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第411夜「女子高生」
 最終バスを乗り継いで、とうとう中野駅のバスターミナルまで来たが、もうそれより後にバスは出ないという。中野駅から私の家までは歩いて三〇分ほどであるが、なにせ真夜中でしとしとと冷たい雨も降っている。明日は一限から教師としての仕事があるが、中野駅で夜を明かすほかない。
 夜を明かすと決まれば、中野駅のバスターミナルは楽しいところである。そこいらじゅうに露天商が熱帯魚や諸々の種類の金魚の入った水槽を幾つも立てて、白熱灯の光を夜の闇にきらきらと乱反射させている。微かな生臭い雨は、随分小降りになった。まあちょろちょろとペットショップとかをひやかしながら歩こう、と思い歩き出すと、
「おじさん、傘、忘れてたよ」
 そう後ろから声をかけられる。黒のショートヘアを頭のてっぺんでゴムで止めた、うりざね顔の女子高生である。
「ありがとう」
「二本の傘が、こう、斜めに並行になって置かれていたんだけど、どっち?」
「こっちかな」
 ちょっと高価そうなほうの傘を選ぶ。どちらも自分の傘であるような気もする。
 いつの間にか私と彼女は中野駅のターミナルの地下まで話をしながら降りている。彼女も終電がないそうなのだ。私たちは二度と会うことがないであろう者たちに許された気楽さで、歩きながら四方山話を語った。途中、私は靴紐を結ぶかなにかのきっかけでしゃがみ、彼女の脛にうっすらと産毛がはえていることを盗み見た。夜更けなので、地下街の店はほとんどシャッターを下ろしている。しかし、幾つかの中華料理の店は開いている。丹精込めそうな火鍋の店がある。
「いいかげん、歩きつかれたでしょう?」
「うん」
「激辛は平気?」
「わりとね」
 私たちは火鍋の店に入る。彼女がiPhoneを取り出す。彼女が所属しているビッグバンドの演奏を聴かせてほしい、という話をしていたことを思い出す。適当に注文を取り付けて、「TEQUILA」が快調に流れているイヤフォンを耳にはめる。タッタラタラッタッター、タタッタラタラッタ、のお馴染みの曲であるから、バンドメンバーが前のめりな演奏をよく抑制できているのがわかる、と思う。「Mambo No.4」「A列車で行こう」などを立て続けに聴く。
「いいね」
「でしょ」
「私も同人誌を作っているんだけど、一部あげるよ、たしか持っていたはずだから」
 雨でしっとりと濡れたカバンの中身をごそごそとまさぐる。
「これで火鍋をひっくり返すような出来だったら、ただじゃおかんよ」
 地を這うような声に驚いて顔をあげると、机の対面で女子高生は閻魔大王のような凄まじい形相になっている。


 ……という夢から、目覚める。
 すでに林のなかには朝陽が射しこんでおり、葉量の多い樹冠が涼やかに揺れている。
 私は、湿った黒土の上にすのこを敷いた、その上に敷かれた一組の布団で眠っていたのである。辺りには人のいる気配がない。
 アウトブラッド演習(戸外で眠る体験学習)に参加している私は、どうやら一人、熟睡していたために置いてけぼりをくったらしい。
 零余子をたくさんつけたユリ科植物の生える土手を登ると、やはり辺りには誰もいなくて、私の眠っていた布団が一組、泥だらけのすのこが五枚、放置されている。これは私が片付けるぶんなのだろう。携帯電話にはメールが入っていて、すのこは洗って小学校の体育館に戻しておいて、とのことである。
 女子高には気の利いた男子がいないのが難点だよなあ、と晴れ上がった空を仰いで、そのとき初めて私は自分が女子高生であることに気がつく。
by warabannshi | 2010-09-30 18:08 | 夢日記 | Comments(0)
◆塩谷賢「科学哲学」講義@法政大学#2 :10年9月27日[1/3]
●直接性と独我論――「私が××を△△する」

 前回は直接性という話をしましたが、直接性という語が分かりにくい、と授業のあとで質問がありました。確かに僕自身はあそこで勢いにまかせた話の――毎回勢いに任せた話にしかならないんですけど――、雰囲気を伝えるために、直接性という語をつかいました。普段はあまり自分で使っていない言葉なんですよね。だから、今回は直接性の解説をやってから、少し先へはいっていこうと思います。
 前回の授業のあとの質問では、「直接性ということをずっと強調すると、一つの独我論になってしまわないか?」と言う指摘がありました。私が直接何かをしていることということを突き詰めると、他人のことを無視したり、客観的なものをちゃんと判断できなくなるのではないかという心配がある、という。
 この質問に理論的に答える前に、行為的な観点から直接と、間接を対比したときの、僕が考えるニュアンスをお話したいと思います。質問に答えながら挙げた例が、こういうものでした。
 国際社会って、よく言うじゃないですか。ついこのあいだも中国と尖閣諸島をめぐって問題がおこりましたね。あと、国際人といわれている人がいます。諸外国に関するいろんな知識をもっているし、国際社会の情勢を評価したり、自国を外国に紹介したりすることができる。中国の文化はこうでしてねとか、フランスでこういうことが常識でしてねとか、いわば評論家です。その一方で、歌舞伎俳優の市川海老蔵さんとかがパリに行って公演をする。海老蔵がそうであるかないかは別として、自分の伝統芸能しかやっていないし、伝統芸能に関することしか知らない人、そんな人がいきなり、パリで公演をする。
 さて、国際的に活動する、交流するといったときに、どちらが直接的に活動している、交流しているといえるでしょうか?
 この問題は、「私が××を△△する」という文章構造と関連します。この文章構造の形態のなかでどこに着目点を置くか、それをどういうふうに考えるか、という問題です。
 授業の最初で言った、「直接性は独我論になるんじゃないの?」という問題が、なにに着目して直接性としているかというと、「私が」と「××を」の間なんですよね。そうではなくて、いま歌舞伎俳優の話を例にした場合の直接性はどこに着目しているかというと、「△△する」なんですよ。「私が日本文化を国際的に紹介する」という文章を考えたときに、評論家っていうのは日本文化を対象として知っていることがポイントになるわけですよね。だから、「私が」と「日本文化を」の間の関係になるわけです。その一方で、歌舞伎俳優が向こうへ行って、交流するといった場合、日本文化を「紹介する」仕方がポイントになるわけですよね、歌舞伎という仕方で紹介しているという点が。
ふつうは「私が」と「××を」のあいだを、物と物との関係、距離として捉えるわけです。そして隔たりがあるかないかということで直接性を考える。例えばフッサールは「志向性(Intentionalität)」という概念を使って直接という概念を考えています。ふつうはそうするんです。「私」と「××」の直接性を考える。逆に言うと、ふつうは「△△する」という動詞の部分が何なのかという話は、しないんですよ。去年もお話しましたけど、哲学においては二つの動詞だけしか本質的には考えられていないんですよ。主観的な場合は「見る」、そうではなくて、客観的な場合はそこに「ある=存在する」という。そこに「ある=存在する」ものを「見れば」、だいたい情報を取り出せるはずだから、それでいいだろうと考えちゃう。だから、「△△する」をほとんど無視しているんですよ。「私が△△する」についてはほとんど問題にならない。「△△する」は分かりきっているんだよ、「存在する」んだよ、もしくは「見える」んだよ、だから「私が」と「××を」の関係は何なんだという話に、皆、行ってしまう。
 行為論は、そうではない。まず「△△する」が問題なんですよ。われわれが何かをするとは、どういうことなのか。直接性が独我論に行ってしまうのは、「△△する」という動作の問題を切り捨ててしまっている場合です。しかも厄介なことに、哲学において動作は、大概、「ある」つまり存在ね、それから「見える」つまり認識ですね、この二つに還元されてしまうんですよ。「△△する」は、「△△するのを見る」、「△△するのがある」というレベルにおいて語られるわけです。
 僕が前回がんがん言っていたことは、そうじゃない、「△△する」という動詞のレベルを生かそう、という話なんですよ。西欧は動詞の文化なので、いろんな動詞からスタートしても良さそうなんだけれどね。でも、もしかしたらそうではなくて、動詞の文化だからこそ、動詞のなかで暗黙の動詞である二つを選び出すという作業をしなければならなかったのかもしれない。動詞のなかで万能の動詞である二つを選び出すという洗練を進めた結果、「△△する」が無視されるようになってしまったのかもしれません。


