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第354夜「魔女」
 不老不死を目指している新興宗教の教祖は、スペイン貴族風の見なりの、髭を生やした背の低い男であり、いかにも詐欺師っぽい。そして、彼の提唱する教義は、食餌療法という、とても実践的なものである。
 いとじりが異様に大きな盃に、三十種類近くの厳選された野菜と数種類の肉を、それぞれ寸胴鍋で二日間煮込み、抽出したエキスを満たし、それを日に三回、一息に呑む。
 これで「エラン・ヴィタール」を摂取できる。
 というのが不老不死に至るための教義の中核である。
 ただし、信者たちが高額な布施とひきかえに飲んでいるのは、市販されているすき焼きの割り下を加工した偽物である。

 道場での説教会と、定例集会の後。広い日本庭園を臨みながら、奇妙に念の入った手つきで、本物の「エラン・ヴィタール」を一息に呑んで、教祖の男が側近に言う。
「旨い。だが、足りない」
「はい」
「何が足りないかわかるな?」
「魔法(Zauber)です」
「もちろん私は魔法などの類は信じていない」教祖は言う。「しかし、私が“受け入れられていない”のは事実だ。これは間違ない。この「エラン・ヴィタール」に足りないのは親和力だ!」
 教祖は盃を置き、代わりにリンゴを手にとり、囓る。
「魔女は連れてきたか?」
「そこにいらっしゃる方が、そうです」
 教祖が振り向くと、彼の後ろに十歳ほどの少女が立っている。
 彼女は自転車で、商店街のアーケードを気持ち良く走っていたところを、側近と信者らに尾行され、連れて来られたのである。ゲームセンターの混雑したフロアを自転車で走り回って逃げるほどの嫌がりようであった。
 教祖は、少女の両肩を掴み、揺すぶりながら言う。
「なぜ私は受け入れられないんだ!」
 少女は表情を変えずに言う。
「言葉遣いがなってないよ」
「なぜ私は受け入れられないのですか?」
「それを訊く前に謝って欲しいよね。私がどんな気分で連れて来られて、あんたの垂れた説教を聞いていたか、わかる?」
 憮然とした面持ちで彼女を睨む教祖。少女は、日本庭園を臨む、檜作りの渡し廊下に出る。
「古来からこういうときのけじめのつけ方は、土下座と決まっている。ただし、あんたの場合…」彼女は、教祖がひとかじりして捨てたリンゴを廊下の床に立てる。「その額の打点は、ここだ」
 教祖は、確かではない足取りで、廊下に歩み、跪いて、両手をつく。
「すみませんでした」
「土下座になってないよ!」
「すみませんでした!」
 勢いよく打ち付けられる額で、果汁とともに四方に砕け散るリンゴの黄色い果肉。
by warabannshi | 2010-03-31 11:34 | 夢日記 | Comments(0)
第353夜「蛍光」
 新しく造られた駅の高架が開通したことを祝い、駅ビル内でさまざまな模擬店が出されている。私は友人Hとともに、出身高校の文化祭を思い出すね、と言い合いながら、手作り感あふれる屋台の人ごみのなかを歩く。
 すると、軒を並べる屋台のなかに、ミッキーマウスがの出している屋台を見つける。私の腰ほどの背丈の黒い裸のミッキーマウスが、五種類くらいの薄気味の悪い蛍光色をした栄養ドリンクを売っている。しかも、それらの栄養ドリンクは紙パックに入っているわけでも、ペットボトルに入っているわけでもなく、五つの大振りの寸胴鍋のなかで静かに波打っている。カキ氷にかけるシロップのように、180×H160mmほどの寸胴鍋には茶碗が浮かんでいて、しかカキ氷の屋台には必須の紙カップすらない。ということは、あれらの蛍光色の栄養ドリンクが飲みたいときは、料金を払って、直接あの茶碗で飲むということだろうか。
 ぼんやりと歩いていると、行き交う女子たちが私を奇妙に迂回して、通る。
「なんだか避けられているような気がするんだけれど?」
「俺がいろいろ太田君の素性について説明しておいたから。あることないこと」
 友人Hはそういいながら逃げ去ろうとするが、私は彼の着ている白衣の襟首を掴む。彼は悪びれる素振りもみせず、こう問う。
「ミッキーマウスが住んでいるのはどーこだ?」
「ミッキーハウスだろ」
 私はさらに、蛍光石鹸水のボトルを手にとって、言う。
「次に逃げるような素振りを見せれば、頭からぶっかける。くだらないジョークを言っても、ぶっかける」
by warabannshi | 2010-03-26 09:09 | 夢日記 | Comments(0)
◆塩谷賢「科学哲学」講義@法政大学 #4 :09年10月12日
ここ三回ほどシステム論の話をするんですが、あらかじめ言っておくと、非常にきついところがあって、うまく整理できるかわかりません。それでもシステム論をやるのは、科学がどのように哲学に影響してくるか、そのコントラストを、科学哲学を概観することを通してみていこうと思っているからです。科学には、社会体制という含意もあるし、知性の体系という意味もあるということから、やはりシステムだという観点からみたい。
(p.2)

