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第336夜「変な顔」
 ポール・ボキューズの主催するパーティに行く。古川日出男と山本直樹と相席になって、「いままで見てきた変な顔の女の子」について話す。
「顔が、公衆電話の本体な子と付き合ったことがあるよ」と山本氏。
「プッシュボタンの“1”が眼球で、その周りに小さな矢印がくるくる回っているんだけど、それが表情なの。泣いているときとか、なんでか知らないけど、この子泣いてるんだ、ってわかるんだよね」
 さらさらとテーブルクロスに筆ペンで「顔が、公衆電話の本体な子」を山本氏は書く。不気味だ。
 古川氏も、山でハイキングしていたときに会った「七個の石が積み重なった顔の子」の話をする。「元連合赤軍とか言ってました。レイプされそうになったとき、逆に相手の肛門を破壊したこととか話してくれましたよ」 山本氏はまた筆ペンで怖い挿絵を描く。
 そして、次作の単行本の装丁イラストを山本氏に頼むことがその場で決まり、私はこれが大人の仕事か、と感心する。
by warabannshi | 2010-01-31 07:28 | 夢日記 | Comments(0)
【追悼】J.D.サリンジャー(Jerome David Salinger, 1919-2010)
 小説「ライ麦畑でつかまえて」で知られる米国人作家J.D.サリンジャー氏が27日、ニューハンプシャー州の自宅で老衰のため死去した。91歳だった。
 代表作の「ライ麦畑でつかまえて」は1951年の出版当時旋風を巻き起こした。世界各国で翻訳され、6500万部以上を売り上げた同作品は20世紀を代表する小説にあげられることも多い。
c0054893_23301176.jpg だがサリンジャー氏自身は1953年以降隠遁生活に入り、私生活は謎につつまれていた。ニューハンプシャー州の自宅付近で彼を目撃した人は、身なりを構わない世捨て人という印象だったという。
 その後、同氏は初期の作品などをめぐる訴訟に関わることが増えた。昨年はサリンジャー氏の訴えで、スウェーデンの出版社などに「ライ麦畑でつかまえて」の続編出版を禁じる判決が出ている。数少ない発言のなかで、同氏は1974年に「出版しないことに至高の平穏がある」と語っていた。
 サリンジャー氏の死去で、同氏の作品は再び注目され、映画化の動きが再浮上するのはほぼ確実だ。だがサリンジャー氏は短編「コネチカットのひょこひょこおじさん」を原作とした映画「愚かなりわが心」(1949年)の失敗で、映画化は避けるようになっていた。
(「ウォールストリート・ジャーナル」2010年1月29日より)

 サリンジャーが亡くなりました。彼の訃報を知ったのは新聞でもなくテレビでもなく、twitterで、それがすごく象徴的なことのように思えました。「なんかサリンジャーが亡くなったらしいよ」「哀悼」「サリンジャーって誰?」「レヴィ=ストロースのときと同じでほとんど伝説の人物がまだ存命だったのかというのが正直な印象だ」とか、そうやって訃報が口から口へと伝えられていくことが、なんというか、ふさわしい作家だったのではないかと。
 僕の一番好きな本は、せめて、ところどころでこっちを笑わせてくれるような本だ。[……]本当に僕が感動するのはだね、全部読み終わったときに、その作者が親友で、電話をかけたいときにはいつでもかけられたらいいな、とそんな気持ちを起こさせるような本だ。でも、そんな本はめったにないね。
(J.D.サリンジャー 訳:野崎孝, (1951/1984)『ライ麦畑でつかまえて』, 白水社, p.32)

