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探索準備04 第10回本郷メタフィジックス研究会 予習
日時:2009 年3 月31 日(火曜日)午後1 時30 分より
場所:東京大学本郷キャンパス 法文2号館2階・哲学研究室

●長尾栄達氏(東京大学大学院)
 ロック哲学における意味と真理の問題

 参考になりそうな部分の抜き書き。岩波文庫の“An Essay concerning Human Understanding”(『人間知性論』)が絶版? になっていて驚く。買う人がいないのか、すでに出回っている本の総数がすでに需要を満たしているのか。

人間知性論 1 (1) (岩波文庫 白 7-1)

ジョン・ロック / 岩波書店


 現在の私が目指すところ[人間の真知の起源と絶対確実性と範囲を探求し、あわせて信念・億見・同意の根拠と程度を探求すること]にとっては、人間の識別機能がその取り扱うべき対象にたずさわる様子を考察すれば充分だろう。そして、もしこうした事象記述の平明な方法で、私たちの知性がいろいろな事物について私たちのもつ思念をえるようになる道筋をなにか解明でき、真知の絶対確実性のなにかの尺度や人々の間に見いだされるはずのいろいろな信条の根拠を説き明かせたら、私は、こうした場合に私の考えてゆくことがまったくのまちがいでもなかったと思うだろう。
本書 p.33-34

 「事象記述の平明な方法」とは、超越的原理や、形而上学的原理にたよらずに考察を行うというジョン・ロック(John Locke, 1632-1704)の基本的な方法論を指している。つまり、自己の経験において、「私たちの知性がいろいろな事物について私たちのもつ思念をえるようになる道筋」を観察し、記述する内観が、彼のとる方法となる。
 ロックは超越的原理や、形而上学的原理にたよらない。つまり、神があらかじめ人間に与えた生得観念と、それにもとづく考察を否定する。
 このように生得観念を疑うことは真知や絶対確実性の古来からの根底を根こそぎにするものだと、人々はややもすれば考えるかもしれないが、その人たちの非難がどれほど正しいかを私は言えない。しかし、少なくとも私は、自分の追求してきた道が真理に合致するから、この道は真知や絶対確実性の根底をいっそう確実にすると信じている。私はこれからの議論で、なにかの権威を捨てたり、なにかの権威に従ったりすることを私の仕事としない。
本書 p.128 一部改訳

 生得観念をロックは否定する。しかし、「およそ人間が考える対象であるもの」としての観念はやはりある。ではその観念はどこから生じるのか。それは「経験」からだとロックは言う。
 
そこで、心は、言ってみれば文字をまったく欠いた白紙で、観念は少しもないと想定しよう。どのようにして心は観念を備えるようになるか。人間の忙しく果てしない心相(fancy)がほとんど限りなく心へ多様に描いてきた、あの膨大な貯えを心はどこから得るのか。どこから心は理知的推理と知識のすべてをわがものにするのか。これに対して、私は一言で経験からと答える。

 だから、長尾さんの「ロック哲学における意味と真理の問題」は、「ロック哲学における経験と、経験だけでは説明のつかない、経験の外部」についての問題になると思うけれど、どうなるかまったくわからない。政治論までやるのかもしれない。「現実に存在する間違った法律に対し、人間本性にそぐう理想の法は、どのようなものであるか」という議論にもとづく自然法思想では、真理(価値、理論)と事実は一致しているから……。



●三好博之氏(京都産業大学)
 なぜ計算を考えるのに形而上学が必要なのか

「計算のとらえどころのなさを どのようにとらえるか」
日本科学哲学会第 37 回大会ワークショップ

 以下はだいたい最初の三分の一くらいまでの私家版まとめ。

 計算をしているのは誰なのか?
 1.ある人がリンゴの個数を数えたり、九九の暗算をしている。このときに、計算しているのはその人である。
 2.ある人が筆算をしたり、算盤や、電卓機能つきの携帯電話で計算している。このときに、計算しているのはその人であり、同時に、シャープペンと紙、算盤や携帯電話などの道具でもある。
 ところでいま、「シャープペンと紙、算盤」と、「電卓機能つきの携帯電話」を、同じ道具というカテゴリーのなかに並べてしまったけれど、前者と後者は異なる道具なのではないか? つまり、「シャープペンと紙、算盤」は、「電卓機能つきの携帯電話」ほど、自立的に計算をしてくれない。(中学校、あるいは高校の数学のテストで、電卓を使ってはいけないと言われることはあっても、筆算をしてはいけないと言われることはない。)
 計算しているのは、「電卓機能つきの携帯電話」を使っている人なのか、使われている「電卓機能つきの携帯電話」なのか? これを言い換えると、次のようになる。
 3.ある人が、もうひとりの人に計算を頼んで、計算をしてもらっている。このときに、計算しているのは計算を頼んだ人なのか、頼まれた人なのか?

