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探索準備01 『「盗まれた手紙」についてのセミネール』読書会:2回目 予習
[01:「盗まれた手紙」は、「自動返送荷札」なのか?]
 『ドラえもん』に出てくる便利な道具のなかには、「自動返送荷札」というのがあって、この荷札をつけるとその持ち物は自動的に然るべき持ち主の元に戻っていく。つまり、この荷札をつけて道端などに放っておくと、その持ち主の家の方角へ行く通行人がそれを拾い、家まで届けてくれる。拾い主が届け先までのルートの途中までしか行かない場合は、ひとりでにその途中地点でその品を捨ててしまうが、その先のルートへ向かう別の通行人がそれをまた拾い、それを繰り返して最後には必ず家まで届く。人ではなく犬がくわえて運ぶときすらある。(cf.てんとう虫コミックス第34巻) 重要なのは、この荷札をつけられた持ち物は“然るべき持ち主”のもとに戻っていくところだ。

 ラカンがE.A.ポーの『盗まれた手紙』を読むと、手紙はその宛先へと、然るべき手紙の持ち主の元へと自動的に戻っていく力を、まるで自動返送荷札であるかのように、手紙自身のうちに宿しているかのように感じられてしまう。でも、その宛先へと自動的に戻っていくのは、ポーの作品においては手紙であって、自動返送荷札ではない。

[02:1回目の読書会で取り扱われた範囲] 

「盗まれた手紙」についてのセミネール
ジャック・ラカン

Und wenn es uns gluckt,
Und wenn es sich schickt,
So sind es Gedanken.
〔うまくいったなら、宛先に届いたなら、それが思考というものだ。〕
{ハイデッガーの「歴史的命運」はschicktとして語られる。}

 これまでの探求によって私たちは、反復強迫 répétition automatisme(Wiederholungszwang)が、シニフィアンの連鎖 chaîne signifiante の執拗さ-しつこさ insistance {シニフィアンの連鎖の、あらゆる抵抗を排しておもてに出てきてしまう性質}と私たちが呼んでおいたものにその原理を置いているということを認識したのでした。この観念そのものは、実存 ex-sistence(すなわち中心から外れた場所 place excentrique)と相関するものとして私たちはそれを引き出したのでしたが、フロイトの発見を真摯に受け止めるならば、私たちは無意識の主体をこの実存のところに位置づけねばなりません。{ほんとうは象徴的なものよりも想像的なものの“力”の方が強いはずなのだが、ここでラカンは戦略的に、想像界を軽くみている。} そしてこのような〈象徴的なもの〉の支配が、想像的なものの経路をどのようにたどって、人間組織のもっとも奥深くにまで及ぶその効果を発揮すべくやって来るのかということを把握することができるのは、言うまでもなく、精神分析によって開示される経験のうちにおいてこそなのです。 {この一文は、「完全に身体的な病は存在しない」という精神分析の楽観主義であるとも受け取れる。}

 このセミネールの教えは、次のことを支持するために組み立てられています。すなわち、このような場面での想像的なものの影響は、私たちの経験の本質部分を表現するようなものではなく、むしろどうでもいいような部分のみを伝えるものであるということです。たとえそうした影響が、それらを結び合わせたり方向づけたりする象徴の鎖へと、あとから関連づけられることはあり得るとしても。

 もちろん、シニフィアンの連鎖の挙動を左右する象徴的な二者択一 alternative {「+/-」「on/off」みたいな象徴}がどちらに傾くかに関しては、想像的なものの浸透(Prägung)が重要となります。しかしそのことは承知の上で私たちがここで言いたいのは、たとえば排除(Verwerfung){(法律用語では)時効。時間切れになって権利がなくなること}、抑圧(Verdrängung)、否認(Verneinung)そのものといった、主体にとって決定的であるような精神分析学上の諸効果を規定しているのは、このシニフィアンの連鎖に固有の法則 loi なのだということです。{つまり、排除、抑圧、否認はシニフィアンの連鎖に関係するものであって、想像的なものとは結びつきがないということ。}そしてこうした諸効果がシニフィアンの置換(Entstellung){Entstellung は夢の歪曲などに使われる語でもある}に非常に忠実に追随するものであるために、想像的なものの因子 facteurs が、その不活発性にもかかわらず、まさに影や反映としてのみ形象化されるのだということも、程よく強調して明言しておきたいのです。

 もっとも、私たちの経験における諸現象の個別性こそがあなた方{分析家}にとっては本質的なのであり、しかも諸現象のそれぞれ固有の複合性を解体するにはそれなりの技巧がなくてはならないものであるのに、上のような強調はあなた方の目からすると単にそうした諸現象の一般型を抽出することに資するにすぎないというのであるならば、せっかくのこの強調も無駄に終わってしまうでしょう。