 『ライ麦畑でつかまえて』を初めて読んだときはたしか大学受験のときで、そのときはまったく引っかかるものがなく、よって、「英語さえ話せればサリンジャーに電話をかけたい」と思ったこともなく、結局のところ、自分はサリンジャーの熱心なファンではなかったなあ、と思っていたのです。が、仕事から帰って自室の本棚を見たら、『ライ麦畑』にも『ナイン・ストーリーズ』にもびっしりと付箋が貼ってあって驚きました。本が一回り分厚くなるほどに読み込んでいたとは思いもよらなかった。
 『ライ麦畑』でよく引用されるのは、弟のキャッチャーミットの裏側に緑色のインクで書かれた詩(cf.『攻殻機動隊』の笑い男事件)と、ホールデン少年が自分のなりたいものを妹に訊かれて答えるシーン(cf.ジョン・レノンを殺害したマーク・チャップマンの、法廷における朗読)だと思うのですが、自分が好きなのは最初のほうの"ホールデン少年が寄宿学校から退学処分を受けて、最後に校舎に一瞥をくれるシーン"で、手元の本には、ことさら力強く線がひっぱってあります。
 とにかく、僕は、そのイカレタ大砲のそばに突っ立って、ケツももげそうなくらい寒い中で下の試合を見ていたんだ。といっても、たいして身を入れて見ていたわけじゃない。どうしてそんなとこにぐずぐずしていたかというと、じつは、その、別れの気分というのを味わおうとしていたからなんだ。今までいろんな学校やなんかをやめてきた僕だけれど、みんな自分の知らないうちにやめちまったみたいな感じなんだな。そいつが嫌なんだよ。悲しい別れとか、嫌な別れとか、そんなことはどうでもいいんだ。どこかを去っていくときは、いま自分は去っていくんだということを、はっきり意識して去りたいんだな。そうでないと、なおさら気分がよくないもんだぜ。
(サリンジャー 野坂, (1951/1984), p.10)

 これはよくある世代交代なんかではないよ。さようなら、サリンジャー。
by warabannshi | 2010-01-29 23:54 | その他 | Comments(0)
第335番「Livin' On A Prayer」+
 終盤を迎えつつあるロック・コンサート。ベーシストである私は、集中している人に固有な難聴になっている。数百人の観客の歓声は、心音と同じくらいにしか聞こえず、これから辿るべきメロディを弾いているベースが外しているかいないかだけが、無機的に伝わってくる。そして指が、意思より先に動く。
 最後は「Livin' On A Prayer」みたいな曲。弾き終わると、ベースを仲間に預けて、すぐに病院に直行する。なんといっても、私の子どもが生まれるのだ。

 病院に着くと、看護婦が、育児室をのぞかせてくれる。
 赤ん坊の顔は、透明な皮膚に、ウニみたいな大脳がみっしりつまっている。水饅頭みたいだ。
「顔は?」
「顎の下にたたまれています。未熟ですが、口があるでしょう?」
 本当だ。泣いたりするときは、瞬膜のように、不透明な顔の皮が顎のしたからとびだして、表情を可能にするのだろう。脳はゆがめたりできない。
 すっかり安心して、私は雑誌を読み始める。記事は「女の子が白けるシーン top3」で、三番目に「私有財産でないものを褒められたとき」がランクインしている。
 私有財産なんてくそだ! という瞬間が、この脳がみっしりの赤ん坊にも訪れますように。
by warabannshi | 2010-01-27 07:51 | 夢日記 | Comments(0)
第334夜「世界地図」+
 永福図書館で、紙媒体の巨大な大辞典をめくりながら調べものをしている。
 何を調べているかは、思い出せない。
 メンデルスゾーンのピアノ三重奏第一番がBGMとして流れていて、窓からほどよく陽光が射している。
 大辞典は書き込みが多くて、「暇すら住まい」という偽回文や、ページ数付き索引が、ぱらぱらと余白に散っている。
 けれども、いまの問題は、探していることばが載っているはずのページがないことである。紙をめくっていると、いつの間にか、問題のページを通り過ぎてしまうのである。何回やっても、何回やっても、そのページにたどり着けない。からかわれているかのようだ。革装丁の大辞典は次第に熱を帯びてきて、ページもふやけてくる。
 そして、原因に気付く。
 p.157とp.239のあいだが、まるごとなくなっているのだ。
 見開きの世界地図だと思ったのだが、左半分(p.239)は、瀬戸内海のある島の地図を上下逆転させたものだった。あまりにも、図形的にぴったり合っていたので気付かなかったのである。島々は、たしかにヨーロッパ半島や、アフリカ大陸みたいに見える。
 乱丁に腹を立てるよりも、この奇跡に感心してしまう。
by warabannshi | 2010-01-26 08:10 | 夢日記 | Comments(0)
【告知】 塩谷賢さん09'後期「科学哲学」講義の音声ファイルです。
 塩谷賢さんが、09'後期に、法政大学@市ヶ谷キャンパスで行われていた「科学哲学」講義の音声ファイルをアップしました。
 アップ先は、NAVERのオンラインストレージ「Nドライブ」です。
 mp3形式で保存されています。
 音声ファイルへのアクセス方法なのですが、これがちょっと面倒くさくて、以下の手順をふんでください。
 1.「Nドライブ」サイトへ移動。
 2.メールアドレス「warabannshi0201@yahoo.co.jp」、パスワード「shiotani」で入ってください。(このメールアドレスは仮登録のものです。メールを送信されても、太田は対応することができません)
 3.最初に出てくるウィンドウ上の講義ファイルから、mp3ファイルをダウンロードしてください。

