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第347夜「ヴィトゲンシュタイン」+
 後頭部の、頭蓋骨と首の筋肉がつながっているところから、左右対称に二本の触手のようなものが生えている。触手の長さはちょうど腰のあたりまでである。束ねられたロングヘアのようにも思えるそれは、随意筋ではないらしく、動かそうととしても動かない。船越桂の「スフィンクス」に似ている。
 触手のおかげで空中に立ったまま浮かぶことができる。しかし、空中に浮かんでいるあいだは、脳髄が凝固してしまったかのように、まとまってものを考えることができない。ウェルニッケ脳症になってしまったかのようだ。
 地上、二メートルくらいのところに体を固定しながら、周囲に広がっている静かな庭園を眺めていると、足元に中年の庭師が来て言う。
「それは観念の額と呼ばれるものだよ。一夜のロジックで構成されている」
「ずいぶん物知りなんですね」
 庭師が立ち去ったあとで、いまの中年男性がウィトゲンシュタインであることに気がつき、あわてて高空から彼の姿を庭園のなかに探すが、もういない。
by warabannshi | 2010-02-28 22:03 | 夢日記 | Comments(0)
【告知】 塩谷賢さんの09'後期「科学哲学」講義、講義録のアップのお知らせ。
 塩谷賢さんが09'後期に法政大学で行っていた「科学哲学」講義の、講義録を、三月始めにかけて数回に分けてアップしていこうと思います。
 一月末に、すべての講義の音源をアップしたのですが、塩谷さんが板書しながら説明しているために「これ、あれ」といった指示代名詞が何を指しているかわからないところや、科学史的な補注を必要とするところなどを整えることができればと思います。
 塩谷さんの著者校閲が入っていないため、クオリティの高さは望むべくもありませんが、塩谷さんが本格的にテープ起こし原稿の校閲をはじめれば、発表まで年単位で待機することも十分に考えられるので、ここで同人誌的な公開をする所存です。ですから、これは、やがて出版されるであろう塩谷さんの講義録の、いわば海賊版です。順番が逆ですが。ラカンのセミネールも、たくさんのバリエーションの海賊版がアパルトマンで非公式に売られているのと同じであると考えていただければ幸いです。

■参考
09.9.21【告知】 塩谷賢さんの「科学哲学」講義がはじまりました。
10.1.23【告知】 塩谷賢さん09'後期「科学哲学」講義の音声ファイルです。
by warabannshi | 2010-02-25 17:49 | 塩谷賢発言集 | Comments(0)
第346夜「なめたけスパゲティ」
 中国人の学生で混み合っている学食で、弟Yと、誰か女性を待っている。天井の高い室内は、扇風機がいくつか回っていて、魚醤くさい。
 学食のメニュー表には、少数民族の伝統的な調理法を用いたものが、なかなか口にできないような名ばかりが並んでいる。
「Y、何食べた?」
「カツカレー」
 弟は好奇心に乏しいやつだと思う。
「ちょっと追加注文してくるから」そう言って、カウンターに行く。
 メニュー表を見ながら吟味していると「×××スパゲティがいいよ」と後ろで日本語が聞こえる。振り返ると、アフロヘアの四十代くらいの巨漢が笑っている。何と言ったか、食堂が騒がしくて聞こえない。
「なめたけスパゲティのことですか?」と私。
「そう、それ」
 なめたけスパゲティを注文すると、回りでクスクス笑いが起こる。これは、不味いのか?