●直接性と現実性――「××を△△するという仕方、その結果としての私」

 僕がここで直接性という場合、先ほどの文章構造を使うと「私が××を直接に△△する」というふうになります。これをあえて書き換えるとすると、こうなります。
「××を△△するという仕方での直接性、その結果としての私」。
 「仕方」は「様態」とも言い換えられるでしょう。「結果」は「効果, 余剰」と言ってもかまいません。むしろこういう文章構造で話したいんですよ、僕は。「××を△△するという仕方」の結果、その効果として出てくる「私」。「××を△△するという仕方での直接性」というと名詞になってしまいますけれど、本来、これは副詞として機能するはずです。
 この構造とさっきの構造のどちらが良いとか悪いとかの話ではありませんよ。文章は用途、使い方で決まる、意味を与えられるものですから。どちらかが正しいわけではありません。ただ僕は後者の構造を考え方のベースとしてやっている。後者をベースとしてこれからずっと議論していきたいなということです。
 この場合の直接性・間接性を、さっきの日本文化の例で考えて見ましょう。歌舞伎役者の場合は、「私が日本文化を国際的に紹介する」の「紹介する」が「参加する」なんですよね。彼は動詞に直接関わっているわけですから。参加することによって、紹介する。評論家の場合に一番典型的なのは「紹介する」が「観察する」なんですよ。外から見て「観察・観測する」、つまり、見てとってしまうんです。このとき「観察する」ということ自身が、どういう意味で、「参加する」になれるのかが重要になります。そして、僕自身がずっと気になっていることは、「考える」ことが、「参加する」になるためには、どういうことをすればいいか、それはどういうことなのか、ということです。
先ほどの文章構造にのっとれば、「考える」結果として、余りとして、「私」は出てくる。……ついつい「私」を最初に立ててしまいがちですが、それは私たちがそういうふうに言語に意味を与えるほうが当然有用だったのだからです。だからしょうがない、なかなか抜けられない。でも、「考える結果として、余りとしての私」という視角をとりましょう。このとき、現実性という問題との関係がでてきます。
 前回、直接性ということを強くこだわった理由の一つに、現実という問題があります。ドイツ語では「Wirklichkeit」、英語だと「actuality」でしょうね。他に「reality」というのが別にあるけどね。これは語源が別なんですよ。詳しくは調べていないんですけれど。「reality」の「res」はもともと「esse」ですから。essence(本質)と同じ系統の言葉なんですよ。存在、物、延長して広がっているそれの本質です。その一方で、「actuality」は「act」、これは動き、働き、目のまえで行われていることです。「actuality」の方が、僕の直接性に近い。
 で、actualityとしての現実性と直接性がどういうふうに関わっているのか、という問題が当然入ってくるわけです。
 通常は「私」と「××」の距離として直接性をとらえる、という話をしました。つまり最初に「私」があって、「私」から「××」まで行くには距離がある。この距離が近いか近くないか、ということで、直接か否かを言うわけね。だから、こういうことがあります。僕が手のひらで、机を、ばん、と叩く。これは直接叩いていることになります。また、こうやって傘で、机を、こう叩く。このとき僕は机を間接的に叩いていることになります。間に傘が入っているから。「直接/間接」の第一義は、ふつうこれですよね。だから、mediate(間接)の「media」は「間、中間、媒介、差し挟まれたもの」です。直接はimmediate、間に挟まっているものが無い(im-)と表記されます。
 しかし、物理的には距離があるから間接だって言うけど、いま僕が傘で机をバーンって叩いて怒られたとする。そのとき、いいえ僕がやったんじゃないんです、傘が悪いんです、僕は直接関わっていませんって言っても、誰も信用しない。この場合は、僕は直接、机を叩いていることになるわけですよね。
 どうしてこういう二つの言葉遣いができるのか? 言葉を使う観点が違うからですよ、とウィトゲンシュタインが言っています。何が違うか。この場合は距離という概念を使う観点です。私たちは、小学校から習うわけですよね、二本の立ち木の間が何メーター離れています、これが距離です、と。だから、距離と言うと、まず物理的な距離をイメージする。他方で、僕とA君は親しい、でもB君とはあんまり親しくないから心理的な距離がある、という言い方もしますよね。いろんな意味で距離って言う概念を使います。
 だから、距離や隔たりといったときに、何が隔たっているかが問題なわけです。
 僕が傘で机をバーンって叩いた場合、傘は僕が何か行為をしようというときに、介入してこないんですよ。それはただ、僕の腕の延長としてあるだけです。目の不自由な人は白杖を使いますけれど、白杖の先端は彼の触覚の延長された先端だと言えます。なぜなら、傘や杖には自由意志が無いからです。これ、空間におけるなかなか面白い議論なんだけど、今は、考えるということが私たちの問題ですから、割愛しましょう。
 考えることの直接性を、空間をモデルとしてやるわけにいきません。なぜか。昔から有名なのが、想像の問題、想像という概念規定の問題ですね。
 カントが『純粋理性批判』(1781/1787)のなかで概念の一〇〇ターレルと現物の一〇〇ターレルの違いについて話をしています。一〇〇ターレルとは当時の大金です。銀貨が百枚あると。いまはとりあえず、一千万円の札束を考えてください。札束の色や形は大体分かるよね、厚み、匂い、手触り……そういう諸要素を考えることができます。でもそれはあなたの頭にある想像の一千万円であって、現実にある一千万円じゃありません。どう精密に考えても、頭のなかの一千万円で買いものはできません。想像されたものと現実のものの、何が違うのか。
 カントは、こう答えようとしています。想像されたもののほうは概念のレベル、「悟性der Verstand」の働きのなかにある。そして悟性とは、思考の形態を全部調べることだ。それに対して現実のものには、世界との感覚における「感性die Sinnlichkeit」が入っている。これが違うんだよ、と。じゃあ、感性とは何? と聞かれたときに、彼はニュートンからの影響もあって物理な世界観を採用していましたから、それは世界と触れていることだねとしか言いようがないわけですよ。一般的感性、超越論的感性がありますと。どういうふうに世界に触れているかという問いは、彼の批判哲学の問題です。
 でも、私たちはもう少しよく考えてみましょう。
 今、現実に一千万円の札束があったとしましょう。一千万円の札束をこの教室の机の上に置いて帰ったら、次の日にはなくなっていることでしょう。誰かに持っていかれて。私が頭のなかで考えた一千万円の札束は、泥棒が持っていくことはできません。
 また、一千万円の札束を想像している途中で、想像することに失敗することはありますよね。ばかばかしくなってやめたとか、一万円札の肖像が誰だった思い出せないことに気がつくとか、想像が成立しなくなる場合があります。この場合、想像していた一千万円の札束はなくなるわけです。現実の一千万円の札束とは関係なく、想像の一千万円の札束はなくなりうる。このとき、どこで想像したものは崩れるのか? 私の心の中の、一千万円の札束との距離において、と言うことができるでしょう。
つまり、距離というのは、逸脱という可能性、介入という可能性が認められるかどうかなんです。現実の一千万円の札束を持っていく泥棒は介入者です。想像の一千万円の札束を消し去るのは想像の逸脱です。なくなる札束と私のあいだには距離があります。
 距離があるかないかを考えたときに、逸脱や介入によって、結果がabnormalになるか否かが一つの視点となります。あるいはabnormalさを吸収してくれるか否かが。
 たとえば間接的なものの代表として、伝言ゲームがあります。僕がなにかを話す、どんどん伝言が続いていく、誰かが間違える、そしてヘンな伝言が伝わる。俺、そんなこと言ってないよ、途中誰かが間違えたんだよ、というわけですね。これはいい。では他の例はどうでしょう。例えば電話をしているとき、電話の向こうから、おかしいよって言われる。俺、そんなこと言ってないよ、電話線が間違えたんだよ、って、普通、言わないよね。
 つまり、「××を△△する」こと、何か動作しよう・行動しようということは、本質的に、何かあたらしいことをしようということなんですよ。逸脱をする。介入される。その結果としての私自身も逸脱する。繰り返しますが、距離というのは逸脱という可能性、介入という可能性が認められるかどうかです。傘や電話線な場合は、物理的な介入――傘を振りかぶったら折れたり、電話線が断線したり――がありえますが、意識的な介入は無いわけで、そのぶんだけ距離がないように捉えられるわけです。