 ほんとうはHPを設営してアップしたかったのですが、太田の修士論文の準備のため、このような一時しのぎの状態になっております。(あと、講義の音声ファイルをすべてアップすると、容量が1GBを超えてしまい、無料レンタルサーバが使えないというのもあります) 春休みが始まる2月下旬以降に、各講義の内容のシノプシスなどを合わせたバージョンをあらためてアップしたいと思います。それまでは、この形式でご容赦ください。
 参考までに、シラバスに掲載された授業予定表を転載します。

●到達目標及びテーマ
科学に疑問を持っている学生を対象に、科学についての考え方をシステムや有機体論の観点から議論し、科学及び哲学に対する大局的な見方を得るとともに、自らの哲学の介入点を探ることを目的とする。

●授業概要と方法
講義形式をとるが、授業時間中の討論も重視する。授業中の質問は大いに歓迎する。

●授業計画
1 導入:全体についての予備的考察を行う。
2 哲学をする:行為としての哲学の捉え方を考える。
3 世界観について:思考の対象としての世界について考える。
4 システムについて:システム、有機体という概念について議論する。
5,6 科学・技術というシステム有機体:科学と技術を相対的に自立した複合的システムとして考える。
7,8 科学哲学という営み:様々な科学哲学の概要を紹介し、その立場に検討を加える。
9 科学史という営み:科学史の思想的立ち位置について考える。
10,11 社会における文化としての科学・技術:科学・技術をより広い文脈に置き、そこに生じる様々な問題について考える。
12 学・知の体系と科学技術:人文学、政治・経済との関係を考える。
13 思考図式としての哲学:システム間の交流要素としての哲学を模索する。
14,15 自らの生き方としての哲学:“哲学をする”ことの具体例として、これまでの内容を検討し、討論を行う。

by warabannshi | 2010-01-23 18:46 | 塩谷賢発言集 | Comments(3)
探索記録32「音声入力について」
 音声入力のためのユーティリティソフト「AmiVoiceEs2008」を、一週間ほど前に買いました。
 テープ起こしを大量にしなければならないのと、あとここ一年あまり、自転車にたくさん乗っていないせいか、肩こりの症状が出てきたので、できるだけキーボードを打たずに文字を入力するために。それで、その「AmiVoiceEs2008」。音声認識能力の高さには、正直なところ、感動しました。ほんとうに抜群の水準です。革命的。これに比べると、Win7に搭載されている音声入力ソフトは、おもちゃに思えます。ICレコーダとの相性も悪くないです。べつにアドバンスト・メディア(=開発元)から広告料をもらっているわけではないですが、「AmiVoiceEs2008」は褒め称えるに足る性能だと思います。

 ところで。キーボードに向かって文字を打ち込むのと、そしてそれを読むのと、声に出して、そして打ち込まれて、並んだ文字を読むのは、やはり体験として何かが違う、ということを「AmiVoice」を使っているとき、感じます。もっと正確に言えば、私は音声入力をしているとき、自分の声を聞き、自分が話した内容を読んでいるわけです。つまり話したことを聞き、さらに読んでいるわけです。この場合、話していて退屈なことは、そもそも言葉になって出てこない。これは単に慣れの問題なのか、どうなのか。
 Twitter はつぶやき声という意味ですけれど、 Twitter を使っているときよりも、 AmiVoice を使っているときの私の方がよっぽどつぶやいている、というか、もう本来の字義においてつぶやいている。(この記事もまた、「AmiVoiceEs2008」を使って音声入力されています) 独り言をいうくせが抜けない人がいるのも、うなづける。文章をキーボードで打ち込んだり、紙にペンで書いたりするのは、腕をつたって、何か黒い流体のようなものを画面や紙に流し込んでいく感覚に近いわけですが、独り言をいうときは、振動音を使って、遠くのものを揺り動かすような感覚に近いです。超能力(念動力)を使える人がものを動かしてみせる感覚は、こんなものなのかもしれません。
 