「失礼だけど、あんた、あまり冒険したことないね?」
 カウンターの調理係の女の子にも笑われる。
 盛りの良い皿を持って弟Yのテーブルに戻ると、さっきの巨漢がいる。
「不動さんっていうんだって」
 そう弟が紹介する。不動さんと名乗るその巨漢は、私のなめたけスパゲティを指差して、こう言う。
「そのキノコは死骸のうちに入るのだろうか、ね。出汁をとられた蜆は確実に死んでいるが」
by warabannshi | 2010-02-24 09:53 | 夢日記 | Comments(0)
第345夜「夏目漱石」
 名前の知らないシュメール人の友人と、さわやかなオープン・カフェで久闊を叙している。3月13日に誕生日を迎える彼をまず祝う。
「誕生日もトークショーをするんだ」彼は小説家である。
「バースディ・ライヴだね。
 そういえば、前に良いよね、って君が言っていた『坑夫』を読んだよ」
「『坑夫』なんてケチくせえもの、なんで薦めたのかわかんね」
 シュメール人の友人は田舎っペ大将みたいなしゃべり方をする。コーヒーも、味噌汁のように音をたてて啜る。
「夏目漱石が執筆中に行っているバックプロパゲーションの過程がよくわかって面白かったよ」と私。
 友人のくすぐったそうな表情から、彼は本当は『坑夫』を面白いと思いつつ、なにが面白いのかわからなかったために、仕方なく「ケチくさい」という評価を下したのだということがわかる。
「『家守』は読んだか?」
「うん」嘘である。「でも、どんな話が忘れた」
 それから友人による夏目漱石の『家守』の詳細なシノプシスを聴く。途中でこれは夢だと気付き、起きたあとで『家守』を書くために必死に覚えようとするが、すべて忘れる。
by warabannshi | 2010-02-21 19:17 | 夢日記 | Comments(0)
第344夜「脱走」
全寮制の巨大な高校。小樽・オルゴール館を二十倍くらいの規模にしたようなキャンパスのあちこちで、粛々と「脱走」の準備が整えられている。数十人で行われるらしい「脱走」の、一つのパーティである私や友人I、同僚N(全員高校生に戻っている)は、看守たちを無効化する役目を担っている。
「今日は合格発表の日だね」小柄でぷっくり太った看守が、渡り廊下でぼんやりしている私に声をかける。「エントランスは大変な騒ぎさ」
 私は看守に当て身をくらわせる。そして、気を失った看守にエビアンのペットボトルに入れた焼酎を振り掛ける。
 これで「脱走」が失敗しても、私の退学は確定だろう。Iの部屋に走って向かいながら、何人かの親子連れの受験生らとすれ違う。落ちたのだろう。青ざめて無表情な子もいる。この子は、私たちを正気とは思わないだろうな、と思う。
 Iの部屋に戻ると様子がおかしい。体育座りで頭を抱え込んでいる。
「どうしたの?」
「彼、教員試験に落ちたみたいなんだ」
「免許なんて意味ないだろ」
「君は受かってるよ」Nは顔をあげて、一枚の書類を私に差し出す。「さあ、ここに納印するんだ」
 私も教員試験を受けていたとは驚きだ。なんだか気が進まないが、それが「脱走」を続けることに関してなのか、それとも納印することに関してなのかわからない。遠からぬうちに、私の名前もクレジットされた連名の声明文が読まれるはずである。そうなったら、この教員免許も剥奪ということになるだろう。
「気がすすまないよ」
 私は所定の欄にプラスチック製のハンコを押す。
by warabannshi | 2010-02-17 22:41 | 夢日記 | Comments(0)
第343夜「花火見物」
 仲の良い人たちと一緒に花火見物に来ている。ビールを飲みながら下腹部に響く爆音を浴びるのはこたえられない。雷鳴を間近く聴いているようで、最高だ。そう感想をもらすと、
「煙となんとかは高いところが好き、太田君とキノコは雷が好き」とSさんが歌うように言う。
 そういえばキノコは雷が落ちた朽木によく生えるという。なぜなのか。
「なんで雷が落ちるとキノコが生えたりするんですか?」
「それは糖化作用のプロセスで、イオン勾配が急速に変わることによってね…、って、お前は生物の教師だろ。それぐらい知っておけよ」