システムと言った時にまず私たちが目にするのは、いろんなものが沢山あるということ。沢山のものが関係しているということです。このとき関係の内実がどういうものかは言わないわけです。一般的な意味で関係をしている。その関係があるために一つのまとまった全体は、要素となっている個々の部分をただ集めただけのもの以上のもののようにとらえられる。というのが一応、一番ゆるいシステムの共通了解らしいのですよね。でもね、こう言って、何かを言ったことになるでしょうか。確かにそう見えるよねということはわかる。じゃあその実態は何ですか。そう言われた時に、何でもアリなんですよね。逆にいうと、一つ一つの要素をただ足し合わせただけということがもうよくわからないわけですよ。極端な話を持ち出すと、数学の集合論において、1+1=2と、1 1 1 1 1 1…と並んでいることは違う、ということを言って、数のシステムとかいうことをいうわけですよ。でも、後者のように、ただ1が並んでいるなんということを、私たちは考えるでしょうか。システムは「部分の総和<全体」という不当式で表せるわけね。でも「部分の総和」って何でしょう? 「全体」と言った時にどこまでが全体なのでしょう? そういうことを真面目に考えだそうとするとわからなくなるわけですよ。だからみんなそれぞれシステムに内実を与えようとして、いろいろ考えるわけですね。
(p.4)

(…点)物理学や数学がすごく成功を収めた理由というのは、実をいうと情報を無視するからです。これは僕の議論だけれども。
 皆さんは「情報」というと、モノを思い浮かべると思います。情報を組み立てて何かを作るという、プラモデルみたいなイメージがすごくあるでしょう。ところが情報にはもう一つ意味がある。与えられた情報を持っているということは、私たちを縛るんですよ。すでに与えられているある情報と矛盾するような情報を持ってはいけないという縛りが。つまり、ある情報を忘れるということはその情報から自由になるということでもあるんです。その制約によって分裂していたものが、一緒になることができる。そういう側面が忘れるということには、すごくあるんです。でもここほとんど言われていない。もちろんシステム論を議論している人の中にはそういう人もいますけれども、普通の科学哲学の流れの中から行くと、ほとんどここのところに触れる人はいません。むしろ社会システム論の中で、そういう議論をする人が多いようです。
(p.7)

 足りない情報って一体何でしょう。どうして私たちは足りない情報ということをいうことができるんでしょう。誰が、それが足りないと決めるんでしょう。世界に情報が足りないという概念とは一体どこにあるのでしょう。
(p.9)

見るということを考えるときに、なぜ内容が大事なのか、という問いかけにつながります。内容というものは、言い換えるとすれば資源なんですよ。内容とは資源を貯めることなんです。記憶は典型的な情報資源ですよね。これらは僕の解釈ですけど、哲学において、見るということと、知識を蓄えるということ、これらは二つとも資源に関することなんです。それではなにに対する資源なのでしょうか。ギリシャにおける運命に対する資源なんですよ。行為とは資源を使う場面なんです。認識は資源を貯める場面なんです。当然、資源を貯めること自身も行為ですから、入れ子構造になっているわけです。でも資源という概念を使って見るということ考えることが重要なんです。
(pp.16-17)