 このように、計算する単位を考えてみるだけでも、計算という現象がおこっている事態を適切に記述することは非常に難しい。
 なぜ難しいかといえば、それは計算のトークン/タイプの両方を記述することが不可能であるからだ。
 つまり、個々の計算をまさに行っているときに、その計算のトークンであるところの、白さ、硬さ、甘さ、酔い、鼻につく匂い……みたいな感覚は一般的な人間において生まれない(『ぼくには数字が風景に見える』のダニエル・タメットなら違うかもしれないけれど、一般的には生まれない)。皮膚感覚のレベルでの生々しい断片、トークンを想定することがきわめて難しい。さらにそれを“完全に記述すること”は不可能である(後述の無限退行におちいってしまうから)。だから、計算において「自己」の問題を考えようとすると、どこで「自己」を区切って良いのかわからなくなって、さっきのような問いかけが生まれる。「ある人がコンピュータを使って計算をしている。このとき、計算しているのはコンピュータを使っている人なのか、コンピュータなのか?」「コンピュータの電源、ネットワークの接続、計算ソフト……、それらはどのように区切られるか?」。
 また、チューリングマシンの「停止性問題」(*1)のように、ある記号列を計算するときには、その記号列になんらかのかたちで意味(言語的抽象、タイプ)が必ず附帯し、それを記述しようとするときにさらに別の記号列を必要とし、その「『ある記号列の意味』を記述するために召喚された別の記号列」が、さらに別の意味を持ってしまう(「『ある記号列の意味』を記述するために召喚された別の記号列」の意味)……、という無限退行が起きる。
 計算のトークン/タイプの両方を記述することが不可能であることは、「計算がなぜ進むのか?」という問いかけへの応答を非常にむずかしいものにしている。もちろん、通常の理工学では、適切なところで、論理的、あるいは物理的な記述の自明性にこの問いかけは委ねられるので、問題にはされない。しかし、「何かが動く(この場合は「計算が進む」)には、記述を超えたなにかが関係しているのではないか?」という問いかけによって、「計算がなぜ進むのか?」という問いかけは形而上学の問題となり、三好さんの「なぜ計算を考えるのに形而上学が必要なのか」 という提題へとつながってくる。
(*1)wikipedia「チューリングマシン」に詳しい記事が載っているため、そちらを参照してください。

●郡司幸夫氏(神戸大学)
 生命:ゆらぎを溜める・ゆらぎを開放する

(時間がないので割愛。ほんとうはこれを一番予習したかったのだけれど……)
by warabannshi | 2009-03-31 11:56 | メモ | Comments(0)
『詩集』「コップへの不可能な接近」 谷川俊太郎

詩集 谷川俊太郎

谷川 俊太郎 / 思潮社



 「定義」(1975)、「夜中に台所でぼくきみに話しかけたかった」(1975)、「コカコーラ・レッスン」(1980)、「日本語のカタログ」(1984)、「メランコリーの川下り」(1988)、「世間知ラズ」(1993)、以上六冊の詩集が一冊に編まれている。
 通好みの人からは、谷川俊太郎は軽く見られているようだけれど、七〇年前後から現代詩のいろいろな実験を、音楽演奏や漫画、ビデオ撮影などのさまざまな媒体を通して行ったexplorerである。



それは底面はもつけれど頂面をもたない一個の円筒状をしていることが多い。それは直立している凹みである。重力の中心へと閉じている限定された空間である。それはある一定量の液体を拡散させることなく地球の引力圏内に保持し得る。その内部に空気のみが充満しているとは、我々はそれを空と呼ぶのだが、その場合でもその輪郭は光によって明瞭に示され、その質量の実存は計器によるまでもなく、冷静な一瞥によって確認し得る。
指ではじく時それは振動しひとつの音源を成す。時に合図として用いられ、稀に音楽の一単位として用いられるけれど、その響きは用を超えた一種かたくなな自己充足感を有していて、耳を脅かす。それは食卓の上に置かれる。また、人の手につかまれる。しばしば人の手からすべり落ちる。事実それはたやすく故意に破壊することができ、破片と化することによって、凶器となる可能性をかくしている。
だが、砕かれたあともそれは存在することをやめない。この瞬間地球上のそれらのすべてが粉微塵に破壊しつくされたとしても、我々はそれから逃れ去ることはできない。それぞれの文化圏においてさまざまに異なる表記法によって名を与えられてはいるけれど、それはすでに我々にとって共通なひとつの固定観念として存在し、それを実際に(硝子で、木で、鉄で、土で)制作することが極刑を伴う罰則によって禁じられたとしても、それが存在するという悪夢から我々は自由でないにちがいない。
それは主として渇きをいやすために使用される一種の道具であり、極限の状況下にあっては互いに合わされたくぼめられた二つの掌以上の機能をもつものではないにもかかわらず、現在の多様化された人間生活の文脈の中で、時に朝の陽差のもとで、時に人工的な照明のもとで、それは疑いもなくひとつの実として沈黙している。
我々の知性、我々の経験、我々の技術がそれを地上に生み出し、我々はそれを名づけ、きわめて当然のようにひとつながりの音声で指示するけれど、それが本当はなんなのか――誰も正確な知識を持っているとは限らないのである。
p.32-33  『定義』より、「コップへの不可能な接近」