テープ起こし: 太田和彦 藤枝侑夏

[付記 この続きは10/5以降になるかもしれません。しばらくお待ちください…: 太田]
by warabannshi | 2010-09-29 23:16 | 塩谷賢発言集 | Comments(0)
第410夜「炭素芯」
 長さ12cmほどの炭素芯が私の前で話し始める。初めの二言三言はわからなかったけれど、聞いているうちに日本語になった。
「私は肉と付き合っているのではない。世界の肉を所有することなどできない」
「人は耳から狼になる」
「中性的な鎖の数ある輪のもっとも脆弱な一つの輪が、その鎖の脆弱さを決める。
(例)
〈予期のされなさ〉〈不意打ちとしての未来〉〈偶然化〉〈師の言葉〉」
「(抱き締めている相手に対して)お前じゃない!」
 そしてまたすぐに解らない言葉になった。
 私の目の前にいた炭素芯が私に向かって言っていたのかどうかは、不明である。
by warabannshi | 2010-09-29 16:32 | 夢日記 | Comments(0)
第409夜「観葉植物」
 やけに蒸し暑い私の家のリビングで、黒々とした丈高い観葉植物がしきりにくねくねと踊っている。
 フローリングから舌が生えているようだ。 よく見ると植物は横に揺れているわけではなく、うっすらと8の字を描いている。向日葵の亜種であるところの「サービス草」ではないかと思う。キャベツを擂ったような青臭さが蒸し暑さとあいまって居たたまれない。
 観葉植物は乳房のように分厚い葉を揺らしながら、「いつも答を知っている男の左尻は黄色い牛蒡」という俗謡を歌っている。
by warabannshi | 2010-09-26 18:33 | 夢日記 | Comments(6)
◆塩谷賢「科学哲学」講義@法政大学 #1 :10年9月20日[3/3]
《抽象的なものにおける直接性》
●先に意味があるから統合はなされる、わけではない――誰それさん研究について

 ではシステム、っていったい何でしょう?
 去年も言ったことだけれど、システムっていうのはものすごく曖昧な概念です。日本語に直すと「系」。
 Systemのsys-は、統合する、という意味ですが、それは単純に複数のものが合致するということではありません。例えば、Syntax、これは文法における統辞ですね。言葉が集まって文を成しているということです。Symposion、いわゆるシンポジウムですが、もともとギリシアではみんなで酒飲んでわあわあと気分を昂揚させることでした。つまり、統合の「統」とは、そこに集まったものから何か新しいものが生まれてくるということなんです。その新しいことが生まれる、その新しいものに何か統一性が見られる、ということがシステム論の問題です。古くは、共通する部分をみんなが等しくもっていて、そのみんなに共通する部分が統合の要を担っているのだと、そういう理解がふつうでした。
 では、言語を見てみましょう。
「今日はだるいなあ」
 これは日本語の文章です。つまりシンタックスにのっとっている。文節を分けることもできる。さて、分けられた品詞の、どこに共通部分があるでしょうか? ありませんよね。だから次に、統合の要を担っているのは共通部分ではなく、意味である、と考えるようになってきます。意味に照らして統合はなされていくんだよ、と。でも構造は変わりません。先に共通部分があるから統合はなされるんだよ、と、先に意味があるから統合はなされるんだよ、とは名詞が変わっただけです。
 でも、今日最初にお話したラカンは、そうは考えていません。そうではなくて、「まさに統合するということ自身がどのような出来事として起こるのか」という問いを立てます。ラカンが専門とする精神分析は、いわば心のシステム論です。無意識というものがシステムとしてどのように現れてくるか。
 その一方で、“誰それさん研究”というのは、「先に意味があるから統合はなされる」という考え方考えるんですよ。フッサールが、デリダが、シェリングが、ヘーゲルがいましてね、それらの論理体系の中で、これこれという事象なり問題が統合されます。というのは彼らの名前を意味として考えているからなんです。[哲学者の名前という]意味が[哲学の]システムのなかにどのようにはまっていくか。もちろん、彼ら自身の思想体系もまた一つのシステム(サブシステム)をなしているわけですが。このやり方が、通常言われているところの“誰それさん研究”です。ところがこのとき問題なのは、彼の人生というもっと広域なものが立ち上がってくるという点です。だから“誰それさん研究”は二分されることになる。誰それさんを、哲学のシステムにおける意味として考えるやり方と、彼の人生を現象として考えるやり方です。前者は解釈です。解釈においては、誰それさんの論理体系だけではなく、解釈している人の、私が哲学というシステムをこのように捉えたい、という主観も入ってきます。後者は〈伝記〉です。誰それさんの著作を読み、草稿を探し、手紙のやりとりから推測し、ドイツなんかでは図書館の貸し出し記録がすべて残っているから、この時期に誰それさんがどんな本を借りていたかなども調べ、……などして〈伝記〉を作るわけです。
 解釈をしているときには、誰それさんの全貌を見ているわけではありません。〈伝記〉を作っているときには、サブシステムとしてのつながりが希薄になりがちである。両方とも問題をもつわけです。だから日本で多いのは、誰それさんがサブシステムではなく、システムの全体であるように考えてしまうことです。あるいは、誰それさんという現象の立ち上がりを、解釈の意味とつなげてしまうというハイブリッドなことをやってしまいます。つまり、誰それさんの属していると見なされている○○学派の意味解釈を行っている一方で、誰それさんという現象の立ち上がりについては、一生懸命〈伝記〉を調べるというやり方です。
 それはそれでいいんですけれども、そうした時に哲学というシステムに対する曖昧さはより一層深まります。○○学派、○○主義、○○時代、という大ざっぱな括り方をしてしまうことになる。
 ところが、そもそも一つの問題として哲学が立ち上がってくるということは、歴史的にどのような経緯を持っているかということと不可分です。誰それさんがどのような時代に置かれていたのか、その時代の知識によって考えさせられていたか、――さっき授業で言ったように、頭の中にどのような技が常識としてすりこまれていたか、そこにどのような不具合を感じていたか――そのなかで立ち上がることは、同時にソクラテスやキリストから始まる哲学の潮流においてダイレクトに問題となることと重なりうるわけですよ。というか、この二つが重なるような解釈でなければ、誰それさんの研究というものは、生き生きとしてこない。
 今年の科学基礎論学会で、アメリカの数学者の方を呼んだのですが、ジュリエット・フロイトって人で、彼女はヴィトゲンシュタインの研究者なんです。何を問題にしたかというと、ヴィトゲンシュタインにおける数学の問題を考えたと。そして無理筋なんだけど、解釈と〈伝記〉を結びつけることをやろうとするわけです。つまり、ヴィトゲンシュタインが生きていた一九三〇年代から四〇年代のいわゆる戦間期において、ヨーロッパにおける数学、知的な雰囲気のなかでヴィトゲンシュタインはどういうことを問題にしたのかと。そういうことから彼の仕事を捉えるということをしたわけです。当時話題だった数学の問題はいまはどうでもいい、ということはなくて、それは現在における数学の問題の系譜です。そうやって現代性を確保しながら、ヴィトゲンシュタインの書簡を参照して自説を裏付けるという作業もしている。
 彼女の発表のあとで、日本でヴィトゲンシュタインの大家と言われている飯田隆さんと歩きながら話をしました。無理はあるけど面白い話だよね、と。そして、なんで日本の哲学研究ではああいう仕事がないのかね、という話になりました。ヴィトゲンシュタイン研究者というのは日本にも山のようにいるわけですよ。しかも異常なまでに詳細な研究をする人もいるわけ。日本人の研究者ってマメなんです。細かく原書を読んだりね。人によるんだけど、アメリカあたりの研究者は翻訳でしか文献を読んでいない人もいる。なのに、なぜ日本ではああいう面白い研究がないんだろうと。
 その問いは、いまの日本の哲学で直接性を問題にすることがあまりに気にされていないこととつながっています。もしくは気になっているんだけど、そんなことに集中するとおまんまの食い上げになっちゃう、先端の哲学にキャッチアップできない、学校で教えるにしても、その前に日本の諸々の学会のシステムのなかで論文を書けなければいけないし、まごまごしていると就職できなくなっちゃう。……やはり酒を飲みだすと、皆、直接性ということを問題にしはじめるわけですよ。でも、普段は、察してくださいよ、という程度にしか出せない。じゃあ非常勤の僕がそれをやっちまおうと、そう思ったわけです。というか、僕にはそれしかできることがないんで。


