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第250夜 「貴種と産業廃棄物」
 高度三千メートルほどの高山地帯。黒っぽい岩と砂と、まばらな草本。アフガニスタン? 「○○スタン」系の国々のドキュメンタリーで映し出されそうな、山々の稜線。
 バラックのような小屋が一軒あるけれど、ほとんど産業廃棄物の土砂に埋まりかかっている。
 かつて羊を囲っていた木の柵で、黒雲のようにもりあがった産廃をふせぎ、なんとか持ちこたえている。

 バラックに住んでいる女性は、その産廃を一メートル四方ほどの段ボールに詰めては、宅急便のトラックで下界に送り返そうとする。
 が、巨大な段ボール箱はいつもふやふやにふやけており、またガムテープが足りなくなるため(セロハンテープならあるのだが)、まともに送り返せた例しがない。

 ついに自らを段ボールで梱包し、荷物となって下界に降りていく女性。
 荷札に描かれた品名は【プリンセス】であり、彼女が貴種であることが了解できる。

 彼女は、札幌かどこかの裕福な男性のもとに届けられ、いろいろ世話をしてもらう。
 その男性が、彼のもとに自らを送りこんだ【プリンセス】に対して、最初の日に行った幾つかの助言の一つ。
「その四、好意の裏に敵意を読んではならない。敵意は人を変える。君に対する私の好意もふくめて」
by warabannshi | 2009-05-29 06:42 | 夢日記 | Comments(0)
第249夜 「バスケットボール」
 高校のときの友人たちと、体育館でバスケットボールをやっている。
 さりげなく『スラムダンク』の河田(兄)・山王工業もまざっている。それには誰も気がつかない。
 パスはよく私に回ってくるのだが、なぜかドリブルがぜんぜんできなくて、ボールに空気が入ってるのか疑問に思う。
 しかたがないので、友人・Kにパスを回して、彼にゴール下までボール運びをまかせ、最後にパスを回された私が身長を一メートルほど伸ばして、楽々とダンクする、という構図で、何回か、得点をいれる。身長がなぜ一メートルほど伸びるのか(スーパーマリオのように巨大化するのか)に関しては、誰からも疑問がもたれない。二十センチほどジャンプすることに、ふつう誰からも疑問がもたれないように。
 ただ、ダンクに際して、一メートルほど身長をのばしているときには、なぜか広角レンズで撮影された映像に切りかわる。
 疑問をもたれないにしても、誰かしらに注目はされているらしい。

 体育館は照明が黄色っぽくて、薄汚れている。
 前にここは映画館だったからだろうか? と思う。
 じっさい、ここはモノリスみたいな駅ビルの半地下にあり、なかば放置されている体育館。
 体育館の外には燃えるゴミ、燃えないゴミ、ビン・缶の三つのブリキ製のコンテナがあり、ゴミが溢れだしているせいで、饐えたような臭いがかすかに、体育館の汗くささにまざって、やや苦しい。
 ぽつぽつ穴があいたコルク壁には、濃い鉛筆で描かれたとおぼしき、落書き。
 たいそう古く、消えかかっては、書き直されてきたようなあとがある。
【パースペクティヴに固執した理解・了解は、戦略の深柵をかならず破壊する】
 「深柵」? 「深層」のこと?
by warabannshi | 2009-05-27 09:00 | 夢日記 | Comments(0)
探索準備06-1 日本ラカン協会ワークショップ 発表草稿ver.1
***

真理、真実、まこと、透明さ、一致、ほんとうのこと、普遍、証明……、それらは厳しい錬磨や戒律、苦痛、弛まぬ努力を、それらを問題にする者に不可避に要求する。にもかかわらず、人類史のなかでそれらを問題にしない者がいなくなった例しはない。なぜそれらは、私たちにとって、これほどの誘惑なのか? なぜそれらは、私たちを、幾たびも幾たびも、恍惚とさせるのだろうか?