by warabannshi | 2009-03-30 22:23 | Comments(0)
第239夜 「v.s. アンジェラ・アキ」
 江戸時代と思しき、武家造りの室内。広さは十八畳ほどで、畳みはふかふかした上等品。
 この田舎の藩の、老中や、それに準じた役職に就いている。
 棟続きの家屋にある居室の一つ、その真ん中で、略式の茶色い浴衣のようなものを着ていて、大の字に寝ころんでいる。
 閉まっている襖から、声。
「千手院さまの処置はいかがなさいましょうか?」
(もう歳も歳だし、毒殺がいいだろう……)
 大の字に寝ころんだまま、声に出さずにそう思う。
 それだけで、襖の向こうの声はこちらの意図を察したらしく、気配を消す。
 暗殺の指示を出して、こうやって政治は執り行われていくのだなあ、と天井を見上げながら、ふと視線を落とすと、襖の裏側に、さっきとは異なる気配。というより、殺気。黒い影が、見えていないのに、煙が立ちのぼるようにして発散されているのがわかる。
 衣擦れの音を立てないようにゆっくりと上半身を起こして、さらに片膝になって立ちあがる。
 帯刀しているべき刀は、五歩ほど後ろの床の間にある。十八畳ほどの部屋の真ん中で、浴衣のような略式の着物が、かなり動きを制約する。
 〈身をひるがえして床の間の刀をとり、次の呼吸で抜いて、襖の向こうにいる暗殺者と立ち会う〉という動きを頭のなかでやってみるが、何回やっても間に合わずに背中や脳天を斬られる。こちらはもう五十歳ほどで、俊敏な動きに自信があるほど若くはない。
 けれど、揉み合いになって加勢を呼べば、まだなんとかなる。
 なので、略式の浴衣の帯を締めなおす。
「あれ、刀をとらなくて良いの? 丸腰でしょ?」
 襖が音もなく薄く開いて、向こう側にいた人影が姿を現す。
 アンジェラ・アキだ。帯刀している。『キルビル』のザ・ブライドみたいだ。
「刀を使えるのはなにも私だけではない。一声あげれば、窮地に追い込まれるのはお前のほうだよ」
 ゆっくりと間合いを詰めてくるアンジェラ・アキに対して、刀の動きを壁で受けられるように、すり足で後ずさりしていく。
「じゃあ、一声、あげてみなよ」
 そうはいかない。いまの状況で加勢を呼んだとしても、この部屋に人が駆けつけてくる合間に、声をあげるために息を吐いてしまったこの体がアンジェラ・アキに致命傷を負わされているに違いない。
「それとも、いっそのこと、立ち合ってみるとか? それなりにあなたが強いのだとすれば」
 アンジェラ・アキは、まるでサイヤ人のような物の言い方をする。
「そうしよう」
 そう、勝機があるとすればそちらの方だ。
 アンジェラ・アキが持っていた刀を畳に突きさす。
「わくわくしているでしょう?」
 そう言って、アンジェラ・アキが踏み込み足で間合いを詰めて、重心移動も兼ねた右の正拳突き。突かれたのはただの一撃のはずなのに、三回の衝撃が鳩尾に入り、呼吸がとまる。
by warabannshi | 2009-03-29 03:36 | 夢日記 | Comments(0)
『千のプラトー―資本主義と分裂症』「11.リトルネロについて」 ドゥルーズ・ガタリ

