アスキーアート)」
 うち自身の双子と横にならんでAA(アスキーアート)の試験を受けている。
 試験の内容は、所定の紙に手書きでお題に沿ったAAを書くこと。
 設問1.「大漁大漁」
 これには、「泥船に乗って『大漁大漁』と言っているモナー(あるいはニダー)』を書く。
 設問2.「大漁大人」
 これには、「釣った魚と一緒に無人島に漂着した複数のモナー(あるいはニダー)」を書く。
 AAなんて書いたことはないが、手書きでもわりとすらすら書ける。
「ちがう、設問2はヒッカケだ」と双子のうち。
「この四字熟語の読み方は“たいりょうたいじん”ではなくて、“たいりょうおとな”。たくさんの魚とたくさんの人、ではなくて、たくさんの魚を釣っているオトナと解するのが正しい」
 そうか。
 “たいりょうたいじん”ではなくて、“たいりょうおとな”。
 だが、そんなAAは思いつかない。
 双子のうちと視点を交換すると、もう一人のうちの受けている試験はAAではなく、回答欄には日本語で「裂いた腹に塩を詰めて縫い合わせる」と書いてある。
【フラッシュバック】
 白黒のニュース映像。
 昭和三十年ごろ、水俣の漁村で若い警察官の死骸が発見される。
 三〇センチほどの長さに裂かれた腹部から、『アンダルシアの犬』のように大量のクロアリが湧きだしている。

 腹に詰める塩はこのクロアリを止めるためのもので、彼の回答は正しいのだ、と思う。
by warabannshi | 2008-11-17 07:21 | 夢日記 | Comments(0)
(無題)
Dialogue dans le noir! Pour perdre la balance.
by warabannshi | 2008-11-14 18:17 | Comments(0)
探索記録29「暗唱したり、丸暗記することに関しての覚書 その二」
 小説家・保坂和志(1956- )は、彼が敬愛するチェコの小説家、フランツ・カフカ(1883-1924)についてこんなことを話している。
 ぼくがいちばん好きな小説はカフカの『城』なんだけど、あの小説ってどういう順番でものごとが並んでいたか思いだせないんです。でもすくなくともカフカ本人は覚えていたはずだから、ぼくも何度も読めば『城』を覚えられるかもしれないと思って、五年前に三回つづけて読みなおしてみたんです。それでもまだ「すこしは覚えたかな?」という程度で、あの覚えられなさだけでもすごい小説だと思いますね(笑)。
 小説家が小説を書いている時の注意力や集中力や持続力はやっぱりたいしたもので、その小説に対して同じだけの理解をするにはもうほとんど丸暗記するような読みかたしかないんじゃないでしょうか。こういうことをいうと人にイヤがられるかもしれないんだけど、丸暗記のようなやりかた以外には小説家の考えの全体には近づけないと思います。
『ほぼ日刊イトイ新聞』「保坂和志さんの経験論」(2005-06-20)