◆塩谷賢「科学哲学」講義@法政大学 #4 :09年10月12日

※改良点、ご意見、註釈についてなどありましたら、コメント欄にてよろしくお願いいたします。

--- 既出 ---
◆塩谷賢「科学哲学」講義@法政大学 #3 :09年10月5日
◆塩谷賢「科学哲学」講義@法政大学 #1 :09年9月21日
◆塩谷賢「科学哲学」講義@法政大学 #2 :09年9月28日
by warabannshi | 2010-03-22 01:18 | 塩谷賢発言集 | Comments(0)
第352夜「コールセンター」
 街場の学習塾の三階にある友人Sの部屋に遊びに行くと、いつものように雨が降ってくる。激しく雨粒が叩きつける硝子窓に片頬をべったりつけて、Sが言う。
「また雨だ、二人揃うと。夕焼けを拝めたためしがない」
 物憂げなSに、私はさまざまな願い事を叶えるコールセンターの存在を教える。ある特定の電話機から、そのナンバーにかけることで、天候さえも思いのままに操ることができるという。雨男を治すことぐらい造作もないだろう。
「その電話機なら、俺の別宅にあるよ」
「別宅なんて、あったんだ?」
「というか俺が作ったんだけどね。滑るから気をつけて」
 Sと私は、部屋を後にする。