千のプラトー―資本主義と分裂症

ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ / 河出書房新社



 近代があるとすれば、それは言うまでもなく宇宙的なものの時代である。自分はアンチ・ファウストだ、とパウル・クレー(Paul Klee、1879-1940)も言明しているではないか。「動物やその他のあらゆる被造物に大地に根ざした親愛の情を向けることは私にはできない。大地に属するものは、宇宙に属するものほど私の興味を引かないのだ。」アレンジメントはカオスの力に立ち向かうのをやめ、大地の力や民衆の力に深く沈潜するのをやめて、宇宙の力に向けておのれを開く。これでは一般的すぎるかもしれない。ヘーゲル風に絶対精神をあらわしているように見えるかもしれない。だが問われるべきは技術であって、技術以外の何ものをも関与させてはならないのである。本質的な関係はもはや質量-形相(あるいは実体-属性)の関係ではない。かといって形相の連続展開と質量の連続変化が関係づけられるわけでもない。ここでは、本質的な関係は素材-諸力の直接的関係としてあらわれてくるのだ。素材とは分子化した質量のことであり、その意味では諸力を「捕獲」しなければならないわけだが、この諸力は宇宙の諸力でしかありえない。適切な理解の原理を形相に見いだすような質量はもはや存在しないのだ。いま必要なのは、次元の違う力を捕獲するために、一つの素材を作りあげることだ。視覚的素材は不可視の力を捕獲しなければならないのである。クレーは言う。可視的にするのであって、可視的なものを表現したり、再現するのではない、と。この視座からすると、哲学もまた、哲学以外の活動と同じ運動に従うことになる。ロマン主義の哲学か、質量の連続的理解を保証する形相の統合的同一性(先験的総合)を援用するのにとどまっていたのに対し、近代の哲学は、それ自体としては思考しえない力を捕獲するために、思考の素材を練りあげようとする。これがニーチェ(Friedrich Nietzsche, 1844-1900)流の哲学-宇宙である。分子状の素材が極度の脱領土化に晒されているため、表現の質量という言葉を使うことは不可能となる。これがロマン主義的領土性とは異なる点だ。表現の質料は捕獲の素材に場所を明け渡すのである。捕獲すべき力はもはや大地の力ではない。大地の力は大いなる表現の〈形式〉を構成するにとどまっているからだ。いま捕獲すべきなのは、不定形で非物質的なエネルギー宇宙の力なのである。画家のミレー(Jean-François Millet, 1814-1875)がこう述べている。絵画で重要なのは、農民がかついでいるもの、たとえば聖具やジャガイモの袋などではなく、かついでいるものの正確な重量なのだ、と。ここにポスト・ロマン主義への転回点がある。問題の核心は形相や質料にあるのではないし、テーマにあるのでもなく、力、密度、強度にあるのだ。大地ですら平衡を失って、引力の、あるいは重力の純粋な質量に変わっていく。岩は岩がちらえる褶曲の力によってのみ存在し、風景は磁力と熱の力によって、林檎は発芽の力のみによってのみ存在する。そうなるためには、おそらくセザンヌ(Paul Cézanne、1839-1906)の到来を待たなければならないだろう。目には見えないのに、見えるようになった力。力が必然的に宇宙の力になるのと、質量が分子状になるのは同時である。そして無限小の空間で巨大な力が働くのだ。問題はもう〈はじまり〉でもなければ、創立-基盤でもない。存立性が、あるいは強化が問われるようになったのである。つまり素材をどのように強化し、素材をどのように強化し、素材にどのような存立性を与えれば、無音で不可視で思考不可能な力をとらえることができるのかということだ。リトルネロですら、分子状であると同時に宇宙的なものになる。ドビュッシー(Claude Debussy, 1862-1918)の場合がそうだったように……。音楽は音の質量を分子化するが、そうすることによってこそ、〈持続〉や〈強度〉など、いずれも音をもたない力をとらえることができるようになるのだ。持続に音を与えること。ここでニーチェの考えを思い出そう。聞き慣れた歌、リトルネロとしての永劫回帰、しかし思考不可能にして沈黙している宇宙の諸力を捕獲する永劫回帰。こうして、人はアレンジメントの外側に出て〈機械〉の時代に足を踏みいれる。そこは巨大な機械圏であり、とらえるべき力が宇宙的なものに変化する平面である。模範的なのは、この時代の黎明期におけるヴァレーズ(Edgar / Edgard Varèse, 1883-1965)の歩みだろう。存立性の音楽機械。(音を再現するのではなく)音の質量を分子化し、原子化し、イオン化して、宇宙のエネルギーをとらえるにいたる音の機械。そのような機械がアレンジメントをもつとしたら、そこに生まれるのはシンセサイザーだ。モジュール、音源や処理の要素、振動子、ジェネレーター、変成器などを組み合わせ、ミクロの間隙を調節することにより、シンセサイザーは音のプロセスそのものを聴取可能なものにし、このプロセスの生産も聴取可能にし、音の質量を超えた他の要素との関係にわれわれを導く。シンセサイザーは不調和なものを素材のなかで結びつけ、パラローターを一つの方式から別の方式に移しかえる。存立性の操作によって、シンセサイザーは先験的総合判断における根本原理と同じ地位を占めることになったのだ。そこでは分子状のものと宇宙的なもの、素材と力が統合されるのであり、形相と質料、土台と領土が総合されるのではない。哲学も総合判断であることをやめ、複数の思考を総合するシンセサイザーとして、思考に旅をさせ、思考を可動的なものに変え、宇宙の力に変えるのである(同様にして、音が旅をすることもある……)。

 「11.リトルネロについて」p.393-395
下線、斜体は引用者による

by warabannshi | 2009-03-27 01:02 | Comments(0)
第238夜 『チュン・リーの冒険』
 プレイステーション・ソフト『チュン・リーの冒険』を、どこだかわからないショッピングモールにあるゲームセンターの隅っこで電気を盗みつつプレイしている。数台のUFOキャッチャーと『電車でGO』しかないこのゲームセンターには、私(太田)以外、誰もいない。
 『チュン・リーの冒険』はきわめて簡単なゲームだ。街場の警察官であるチュン・リーの父親を、遠くから空き瓶を投げて、当て、殺すところからはじまる。投げた空き瓶が後頭部にうまく当たると、警察官であるチュン・リーの父親は、数歩、よろめいたあと、「薔薇の名前」という言葉を遺して、ばったりと地面に倒れる。そこにチュン・リーがやってくる。チュン・リーは24ドットで構成されており、二等身である。二等身の簡素なチュン・リーは、何者かに殺害された父親を見つけ、父親を殺した者を見つけだして、復讐することを決心する。
 チュン・リーの父親を空き瓶で殺したプレイヤーは、プレイヤーの二倍の速さで動き回るチュン・リーからうまく隠れつづけなければならない。
 しかし、このゲームにはクリア条件というものがない。
 そのため、『チュン・リーの冒険』はクソゲーとして知られている。
 いまはほとんど市場に出回っていない。
 だが、『チュン・リーの冒険』を無性にやりたくなった私(太田)は中古でプレミア価格のついたこれを手に入れ、ゲームセンターの隅っこで電気を盗みつつプレイしている。