私たちは限定されている。真理、真実、まこと、透明さ、一致、ほんとうのこと、普遍、証明……、それらについて何かを語るとき、私たちは具体的な種々の生活、支えている日常、母国語、よく歩く道、人間関係の諸事情、忙しさ、優性遺伝、声に出してみたときの語彙のなめらかさ、モニターに映し出される字面の好悪などによって、限定されている。限定はもちろん、それだけではなく、知らず知らずのうちに無数にかかっている。すべての限定を解くことは、常識的に考えれば不可能だ。

けれど、無数の限定の各々は固定的なものではない。固定的のように思えても、それらはガラスのように極端に粘性が強いだけで、それらは相関し、動き続けている。

古い人々のなかには、彼らのそれぞれの無数の限定にひるまずに、それらを受け入れ、横断し、超え出るための方法(プログラム? スタイル?)を、それぞれに一貫したやり方で作った者たちがいる。彼ら全員が哲学のトレーニングを受けているわけではない。ただ問題意識が哲学的であるとは言うことができる。

***

宮澤賢治(1896-1933)は、彼自身の一貫したやり方で真実を追求する。宮澤賢治は近代日本文学史のなかでは、やや異端としてあつかわれ、その作品群は挿絵を付けられて子供向けの絵本として広く馴染まれている。しかし、一読すればすぐにわかるとおり、彼の作品群は童話というジャンルの雰囲気におさまるものでは決してない。心象スケッチや書簡、未定稿では「まことのことば」、「ほんとうの幸い」をめぐる執拗なまでの言及がそこここに見受けられる。その言及は苛烈であり、病的でさえある。
(cf.『銀河鉄道の夜』第一稿から第四稿までの推移)
(cf. [154](1919年8月20日前後)保阪嘉内あて書簡:病的な執拗さ)

いっぽうで、宮澤賢治の作品はとても倫理的なものとして馴染まれてもいる。朗読される「雨ニモ負ケズ」の自己犠牲。ベジタリアンの聖者。だが、暴力や非道徳さから彼が離れていたわけではまったくないし、それどころか、彼自身の“修羅”の衝動と彼が折り合いをつけることは最期までなかったように思われる。
(cf.「復活の前」(1918 22歳):暴力 )
(cf.『毒もみの好きな署長さん』(1921 25歳):不道徳さ)
(cf. [488] 1933年9月11日 柳原昌悦あて書簡:折り合いのつかなさ)

宮澤賢治が病的な執拗さで求める「まことのことば」、「ほんとうの幸い」。そして、依然として失われない倫理性の、理解しがたい構造。それらをよりよく理解するために、ラカンの精神分析の視点(とくに『精神分析の倫理/セミネールⅦ』)から賢治の諸作品を考察したい。

***

仮説:宮澤賢治の諸作品の倫理性は、『精神分析の倫理』でラカンが提起する精神分析の道徳律、「汝、欲望に関して譲歩することなかれ」を介することで、よりよく理解することができるのではないだろうか?
根拠.1―人間存在は根源的には非道徳的であるという認識が、精神分析にはある。(cf.Ⅶ-1) 賢治の感じていた内奥の衝動の認識との近しさ。(前述)
根拠.2―精神分析の経験をとおして、被分析者は一種のカタルシスを味わう。それは欲望の昇華、違った形での成就である。(cf. [165](1920年6月~7月)保阪嘉内あて書簡「人間の世界の修羅の成仏」)

ラカンが示す、精神分析的見地からの、四つの命題。
1.我々が有罪たりうる唯一のこと、それは欲望に関して譲歩してしまったことです。
2.英雄の定義、それは裏切られてもひるまない者です。
3.このような感じ方は万人の手の届くものでは決してなく、それこそ普通の人と英雄の相違です。普通の人間にとって裏切りはほとんどつねに生じることですが、その結果として普通の人間は善への奉仕へと決定的に投げ返されます。しかしこの場合、この奉仕へと向かわせたものが本当は何であるかを見ることは彼には決してできません。
4.欲望への接近のために支払うべき対価でない善はありません。というのは欲望とは、我々がすでに定義したように、我々の存在の換喩です。
(Ⅶ下p.234-235)

「欲望に関して譲歩する」ことと「裏切り」の関連。
人が裏切りを容認するとき、そして、善という観念――この瞬間裏切った人の善の観念と私は言いたいのですが――に押されて、自分自身のこだわりを捨てるとき、「こんなもんさ、我々のパースペクティヴは断念しよう、我々はどちらも、でも多分私のほうが、そうたいした人間ではない、普通の平凡な道に戻ることにしよう」と納得するとき、この裏切りをめぐって何かが演じられています。ここに「欲望に関して譲歩する」と呼ばれる構造があることはお解りでしょう。(Ⅶ下p.234)