 切り立った崖の上で、落車したメッセンジャーが途方にくれている。足首が腫れている。もうペダルはこげまい。しかし、彼は件のコールセンターに繋がる携帯を持っているのだ。
「すいません、搬送車を一台、こちらに回してもらえますか?」そして、彼は途中で思い付く。「搬送車は要りません。代わりに、タイムトラベルできるようにしてください」
 事故が起きる前に戻りたかったメッセンジャーのその電話以降、コールセンターは常に通話中である。
by warabannshi | 2010-03-21 10:35 | 夢日記 | Comments(0)
第351夜「黒曜石」
 私と同じくらいの巨大な黒曜石の結晶が、私の斜め後ろでいつも静かに浮かんでいる。黒曜石は、もの言わぬ友人であり、兄弟である。
 紡錘形のフォルムは、マグリットの作品「現実の感覚」を私に思い出させるが、それほどの不穏さを秘めているわけではない。私は、黒曜石のことをすっかり気に入っている。
 あるクリーニング屋に入ったとき、不意に黒曜石は砕け散る。砕け散るときさえも静かにその微塵を床にぶちまける。
 私が大声をあげて、練り消しを使って、散らばった黒曜石の破片を回収していると、クリーニング屋の主人がカウンターの奥から出てきてしきりに動きまわるので、破片はますます細く踏み砕かれ、床に擦り込まれてしまう。
 激怒した私は練り消しを棄て、クリーニング屋の主人に飛びかかり、馬乗りになって泣きながら彼の顔を殴打する。だが、彼は不敵な笑いをやめない。殴られているのに、指で私の鼻先を弾く。
 黒光りする練り消しは餅ほどの大きさより大きくなることはなかった。
by warabannshi | 2010-03-20 10:53 | 夢日記 | Comments(0)
第350夜「人間園」
 日没とともに閉まる人間園の終園時刻が迫っている。それを知らせるさだまさしの「無縁坂」が流れている。
 ホームレスの私は急いでチケットを買い、一張羅の上着が錆で汚れるのもかまわずに鉄柵をすりぬけ、展示場へ向かう。
 十畳ほどのサウナ風呂のような部屋に通されると、なかには三人の人間がいて、そのなかの一人は弟Yである。すのこの床にバスタオルを敷いて、しきりに腕たて伏せをしている。
「なにやってんの、早く帰ろうよ」
 弟YのTシャツを引っ張ると、彼が顔をあげる。眉毛が、「炎」という字を左右に真っ二つに断ち割り、それぞれを右左にくっつけたようなすごい形になっている。
「どうしたの?」
 驚く私を、弟は得意そうな顔でせせら笑う。ということは、その眉毛はわざとか。地毛だとしたら鍛錬の成果か? 彼の白いTシャツには墨字でこう書いてある。
「虚無感……」
「則天無心だろ、なにを読んでいるんだよ。いまの俺は虚無感からもっとも離れたところ、対蹠点にいるようなもんだよ」
 そうかもしれない。シニカルな理性では及びもつかない心境に彼が達しているなら、私は彼を人間園から連れ戻すことはないのかもしれない、と思う。
by warabannshi | 2010-03-09 23:10 | 夢日記 | Comments(0)
第349夜「自爆」-
 高校に通っている精巧な少女型アンドロイド。左右の胸部をもって引っ張ると、観音扉のように開く仕組みになっている。ほの暗い心臓部には、小さなメトロノーム付きの小型爆弾が仕込まれている。校内で手ひどいいじめを受けた場合(たとえばトイレの洗面台になみなみと満たされた小便で顔を洗えと命じられるなど)、警告ののち、自爆するように命令されている。爆発の規模がどれほどのものなのかは、わからない。
 休み時間なので、胸部を開いて、メトロノームの手入れをしていると、友だちの、人間の女子高生が隣に座る。
「秋の七草が思い出せない……。自宅の住所を忘れたくらいのショックだ」
 教室の後ろでは男子三人が小さなお手玉を使ってリフティングに興じている。窓側では、友人Cはマハトマ・ガンジーに似ている。こんどトーガを着せて、釘バットを持たせ、あり得ない組み合わせを見て楽しもう、という話が盛り上がっている。
 とうぶん、自爆する心配はなさそうだと思う。
by warabannshi | 2010-03-05 07:20 | 夢日記 | Comments(0)
◆塩谷賢「科学哲学」講義@法政大学 #3 :09年10月5日
「運命や神はあるのか?」このような問いかけが無視できなくなって、運命や神がいるかいないかわからなくなってきときに、デカルト(René Descartes, 1596-1650)がやったのが、「真理そのものを見る」という試みです。絶対確実なものを見ようとしたときに行われたのが、方法論的懐疑です。「見ている私が見ている」。「われ思うゆえにわれありcogito ergo sum / Je pense, donc je suis」 という判断を持ち出してきた。
 その一方で「見る」という比喩を直接的に採用したのが、「現象学(Phanomenologie)」です。つまりデカルトはあるに言ってしまったんだよね。Sumはラテン語におけるbe動詞ですから。 be動詞に行かないで「見る」ということにとどまったのが、現象学です。
(p.1)

ところで、私が世界を知覚するにあたっての五感というのは、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れる……と、それぞれ全く性質が違います。とりわけその中でも、「見る」は性質が違う。見るためには光が要ります。光のエネルギーは対象のものではありません。それは借りものです。もちろん量子力学的に考えればそうは言えないのですが、日常的に考えれば、「見る」ことによって見られた対象は全く変わらないわけです。だから「見る」を、行為だとはなかなか思えない。「聞く」はどうでしょうか。今こうやって指を鳴らした音が聞こえた。何が聞こえたんでしょうか。空気の振動、音波ですね。それらはやがて消えてしまう。空気の振動、音波から、その音源を知ることはできるし、音源は消えないかもしれないけれど、聞かれている音そのものは消えてしまう。「嗅ぐ」はどうでしょうか。粘膜における化学物質の反応だよね。嗅がれている化学物質はなくなってしまいます。美しい女性の残り香、しかしその女性はもうそこにはいない。「聞く」の音源の例と同じように、化学物質のたまり場としての果物があるけれど、その果物は、嗅がれて消えてしまう匂いそのものではない。「味わう」はどうでしょう。これは明らかだよね、味わわれた食べ物は、食べたらなくなってしまうもの。「触れる」は微妙ですね。そっと触るか、ぎゅっと触るかで、全然違う。形を保ったまま、位置を動かさないまま、触るというのと、触ることによって形を変えたり位置を動かしたりするのは、違う。そこに「触れる」ということの不思議さとは怪しさがあります。
(p.4)