 最初の、父親を殺すところから、すでにバグが生じている。
 交番の前でうろうろしている父親(HP 6)と、交番の前で休めの姿勢で立っている父親(HP 8)に、父親が二重化している。どちらを倒すべきかわからない。とりあえず、HPの少ない敵から倒す、というのがこういうゲームの定石なので、交番の前でうろうろしている父親に向かって、コカ・コーラの空き瓶を投げつける。
 見事、空き瓶は警官の後頭部に命中する。
 そして、空き瓶を投げつけたのは、ゲーム上のキャラクターではなく、ショッピングモールにいる私(太田)そのものであることに気がつく。
 いそいでUFOキャッチャーの影に隠れると、24ドットで、二等身の、身長三十㎝くらいのチュン・リーが現れる。
 小さなチュン・リーはシナリオ通り、驚き、数語を文字だけでしゃべったあと、空き瓶を投げつけて彼女の父親を殺した人物、つまり私(太田)を捜し出す。
 私(太田)が一歩動くと、チュン・リーは二歩動く。
 ただし、チュン・リーと目を合わせなければ、こちらに迫ってくることはない。
 そういうことを、ゲームのプレイヤーである私(太田)は知っている。
 UFOキャッチャーの影からそろそろと動き、うまくゲームセンターを抜け出して通路に出る。
 壁を挟んで、『チュン・リーの冒険』を機動させているプレイステーションのある地点に着き、座りこむ。
 チュン・リーに私(太田)が捕まった場合、どういう現象が起こるのか、まったくわからない。ゲームを中断しようにも、ゲーム機はチュン・リーがうちの二倍速でうろついているゲームセンターのなかだ。
 (これからどうしよう…)と考えていると、
「あ、いたいた。」
 私(太田)に『チュン・リーの冒険』を売ってくれた青年が現れる。
「すいません、やっぱり未練があるので、あのゲームやっぱり返していただけますか? お金はお返ししますので」
 願ってもないことだ。永遠に続くかと思われたチュン・リーの復讐からこうも容易く逃れられるとは。
 青年に理由を話し、ゲームセンター内にあるプレイステーションを停止させ、マシンのなかからソフトを取り出してもらう。
 一息ついた私(太田)の伸ばした手の人指し指の第一関節には、しかし、なぜかもう一つの『チュン・リーの冒険』のソフトが、まるで不格好な指輪のようにはめられている。
 これもバグか? なぜ『チュン・リーの冒険』のソフトが二重化しているのだろうか?
 そう思ったら、私(太田)の持っているのはReview版で、プレイヤーの全員に渡される記念品のようなものだ。ただし、異様なほど本物とそっくりに造られている。
「ありがとうございました。ではこれで」
 帰ろうとする青年を引き留めて、彼の持っている『チュン・リーの冒険』のソフトと、偽造されたReview版を比較するふりをして、こっそりすり替える。
 青年は、青年が本物だと思い込んでいるReview版を持って帰ろうとする。しかし、二度と、『チュン・リーの冒険』を私(太田)はプレイすることがないであろことに気がつき、やはりすり替えてだまし取った本物も、青年に返す。
by warabannshi | 2009-03-24 05:31 | 夢日記 | Comments(0)
探索準備03 『ニーチェと悪循環』読書会(p.321~):?(2)回目 予習

ニーチェと悪循環 (ちくま学芸文庫)

ピエール・クロソウスキー / 筑摩書房



 『ニーチェと悪循環』全体の索引を作成中。まだ、語句を選別している段階。
 充分な索引がついていないせいで読まれなかったり、あるいは無駄に読みにくくなっている良書がどれだけあることか。おまけに『ニーチェと悪循環』ときたら、引用されているニーチェの断章が、ニーチェの遺稿のどこにあるかすら明記しておらず、おまけにこの本の邦訳はニーチェのドイツ語をフランス語訳したものを日本語で二重に訳しているわけだから、さらに事態はややこしくなっている。
 索引も引用先もあえて(?)明記しなかったクロソウスキーの気分もわからないではない。
 ふつう、小説には、索引も引用先も明記されない。ときには『百年の孤独』や『枯木灘』みたいに登場人物一覧や家系図が付記されることもあるけれど、その登場人物が、一冊の本のどのページに現れるかまでは書かれていない。
 それは小説に索引や引用先が必要ないからではない。索引や引用先は“一冊の本”というユニット性を解体させる切れ目となるからだ。(古川日出男は『ルート350』の後書きで、これと同じ理由から初出一覧が嫌いだと言っている)
 論理的な、語句レベルでの整合性を優先させて読むと、むしろ作者が素描している大意が分からなくなって読みづらくなる本は間違いなくある。そういう本は小説に限ったものではなくて、例えば保坂和志の小説論だったり、H・G・ガダマーの解釈学系の論文のすべてに言えることだったりするのだけれど、いずれの作品も、それぞれの“一冊の本”というユニットが帯びている不可思議な統率性、つまり、一般的な論理に因らない整合性こそが固有の持ち味であったりする。だから、索引や引用先が、ほんとうに稀な場合ではあるけれど、素材としての持ち味さえも減らしてしまうことがあることは考える必要がある。
 とはいえ、『ニーチェと悪循環』は、もっと読まれてほしい本であるし、ただでさえ悪文なのだから(これは翻訳がどうこうというよりクロソウスキーのフランス語がやたらと複雑であることが原因だと思う)、まだぜんぜんできていない索引が、そのうち完成して、それが読み進めるうえでのなにかしらの取っかかりになれば良いと思う。