●抽象的なものにおける直接性とはなにか

 じゃあ、直接性を問題にするときに、なぜシステムという話を持ち込まなければならないのか。
 私たちはさきほど、システムが立ち上がってくるということを〈伝記〉という歴史的・概念的な立ち上がり方の観察として扱ってきました。システム論というのは、システムを外から見たときにどのようになっているか、どのように出来上がったか、を論じることではないわけです。生命はシステムの典型だけれど、それはプラモデルのように組みあがっているわけではないですよね。去年、オートポイエーシスとの関連で扱いましたが、それ自身がそれ自身として出来上がっていくときに、出来上がってきた結果を観察して記述することが問題なのではない。そうではなくて、「出来上がってくる」ということが問題なわけです。これは、哲学のなかで「立ち上がってくる」ということがどういうことなのか、という問題とつながります。そして、問いをどう立てるか、ということは直接性と関わるんですよ。
 直接性というのは哲学の抽象的なレベルにもまたありうる、と先ほど言いましたよね。ありうる、というのはどういうことかというと、そこでどういう問いを立てるか、に関わっています。直接だから具体的、間接だから抽象的という話ではありません。直接的/間接的、具体的/抽象的という分け方は、同じ軸にあるのではなくむしろ直交しています。抽象的なものにおける直接性とはなにか。
 哲学って思考でしょ。私たちが飯食って、昼寝して、トイレに行くということに比べたら、思考なんて最初から抽象に決まっているんだから。いや、哲学が直接的であるということにはなにか生々しい感情がある、というのは、解釈と同じように私がそのように捉えたいと外側から思っているからではないでしょうか。思考を行為として考えるということは、思考ということがどのように直接的であるか、「立ち上がってくる」とはどういうことかを問うことです。それはしかし記述することではありません。通常、私たちは記述することしかできません。そしてそれで良い、と思っています。なぜなら、人間は別に思考だけで生きているわけではないから。
 極端なことを言うと、皆さんはいまこうやって話を聞いていて、「考えているのは自分だ」と思っているでしょう? けれど、いま話を聞いて考えているのは、自分のなかのほんの一部にすぎません。皮膚の下の神経には絶えず電気信号が走り、ちょっと肘のところが痒くなったりして、そして掻く……それらは紛うことなきあなたというシステムです。けれど、なぜか私たちは考えるということをもって、システムのすべて、自らの本体であると見なし、主人の位置におきがちです。だから、「自分を知りたいから哲学をしたい」という言明がありうる。どうしてでしょうか? それを考えるためにシステム論を入れたいわけです。
 システム論ということになると、抽象的に進んでいくことの典型として、生命を持ち出すことが多いのですが、生命というシステムはあまりにも厄介なので、ここでは社会というシステムを扱います。そして社会システムと同時的な話として学問というシステムの話をしたいと思います。学問というシステムが一番うまくいっている例は何かといえば、それが科学scienceなわけです。つまり、システムとしての性格が大変強い。それ自身がそれ自身として出来上がっていくという側面が、科学には強くある。それは科学に携わっている人間が自立しているからという話では決してない。科学自身のなかに何かがある。
 多細胞生物において、個々の細胞はやはり生きているわけですが、それをもって多細胞生物(人間を含めて)を生命体の集合とは考えないわけですよね。それは一つの個体であると。にもかかわらず、社会においては、社会は個人の集合体だと考え、社会のなかに固有な何かはないという議論がある。でも、これも議論の仕方の問題であって、意味の位置に社会があるのか、立ち上がる現象として――いまは創発emergenceというわかったようなわかんないような言葉を使いますが――社会があるのか、その位置の置き方で変わってくるわけです。


●社会、科学、言語、数学

 去年言ったのは、科学というものがいかに気持ちの悪いものであるか、ということでした。今年はそれを裏返してこう言います。皆さんにとって自分というものがいかに気持ちの悪いものであるか。自分が思考しているということが、どれだけわからないことなのか。
 それにもかかわらず、直接性を求めなさい、と私は言います。
 標語としては、「直接性から行け」、です。
 総発という言葉もまた、直接性において理解されなければならないんですよ。けれど科学ができるのは、それを外から記述することだけです。総発性の科学、というのを池上高志さんとかがやっていますけれど、そこにおいても、直接性において、ということは書ききれないんですよ。なぜか。私たちは記号でしか書けないからです。科学において、記号と記号が表わしているものの分離は仕方ないんですよ。その分離がないもの、それは数学です。あるいはヴィトゲンシュタインが言うように、私たち言語そのものです。
 システムという問題を扱うときに、その典型として科学は非常によろしい。しかし、直接性において、という問題に関しては、科学を安易に採用できない。
 だから、直接性において、という問題においては、言語、そして数学を典型とします。数学が言語であるか否かというのは数学の哲学で問われていることであり、両者は必ずしもイコールではありませんが。
 システムに環境が不可欠です。環境を、世界と言い換えてもいいです。
 科学は、環境=世界に対して実験と観察ということを行い、つながります。では科学の記法であるところの数学は、環境=世界に対してどのようにつながるでしょうか? わかりません。数学が環境=世界とどのようにつながっているのかについては諸々の議論があります。数学的世界がある、という人もいます。言語はどうでしょう? 日常言語と詩の言語をわける必要はあるでしょうか、ないでしょうか。これもやはりわかりません。真理というものが入ってくるかもしれません。そして言語、コミュニケーションによって成立する社会もまた、環境=世界とどのようにかかわっているのかわかりづらい。ただ、明確にこの関係についてオートポイエーシスの立場をとって議論しているのが ニコラス・ルーマン(Niklas Luhmann, 1927-1998)です。法政大学出版から『社会の科学』『社会の法』『社会の宗教』『社会の社会』の四冊が出ています。興味がある方は読んでみると良いでしょう。
  そして、哲学はこの図の全体を鏡にうつす、ということをする。去年は、世界観という哲学の内側から説明していきましたが、今年は逆方向になります。哲学はこのシステムにはめ込まれたものでありながら、直接性を標榜するがゆえに、システムの全体を包み込もうとする。哲学とは一つのジャンルではありません。ものを考えるということには哲学的な含みがあるんです。外から書くという間接的な仕方でしか通常はものを考えることができない。けれど、「考えている」ということにおいてはなんらかの仕方で直接性に触れているという確信がある。考えるということは、ヴィトゲンシュタインが、言語は記号操作ではない、というように、コンピューターがシミュレーションを続けているのと同じではない。一見同じように見えながら、それは本質的に何かが違う。その違いを強調しすぎることはないんですけれど、違うという確信がある。その確信に迫っていくために、直接性の代名詞として、行為を考えたいと思います。それが今年の方向です。どうなることかわかりませんが。

テープ起こし:太田和彦、藤枝侑夏
by warabannshi | 2010-09-24 19:22 | 塩谷賢発言集 | Comments(2)
◆塩谷賢「科学哲学」講義@法政大学 #1 :10年9月20日[2/3]
《システムと直接性》