 見る・考えるという行為において変化するのは、私なんですよ。難しいのはその変わり方を追っていくことができないということです。物質的な変化だったら、その変わり方を追うはそんなに難しいことではありません。その変化を邪魔するものもわかります。どういう条件があるか。類似するような変化はないか。そういうことをチェックするほかの道具があるわけですね。ところが、見る・考えるとしての行為によって私が変わっていくのだとしたら、それが行為の内部でどのような変更をこうむるのか、それは簡単に解析することはできません。そのために私たちは違う方法を使わなければなりません。
(p.9)

 世界観というのは、ただ見ているだけの結果、受動的なもののまとまりでは全然ない。むしろ、世界観というのは、考えているという個々の行為をダイレクトに見ることができないから、それを知るために、結果として出てきたものの間を解析しながら、全体を窺っていくというときの素材であり、またその素材をつなげる仕方でもあるわけです。
 世界観を持つというのは世界がそのように見えているというだけではなくて、世界をそのように見るという枠を自分で作るということでもあるんです。だから世界観というのはただ単に眺めているものではなくて、ある種の構造化・整序化を求めるものなんです。それが科学との問題にどう関わってくるのかといえば、私たちが生活しているときに、ある仕事にたずさわっているときに、現に私が世界とコンタクトとしている。そういったときに、行為の原型が幾つかあるはずです。私たちはそこから取り出してくるんですよ。何事かを。科学者は科学者自身の世界観を、技法の中から取り出すんですよ。
(p.10)

 行為としての「見る」ということは何なのか。何が変わるのか。そういうことを考えるときには、「誰が見ているのか」「誰のどこが変わっているのか」「どういう立場で、何を始点にして、誰が考えているのか」そういう前提がどんどん暗黙のうちに隠れてしまうわけですね。誰が見ている何を見ている、ということが常に問題なるわけです。
(p.15)

◆塩谷賢「科学哲学」講義@法政大学 #3 :09年10月5日

--- 既出 ---
◆塩谷賢「科学哲学」講義@法政大学 #1 :09年9月21日
◆塩谷賢「科学哲学」講義@法政大学 #2 :09年9月28日
by warabannshi | 2010-03-02 12:10 | 塩谷賢発言集 | Comments(0)
第348夜「焚書」
 舗装がぼろぼろになっている山道を、自転車で走っている。ふもとで大型犬の餌を買っていたら、ついつい真夜中になってしまったのだ。
 ふと、いつもは無人のキャンプ場が騒がしいことに気が付く。打ち棄てられた空き地に、いくつもの灯が動いている。ちょうど尿意を催したので、キャンプ場のトイレに立ち寄ることにする。
 自転車を停め、トイレまで歩いていく。中央では焚き火のまわりで、ジャージ姿の若い男女三十人くらいがざくざくと動いている。禿げた頭部が奇妙な長さの者や、嘴が生えている者もいる。彼らが一心不乱に投げているのは、よく見ると、希少そうな古書である。
「どこのご所属ですか?」
 女児をつれた髭面の男に聞かれる。
 トイレに立ち寄っただけだと答えると、不審そうな顔をされる。
 逃げるようにトイレに駆け込むと、外で、こちらに人が集まってくる気配がする。用をたさずに窓から逃げ出し、自転車に乗ってひたすら逃げる。
 必死にペダルをこいで、ふと振り返ると、巨大な眼球の女性がすぐ後ろにいる。走るの早いな、息も切れていない、と思う間もなく、女性の振り上げた金棒が私の右手を叩きつぶす。
by warabannshi | 2010-03-01 14:26 | 夢日記 | Comments(0)



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