賢治が、勤めていた農業学校の卒業生に向けて語る、妥協や小心さへの、強い忌避。
(cf.「告別」『春と修羅 第二集』)

***

賢治が追い求めた「まことのことば」、「ほんとうの幸い」とは何か? それは、真である可能性がありさえすればいいのか? 違う。それは必然的に偽であるわけではないだけだ。賢治が求めるのは、必然的に真であり、つまり偽である可能性のなさだ。
 「まことのことば」とはなにか? この問いかけに関しての詳しい整理は千葉『賢治を探せ』(03)、また太田の卒業論文(08)でなされている。
 千葉はラカンの鏡像段階論をもとに、「まことのことば」を、乳児が、まだ言語を習得する以前に聞いた、大人たちの奇跡のような言語使用の無意識的記憶であると提起する。それはテレパシーのように直接的に伝わるものであり、ウソを可能にする媒介性、恣意性、つまり三人称性のないものであった。しかし賢治が言語を通してコミュニケーションを図るかぎり、三人称性を離れることはできず、したがって三人称性を排した「まことのことば」を求める賢治の希求は不可能である。そして賢治は、最終的に自らの読者に「まこと」を託すという段階に至った。
 太田は千葉の議論をふまえたうえで、なぜ賢治は読者にも彼自身にも「わけのわからない」ことを「ほんとうのこと」として作品化することができたのかについて考察する。賢治の分裂病的な側面に着目すると、発話の苦痛を和らげるために、彼が傾倒していた法華経・如来受領品のゴータマの真実と自らの真実を結節させようとする試み(とその失敗)があったことがわかる。彼は自身を法華経の行者であり、法華文学を作っていると思い込んでいたが、法華経の理論は、逆に彼の幻覚や幻聴の解釈のために使われていたのだ。


それでは、「必然的な真である=偽である可能性がない」ことばや幸福が、なぜ求められるのか? 「真である可能性がある=必然的に偽ではない」ことばや幸福で、日常生活も道徳も、万事快調ではないか。

そもそも「偽である可能性がない」ことばなど、存在するとは考えられない。(cf.ソシュールの言語論など)

だが、「必然的な真である=偽である可能性がない」ことばや幸福を求めるその過程に、中性的で硬質な美しさを感じることもある。その美しさは、「真である可能性がある=必然的に偽ではない」ことばや幸福のゆらめくような戯れとは、どちらが高尚であるということなしに、異なるものだ。

この問いかけに関して説得力のある先行研究は見られない。そこで『精神分析の倫理』から、ラカンの真実や倫理についての論考がどのように進められていたのかを賢治諸作品と合わせてたどりながら、考察したい。
by warabannshi | 2009-05-23 12:41 | メモ | Comments(0)
第248夜 「科学博物館のへんてこ雇用、へんてこメニュー」
 上野の科学博物館のスタッフをやっている。ずっとスタッフをやっているわけではなくて、臨時で雇い入れてもらったのだ。なにしろ台風が近いから、化石を何とかしなければならない、みたいなことを言われて雇われているのだけれど、化石発掘や保存をしているわけではない。十人ほどの小学生・中学生を相手に学習塾の真似事をしている。それも泊まり込みだ。
 雇い入れてもらったのが、何人かわからないが、どうやら先生役をやっているのは、みんなこの臨時スタッフらしい。“生徒”を教えながら、ところどころで“先生”同士の名刺の交換が行われる。うちは名刺をきらしてしまったので、爪の先ほどの青い付箋をつけた、東京メトロの回数券を名刺代わりに渡している。
「そのアイディアはいいね! さっそく使わせてもらうよ」
と数学担当の名前を知らない臨時スタッフ(男・二十代中頃)が言う。
 でも、回数券を使われてしまったら、名刺としての機能を果たさなくなってしまう。
 アイディアを使わせてもらう、という意味なのだろうか。でも、回数券は使うためにあるのだし、使ってしまったらなくなるから、やはりどうだろうと思う。