 そこで、今日はそんなあなた方のために、ひとつのシニフィアンの通り抜けによって主体が重大な決定をこうむるのを或る物語{E.A.ポー『盗まれた手紙』}を通して実際に見ながら、私たちの研究するフロイトの思想の一局面から導き出される真実、すなわち主体に対して構成力を持っているのは象徴的な秩序であるということについて、解説したいと考えたわけです。

 ひとつ指摘しておくと、この真実こそが、フィクションというものの存在自体を可能ならしめているものなのです。そうであるからには、この真実を明るみに出すには、寓話{作り話}であれなにか別の物語がふさわしいのです。

 それが首尾一貫したものであるかどうかを吟味せねばならないかもしれませんが。その保留さえ別とすれば、物語は{それがヘーゲル的な歴史であれ、患者さんの自分史であれ}、それが自由な恣意によって作られるものであると信じられやすいだけに、象徴的なものがもたらす必然性をいっそう純粋に明らかにすることができるという点で、有利ですらあります。

 そういうわけで、とくにいろいろ探し回ることはせずに、ちょうどつい最近利用した丁半ゲームにまつわる対話が挿入されている物語を、例として用いることにしました。丁半ゲームに傍証を求めた以前の講義にうまく続くものとしてこの物語が選ばれたのも、おそらく偶然ではないのです。

(邦訳はhttp://ueno.cool.ne.jp/archiv/lacan/letter_ja01.htmlを参照。一部改訂。
 下線、{ }内は太田)


[03:鎖chaîne]
 シニフィアンの連鎖の、あらゆる抵抗を排しておもてに出てきてしまう性質。執拗さ-しつこさ insistance。この鎖chaîneの性質についてラカンが言っていることはよく馴染む。こうやって読書会のメモを書いているあいだ、メモを書かせている力が自分のなかにあるはずなのだけれど、自分が書いているメモの内容と、メモを書かせている力のあいだにはなんの対応関係もない。しかし、自分が何を書いているかを意識することができるのは、自分の書いている言葉の方に主導権があるからで、もしメモを書かせている力の方に主導権があるとしたら、こうやってまとまった構文に沿って文章を書くことなんてできない。そういう“受け身の状況”を嫌がって、書くのをやめたり、何も考えないようにしたとしても、それで言葉に主導権があることを忘れることができたとしても、身を離したとは言えない。それこそ、ドラえもんの道具「自動返送荷札」を付けられたものが通行人を次々と巻きこんで、然るべき持ち主のもとに帰っていくあの強引な力のように。

 この鎖chaîneの解き放ちがたさ。その感覚は非常に馴染むのだけれど、あまりにも馴染みすぎて、違和感がある。たぶん、鎖の「解き放ちがたさ」というところだ。これだとまるで“私が鎖でがんじがらめにされている”ようなニュアンスだが、そうではない。私が鎖のある部分なのだ、という言い方の方が、解放感がある。しかし、「私たちは鎖のある部分なのだ」ではなく、「私が鎖のある部分なのだ」と言うとき、私とあなたの完全な代替不能性を信じることはどれだけ可能だろうか?

 漫画『ぼくらの』がアニメ化されたときの主題歌、『アンインストール』のサビ部分の歌詞がこの問いかけの前提を簡潔な言葉で示している。
「この星の無数の塵の一つだといまの{死にたくないのに死ななければならない}僕には理解できない」
「{死にたくないのに死んでいく}僕の身代わりがいないなら、普通にながれていくあの日常をこの手で終わらせたくなる」