 Mさんは近くにあった紙に数行の化学反応式を書き付けながら言う。しかし、その式を見てもなぜキノコが雷が落ちた朽木によく生えるようになるのかわからない。書かれた反応式はぷるぷると震えていて、所々が発光している。打ち上げ花火はさらに景気良く上がっていて、怖いほどである。恥の上塗りをすることもないので、あとでGoogleで調べようと思う。
by warabannshi | 2010-02-15 12:48 | 夢日記 | Comments(0)
探索記録34「『クォンタム・ファミリーズ』と他の本、そして「幽霊たちの囁き」と科学哲学について」
 東浩紀『クォンタム・ファミリーズ(量子家族)』を読了しました。SF小説を一気読みすることはめずらしいことではないのですが、ここ半年くらい、そういうことをやっていませんでした。自然科学という(量子力学という、計算機科学という)信仰。そして、私たちは無数の可能性の死骸のもとに立っている、という信仰告白。その白熱。所与(givenness,Gegehenheit,(Begehenheit与えることによりそう))を越えて、ある範囲を進むこと。いまの所与のものとして決まっているサイズの外に出ようとしたらどうなるか、ということ。
 また、【日本のSF作品】の書棚で『クォンタム』の近くにあった円城塔の作品も興味深いものでした。円城の作品は現代詩であるといわれても違和感のないものだと常々思っていたのですが、『鳥有此譚』は、谷川俊太郎の『日本語のカタログ』的な形式を採用していて、つまり、『日本語のカタログ』に収録されている散文詩のように絶え間ない註釈による「制御(control)」がなされていて、それが私自身の方法と近しいと感じたのです。「制御」とはなにか。たとえば夢日記を書いた後で、その記述に「起きているときにそれに沿っているところの考察に基づいた注釈をいれる営為」は、夢を書き留めた記述に「起きているときにそれに沿っているところの日付を入れる営為」と、構造的に同じではないかと私は思います。行為をしているそのまさに最中において、私たちは「制御のための技法」を行使します。つまり、所与のものにしがみつくことで、メイルシュトロームに引きずりこまれることから逃れるのです。その「技法」はいまの所与のものとして決まっているサイズの外に出ようとする営為を補うものです。私たちが「次」に進むときには、個別のものの「頑固さ」が、よかれあしかれ常にかかわってきます。
 「制御のための技法」。抑圧、あるいは打算というかたちではなく、しかも欲しいままにしないこと、ある形式を受け入れること。それを複数の場所で考えること。それは、享奢の八〇年代に生まれ、廃墟の九〇年代に育てられた私たちの世代にとって(そういうことが果たして適切かどうかはわかりませんが、「私たちの……」という言葉遣いでしか通ることのできない理路もまた、あると思います)責任をもって論じるに値するテーマではないかと考えています。私たちは具体的なもののうえに足をおいて、個別のデータに基づいて、全体的なものを書き換えるということはしません。私たちは理論の収束による、当該理論の過剰適応が、ロクな結果を生み出さないということを政治的にも思想的にもよく知っています。収束しないこと、それは私たちが試みる禁欲であり、「巫者」としての務めです。
 それでは、「巫者」たちはなにを聴きとのか。「幽霊」の囁きを。残響音としての、あるいは確率論的な、あるいは鎮魂すべき「幽霊」の囁きを。
 そして「巫者」たちは聴きとった「幽霊」の囁きを翻訳する。しかし翻訳するということは、どういうことなのか。
 チョムスキーは、「翻訳」と「理論」は違う二つではなく、似たようなものだと、バリエーションであると考えました。どちらもデータを与えられたときに、私たちの言語へ移しかえるわけであるから。
 「翻訳」のプロセスにおいて常になされているのは、「yes/no」の判断、「手をあげた」のか、「手があがった」のかの判断、つまり、「解釈の決定」です。天動説と地動説のどちらを採用するか。創造説と進化論のどちらを信じるか。落ちていくリンゴに対して、それが知恵の実の落下なのか、重力場のなかでいちばん短い線を通っていく質量なのか、その解釈を決定すること。――ただし、「量子的に考えて不確定だから、翻訳できません」と言うことはできません。翻訳は、しなければならない。これは命法です。