●上から教える師と、下を這いずり回る師

 今日はまず大雑把に哲学の全般的な感覚から、ちょっと話してみようかと思います。
 哲学はご存知の通り、ギリシャを源流にすると言われています。哲学は、西洋人の考えたものです。ヨーロッパの人間が、しかも先ほど言ったように中世イタリアが中心となって展開してきた。現代イタリア哲学については最近、アガンベンやエスポジトなどの翻訳が出はじめたけれど、ほとんどが専門家くらいしか知らない人ばかりで、日本において哲学というのは、大概、アルプスの北の方ばかりだったんですよ。
 フランス哲学がもてはやされるようになったのは、60年代、特に69年の学生運動のときの哲学者のアンガージュマンといわれている運動があった以降の話で、それまではドイツ哲学でした。「哲学」という語は、西周(1829-1897)が翻訳したのだけど、明治の頃に留学した連中は、皆、ドイツに行きました。理由は簡単で、その頃ドイツが強かったからですよ。普仏戦争に勝って、1871年にドイツ帝国が成立して、その当時のヨーロッパで一番強い国だったからです。それまでは、実はフランスに行っていたんですね。西郷隆盛のいとこで軍人の大山巌(1842-1916)の留学先はフランスです。彼が留学したのは、普仏戦争の前だったから。新興国って、その当時、一番強い国に行くんですよ。で、そこから何かもらってくるわけです。で、そこのものを崇めるわけですよ。最近で言えば、アメリカの国力は低下しているから、やっぱりEUのほうがいいんじゃないかということで、EUのほうが留学先として人気が出てきた。あと二十年もすると、皆、中国に行くんじゃないでしょうか。
 話がそれましたが、哲学は、基本的に、ヨーロッパの人々が作ったものです。ヨーロッパの人々の言語で語られ、ヨーロッパの人々の発想に基づいています。つまり、自分の意見を主張する。主張ができないやつは頭が悪い。まともな人間なら意見を主張する。主張をするには根拠がいる。根拠がきちんと明示できないようなやつは、やはり頭が足りない。……戯画的に言えば、こういう発想に基づいています。だからディベートが盛んだし、それはもともとギリシアの哲学が、弁論術、ソフィストたちの論争からスタートしたということに、端を発しているわけです。
 さらに、その潮流はキリスト教と合体する。キリスト教はもちろん、ヨーロッパ起源ではありません。中東イスラエル北部の乾いて暑い町、ナザレで生まれたイエスという人の言行に、ワーっと熱狂的になった人たちが、私たちは殺されても構いませんとか言って、浸透させた。その一方で、知的な側面ではものすごい葛藤がありました。だから、キリスト教徒たちも、ものすごく議論したんですよ。ものすごい議論をするなかで、ギリシアの哲学とも闘争しながら、お互いに位置づけを調整して、しかも伝統の違いというのをぐちゃぐちゃに絡めながら、個々の問題に関して出来上がってきたものが、現在、哲学と言われているものです。
 哲学の歴史の黎明期には、ですから大きく二人の〈師〉がいます。
 一人は、ソクラテス。ソクラテスは、人生の教師だっていう言い方があります。有名な産婆術を使って、みんなが分かっている話をして、それに対してそうじゃないそうじゃないというふうにしていく。もう一人はイエスです。イエスを人間扱いすると、神学者に怒られるかもしれませんけどね、神様になんてことを! って。
 さて、日本において〈師〉のイメージは、中国の諸子百家のイメージを強く継いでいます。例えば、孔子、孟子、荘子、韓非子、…皆、「子」が付きますね。つまり先生方なんですよ。偉い先生方がいて、弟子は先生方に教えを請うわけです。論争するときは弟子が先生を言い負かすのではなく、ある先生が他の先生を言い負かすという形になっています。弟子に対して先生はいつも優位に立っているわけです。
 ところがヨーロッパにおける、師というのは、違うんですよ。
 十字架は、いまではペンダントで飾ったりイヤリングで飾ったり、ピアスにつけたり、するでしょ? でもあれは、元来はものすごく忌まわしいものですよね。あれは磔柱ですよ。日本でも十字架は磔柱です。キリストが磔柱で殺されて、一番最低のところに落っこちたということが、全人類の救済になった、というひねりとして位置づけられているんです。十字架はあくまで、人がここで刺し殺されて磔られたということを、常に思いながら見なければならないんです。
 ではソクラテスは尊敬されていたのか。ソクラテスの弟子は、先生を尊敬していたのか。それは、怪しい。プラトンが書いている対話編にも、先生が言うことは、なんなんだろう、わかんなくなっちゃいました、困りました、という話が多いじゃないですか。いじめられて困っちゃいましたという話ばかりです。ソクラテスは言い伝えのなかでしか語られませんが、猪首で、顔は醜男だし、奥様は悪い人だった、と散々です。ヨーロッパにおける二人の師、ソクラテスとキリストは非常に下を這いずり回った人たちだった。彼らには上から何かを教えるだけではなく、自分が苦しんでいるところを見せる。それは哲学の原型の一つの側面です。


●哲学をシステムとして徹底させること

 キリスト教は論争という過程を経て、使徒パウロによってシステム化され、非常に高度な文化として発達していきます。神学というと皆さんはばかにするかもしれませんが、思考の内部の議論の重ね合わせによって、とてもじゃないけれども近代科学程度では及びもつかない密度の高い議論が幾つもあります。
 しかし、システムとして構造化されていくために犠牲を払わなければなりません。ある問題に対して深く深く突き詰めていくことと、ある問題を構造化して、つまり難しい側面を忘れて解ける問題に直していくということは、そのぶんだけ実感や、さきほどの直接性から離れうるということになります。システムがどんどん構築されていくと、そのなかで生きている人たちは、それでもそのシステムのなかに直接性というものをどうにか取り込もうとする。哲学はそういう二つの分裂する方向を持っているんです。行為としての哲学は分裂した方向の総体です。
 そしてシステムとして徹底的に構造化するというのを目指したのがUniversitätです。大学の本態として、Wissenschaft(学問)を掲げられるわけですが、このWissenschaftを分解すれば「Wissen-; 知る」と「-schaft; 幹」です。テンニース(Ferdinand Tönnies, 1855-1936)がゲマインシャフトGemeinschaftとゲゼルシャフトGesellschaftという語で社会形態を表わしていますね。ゲマインシャフトは構成員がお互いを思い会うかたちで幹(schaft)を形成する部族社会とかそういうものを指していますし、ゲゼルシャフトは親方から徒弟が技術を身につけていく、そして一人前の職人としてギルドに参加する、というかたちで幹(schaft)を形成する、そういう人の集まりです。つまり、Wissenschaftには参加が求められる。そしてそれが哲学の手法の分化を生んできたんです。ドイツ観念論だの、イギリス経験論だの、現象学だの解釈学だの、いろんな手法が山のようにあるじゃないですか。そのなかで、例えば、「私はカントの勉強をしてます」と言ったとする。「何やってるの?」と聞かれる。「超越論的演繹をやっています」と答える。でも、相手の聞きたいのはそういうことではなくて、「カントの言っていることに対してあなたの意見は何なの?」ということです。システムのなかでの位置づけに関する問いかけです。
 よく科学と哲学の違いとして、前者には積み重ねがあるけど、後者には積み重ねが無いと言われますが、それは半面当たっていて半面当たっていない。Wissenschaftにおいて積み重ねはあります。しかし、一番へりくだって、這いずり回っているそのただなかにおいて、積み重ねはありえません。もどかしさを積み重ねる、ということができないように。どのような問いかけをなすかということについて、システムに拠るのであれば、先人の仕事を参照する必要があります。しかし先人がやったこと、という積み重ねは、どういう意味で積み重ねなのか。
 いつも人間が哲学をしたいしたいという気分になるのは、せめて自らが自らの師としてありたいためではないでしょうか。他人にとっての師ではなく、自らにとっての師としてありたいために、直接性に向かっていく、ということがあるから哲学という営為があるのではないでしょうか。だから、システムとしてのWissenschaftと、ぶつかることがあるわけですよ。哲学には積み重ねがあるとかないとかね。でも、そんなに簡単な話じゃない。システムのただなかにいて、このシステムに埋もれて、そこで直接性を見出す人たちもまたいるわけですよ。