 たぶん、死にたくないのに死んでいくある人、執着と対面する人を考えたとき、フロイト-ラカンの想定しているシニフィアンの連鎖は離心率が高い(高すぎる)のだ。だから、「死の欲動」の議論が可能になるわけだし、「私たちの経験における諸現象の個別性」における矛盾したもののさまざまな彩りが、同じシニフィアンの連鎖に原理を持つ、同じ反復強迫 répétition automatismeとして見なされてしまう。……だからといって、フロイト-ラカンのシニフィアンの連鎖に関する考察が、実験室としての診療室のなかでのみ行われた能天気なものだったとは全然思わない。でも、それはいまのガザ地区ではやっぱり能天気なものとして捉えられるのではないだろうか。どうなのだろう。
by warabannshi | 2009-02-22 10:26 | メモ | Comments(0)
第235夜 「温泉街で、三遊亭楽太郎と」
 長屋みたいな旅館が寄りあつまった小さな温泉街の、一つしかないバス停で、三遊亭楽太郎を待っている。彼に、なにかの合宿で高座をやってもらうために。ゼミの後輩(年上)Fと、このバス停で、彼を乗せたバスを一時間くらい待ちつづけているはずなのだが、バスは一向に来る気配がない。
 何かを待ち呆けているあいだは、とにかく寒い。あたりには雪がまだ積もっている。バス停は小学校の隣に屋根付きのものとしてあるが、当然、小学校はずいぶん前に廃校になっている。屋根も、青空が見えるくらいに薄くて穴が開いている。
「こんなに遅れているということは、バスジャックですかね?」とうち。
「いや、アニメの見過ぎでしょう」とF。
 アニメを見過ぎているのは、一時間ほど遅れているバスの運転手なのか。三遊亭楽太郎なのか。それともバスの遅れを「バスジャック」と予測したうちなのか。
 いつの間にか、バスはやってくる。
 白いダウンジャケットを着た三遊亭楽太郎が、馬鹿でかいリュックサックを背負ってバスから降りてくる。
 リュックサックの右の肩掛け部分が、ひねられて、裏部分のパッドが表になっている。
 自分を待っていたうちら二人を見つけて、あ、どうも、よろしくお願いします。と小声で呟くように言う三遊亭楽太郎は、落語家というより女形みたいだと思う。
「ほら、ちゃんと荷物ぐらい持たなきゃ!」とFに脇腹を小突かれる。
 そういうものか? 荷物を持たなきゃいけないくらいに三遊亭楽太郎は偉いのか?
 それとも、無理いって、ものすごい安いご祝儀(地域振興券)で来てもらったとか?
「リュック、お持ちしましょうか?」
「助かります。重いですよ」
 そう言って渡された黒いリュックサックは異常に重い。
 リュックサックを背負ったまま歩けなくなっているうちをバス停に置いて、Fと三遊亭楽太郎はなにかの合宿が行われている宿に向かう。その宿の名前は「すずめばち荘」。三百年間ほど、スズメバチたちが、宿屋の壁にある巨大な巣を、さらに巨大なものに造りかえつづけている、伝統の宿屋。
by warabannshi | 2009-02-19 10:39 | 夢日記 | Comments(4)
『マタイ受難曲』2部38番「ペトロの偽証」
 カール・ヒリター指揮の『マタイ受難曲』を聴きながら、ぱらぱらと歌詞カードをめくっていたら、2部38番の「ペトロの偽証」のところを読んだすぐ後に原因不明の落涙。
 「ペテロの偽証」は、イエスが捕縛されたあとに、イエスを見捨てて散り散りになって逃げたイエスの弟子の一人であるペテロが、師であるイエスのことを「知らない」と三度嘘をつく場面で、『マタイ受難曲』のもっとも高まる場面の一つ。ちなみに、ペテロが「イエスなんて人は知らない」と言い張っているときに、イエスは彼を尋問している議会の人々から、顔につばきをかけられ、こぶしで打たれ、掌で叩かれて「キリストよ、いま打ったのは誰か言い当ててみよ」となぶられている。それでもペテロは助けに行かない。そして、「イエスなんて知らない」と言い張る。
 
[マタイ伝 26章69~75節]
Petrus aber sas drausen im Palast;und es trat zu ihm eine Magd und sprach:
 ERSTE MAGD: Und du warest auch mit dem Jesu aus Galilaa.
Er leugnete aber vor ihnen allen und sprach:
 PETRUS:  Ich weis nicht,was du sagest.
Als er aber zur Tur hinausging,sahe ihn eine andere und sprach zu denen,die da waren:
 ZWEITE MAGD: Dieser war auch mit dem Jesu von Nazareth.
und er leugnete abermal und schwur dazu:
 PETRUS:  Ich kenne des Menschen nicht.
Und uber eine Kleine Weile traten hinzu,die da stunden,undsprachen zu  Petro:
 Wahrlich,du bist auch einer von denen;denn deine Sprache verrat dich.
Da hub er an,sich zu verfluchen und zu schworen:
 PETRUS: Ich kenne des Menschen nicht.
Und alsbald krahete der Hahn.
Da dachte Petrus an die Worte Jesu, da er ihm sagte: Ehe der Hahn krahen wird, wirst du mich dreimal verleugnen.
Und ging heraus und weinete bitterlich.