 科学博物館に、どれくらい居るのかわからないけれど、食堂のメニューはあらかた食べてしまって(定食系→肉系→魚系→サラダ系→…)、へんてこなものしか食べていないものはない。
「じゃあ、この梅チリソース茶漬けにする」
 臨時スタッフをやっている友人Gがやはり、全メニュー制覇に向けて、おいしくなさそうなメニューにチャレンジしている。
 うちもさっそく…、と思ってメニューを開くと、誰かが(従弟が?)お茶をこぼし、靴下をはいた私のつま先にもお茶はかかったが、まったく濡れた感じがしない。
by warabannshi | 2009-05-22 08:04 | 夢日記 | Comments(0)
第247夜 「パリ、ジュテーム」
 パリの北駅? 映画『アメリ』で、アメリが、“インスタント写真機の男”に恋して、追跡をはじめることになるだだっ広い駅。前に“E.T.”(エンターテイメント・ティーチャー)と一緒に歩いた駅に、構造は似ているが、ここは日本ではないことがわかっている。
 その駅の至るところにlogされている、何人かの人の情報。

●キオスク
 wikipediaに載っている、ドヴォルザークに関する記事。
 箇条書きになっていて、生前に彼が言った珍言が十項ほど書かれている。
・パリの北駅にある、キオスクという店はうまい。
・高さ17.5センチの椅子がもっとも座りやすい。これはたぶん、僕にとってだけなのかもしれないけれど。
・中華料理は好きじゃない。(これは、彼がデリバリーの紙パック中華料理しか食べたことがないため)
・(…以下、忘却…)
 ほとんどが四階建ての、垣根、というか植え込みが立派な住宅街の映像が見える。ものすごい濃いコーヒーが出てきそうな、濃緑色を地にして金色でくねくね模様の描かれた壁のオープンカフェもある。
 そこでドヴォルザークがいったい何をしようとしていたのかはわからない。

●裏道、地下への階段
 喧嘩上手な日本人の、記憶?
 がたいの良い四〇代くらいのおばさんと、二〇代くらいの無表情な若者に、裏道で間合いを詰められている。二人とも日本人でないことはわかるのだけれど、どこの人かはわからない。
 日本人は、階段の上に立っていて、おばさんと若者は、いままさに地下から階段を上がってきている。おばさんが前で、斜め後ろ右に若者がついている。
 これは通常は、日本人にとって有利な地勢だ。
 階段の上にいるのだから、まずおばさんを蹴りなどでなぎ、そこでひるんだ若者とやり合えばいい。
 けれど、喧嘩慣れしているおばさんと若者は、最初からおばさんの方が、日本人の第一撃を受けることを計算に入れていて、おばさんに蹴りをいれて、隙ができたところを若者が襲う、というアイコンタクトがとられている。
 そして、喧嘩上手な日本人は、それを見抜いている。
 通常は日本人にとって有利な地勢なのに、身を翻して逃げる彼を見て、不敵に笑う、おばさん。

●???
 「夏は島にいって、うまい生魚が食べたいなあ」と思っている人。
by warabannshi | 2009-05-11 07:37 | 夢日記 | Comments(0)
「自由(リベルテ)」Paul Eluard

Sur mes cahiers d’écolier
Sur mon pupitre et les arbres
Sur le sable sur la neige
J’écris ton nom
 ぼくの生徒の日のノートの上に
 ぼくの学校机と樹々の上に
 砂の上に 雪の上に
 ぼくは書く おまえの名を

Sur toutes les pages lues
Sur toutes les pages blanches
Pierre sang papier ou cendre
J'écris ton nom
 読まれた 全ての頁の上に
 書かれてない 全ての頁の上に
 石 血 紙あるいは灰に
 ぼくは書く おまえの名を


Sur les images dorées
Sur les armes des guerriers
Sur la couronne des rois
J'écris ton nom
 金色に塗られた絵本の上に
 騎士たちに甲冑の上に
 王たちの冠の上に
 ぼくは書く おまえの名を


Sur la jungle et le désert
Sur les nids sur les genêts
Sur l'écho de mon enfance
J'écris ton nom
 密林の 砂漠の 上に
 巣の上に えにしだの上に
 ぼくの幼年の日のこだまの上に
 ぼくは書く おまえの名を


Sur les merveilles des nuits
Sur le pain blanc des journées
Sur les saisons fiancées
J'écris ton nom
 夜々の奇蹟の上に
 日々の白いパンの上に
 婚約の季節の上に
 ぼくは書く おまえの名を


Sur tous mes chiffons d'azur
Sur l'étang soleil moisi
Sur le lac lune vivante
J'écris ton nom
 青空のようなぼくの襤褸の上に
 くすんだ日の映る 池の上に
 月のかがやく 湖の上に
 ぼくは書く おまえの名を