 では、じっさいに丸暗記することによって、どれだけ、どのような具合に「小説家の考えの全体」に〈近づく〉ことができるのだろうか?
 カフカを例にして考えてみると、彼にしては例外的に長い未完の作品『城』のみならず、原稿用紙数枚の短編『田舎医者』(*1)などでもそれらを丸暗記することは非常に困難だ。じっさい、一週間ほどかけて朗読や筆写などしつつ『田舎医者』の丸暗記に取り組んでみたのだが、うまくいかなかった。小学生の合唱隊がわけのわからない歌や、「先生、僕を殺して」、「謀られた、謀られたのだ」という印象的なフレーズは覚えられるが、他があまりにも不吉すぎてこちらの覚える気力を著しく削ぐ。とはいえ、作品に通底する不吉な予感は決して否定的な意味合いだけではないし、不吉なことは生理的に覚えにくいかといえばまったくそんなことはない。今月2日に「死者の日」のミサで聴いた「Dies Ire」は黙示録的な歌詞なのに、というか黙示録的な歌詞だからこそついつい覚えてしまい、男女混唱のコーラスにまざって数節を口ずさんだ。
 だとすると、なぜか? なぜ小説では丸暗記することが困難なのか?
 前回、詩と小説のジャンル的な差違を考えるのに関連して「なぜ詩はいつのまにか暗記、暗唱されてしまうのか? なぜ小説は努力しても丸暗記することができないのか?」という問いを立てた。そして詩が暗唱されることを読み手に誘いかけるという事態に関しては、夢・白昼夢の作品化への欲求と重ね合わせて、「“この”詩の与える“この”強烈なインパクトの無限回の再現」欲求をそのモチベーションにしているのではないかとひとまず仮定した。
 ここで、丸暗記されることを読み手に誘いかけない小説について――ひとまずは、カフカの小説に沿って考えよう。
 保坂和志が彼のエッセイのなかで述べているように、カフカの背後には安定した意味体系が想定されていないし、鳥瞰図的な背景描写も、まるで注意深く取り除いたかのように書かれていない。また、「新潮」で掲載されていたシリーズ「小説をめぐって」や、小島信夫との往復書簡『小説修行』で書かれたものを参考にしているのだが、そのなかにたしか、「カフカは『変身』が出版されるときに、主人公、グレゴール・ザムザが変身した「虫」を挿絵に描いて載せないでくれと、わざわざ出版社に注文を付けた」という逸話が紹介されている。(*2)
 カフカの諸作品に共通するそれらの特徴がどのように読み手の丸暗記を阻害しうるのか?
 この疑問への直接的な答えにはならないが、【丸暗記】と【カフカ】を結びつけた箇所が(やはりというかなんというか)保坂和志のエッセイのなかにあった。
 『城』は場面と場面が因果関係によって繋がっていない。場面のひとつひとつが細かく書き込まれていて、その中に他の場面との呼応関係が見つけられるという書き方になっている。つまり、全体を流れる太い筋はない。もともと筋がないのだから筋を憶えられるはずがない、という言い方は、しかし、何かの省略か隠蔽か歪曲になる。
 『城』であっても、〝城〟に特定の意味を見つけ出した人にとっては、筋が浮かび上がってくるだろう。この「見つけ出した」とは「こじつけた」ということだ。〝城〟が官僚機構であるとか、神の恩寵であるとか、あるいは『城』の全体が定住する土地を持たないユダヤ民族の隠喩であるとか、あれやこれやに解釈する場合、きっと何らかの筋が浮かび上がるのだろうが、そのとき排除されるものが多すぎる。その筋だけを聞いても『城』には聞こえないだろうし、『城』をおもしろいと思って読んだそのおもしろさとは何も響き合わないだろう。
 それゆえ、筋が憶えられないのだから、全体を丸々記憶するしかない。そして丸々記憶することができれば、見落としていた呼応関係にも気づくことができるのではないか。
 キリスト教徒にとっての聖書や仏教徒にとっての経典はそういうものではないかと思うのだ。本を一冊丸々記憶することは不可能なことではまったくない。小説家は一つの作品を書いているあいだ、自分がどこで何をどう書いたかほぼきちんと記憶している。書き上がった直後に原稿が消えてなくなってしまったら、それは誰だって呆然とするけれど、それは二度と書けないからではない。書こうと思えば書けるけれど、(1)細部まできちんと完全に同じには書けない、ということと、(2)同じものを書こうとしてもわずかにずれた細部によって、かなり別の方向に引っぱられていってしまう、と思っているからだ。書くという行為にはジャズのアドリブに似た一回性のパフォーマンスの要素がどうしてもつきまとい、それを完全に切り捨てることはできない。
カフカ『城』ノート(1)(前編)「新潮」2007年11月号

  (つづく)

(*1)1917年製作。あらすじは以下の通り。
 田舎医者は吹雪の中10マイル離れた村の重病人のところに行かねばならないのに、馬車を引く馬が過労で死んでしまい困っていた。しかし豚小屋から突然2頭の馬が現れ、馬は馬車に繋がれる。その間、馬丁が女中のローザに気があるそぶりを見せ彼女を抱きしめ、ローザは嫌がって逃げ回っていた。医者は馬丁をローザのもとに残して行くわけにはいかないと主張するが、馬車はあっという間に疾走し、瞬時のうちに重病患者の家の前に着いてしまう。患者の若者を診てみると、彼は健康そのものである。しかし馬がいなないた時、若者の腰のあたりに大きな傷口があるのに気が付いた。そのあと医者は裸にされて患者の横に寝かされる。若者の家族は心配して成り行きを見守り、小学生の合唱隊がわけのわからない歌を歌い、患者の若者は医者の無能を非難する。そして医者は慌ただしく馬に飛び乗って逃げ出すが、馬車は今度はのろのろとしていっこうに進まず、背後には子供たちの「間違った」歌が響いている。こうして医者は馬丁の悪行を思い浮かべつつ欺かれたと感じ、冬の夜を彷徨う。
「カフカ辞典」
(*2) 2007年の11月号から現在まで「カフカ『城』ノート」を新潮に掲載している。自分はちょうどそのころから急に忙しくなったから最初の回より他にはそれらを読んでいない。

by warabannshi | 2008-11-11 02:04 | メモ | Comments(0)
第211夜 「餅蛇口」
 彼女Fが、名前の知らない駅(目黒駅?)の北口のビルで蒔絵を捜しているそうなので、手伝いに行く。
 農工祭が近いので、名前の知らない駅の駅前には餅の吹き出る蛇口がいたるところに取りつけられている。餅の吹き出る蛇口は、ファミレスのドリンク・バーのスムージーの蛇口の原理に近い。圧力の変化で、地下から熱い餅が出てくる仕組みになっている。
「むしろスーパープルームとおなじ原理だよ。」と連れ歩いている同僚が言う。
「餅は不定形なのに(…不明…)」とうち。
 
 名前の知らない駅前は道路工事と架線工事を両方やっているせいで、ふつうの水が出る蛇口もいたるところにある。
 
by warabannshi | 2008-11-08 10:28 | 夢日記 | Comments(0)
(無題)
La méconnaissance ne change rien.
Nous pouvons l'ignorer.
by warabannshi | 2008-11-07 15:52 | Comments(0)



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