by warabannshi | 2010-01-23 09:56 | メモ | Comments(0)
第333夜「カビ」
 つかれた表情の母Nが、「チキンの腿、食べてから行こう」と、ケンタッキーのバレルを差し出す。
 一口食べてみると、肉は冷えて固くなっており、カビているかもしれない匂いがするので、そう母に言う。すると、誰かがこう言う。
「私たちはカビの膨らんだコロニーを無視することはできないし、賞味期限を忘れることはできない。それはつまりどういうことか? それは私たちがあきれるほど脆弱であり、解毒能力に劣り、木の枝や腐敗したものを食えず、濁り水を飲めば簡単に腹を下すということである。私たちは私たちより優れたウシなどの諸々を飼い、漁り、猟り、屠り、刈り、食らい、大小便として垂れ流す。私たち自身の負性の複数。意味を与えることは許されているが、だからなんだと言うのだろうか。やがては屁のように消える私たち。増え続ける私たちはその生を祝福されたわけではない。それは基礎だ。そして基礎に忠実であることは、狂気に近付くことでもある」

 母Nは、いたんだチキンを棄てながら、和田堀公園の消防士たちがなんたらかんたら、と呟いている。和田堀公園に行くつもりらしい。
by warabannshi | 2010-01-21 05:42 | 夢日記 | Comments(0)
【お知らせ】twilogもはじめました。
 「夕焼け」と、ときどき「朝焼け」について書いています。
http://twilog.org/otakazu

 たぶん私のこの使い方はtwitterの機能を万全に活かしているとは言いがたくて、私自身もtwitterを、140字以内という文字数制限の厳しいブログくらいにしか見なしていなくて、いまはそれはそれでいいのではないかと思っているのですが、(キーボードに向かうとやはり際限なく書いてしまいたくなるし、古今東西の「夕焼け」についての描写を引用してボリュームを出そうとしてしまうから)、でもそれだったらここ最近の夢日記のように、記事を携帯電話から送信すれば、否応なく500字以内におさめなくてはならないのだから、そうすればいいのではないか、とも思っています。とにかく、「字数制限」という縛りを意図的に受け入れることは、時間的な限定が強くかかっている現象(夢はすぐに忘れるし、太陽はすぐに沈む)を記述するにあたってはとても意味深いことなのではないか、と感じながら、「夕焼け」と、ときどき「朝焼け」について書いています。

 『文学界』2月号の連載「なんとなく、考える」で東浩紀さんが言っていることの曲解かもしれませんが、twitterはむしろ「情報の受信者」としてのほうが旨みがあって、「〔フォローしているさまざまなユーザの〕独り言の集積を、聞き手側で対話に見せかける装置(タイムライン)」を、ああなのかな、こうなのかな、と「ゆるく」思い巡らすところに、その面白さがあるのだと思います。

 デリダたちが言っていたのは、そもそもぼくたちのコミュニケーションはすべて、日常的に底が抜けているということです。ところがひとは、その当のコミュニケーションについて考えはじめると、とたんにその危険な性格を忘れてしまう。そして対話とか弁証法とか言い出すことになる。ヨーロッパの哲学者たちはその忘却を回避するため複雑な修辞を巡らせたわけですが、ツイッターはその危険性をシステムとして、誰の目にも明らかなものとして見せてくれる。ツイッターの本質はここにあります。
[……]日本のユーザーは、その両義的な性格を「ゆるい」という絶妙な言葉で名づけています。ツイッターのコミュニケーションは「ゆるい」。なぜならばそれはつねに誤解と誤配に曝された危険なコミュニケーションであり、だからこそ逆に、ひとびとはそこでは「きちんとした」理解を求めて神経質にならなくてすむからです。(p.242)


 ただ、その「ゆるさ」を預けておけるある種の信頼(契約関係のようなハードなものではなく、まあだいたい同じ人間の話すことだからこんな感じのことをしゃべっているだろうというレベルでの「信頼」)というのは、いったいどこに担保されているのだろうか、と奇妙に思ったりもします。
 まさか「理性」? まさか「世間」? 「そんなこと考えたことすらない」?
 なんでもいいのですが、まあだいたい同じ人間の話すことだから……、というタイムラインの当たりのつけ方には、もはや背景化してしまった記憶のフラッシュバックや、原初的で仄暗い追憶の風景が、(もちろん、そこに生理的な「夢」を加えることもできます)、安心感と基準点を与えているのではないかと、そういう気がしています。それらは、「タイムライン」の時報のようなものです。時報とはいっても特定の時刻を指定するものではないし、あってもなくても苦にされないものですが。