Sur les champs sur l'horizon
Sur les ailes des oiseaux
Et sur le moulin des ombres
J'écris ton nom
 野の上に 地平線に
 小鳥たちの翼の上に
 影たちの粉挽き場の上に
 ぼくは書く おまえの名を


Sur chaque bouffée d'aurore
Sur la mer sur les bateaux
Sur la montagne démente
J'écris ton nom
 夜明けの一息ごとの息吹の上に
 海の上に そこに泛ぶ船の上に
 そびえる山の上に
 ぼくは書く おまえの名を


Sur la mousse des nuages
Sur les sueurs de l'orage
Sur la pluie épaisse et fade
J'écris ton nom
 雲たちの泡立てクリームの上に
 嵐の汗たちの上に
 垂れ込める気抜け雨の上に
 ぼくは書く おまえの名を


Sur les formes scintillantes
Sur les cloches des couleurs
Sur la vérité physique
J'écris ton nom
 きらめく形象の上に
 色彩のクローシュの上に
 物理の真理に上に
 ぼくは書く おまえの名を


Sur les sentiers éveillés
Sur les routes déployées
Sur les places qui débordent
J'écris ton nom
 めざめた森の小径の上に
 展開する道路の上に
 あふれる広場の上に
 ぼくは書く おまえの名を


Sur la lampe qui s'allume
Sur la lampe qui s'éteint
Sur mes maisons réunis
J'écris ton nom
 点くともし灯の上に
 消えるともし灯の上に
 集められたぼくの家たちの上に
 ぼくは書く おまえの名を


Sur le fruit coupé en deux
Dur miroir et de ma chambre
Sur mon lit coquille vide
J'écris ton nom
 二つに切られたくだもののような
 ぼくの部屋の開き鏡の上に
 虚ろな貝殻であるぼくのベッドの上に
 ぼくは書く おまえの名を


Sur mon chien gourmand et tendre
Sur ses oreilles dressées
Sur sa patte maladroite
J'écris ton nom
 大食いでやさしいぼくの犬の上に
 そのぴんと立てた耳の上に
 ぶきっちょな脚の上に
 ぼくは書く おまえの名を


Sur le tremplin de ma porte
Sur les objets familiers
Sur le flot du feu béni
J'écris ton nom
 扉のトランプランの上に
 家具たちの上に
 祝福された焔むらの上に
 ぼくは書く おまえの名を


Sur toute chair accordée
Sur le front de mes amis
Sur chaque main qui se tend
J'écris ton nom
 とけあった肉体の上に
 友たちの頬の上に
 差し伸べられる手のそれぞれに
 ぼくは書く おまえの名を


Sur la vitre des surprises
Sur les lèvres attentives
Bien au-dessus du silence
J'écris ton nom
 驚いた女たちの顔が映る窓硝子の上に
 沈黙の向うに
 待ち受ける彼女たちの唇の上に
 ぼくは書く おまえの名を


Sur mes refuges détruits
Sur mes phares écroulés
Sur les murs de mon ennui
J'écris ton nom
 破壊された ぼくの隠れ家たちの上に
 崩れ落ちた ぼくの燈台たちの上に
 ぼくの無聊の壁たちの上に
 ぼくは書く おまえの名を


Sur l'absence sans désir
Sur la solitude nue
Sur les marches de la mort
J'écris ton nom
 欲望もない不在の上に
 裸の孤独の上に
 死の足どりの上に
 ぼくは書く おまえの名を


Sur la santé revenue
Sur le risque disparu
Sur l'espoir sans souvenir
J'écris ton nom
 戻ってきた健康の上に
 消え去った危険の上に
 記憶のない希望の上に
 ぼくは おまえの 名を書く

Et par le pouvoir d'un mot
Je recommence ma vie
Je suis né pour te connaître
Pour te nommer
 そしてただ一つの語の力をかりて
 ぼくはもう一度人生を始める
 ぼくは生まれた おまえを知るために
 おまえに名づけるために