ペテロは外で中庭にすわっていた。すると一人の女中が彼のところに来て言った。
「あなたもあのガリラヤ人イエスと一緒だった」
するとペテロは、みんなの前でそれを打ち消して言った。
「あなたが何を言っているのかわからない」
そして入り口の方に出ていくと、ほかの女中が彼を見てそこにいる人々に向かって言った。
「この人はナザレ人イエスと一緒だった」
そこで彼はふたたびそれを打ち消して誓って言った。
「そんな人は知らない」
しばらくして、そこに立っていた人々が近寄ってきて、ペテロに言った。
「たしかにあなたも彼らの仲間だ。言葉づかいであなたのことがわかる」
彼は「その人のことは何も知らない」と激しく誓いはじめた。
するとすぐに鶏が鳴いた。
ペテロは「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言ったイエスの言葉を思い出した。
そして外に出て激しく泣いた。
(和訳は『聖書』日本聖書協会(1975)を参照)


 「外に出て激しく泣いた」ペテロにつられて落涙したのは、『マタイ受難曲』の構成が感動的だったからではなく、ペテロの慟哭への一瞬の同一化があったからだ。それは二千年ほど前のペテロが、二千年後の私と(あるいは私のメンタリティの下絵となるものと)なんらかの関わりがあるということでもある。二千年ほど前ペテロの心に起きた出来事への、その不意の近しさがもたらすある感じは、偽証者である彼と彼に同一化する私への嫌悪ではなく、むしろ喜びに近い。
by warabannshi | 2009-02-11 19:53 | Comments(0)
第235夜 「北極点庭園」
 北極点は地下五階にある。
 北極点まで降りていくための階段は、地下四階あたりですでにマイナス二〇℃以下なので、もちろん防寒具が必要となる。ニットキャップや、とりわけ両手にはめる毛糸の手袋は必需。その他の持っていくものに関しては、ガイド役の女性がいろいろ指示を出してくれる。

 北極点へと降りていく階段は、重力方向に水平である。
 北極点が地下五階にあるとすると、地下四階は、北極点ではないのか。地下三階は北極点ではないのか。北極点へと降りていく階段がはじまっているはずの地上は、駅舎(自転車を駅員室に預けることができる)になっているが、そこは北極点ではない。
 北極点へと降りていく階段のはじまりは、北極点ではなく、駅舎であるという不思議。
 しかし、北極点(p)が、三次空間のなかの、ある正確な一点のことなら、北極点(p)から駅舎(q)までは階段で五階ぶんの距離があるのだから、そこは当然、北極点(p)ではないことになる。
 なんの不思議もなかった。

 北極点に到達する、地下五階の、その扉をあけると、そこには自然史博物館のような庭園が広がっている。
 庭園の植物種は数えきれないほどであるし、それらの植物種はマイナス二〇℃で生きているわけではない。つまり、きわめて限定された北極点(p)の周囲は、きわめて温かく、湿潤な春のなかにある。
by warabannshi | 2009-02-08 09:23 | 夢日記 | Comments(0)
第234夜 叙事詩『ガリレオ』
 ファミリーレストランのボックス席に一人で座っている、革命家くずれの、長髪の若い男が、嘘っぽい叙事詩を語る。
【長髪の男が語る嘘っぽい叙事詩】
「ガリレオの娘たち」
  始まりの場所にはマリオとガリレオがいた
  不定形の巨大なガリレオは日々、餌を求めた
  すでに人の形であったマリオは日々、餌を与えた
  ガリレオに
  ガリレオに
  円形の崖の上でマリオは走り、餌を獲る
  足も触手もないガリレオは、餌を獲れない
  ガリレオは脳なき脳で考える
  「ガリレオは罠を仕掛けるべきだ」
  ガリレオは分化する 消化器を 分化させる
  分化させた消化器を崖の上の荒れ地に広げる
  「これでこの崖の上に降りてきたものは
  消化器に触れ
  ことごとく消化されることになるだろう」
  崖の上の荒れ地に広げられたガリレオの消化器

  その罠に餌は引っかかったか?
  否!
  その罠にマリオは引っかかったのか?
  否!
  その罠に引っかかったのはガリレオ自身
  飛ぶ鳥を喰おうとしたガリレオは
  大きくゆらめき 自らの消化器の上に倒れた

  マリオは自らに消化されたガリレオの上に
  巨大な網をかぶせた
  するとガリレオは、網の目から湧きだし
  無数のガリレオの娘たちとなった
  「開いてみよ。
  歯ありて なか紅きことはなはだし」
 
 最後の台詞のところで、なぜかファミレスにいるみんなが笑う。
「なにがおかしいんですか?」とSさんに聞くと、
「あれは徒然草の引用だよ。原文を読まないで、何を読むの?」
 徒然草なら読んだことがあるけれど、そんな一節は覚えがない。
by warabannshi | 2009-02-01 10:38 | 夢日記 | Comments(0)



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