 それで、短絡的ですが、多くの人がいままで数千回(三十代なら万のオーダーにのっていますが)にわたって体験してきた「夕暮れ」をつぶやくことで、そういうあってもなくても苦にされない時報めいたことをやろう、といまは思っています。なぜ「夕暮れ」、ときどき「朝焼け」なのか? それは趣味です。そんな感じです。
by warabannshi | 2010-01-17 12:25 | Comments(0)
第332夜「ほぼ日手帳」
 ピサロの絵のなかのような、幸福な田園地帯。知らない友人の家に招かれて、もう一人の知らない友人とポプラ並木を歩いている。ミツバチが一匹、追い払っても追い払っても、しつこくまとわりついてくる。
「あ、しまった!」私は不意に思い出す。「アンズ酒、自家消費用のばっかりで贈答用のを持ってきていないや!」
「バッカだなあ」と友人。「きれいな空瓶に、中身を移しかえちゃえばいいじゃん。それを酔いが回ったときに渡せばわからないよ」
 そんなことを話していると、知らない友人宅に着く。友人宅にはいつも多忙なMさんがいる。
 Mさんが私のほぼ日手帳に興味を示したので、しばらくこの手帳の使い安さについて話す。
「だが高価いよ」
「うちもそう思います」
 Mさんは次の用事があるとかで、車で出かける。返してもらった手帳の、あるページの下に印刷されているコラム、「月は無意識的に精神性を持っていて…」云々という文章に取り消し線が引かれていて、「月に精神性を無意識的をもたらしているのは、お前だ!」と書き加えられている。
 Mさんの無意識的な精神性が、これを書き込ませたのだろう。
「実在するんだ、ああいう人は」
 同感。
by warabannshi | 2010-01-16 10:10 | 夢日記 | Comments(0)
【塩谷賢】講演「ホワイトヘッドと現代哲学」/2009年10月24日
 日本ホワイトヘッド・プロセス学会. 第31回全国大会@中央大学多摩校舎で行われた、シンポジウム「ホワイトヘッドと現代哲学」における、塩谷賢さんの講演の記録です。
 大講義室で行われたことと、その日はICレコーダの調子が悪くて携帯電話のボイレコーダで録音したため、非常に音質が悪く、あとでファイルを再生したら半分以上が聴き取れなかったのですが、ノートと記憶を頼りに穴埋めしました。そのため、不正確な部分、誤解している部分が多々あると思われます。
 pdf化してアップしようと思ったのですが、以上のような理由から"非公式版"ということで、この記事に直張りしてしまいます。もし講演を聴いていた方がいらっしゃいましたら、助言をいただければ幸いです。