Liberté.
 「自由」と。

Paul Eluard(1895~1952)
in Poésies et vérités 1942
Ed. de Minuit,
安東次男 訳

by warabannshi | 2009-05-10 10:18 | Comments(0)
第246夜 「ピラマス@『夏の夜の夢』」
 どこかよくわかない、中劇場の舞台袖。舞台では、『夏の夜の夢』の舞台をやっている。
 自分の担当は、ピラマスということになっている。しかし、ピラマスは、『夏の夜の夢』のなかで、大工たちが演じる劇である『ピラマスとシスビー』のなかの登場人物のはずであり、そういう名前の役柄は『夏の夜の夢』にはないはずなのだが、なぜか『夏の夜の夢』の登場人物としてクレジットされている。
 第三幕が終わっていて、私の耳はロバの耳になっている。
 ということは、『夏の夜の夢』において果たす役割はボトムなのだろうか。
 ボトムが『ピラマスとシスビー』のなかでやる役は、ピラマスだっただろうか? ライオンではなかったか?
 おまけに、ボトムは頭全体がロバになってしまうのであり、ロバの耳になるぐらいでは足りない。
 でも、ロバ耳もいいものだ。と思う。
「二日酔いのままじゃ、(舞台に)出るのはいいけれど、引っ込みがつかなくなるよ」
 と、ガラの悪いサンタクロースみたいな白髪の太った中年男性が、アドバイスしてくれる。
 そうか、自分は二日酔いだったのか。どうりで考えがまとまらないわけだ。
「火を見て、集中してきます」
 そう言って、私はロバの耳のまま、ライターを買いに、舞台下の売店へと走る。
 
by warabannshi | 2009-05-09 15:14 | 夢日記 | Comments(0)
「言葉への通路・私への通路」谷川俊太郎
 つまり、昔は数行で世界が凍りつくとか、そういうふうな考え方があったわけでしょう。詩のすばらしい行っていうのはそれほど強力であると。で、今の僕にはどうもそうは思えないわけですよね。本当に推敲されて結晶化された数行なんていうのは、たとえあっても目につかないだろうって気がするわけ。だれもそれを享受する能力がない、と。だいたい、それを作り出す能力があるかどうかも疑わしいし。たとえ作り出せたとしても、それほどのインパクトはもう持てないと。それじゃあ大量に言語を消費して、一時流行った大河小説によって世界の全体像が描けるかっていうと、それさえもおぼつかない。それはだいたい、みんなそんな長い小説を読まなくなってきているし、どんなに言語の量を使ったところで今の世界の全体像にくらべれば、もう本当に塵の一粒みたいなものにしかならないわけでしょう。それじゃあどういう手があるかって考えたときに、それも負け戦は覚悟のうえで、たとえばエディングするっていう手もあるし、カタログ化するっていう手もあるな、っていうふうには思いますよね。たとえば日本語の総体っていうのがいかに豊かであるかと感じたときに、歴史的に見ても地理的に見てもじつに豊かな総体です、っていうふうに非常に抽象的な言葉で言って、それでイメージを喚起できる人は、勝手にイメージを喚起するし、あんまりイメージが豊かでない人は、せいぜい広辞苑一冊しか思い浮かべないかもしれないみたいなことがあるわけじゃない。それをじゃあもっと具体的に言おうとしたときにね、日本語のさまざまな文体をコラージュして、カタログ化して示せばさ、何かほんのちょっぴり質感みたいなのが伝えられるんじゃないか、というのがやっぱり『日本語のカタログ』の発想のもとですよね。
谷川俊太郎インタヴュー「言葉への通路・私への通路」 『現代詩手帳 1985年2月号』(思潮社) p.145

by warabannshi | 2009-05-06 13:51 | Comments(0)
第245夜 「弾幕系シューティングゲーム『くるめがしら』」*
 日光のあたり? それとも那須塩原の奥のほう? 年季のはいったアスファルトの国道がはしっていて、けれど道路脇には手入れのされている雑木林がみっしりと生えている。若葉の季節。通学路のマークも歩道に書いてあるから、少子化だっておこっていない。

 そんな土地の、私が生まれる前から営業していそうなゲームセンターで、彼女Fと弾幕系シューティングゲーム『くるめがしら』をやっている。
 『くるめがしら』は漢字で書くと、「きへんに回復の回、で、くる、客、で、め、がしらは普通の頭」なのだそうだが、「きへんに回復の回」なんて漢字は存在しない。