 「翻訳における解釈の決定」について考えるときには、クワインの「根元的翻訳(radical translate)」と、デイヴィッドソンの「根元的解釈(radical interpretaion)」の違いについても考えておくことが、導線となりえます。二人の立場の違いには以下のように言及することができるでしょう。
 例えばクワインは、「外部世界に関する知識と経験の関係は、それが可能ならば、いかなるものか」という問いをたてます。それに対してデイヴィッドソンは「発話された語(他人のことば)を理解するためにいかなる知識または解釈が必要か。その知識または解釈は、どう構成されているか」という問いをたてます。
 クワインにおいてもデイヴィッドソンにおいても、私たちの立場は、未開社会に調査に来た言語学者として、仮想的におかれえます。使っていいものは、現地人の物理的音声、それから行動、発生時の周囲状況であり、それらを観察し、私たちはそれらを客観的データとして扱います。(このとき、現地人と私たち論理構造は一緒(古典一階述語論理)だとする「善意の原則」が採られます)。
 このとき、クワインは「翻訳をすすめましょう」と言うし、デイヴィッドソンは「理解をしよう努力しましょう」と言うでしょう。両者は似ているようですが、厳密にいうと異なります。つまり、翻訳は必ずしも理解を必要としないという点において。
 わけがわからないものを「理解をする」には、まず意味を想定する必要があります。この場合の「意味」とは「刺激意味」(*1)では、無論ありません。真理条件意味論によってもたらされるところの「意味」。つまり「文Sが真ということは、P(Sの表す命題)である。ただし、Pは述語で表せない(cf.嘘つきパラドックス)」という方式によるところの「意味」です。これは「善意の原則」を、全面的に拡大して、理解をしようとする戦略であり、現代の分析哲学では非常に評判の高いものです。
 しかし、そのとき、「証明の個別性、複数性」というのはどういうことになるのでしょう。
 それぞれの全体のパターンによって理解が生じる、クーンのパラダイム論は、ここでは当てになりません。(もちろんクーンのパラダイム論が無効であるとは思っていませんが) 重要なのは、「幽霊の囁き声」という理解される対象のほうに、理解される内容がある、というそのことなのですから。
 おそらく、ここで「体系、文の集積」とは別様の運動を持ち込まなくてはなりません。
 それについて何か実のあることを言うことはできないのですが、一つのヒントとして、フランス系の科学哲学、エピステモロジーを置くことができます。英米系の科学哲学は、科学を体系、文の集積として考えますが、フランス系のエピステモロジーは、科学を「精神」の活動として考えます。この場合の「精神」は、個人の精神ではなく、時代精神、科学的精神のようなものです。ただし、この「精神」の働きは、私たちの行為に直接浮かび上がるものではありません(科学的精神が働くとき、私たちが合理的にふるまう、ということではない)。
@池袋ジュンク堂4F喫茶店 17:20

(*1)「刺激意味stimulus meaning」とは、ある場面文に対して、現地人・被検者のyes/noを促す刺激のクラスのこと。クワインは「刺激意味」を「意味」とみなす。この「刺激意味」がわけのわからない言語の安定的な部分を取り出して、それとlogicをもって「翻訳可能な中核」を析出する。このとき、わけのわからない言葉を話す現地人が、発話状況に際してある出来事をどう理解しているかということは、勘案されない。
 クワインが「刺激意味」を通して遂行的に伝えるメッセージとは、「翻訳可能な領域」(私たちがどうこうしようと変わらずにあるように思える)と「不確定な部分」(私たちの意図や予断にかかわる)では、変動しやすさがちがうということだ。刺激的な意味は固定されているけれど、それがどのように固定されているかについて言語的に言い表すのはむずかしい。