●システムの内部において、直接性は必要ない

 自然科学の教科書を読むと、そこには揺るがないような知識と説明が整然と並んでいます。しかし、実際の研究現場はぐっちゃぐちゃです。
 例えば今月号の日経サイエンスで、茂木君がスーパーカミオカンデの訪問記を書いていますけれども、しばらく前にニュートリノの質量が観測された。ニュートリノに質量がある以上はそれまで使っていた標準理論はもう使えないと。それはもう分かっているんですよ。でもどう直したらいいかをまだ誰も知らない。(笑)今現在までのわかっている理論と、今現在わかっている事柄というのは、全然整合していないんですよ。そういう事例はいくらでもあります。例えば量子力学が成立する際の話。マックス・プランクが作ったんですけれども、エネルギーの値が飛び飛びであること、そう仮定すれば計算がうまくできるんだよ、という話でわーっと進みました。でも、プランク自身は、なぜエネルギーが飛び飛びであるのか一生分からなかったらしいんです。確信に基づいて、うん、世界はこういうものなのか、とは全然思わなかったらしい。ただこう仮定するとうまく計算できてしまう。困ったなあ、と。それに対して、アインシュタインは、世界はこういうものなんだと積極的に世界像を示しています。ハイゼンベルクやボーアとかも、そうですね。
 つまりシステムの一部になるということは、必ずしも直接性を得なくてもできる。私たちが生きているなかで、この時代のなかで、この知的状況のなかで、この情報化社会のなかで、直接性がなくても他人にとっては痛くもかゆくもない。あなたがそこで何かをするということが、相手に反応することに充分な材料を与えてくれるのだったら。だから、社会や他人のためではなくて、この直接性ということが、本当に何なのか、ということを必要とするのは自分しかいないんですよ。だから、哲学の教師というのは、自分の教師にしかなれないんですよ。他人の教師になんてなりようがない。だから、哲学は教えられないんですよ。哲学の内容は。
 哲学を教えるということは、「これが哲学です」と渡すことではない。これは荘子の喩えですが、ほら、あそこに建物があるでしょう? ――みんな見たね? なにを見て、建物のほうに目を向けました? 僕の指だよね。でも、僕の指は、あの建物を指しているとは決まっていない。ここに指があるだけじゃない。じつはここのところで神経の一部がぴっと誤作動を起こして指が立っただけかもしれない。なのに、みんな、指の方向に目を向けたよね。ちなみに、オリジナルでは、指が指しているのは月です。月を指しているのは指だけれど、指は月ではない。だから言葉の内だけで考えていてはだめだ、というのが中国の言い方なんです。月を知らなければならない。指は言葉なんです。言葉は指しているだけ。言葉は代理している。でも、どうやって代理することができるの。僕の指はあのでっかい建物をどうやって代理することができるのか。どういう意味で代理しているのか。不思議でしょう? これはあとで議論しますけれど、ヴィトゲンシュタインが青色本で言っている直示定義というものです。とはいえ、そう簡単に言ってはいけない。分析哲学の授業だったら、「これは直示定義です」と言って、そうですね、と言って、そこから始めるんですけれど、それはもう、分析哲学というシステムの内側での議論なんですよ。だから、分析哲学をやりたい人は、そこから始めてくたさい。分析哲学、それは一つの分野です。そしてその前提を問うてはいけないんです。
 でも、本当にそこで止まることができるでしょうか? そこで止まることがあるとしたら、「それはそうなんだ、仕方がない!」と腹の底から納得するときでしょう。「そう言われたんで、だからそうします」。これが哲学において私たちが訓練、調教されるということ内実です。技を伝えられるというときの本態はこれです。とくに後期のヴィトゲンシュタインは、言語を学ぶということは、動物の調教と同じだ、という見解をとっているけれど、それは言葉に限りません。私たちがあるシステムの内部で考えるということそのものが、考えるときに採用する前提の虜となっているわけです。ヴィトゲンシュタインは「生活形式」と、フッサールは「生活世界」と、そういうふうに私たち哲学者が意味のありそうなこととして言っているそれは、何のことはない、それは私たちが動物のように、あるいは機械のように飼い慣らされている、この世界のことです。その世界の一部として哲学の形態というものはあるわけです。
 そういう意味での直接性だけで納得することができるか?
 そうだとしたら、動物になったほうが良いよね。動物がその場その場で生きて、思い煩うこともなく、生き物を食い、敵に食われ、死んでいく。――これを理想の生き方だと考える哲学者もたくさんいるわけですよ。そこにおいて人間の変な葛藤だとか、神様に近づこうだとか、そういうことによって心の平安を乱されることはない、と。でも、それは彼らが、神様と被造物との対比という前提のうえで、人間の不幸な状況に対して行った解釈なんですよ。ああ今日は疲れたなあ、家に帰って猫のように寝ていたいなあ、とかその程度の気持ちかもしれません。野良猫だったら、明日も飯が食えるとは限らない、車に轢かれるかもしれない、子供に苛められて死ぬかもしれない、……そういった不安が常にあるはずですが、そういう不安をすべて忘れて平安になれるか。それで自分を納得させることができるか、といったらそんな簡単にはいかないわけですよ。
 私が私であるということを知ろう、というのが去年のレポートにたくさんあった「哲学とは何か」の答えですが、ではどのようにして私が私であるということを問うか、「私」のなににこだわりたいのか、ということを、もう一度自身で省みなければならない。そうでなければ、なんとなく調教されて、こうだね、うん安心した、で終わってしまいかねない。哲学をやるなら、それがどういう意味であなたにとって直接性としてあるんですか、と問いかけないと。そして納得しないと。
 というか僕自身にとって、直接性は常に欲しいものなんですよね。そんなものは要らないよ、という人もいるでしょう。それはそれで構いません。
by warabannshi | 2010-09-24 19:21 | 塩谷賢発言集 | Comments(0)
◆塩谷賢「科学哲学」講義@法政大学 #1 :10年9月20日[1/3]
塩谷賢さんの「科学哲学」講義@法政大学第1回(10年9月20日〉のテープ起こし原稿です。読みやすいように、随所の表記を話し言葉から書き言葉に変更しています。

《09年度講義を振り返って》

●哲学をするとはどういうことか、どんな変なことなのか―「ワザ」と「ゴウ」

 去年は僕がやったことは、「考えるということを行為として捉えたい」ということでした。でもそれは言葉で言っただけで、中身を何にも示さなかった。だからもう少し中身を足そうと思いました。去年のシラバスにちょっと手を入れて、理解という概念を入れようと思ったんですよ。
 ところがですね、去年の学期末に、「哲学するってどういうことだと思う?」というレポートを皆さんに書いてもらいました。なかなか面白かったんですが、基本的に、やっぱり自分っていうことに対してものすごくこだわる方が多かった。どういうふうに自分を知りたいとか、自分っていうことをどうやって理解するかってことを主題にして書く人が多くいました。
 去年の授業も科学哲学だから「科学に対してどうやって接するか?」という話をやっていたのですけれど、まずその前の前提として、「〈自分〉ということについてどう考えるか」ということと、「〈科学〉ということについてどう考えるか」ということとの間の、関係の作り方についてまず踏まえないと、ただ単に科学哲学にはこういう話がありますね、こういう考え方がありますね、という話で終わってしまう。
 去年の最初にも言ったんですけど、普通、「授業」は「ワザをサズける」ですよね。「業」は、「ワザ」ですよね。ワザだから、技術なんですよ。大学では知的なワザを勉強せよ、というわけです。
 ところが、それは学問の制度を考えたときに、例えばドイツだとSchuleといわれているものに対応している。Schuleの中にもいくつかあって、日本だと高専に対応している、Hochschuleというものがあります。これはものすごく程度高いんですよ。日本で言うと、工科大学どころじゃないレベルも持っているわけ。
 これに対して、Universitätというのは、全く別ものなんですよ。大学もいろいろ違っていて、どう違うかって言うと、それらは神学をベースとして作ったという経緯があるわけね。中世に有名な大学が幾つかあります。つまり、フランスのパリ大学(12世紀前半)、イタリアのパドヴァ大学(1222年)、スペインのサラマンカ大学(1218年)などがあるんだけれど、それぞれ得意分野が違います。例えば、現代フランス思想で有名なパリ大学のもともとの得意分野は法学です。法律なんだよね。じつはもともと哲学が一番強かったのは、イタリアなんですよ。パドヴァ大学なんです。ちなみに当時のドイツに大学は無かった。ドイツに大学らしい形のものが出てきたのは、フリードリヒ2世(1712-1786)のあたり、つまり、絶対王政ができる頃にです。そのUniversitätって言うのは、ある一つの場所にみんなが集まって議論する場所、と言うことなんです。だから、ワザをサズけることがもともとではない。
 ……というのは言い訳で、単純に私には、伝えられる技が無いだけです。大雑把にざっと解説することはできるかもしれないけれど、いまどき、毎週九〇分間かけて、人から話を聞くこたあない。本読んだりネットで調べたりするよりは早いかもしれないけど、間違った知識を得ちゃったら返って害になる。
 だから私が授けるのは、「ワザ」ではなく「ゴウ」です。
 正確な哲学的概念の内容、歴史的経緯を知りたい、いま標準的な見解を聞きたい、という方がいるとしたら、たぶん僕の授業からそれらの答えは出てきません。
 哲学をするとはどういうことか、どんな変なことなのか。そして科学とは、どういうことか、どう変なことなのか。……を、お見せできたらいいと思います。
 見せるってほどのものじゃないですね。哲学って言葉を僕は簡単に使っているけれど、はっきり言って、何が哲学かって僕もよく知らないんで。だいたい、日本における哲学科とヨーロッパ圏における哲学科の位置は違うから。哲学って向こうだと凄く偉いんですよ。日本ではそんなに偉くない。最近みんな就職が無くて困っちゃう。哲学科というカテゴリーは、もう元帝国大学にはないからね。全部つぶしちゃったから。同じ哲学なのかと。
 僕自身もいい加減な日本のなかで、哲学に転向して二十数年、やってきたときに、僕はこういう風にしかできないよ、いまこういうことに関心があって、こういう風に思うんだけど、みんなはどう思う? と問いかけることしかできません。
 ですから、シラバスの順番と変わることもあると思います。自分自身がものすごく悩んでいる部分なので、前もって半年の計画を出せるほどしっかりしていません。申し訳ありませんが、出たとこ勝負にお付き合いできるようでしたら、半年お付き合いください。