 もともと弾幕系シューティングゲームは苦手なのだけれど(弾幕を避けるための抜け道をひっきりなしに探すことが、ふと非生産的に思えてくるから)、とりわけこの『くるめがしら』はむずかしい。
 すでに『くるめがしら』を全てクリアしているFによると、それぞれのステージをクリアしたあとに流れるムービーがとても良いらしい。また、その世界観は味わってもらいたいと言う。

「***(敵)の襲来から主人公が守ろうとしている世界は、じつはすでに数えきれないほど滅んでいて、すでに主人公も数えきれないほど死に、また甦っている。主人公は数えきれないほど、それを忘れ、それぞれの性向が絶望的に異なる数万の仲間たちを結束させ、幾何学的模様に配置することによって、滅亡を回避するための“くるめがしら”を起こすのだが、それもやはり、すでに数えきれないほど行われている。というのも、“くるめがしら”は、主人公らが滅びきったことを条件として、すべてを一定期間、巻き戻すという機能にすぎないからだ」

  この悪循環を「全てクリアする」ということの、意味がわからない。
by warabannshi | 2009-05-05 08:48 | 夢日記 | Comments(0)
第244夜 「初めての覚醒剤(PISPOT)」
 夜十時ごろ、「80年代末からレズビアン同士」という二人の女性の住む二階建てのプレハブに、遊びに来ている。二人の名前は知らない。二人は片方が詩人で、片方が漫画家だ。どんなペンネームを使っているかはさておいても、戸籍謄本にのっているのは、ごく一般的な日本人女性の名前なはず。「夏子」? 「あざみ」? まったくわからない。とりわけ、二人の女性のうちの一人「A」は、私の小学校の同級生で、小学生のころからきゃんきゃんした声、声というよりしゃべり方、イントネーションの置き方をしていたが、それは酔っぱらっているいまも変わりがない。

 二人の女性の住む二階建てのプレハブに、遊びに来ている、というより、ものすごく酔っぱらったAに、強引に彼女の住んでいるプレハブまで引っぱられてきた。
 出入り口は階段をあがった二階にある。
 玄関のドアをあけると、すぐ足下に小型の冷蔵庫があり、それに体をもたせかけるようにしてBが体育坐りをしつつ、恍惚としている。
「ああ、もう。PISPOTはあと一箱しかないってえのに!」
 泥酔していたはずのAは、意外とてきぱきと、弛緩しきったBの体をずるずると、奥の八畳くらいの広い部屋に引っぱっていく。玄関に立ち尽くしたまま、よく見ると、八畳の部屋の窓際には男性が一人、眠っている。
「あれ、Bのお父さん?」
「PISPOT。冷蔵庫のなかにまだ一箱あるはずだから、出して吸っていていいよ」
 冷蔵庫を開けると、フランス煙草・ジタンのパッケージによく似た、けれど青緑色の煙草の箱がある。箱は開けられていて、かなり太めの一本を引き抜いてみると、フィルターに何か染みこませてあるらしく、ひやっとして、湿っている。
 一口、吸ってみると、体を置き去りにして、後頭部だけ百メートルくらい後方に遠心力で吹き飛ばされてしまうような感覚があらわれる。空間が、無数の関数に足りているような感覚。
 そして、耳栓がとれたように、あらゆる音がネオンサインのように聞こえ出す。
●二階建てのプレハブのトイレから眺めることができる、駅(上板橋駅?)のプラットホームで、小学生がなんとかごっこをしながら大声で言い合っている。「あいだから、愛は生まれる!」「愛だから、あいだから!」
●それなりに由緒正しい寺の境内で、自衛官募集の呼び込みがなされている。その寺は、ある大学前を経由する市バスの終点なので、大学をエスケープした大学生をねらっている。
●ゲームセンターの店内のような様々な電子音。あるいはテクノ。
 八畳の寝室をのぞきこむと、二人の女性の一人が、横たわったもう一人の顔に、盛大に吐瀉物を吐きかけている。反吐まみれのもう一人は、意識があるのに、起きあがりも怒りもしない。
 【詩人のキスは、つねにこのようなものだ】というテロップが流れる。
 だが、詩人が、同級生のAなのか、それとも初対面のBなのか、どちらとも判別がつかない。

 翌日、トイレに立つと、駅(上板橋駅?)のプラットホームを眺めることができるはずの窓は、当たり前のように存在していなかった。
by warabannshi | 2009-05-04 09:04 | 夢日記 | Comments(0)



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