**********


 まず、今回のシンポジウムのタイトルは「ホワイトヘッドと現代哲学」です。「現代」ということついて、皆さんはどうお考えでしょうか?
 「現代」、時を共にする(contemporary)とはどういうことなのでしょうか。私たちはプロセス、流れの傍らに立っているのでしょうか? それとも、そのただなかで溺れているのでしょうか? 流れのなかで溺れている人間は、果たして流れを見ることができるでしょうか。私たちは「現代哲学」の――ドゥルーズにしろデリダにしろ、アメリカのプラグマティズムにせよドイツのフランクフルト学派にせよ――、流れに対してどこにいるんでしょうか。私たちが現代哲学の外にいるということはどういうことでしょうか。それが問題そのものであるとしたとき、ホワイトヘッドは非常にそのことを問いかけ、哲学に対して切り込んでいった思想家であると思います。私たちが流れというものをいかに理解するか。ホワイトヘッドを受けた私たち、ホワイトヘッディアンはそのことに対していかなる立場をとるのか。
 そして「哲学」とはなんでしょうか。同じように流れのなかにある現代哲学の巨匠と呼ばれている人間が、流れの直中で行った思索の痕跡、それを凡人である私たちが眺めているのが哲学なのでしょうか。果たして哲学というものは巨匠、エリートと呼ばれている人間の言っていることに対して、大衆である私たちが文化的にそれを受け取るというようなものなのでしょうか。〔……音質不備のため聞き取れず……〕
 私たちは流れ=プロセスというものを、そのなかにあるのではなく、そこから取り出して見るものだと考えてしまいがちです。なぜ私たちは「流れの傍らに立っている」というポジションをとってしまいがちなのでしょうか。それは西欧の伝統的な哲学という営みが本来、「見る」ことをベースに成り立っているからです。「見る」ということは「傍らに立つ」ことで成立します。距離がなければ対象を「見る」ことができませんから。接していては「見る」ことはできません。かつ「見る」ことによって対象が変化してはいけない――ただし、これは量子力学的のレベルでは否定されます。そういう「見る」から導かれるのが、キリスト教における神様の設計図、絶対的な設計図、真理でした。真理というのはどういうことかというと、どこででも受け取ることができる。真理である以上、文脈を無視しても受け取ることができる。しかし、そんな図々しい性格のものはどこにあるのでしょうか。
 じゃあ〔真理について〕どう考えるんだ、といったときに、そうではない仕方で「見る」ということがありうるのではないか。つまり、私たちがなにかを利用する可能性があるものとして、ある意味では、「資源」として見ているのではないか、と考えます。それは私たちが、根本的に、プロセス=流れの内部にあるということを意味します。


 フィヒテ、カント、ヘーゲルらはそれに対する考察を行っています。〔……音質不備のため聞き取れず……〕
 いまここにある知らないものを見ることによって哲学という知識が増えていくのか、という疑問があるわけです。フッサールある意味で、部分の総和が、完全な全体の構築を意味します。〔……音質不備のため聞き取れず……〕しかしそうではなくて、生命、プロセス、クリエイティビティといったものであるといったときに私たちはシステム論をふまえて全体は部分の総和ではない、それ以上のものである、ということを言うことができます。
 ところがそれ〔システム論〕をどの位置から見ているのか、ということについて私たちはどのように考えることができるでしょうか。それがポイントになると思えます。まず「実体がある」といはどういうことかを問わなければなりません。これ、このマイクスタンドは、真理と同じようにここにある。私はこのマイクスタンドを持つことができますし、背中を掻くこともできますし、気に入らないやつをぶん殴ることもできます。つまり、資源としてものを見る態度においては基本的に部分/全体関係ではなく、ここでまさに働いているそれを――フィヒテにおける「Handlung(行為)」として――見る、そして「見る」ということを「行為」として考える。いままさに働いているということ、「見る」ということを「行為」として捉えること、そのレベルで哲学を考えたい。それがホワイトヘッドにおける「プロセスの進行」という問題ではないでしょうか。

●配置としての構造/機能としての構造
 「構造」という概念には二つの意味があります。ひとつは「配置としての構造」、これはすぐにわかりますね、全体における配置です。もうひとつは、お互いに働きあう「機能としての構造」です。〔……音質不備のため聞き取れず……〕
 ところが私たちを取り巻く世界、苦界であり、浮世である世界においても「世界は矛盾していないんじゃないか」という感覚があります。「世界がうまくいっているんだったら、世界は動く必要なんかないのではないか?」そういう疑問が出てくるとしたら、その疑問はシステム論のどこにあるんでしょうか。
 私たちにできることは部分的なものを見ることだけではないか、とそう考えたときに、――これはホワイトヘッドの言葉でもありハイデッガーの言葉でもありますけれど――「機能には限界がある」。「限界」は「他」、「多」、「外」という仕方で、見るという行為のなかに余計なもの、挟雑物が入ってくるという仕方で働きかけます。
〔……音質不備のため聞き取れず……フレーゲ、カントールという固有名詞……〕
 図式的に対応関係を書き表すなら、「配置としての構造」は「代数・記号」であり、「機能としての構造」は「生成素」であると言う事ができます。