●私たちが話すとき、先に意味があって、それを表現しているのではない。

 いま何を問題視しているか、ということをまずあげますと、去年授業をやってみて、これで何とか行けるな、と、そういう気がしたんです。よくよく考えたらそれが一番の間違いだった。なぜか。
 哲学は、日本だと偉くないのに偉そうな顔をするんですよ。この間、雑誌の週間東洋経済で哲学の特集が組まれました。そのなかで「哲学カフェ」の記事がありました。高い授業料払わなくても、お茶を飲みながら町で議論できる。大学の先生が出てきて話してくれる。非常に知的な雰囲気があってうれしい。という内容です。出版社からも、今のうちだから、翻訳を出しましょう、そうすれば少しは儲かります、という話が来る。で、そういう雰囲気のなかで、哲学から何かが言えると思ったのが、大間違い。ということにもう一回、気付かされました。
 理由は幾つかあります。一つはですね、私の専門ではないんですけど、二・三の人に誘われて、ジャック・ラカン(Jacques Lacan, 1901-1981)の勉強会というものに出させてもらっています。ジャック・ラカンという名前を聞いたことがある人はいるかもしれませんね。フランスの精神分析におけるフロイト派の異端児と言っていいと思う。日本では信奉者が多い。内田樹さんみたいな本も売れている。その人の本を読んでいるときに、意味ということに対して非常に微妙なことが書いてありました。「シニフィアンの連鎖」です。
 シニフィアンという概念は、もともと言語学者のフェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure, 1857-1913)が始めた言語学の分類です。シニフィアン(signifiant;動詞signifier(意味する)の現在分詞で「意味しているもの」「表しているもの」)とシニフィエ(signifié; 過去分詞で「意味されているもの」「表されているもの」)の二つが結びつくことで、なぜかはわからないけれど意味が生成される、という議論があります。通常は、シニフィアンが言葉で、シニフィエが物で、シニフィアンがシニフィエの代理をしている、という話をします。最近ではジョルジョ・アガンベン(Giorgio Agamben, 1942年-)が彼の著作のなかで、よく取りあげています。『言葉と死』が有名ですが、これは面白い本で、簡単に読めます。興味があればどうぞ。
 さて、ラカンは、徹底してシニフィアンにこだわります。彼の立場は次のようなものです。私たちが話すとき、先に意味があって、それを表現しているのではない。こういうふうに言葉が並び、こういうふうに喋ってしまい、こういうふうに聞いてしまい、こういうふうにやり取りしてしまい、こういうふうに音がつながってきてしまうから、こういうふうな会話が成立した……という見方を徹底してやっています。
 僕はもともと出身が数学なのですが、数学的対象ってなんだろうっていうことを、気にしたときに、形式的なあり方を最初に考えるわけです。つまり、イデアの世界に何かが“あって”、それを数学という記法にすると。しかし次のことを考えてみましょう。フェルマーの最終定理は証明されてしまいましたが、いまだに証明されていない未解決問題のなかにゴールドバッハ予想があります。「4以上の全ての偶数は、二つの素数の和で表すことができる。6以上の全ての偶数は、二つの奇素数の和で表すことができる」というものです。これはまだ証明されていません。さて、このゴールドバッハ予想が証明される前に、「ゴールドバッハ予想は否定される」、「ゴールドバッハ予想は肯定される」、「ゴールドバッハ予想はいつ証明される」と言うことはできるか。もうすでに数学的対象が“ある”のだとしたら、私たちがそれについて知らないだけだ、と言うことができる。しかし決定可能性から考えると、おかしい。だとすると、その場その場で何かが適当に制作されているのか、という話になるけど、それでは納得できない。……という問題に、ラカンのシニフィアン連鎖という考え方が非常に似ていたんですよね。
 ラカンの徹底さにびっくりしたんですよ。もう一度、改めて。というのは、授業で話すときに、科学哲学の流れや、僕自身がこれはこういうもんだというイメージしていることを、僕は先に持っているわけですよ。それでいいのか、と。それで本当にいいのだろうか、ということがとても気になりました。答えはないんですけど。