by warabannshi | 2010-02-14 20:43 | メモ | Comments(0)
第342夜「ポリネシア」
 ポリネシアらしき南海の島々で行われている、伝統的な漁を、動画に録らせてもらっている。二隻の木製カヌーのそれぞれで、大きな網の両端をもって準備し、勢子が海に潜って、獲物をその網のほうに追い立てるというもの。
 お前もやってみろ、と漁師の少女に現地語で言われたので、カメラをもって、潜る。
 青く透き通った巨大な空間に、レンブラント光線のような光の柱が何本も、深みに向かってまっすぐに伸びている。距離感がまったく失われる。恐怖で身がすくみ溺れないように、体が反応したからだろう。静かで、古代の神殿のようですらある。
 それにしても、魚なんていないよ、と少女に言おうとして、私は見る。全長六メートルほどの黒いミジンコ様の甲殻類が、一匹、青い空間を漂っている。
 結局、そのミジンコもどきを捕ることはできなかったが、漁師たちは皆、気にしていないようだ。
「このまえ“クマ”が捕れたときはすごかったんだよ」さっきの漁師の少女が説明してくれる。あれはクマというらしい。
「殻のなかの体液を吸い出してスープにして飲んだら、食べた人がみんな発情しちゃって、裸のまま漁に出る人も多かったんだよ。カレーを哺乳瓶で飲んだりとかね」
by warabannshi | 2010-02-12 07:57 | 夢日記 | Comments(0)
第341夜「胎児」
 友人Uとどこかの高校の教室でエヴァ/ヱヴァの話をしている。外はじわじわと雨が降っている。文化祭のさなかであるため、屋台のビーフシチューを食べながら。
「庵野作品において“胎児”は決め球なんだよ。孕んでいることは、だから不可侵の状態としてあつかわれる」とU。
「ミサトさんが妊娠、とかイメージすると、本当に二次(創作)だものね」
「エヴァにおいて出産は、神の出産に限られていた。ヱヴァはどうするつもりか知らんけど」
 私はさっきから、このビーフシチューに使われている肉が“ビーフ”ではないのではないかと疑問を感じている。いままで口にしたことのない食感である。Uはぱくぱく食べながら話している。話に夢中なのか、食べられる肉ならなんでも良いのか、わからない。
「そういえば修論が書けたよ」
「おお、そりゃおめでとう。どんな話?」
「注意深くあれ、って話」
 Uは“ビーフ”シチューを食べ終わり、煙草を吸いだす。
by warabannshi | 2010-02-10 09:55 | 夢日記 | Comments(0)
第340夜「いけず」-
 京都の街中にある居酒屋で、研究室のメンバー十人余りで飲みはじめる。たぶん打ち上げである。
「太田君、私が帰国する前に、訳を返してね」
 そうGから言われるが、なんの翻訳だかわからない。
「西武遊園地のボートの上に置き去りにしてきたのと違いますよね?」
「いや、大丈夫ですよ?」
 そうこう話しているとみんなの生ビールが運ばれてくる。しかし、驚くべきことに生ビールの入った中ジョッキは、どれもこれも氷が盛られている。かちわりビールである。
「すいません、ビールなので、氷は抜いてください」
 そう言うと、バイトの女性は無表情なままかちわりビールを回収する。愛想のない人だ、と思っていると、氷を抜かれたかちわりビールがまた運ばれて来る。
 つまり、すでに発泡をやめている黄色い液体が、氷のぶんの体積を引かれ、規定の半分以下の量になって、ジョッキなかで波打ちながら運ばれてくる。
「少ないですよね?」
 ジョッキを配り始めたバイトの女性にまた私が指摘すると、こんどはあからさまにムッとされる。
「氷なしで、みんな注ぎ直してきてください」
 ふと、この待遇が有名な「いけず」か、と気付く。
by warabannshi | 2010-02-09 04:32 | 夢日記 | Comments(0)



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