[『ニーチェと悪循環』索引 第一回中間段階]
【あ】
・Cercle vicieux(悪循環)
―Cercle(円環)
―signe da cercle vicieux(悪循環の記号)
―神としての悪循環
・意識
・陰謀
・運命
・Éternal Retour(永劫回帰)
―Retour(回帰)
【か】
・machnerie(機械仕掛け)
・projet((選別の)計画)
・principe de réalite(現実原則)
【さ】
・Philosophe imposteur(詐欺師としての哲学者)
・自己同一性の原則
・Sils-maria(ジルス・マリーア)
・simulacres(シミュラークル)
・maîtles(主人)
―maîtles de la terre(大地の主人) 
―des maîtles et des esclaves(主人と奴隷)
・情動
・physiologie(生理学)
・sélection(選別)
Dressage et sélection(訓育と選別)
projets de sélection(選別の計画)
【た】
・Darwin(ダーウィン)
―anti-darwiniste(反ダーウィン主義)
・Volonté de puissance(力への意思)
・singuliers(特異体質)
・esclaves(奴隷)
【な】
・日常的記号のコード
【は】
・秘教的な
・phantasme(ファンタスム)
・不可能性
―思考することの
【ま】
・マルクス主義
・philosophie de l’avenir(未来の哲学)
・無意識
・lucid(明晰さ)
・模倣
【や】
・有罪性
・prévoit(予見)
【ら】
【わ】

by warabannshi | 2009-03-20 23:49 | メモ | Comments(0)
第237夜 「かりなやちゅう゛っぺ」または「せんなやちゅっくぺ」*
 ある岩礁の生態系についてまとめたパワーポイントのデータを持って、中学校に行く。それを使って【生活空間】という教科の授業をしなければならない。
 中学校の名前は、その地名からとられていて、漢字四文字なのに、読み方は奇妙なイントネーションであること以外思い出せない。「かりなやちゅう゛っぺ」中学校とか、「せんなやちゅっくぺ」中学校みたいな。最後に「ちゅ」と「ぺ」が入るのは間違いなく、全体のイントネーションはなんとなくアイヌ語に近い。
 駅から降りて、グラウンドにさしかかると、「かりなやちゅう゛っぺ」か、「せんなやちゅっくぺ」という地名がもたらされてから二百周年を記念する祝典が行われていた。
「この一ヶ月ほどは、毎日、花火を打ちあげているんですよ」
 赤ちゃんを抱いた、整ったヒゲの男性が教えてくれる。
「地名が二百年前のいつごろついたかわからないですから。暦の誤差とかもあるし。だから祝い漏れがないように、毎日祝うんです」

 「かりなやちゅう゛っぺ」または「せんなやちゅっくぺ」中学校に着く。
 先に生徒の一人がカステラの焼き方についてパワーポイントで発表している。
 カステラの焼き方そのものに興味はないけれど、生徒の発表がずいぶんとうまいので、教壇の隅で立ったまま聴く。
 すると、廊下のほうからアコースティック・ギターをかき鳴らす金属的な音と二人分の歌声が響いてくる。
 授業の邪魔だな、と思い、廊下に出ると、そこは岩礁。ふたりのフォークシンガーが、岩礁から少し離れた駐車場のコンクリートに坐りながらインタヴューを受けている。
「ぼくらの歌詞は百年後に、百年前のこの地区がどんな景色だったかを伝えることを考えて書かれています。この駐車場に野良猫がいたら、それを誰かがログとして(記述として)使っても、使い切ることはないでしょう?」
by warabannshi | 2009-03-17 09:51 | 夢日記 | Comments(0)
探索記録30「ゴースト。あるいは渦、うねり。それらが立ち現れる喜ばしさ」
 先日、このブログで紹介した「東浩紀のゼロアカ道場」の第五関門に、友人・「村上裕一」が出場し、そして3名の通過者のうちの1人になった。これは非常に嬉しい。結果発表が終わった後に、思わず村上に駆けよっていって、問答無用で握手、後にハグしてしまったくらいに嬉しい。
 ちなみに、3名の通過者のうち、道場主・東浩紀氏に選ばれたのが「村上裕一」。村上隆氏、筒井康隆氏、講談社文芸局太田克史氏に選ばれたのが、やずや・やずやこと「廣田周作」さん。第五回関門見学者によって選ばれたのが、道場破りの「坂上秋成」さん。他の五名の方々もとても興味深いプレゼンテーションと、口頭諮問でした。おつかれさまでした。

 しかし、「東浩紀のゼロアカ道場」に関しては村上とまったく労苦を共にしたわけではない(それどころかほんの稀にしか連絡を取り合っていない)私が、なぜ彼のプレゼンテーションを聴き、彼の口頭試問でのやりとりを聴いた後で、彼の第五関門突破をこんなに喜んでいるのか? この喜びは「好きなサッカー選手が点を入れて嬉しい」や「在籍していた高校の野球部が甲子園に行って嬉しい」などのあの感覚と、どう違うのか? どう同じなのか? ――いやそもそも、幾つかの喜びを並列的に比べようとすることが間違っているのかもしれない。というのも、いずれにしろ、二つ以上の喜びを一緒にすることは不可能だからだ。それは、二つ以上の思想を一緒にすることが不可能であるのと形式的には近似している。

 とはいえ、二つ以上のものが、どれも同じようにそっと振動しているとき、それらの近似は形式を超えて、ある渦、うねりを浮かび上がらせる。喜ばしいのはその未知であった渦、うねりの立ち現れであり、自身がその渦、うねりの直中にはなくとも、その端緒をかいま見ることができさえすれば――。ましてや、それが友人であるのなら。