●「限界」という概念について
 「機能」を「機能」として評価するとき、私たちは「機能」を止めて横から眺めることはできません。数値化されたりグラフ化されたりしたもの、それはすでに「機能」ではありません。私たちは直接的に「機能」を評価することはできません。ということはつまり、私たちは「機能」を、「機能の限界」、「機能の極限」として関わることでしか評価することができないのではないでしょうか。つまり真理とは「極限」の形態として現れるものではないか。真理というものは、場所の複数において異なったものが交渉するがゆえに通ずるものとして、「極限」として支持する概念であると捉えることができるのではないでしょうか。
 ここで断りを入れておきますが、科学的世界観は科学ではありません。科学自身の内部においては決して真理そのものを担保することはありません。これは世界観において判断停止をしているというよりも、科学ということが内部モデルとして、営みとして、行為、システムとして、「極限」をもってしまう。それは他のシステムと出会うために、限界としての内容、限界としての実験、限界としての対象を持ち出すことによってメタレベルで統合されていくことです。
 そうしたときに、ホワイトヘッドが考えているところの「包握(prehension)」は以下のような概念であると理解することができるのではないでしょうか。つまり、私たちがなにかと出会うということは、その場その場における具体性としてのアトミズム、「システムである」というレベルがアトミックなレベルであると仮定せざるを得ない。しかしだからといって、実体として個体であるわけではない。出会うのは、複雑なもの同士である。では、その出会い方はどのようなものであるか。複雑なもの同士は、「極限としての限界」として出会うしかないのではないか。

●「高次なレベル」について
 「高次なレベルでの私たちの思考モデル」とは、私たちの立つ大地から離陸するのではなく、むしろ足元をちょんぎることによって、忘れ去って作られているものなのではないでしょうか。忘れること、間違えることも戦略――制約を絶って自由になるという、戦略です。戦略として「高次なレベル」というのは存在するのではないでしょうか。
 どういう戦略を採用するかによって、「高次なレベル」の設定は変わってきます。時間という概念、あるいはその方向――未来、そしてヘブライズムにおける「神」という次元。彼らには非常に厳しい、ときには敵対的な環境から身を離して超越的な時間という発想があったはずです。そういう背景を持つ哲学と、気候は温暖で食うに困らない、四季豊かな日本の現代(contemporary)において、私たちはどのように出会うのでしょうか。――そう考えたときに、私たちは他者としての哲学の限界をどのように位置づけるか。限界のあいだで共有できるものとして、包含(prehension)できる思想内容をどのようなものとして扱うか。それが問題となってきます。
 つまり哲学というのは、決して内容ではありません。カントが「哲学を教えることはできない、哲学することを教えうるのみである」と言っていますが、それはもっと深い意味で考えていいと思います。哲学は内容を表現することではない。それは営みなのです。科学が営みであるように。営みのなかでの他者との交流ということにあたって初めてひとつの手段として思想ということが現れる。そして今日私が話してきた「配置」や「極限」もまたその営みにおいて現れるものです。


 大雑把な話が続いて申し訳ありませんけれど、「高次なレベル」において、機能の同定というのは自由なんです。たとえば空間的なものに対して、それを言うことができます。
 たとえば、皆さんは{a, b, c, d}という図をどう考えるでしょうか。ある集合として考えるでしょうか。四つの「あいだ」になにがあるでしょうか。そんなものは何もない、aとbとcとdだけだ。でも、「aとbとcとdだけ」だとわかったのはなぜでしょうか。それは四つの文字が、{  }という空間的な暗喩によって仕切られているからですね。
 私たちは簡単に空間的な暗喩を排除することができるのでしょうか。ホワイトヘッドは空間的な暗喩を排除することができているでしょうか。空間は、機能として、時間と同様に問題です。「限界」や「境界」というものを直接的にモデルに書き込んでいるわけです。〔……音質不備のため聞き取れず……〕
 「機能」という中心概念から考えたときに、科学的である、機能的である、数学的であるということに対してもっと動態的なイメージを持っていいのではないでしょうか。ベルグソンにしても、フッサールにしてもきわめて合理主義者であり、理論モデルはスタティックな数学的論理に沿っています。そのモデルにおいてなにが違うかといえば、着地するべき「限界」です。数学においては、アルファベット、原初的な記号をどのようなものとして私たちの行為、私たちの生きている世界とどのようなものとして接続するか、ということは問題となってきます。現代科学というものは、ひとつの単純な場面、限界を見出しやすい場面における機能のシステムを提出するという試みでした。それは哲学、文化、宗教に導きの糸として資格を与えてきました。そのような観点から、構造の生成素としての側面、「機能としての構造」を受け入れることができるのではないかと思っています。

by warabannshi | 2010-01-12 12:28 | 塩谷賢発言集 | Comments(0)



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