 ニコニコ動画にあげられている村上のプレゼンテーションを観ると、彼の自著は暫定タイトルをこのように述べている。
「物語の現場 ゴーストたちの共栄圏に向けて ―象徴界はゴーストたちが支配した?―」
 村上は、「ゴーストたちの共栄圏」が避けられないものとしてどのように立ち現れるかについてはごくあっさりと言い表している。(「ゴースト」の定義もヴィジョンも、文脈に依存しないほど定まっているとは言い難いが、彼はそれを知らないわけではない) また、彼が彼の批評が「創作者として物語に関わっていこうとする人たちの応援歌になれれぱ」と願うとき、「創作者」という語は、すべての人々を含意している。つまり、あらゆる欲望が矮小化されつつあるこの百年あまりの間、その矮小化に満足することができない、あるいは満足を矮小化させていないすべての人々を含意している。というのも、ゴーストは流通の直中にしか在りえず、その矮小化とはすぐに消滅を意味し、その条件において「コミュニケーションの基盤」であるという特徴を持つからだ。
 「コミュニケーションの基盤」という語に少し語を接ぎ木するとすれば、それは「“錯誤のないコミュニケーション”という幻想の基盤」である。たとえば流通の直中において、紙や鉱物という物質性も、額面すらも持たない抽象貨幣が「流通という幻想の基盤」であるように。

 「どのようなゴーストに奉仕するかを人々は考える。それをもって用意された材料をひたすら使うことが重要になってくる」。あるいは、「ゴーストは作者を規定する、そのことによって新しい倫理観が生まれてくると思う」。終盤のスライドで村上が語るのは倫理であり、ここで彼の論旨は一気にその抽象度をあげる。つまり、一方では、ゴーストへの「奉仕」は、「創作」によってなされることが示唆される(「奉仕」の一つのバージョンとして「創作」があるのではなく、むしろ逆に「創作」の一つのバージョンとして「奉仕」はなされる)。もう一方では、「奉仕」は、表現者に表現の正当性を信じさせる「信仰」と対であり、この二つは同時に起こることが示唆される。接続されていないのは「創作」と「信仰」だが、彼は「表現できないのは信仰がないから」と断言する。つまり、村上は「創造(-表現)」の前にある衝動について考えず、むしろ「創造(-表現)」からそもそもの始めを語る。

 これはなぜか? なぜ〈「創造(-表現)」とは違うバージョンに至ることがあり得たかもしれない情感〉について村上は語らないのか? それは「ゴーストが作者を規定することによって生まれる倫理観」とどのように接するのか? ――という問いかけには、いまは何の仮説も立てることができない。ただ、彼は批評だけでなく小説も書くから、「創造(-表現)」に関してまったく自由な、彼自身の「創造(-表現)」の正当性からはぐれることはできないだろうことは指摘できる。〈「創造(-表現)」とは違うバージョンに至ることがあり得たかもしれない情感〉について、彼は彼自身が知っていることを知らないようであり、また彼自身が思いもよらない形で知っていることを知ろうとしない。確かにそれについて知ることはある種の禁忌であり、しかし「知ること」は「創造(-表現)」と対であり、いつも同時に起こる。「奉仕」と「信仰」がそうであるように。だから、彼の批評が「創作者として物語に関わっていこうとする人たちの応援歌」になるときには、同時に彼自身が彼の批評を書くうえでは必然的に知らないでいる必要がある領域をよりよく見定める同伴者として淵に立っているときなのだ。

 喜ばしいのは“未知”であった渦、うねりが立ち現れ、渦、うねりとして知られたことにある。そして、渦、うねりは絶えることはないが、私たちにとっては消えたり浮かんだり、一瞬として同じ形を留めることがない。村上のゴースト論で論じられる「ゴーストたちの共栄圏」に比べると、渦、うねりの立ち現れの感覚は極めて主観的なものなのだが、それは私をついつい喜ばせる。
by warabannshi | 2009-03-14 02:10 | メモ | Comments(0)
探索準備02 『ニーチェと悪循環』読書会(p.315~):?(1)回目 予習

ニーチェと悪循環 (ちくま学芸文庫)

ピエール・クロソウスキー / 筑摩書房


[01.「超人」と先入見]
 「ますます経済的な傾向を強める人間存在と人類の消費に対し、ますます密接に絡み合う実行(生産)と利益の機械仕掛けに対し、逆の運動をおこさなければならないと証明することの必要性。その逆の運動とは、人類の過剰分の豪奢を排除することであると、わたしは言いたい。人類のなかからは、平均的人間とはちがった形成と保存の条件を持った、より力の強い種が、より高次の類型が、光に浮かびあがってこなければならないのだ。この人間の類型についてのわたしの概念、わたしの比喩は、周知のように『超人』という用語である。」
『ニーチェと悪循環』p.135

 「超人」をもたらす、〈悪循環〉。つまり、人類史のすべてを廃棄する-超え出るような出来事にほかならない、至高の思考としての〈永劫回帰〉。人類史を超え出てしまった「超人」は、だから、「平均的人間とはちがった形成と保存の条件を持った、より力の強い種が、より高次の類型」になりうる。

 このように、ニーチェは過去の世界(多くは、古代ギリシャの古典や芸術作品)を理解するにあたって、理解する者の生きる時代の精神を投入することを、どうしたって批判する。それは『悲劇の誕生』から継続してなされてきていることだ。自らの、先入見という、パースペクティブ。そのパースペクティブに認識が自縄自縛されてしまうことへの嫌悪の荒ぶり。それは具体的には、「ますます経済的な傾向を強める人間存在と人類の消費に対し、ますます密接に絡み合う実行(生産)と利益の機械仕掛け」への抵抗として現れる。

 重要なのは、この抵抗が、単純な資本主義批判としてではなく、現在の先入見への非難として行われていることだ。ニーチェは機械論に批判的なわけではない。生気論にだって批判的だ。
われわれは用心しよう――われわれは宇宙が生命体だなどと考えないようにしよう!どちらへそれは伸びていくというのか? 何からそれは自己の養分を取るというのか? どのようにしてそれは成長し、繁殖することができるのか? われわれは有機体とはどんなものか、だいたい承知している、――しかしわれわれは、万有を有機体だと呼んでいるあの連中のやるように、われわれがただ地殻の上でのみ認めるきわめて派生的な、末期的な、稀有な、偶然のものを、本質的な、普遍的な、永遠のものに、解釈しかえていいものだろうか? 私はそんなやりかたに嘔吐を催す。
『悦ばしき知識』「第三書」一〇九番

 ニーチェは、私たちが世界に対面するときに私たちに安心感を与えるあらゆる先入見を非難する。
 しかし、その“先入見への非難”そのものが一つの先入見なのではないか? この疑問はまったく正しい。例えばニーチェから半世紀後に産まれたガダマーはこの問いにもとづて、過去の世界の理解から現在の先入見を消去しようとするすべての試みを批判する。ガダマーは、先入見は必ずしも不当で誤っているものではないと主張する。むしろ、すべての先入見を方法論的に排除してしまおうとする解釈理論は、実際の先入見と慣例を介して進行する伝統の連続性を隠蔽するだけであると。

 だが“先入見への非難”という一つの先入見は、そのなかにいる者にとって安心をもたらすものでは決してない。彼は、「自分がいまあるものとは違ったものとしてすでに先在し、これからも違ったものとして存在するだろうということを知るのである」。

むしろそれは健康な理性の領域ではなくニーチェ自身の「病気」と密接に関連しているのだとニーチェ-クロソウスキーは語る。これは非常に面白い部分なのだけれど、いまはいい。

 「超人」は、〈悪循環〉によってもたらされる。〈悪循環〉は決してそれが訪れたところの者をおなじ姿に維持させようとはしない。だから、「超人」には強さがもとめられる。魂の強さが。「〈悪循環〉の魂は意図を持たない純粋な強度である」とニーチェ-クロソウスキーは語る。「超人」は、いかなる美徳の命令にも従う必要がないほどに強い。だから、「貴重で、珍奇で、必ずや有毒であるはずの植物たち」であり、「その植物たちは、あらゆる美徳の命令に対する情動の氾濫のようにして、大きな花を咲かせるはずだ。」とニーチェは断言する。(p.328)

 しかし、超人を発達させるのは、誰なのか?
by warabannshi | 2009-03-05 12:01 | メモ | Comments(3)
第236夜 「フランス語初級教室の窓からは、農場が見える」
●大学の、フランス語初級教室の窓からは、だだっ広い農場が見える。
 農場は地平線までつづくようなほど広く様々な農作物が植えられ、この大学の敷地であり、四車線の高速道路がその一部を突っ切るようにはしっている。
 なんの実験に使われているのかわからないけれども、農場の一角には大きく「①」「②」「③」……「⑦」「⑧」というナンバーが地面に置かれた青いホースで描かれている。ナスカの地上絵のように。

●黒板には、
 La date limite était hier.(〆切は昨日だった)
 と書かれている。
 教師は「ロンドン橋、落ちた」の節に合わせて「La date limite était hier」を生徒たちに歌わせようとするが、単語の割り振りがどうしてもうまくいかない。歌うたびに、それぞれの単語のアクセントが異なる。これでいったい何を教えようとしているのか。

●詩人の、七歳くらいの男の子。フランス人。自転車でこのフランス語教室に通っているが、自転車をこいでいる途中に霊感に打たれて涙ぐんでしまうようなタイプ。彼の席は教室の最前列だが(そうじゃないと座高が低いので黒板が見えない)、裏紙に、生きているものと生きていないもののリストを挿絵つきでこっそり作っている。彼には、黒板に書かれた「La」が、「Leib(生命)」に見えて仕方がない。
 彼のリストによると、歩道は生きているが、ドンタコスは生きていないことになっている。

●なぜか一通りフランス語ができるという設定になっている自分。
 「ロンドン橋、落ちた」を歌いすぎてぐったりした教師から、[expectation(期待)]という単元のヒアリングをするように求められる。これはものすごい早口でしゃべられた文章を、品詞に分解して、こちらから話すというもの。
 教師が、何かをものすごい勢いでしゃべりかけてくるが、当然、何を言ってるんだかさっぱりわからない。「期待」されても困るだけだ。
by warabannshi | 2009-03-04 11:33 | 夢日記 | Comments(0)



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