●何かについて考えるということは、どういう意味で直接的なのか

 もう一つ。「理解する」と「考える」を、行為としてみる、ということを去年度はかなり言ったのですが、具体的にどういうふうにしたらいいのかについて言わなかった。掛け声はしたんですよ。しかし、じゃあ具体的に、どう一歩進めたらいいのか、ということができなかった。
 神戸大に、郡司ペギオ幸夫、という私の友人がおりまして、彼が今年の夏に本をくれたんですよ。『生命壱号』という。中身は、この何年か、彼の弟子の人と共同研究してきた、複雑系やオートポイエーシスについての話です。彼はやっぱりこう、非常に確信的なものを持って、哲学的なことを語るわけですよ。で、当然、哲学者の中での彼の評判は悪いんです、ものすごく。まともな哲学者と日本で言われているひとたちは、郡司ペギオ幸夫は哲学づいたことを書いているけど、哲学的思考じゃないじゃないか、単なる流行を追っている思い付きじゃないか、という風に言うわけ。確かにそりゃそうなんだよ、書いたものだけ見てればね。
 でも、僕は彼とずっと個人的に話をしている。個人的に話をしていると、確かに彼は哲学の知識はない、あんまりない。ないわけじゃないけど、制度的なものじゃない。でも、なぜかわからないけれど、彼が言っている話っていうのは、確かに何かがある。その何かを僕も共有していると感じている。しかし、彼はそれを本に書ける一方で、僕は喋ることしかできない。なぜ明確に文字にして、こうだと断言することができないのか――ということが、心の中にひっかかっちゃいまして、ここのところしばらくずっと鬱状態で悩んでいたんですよ。
 行為をするということは、今ここで考えている、喋っている、音声を出していることである。ここまでは良いのです。しかし、いまここで〈僕〉が考えているということは、〈僕〉が考えていることを〈あなた方〉が聞き、そこで〈あなた方〉が何か考えているということはどういうことなのか。それを考えたい。そしてそれが、理解をする、ということの問題なんです。
 今ここにお茶の入ったペットボトルがあります。
 僕はお茶について考えています。こうやって取りあげて、こうやって飲む。このとき、僕はこのお茶を使っている。このお茶と直接的に行為をしているわけです。このお茶がなければ、僕は飲むことができない。でも、もしこのお茶が無かったとしても、僕はお茶について考えることができる。……
それでは、何かについて考えるということは、どういう意味で直接的なのか。もし何かについて考えるということが直接的でないとしたら[=間接的でしかありえないとしたら]、その間にあるものは、何なのか。
 考えるということは間接的でしかありえないのか。しかし、さっきの郡司は、とても間接的にやっているようには見えないんですよ、とても。それから、数学をやっている人は数学の方程式を解く、新しい理論を立てる、などするとき、それについて考えているんじゃなくて、まさにそれをやっているんですよ。思考としてやってるんですよ。
 じゃあ、考えることを本業とする哲学は、直接的に考えるということについて、何をしているんだと、そう思いませんか?
 カントは「哲学を教えることはできない」と言っていますよね。「哲学をすることしか教えることはできない」、と。では、哲学をする行為って何なのか。それしか教えられないといったときに、どうやって教えたらいいのか。
 哲学について何をするっていうことと哲学をするってことは、イコールなのか。つまり、それが立派な哲学者がいて、あの人はこう言いました、あの人はこういう議論をしました。その形式にのっとって、私が生きているとき、私の言葉、私が言っていること、私が感じていること、私の人生の意味は、こういうことなんです、と自分自身で解説をすることは果たして哲学をするということか? それが、去年のレポートを読んだときに、僕が一番危惧したことでした。そんな解説をするってことが、解説をして安心することが、哲学だという話で終えて良いのだろうか?
 それは、僕にとっては納得できない。もちろんそういう使い方があってもいい。哲学に、解説をして安心させるという効能があっても、ぜんぜん構わない。でも仮に、哲学者になろう、もしくは哲学をしようとする人だったら、――哲学を借りてきて使うんじゃなくて、自分が哲学をしようと言うのであれば――根本的にそこのところを変えなきゃいけないんじゃないか。まずそれが第一義だと思ったんですよ。その変更のために、科学が、哲学をするということの中に、どういうふうに絡んでこざるを得ないのか、という話に今年は科学哲学をまとめたい、という思いがあります。
by warabannshi | 2010-09-24 19:16 | 塩谷賢発言集 | Comments(0)
第408夜「テーマパーク」
 二十年前の神楽坂のあたりにある、場末な感じのテーマパークに来ている。
 ここには幼いころ、故祖父Cと来たことがある。そのときとまったく古びさが変わっていない。読み古した漫画本(『おそまつ君』のわら半紙のような粗悪な紙に印刷された単行本)の匂いがするというか。書架にしまわれたままのい昆虫図鑑のような人知れず感があるというか。
 私は両腕で段ボールの箱を抱えていて、まだ誰もいない朝ぼらけのテーマパークをうろうろしている。段ボールは朝露ですっかり湿気ており、八方の角は潰れ、下面以外の五つの面は内側にたわんでいる。この段ボールを抱えていることと、銀色のジャージを着ていることで、まったくテーマパークの客のように見えない。が、私はたしかに、昨夜はここで泊まったのだ。
 この名前の知らないテーマパークの宿泊施設は、やはりおんぼろの雑居ビルである。隅なんかはことごとく埃がたまっていて、エレベーターは煙草のにおいがする。雀荘がないのは不思議なくらいである。故祖父Cと、ピンク色のスパゲティを食べた食堂でいまは茶漬けを食べ、そのあとで、やはり昔「ウルトラマン」の対戦型アーケード・ゲームがお気に入りだったゲーセンを通り過ぎて、部屋で寝た。
 でも、崩れかかった段ボール箱を抱えている私は客のように見えない。
 従業員に出入りの業者だと思われて、失敬な態度をとられたらどうしよう。このテーマパークにいまさら不快な思い出が出来てしまう。ぐるぐる回る系の多いアトラクションは、どれもこれも紫外線の影響で色が褪せてしまい、ぼやけている。
 私はとにかく、段ボール箱を放置できるところを探し、事務的なエレベータに飛び乗る。
 ドラッグストアの階についたとき、降りた青年がばったりと顔から前のめりに倒れた。
 なにかのパフォーマンスかと思ったが、そうではない。動かない。扉が閉まる。
「なんで踏み台がエレベータの前なんかに置いてあるんでしょうね?」
 エレベータの箱のなかのスーツを来た従業員が言う。
「ばか、あれは踏み台じゃなくて踏みあがり健康器だ。もっとも、なんであんなところにあるのかはわからん」
 私にはわかる。あの踏みあがり健康器は、やはりそれを持て余してうろうろした中学一年の私が放置していったものである。
by warabannshi | 2010-09-22 21:49 | 夢日記 | Comments(0)
探索記録37「どのようにしてメッセージは書かれるのか?」
 今日、初回講義があった塩谷さんの法政大学の科学哲学講義のあと、新宿・損保ジャパンビルのエクセルシオールでうかがった話の備忘メモ。どこからどこまでが塩谷さんの発言で、どこからどこまでが太田の誤解・曲解を含んだ解釈かは不明。もはや、こんなことが話されていました、以上のなにかではないです。

■どのようにしてメッセージは書かれるのか?
 ある文章が、「メッセージである」ということはどういうことなのか? 書き手がある文章をメッセージとして書いているからか。それでは「ある文章をメッセージとして書く」とはどういうことなのか。なにか文章を書くに当たり、書き手は「書かれる内容を予め決めて、それを伝達するために書く」という順序を必ずしもとるわけではない。(現に、この文章は、ほとんど行き当たりばったりで書かれているし)
 何かを伝達したい、という書き手の欲望によって、ある文章はメッセージとなるわけではない。
 読み手に読み取られることによって、ある文章は、初めてメッセージとなる。
 この順番は逆ではない。バルトを持ち出すまでもなく、「ある文章がメッセージとして生成するのは読み手においてである」。例えば漱石が修善寺で喀血して人事不省になったときに、壁にすばらしい南画の掛け軸がかかっているのを見た。回復したときに、あらためてその壁を見たら、南画だと思ったのは雨漏りのしみだった。

■書き手において、「どのようにしてメッセージは書かれるのか?」
 いや、たしかに「雨漏りのしみ」を「南画」に見せるのは読み手(この場合は鑑賞者か)である。でも、ここで考えたいのは逆の関係だ。つまり、いずれにせよ「南画」は「半紙に書かれた墨のしみ」に過ぎないわけだが、それを「南画」として描くということはどういうことか、と、そういうことだ。
 アラビア語の読み書きができない者にとって、アラビア語で書かれた文章は不可解な規則性をもってうねる線と傍点の連なりでしかない。日本語の読み書きができない者にとって、この文章は粗密が不規則に入れ替わる(漢字とひらがなが入れ替わる)記号の連なりでしかないだろう。
 読み手にとって、まるで意味がわからないものは、果たしてメッセージではないのか。
 しかし、それはすぐに解決する疑問である。つまり、ある文章の書き手は、その文章の最初の読み手であるということによって、書かれたあらゆる文章は一人以上の読み手をもつことになる。
 さて、では問題。
 ある文章の書き手が、その文章の最初の読み手であるとしたとき、「ある文章を読んでいるときには、もうそれを書いているだろう」と「ある文章を書いているときには、もうそれを読んでいるだろう」のどちらの順序を私たちは踏まえているのだろうか。
 常識的に言えば、後者だ。ここは常識に従おう。では、ちょっと変奏する。
 「ある文章を読み終えたときには、もうそれを書いているだろう」と「ある文章を書いているときには、もうそれを読み終えているだろう」。これはどうだろう?
 これもやっぱり後者だ。太田は、正直なところ、「読み終える」ということが起こったときには(つまりある文章にエンドマークがつくときには)前者のような気がしていた。というより、「ある文章を書いているときにそれを読み終えている」としたら、それを書く意味はないのではないか、書くモチベーションなんて生まれるのか、と思っていたが、そもそもいつもこのブログで書いている夢日記を書いているときには、もう「(夢を)見終えて/(夢日記を)読み終えて」いるのだ。
 例えば、ベートーヴェンは耳が聞こえなくなってから「第九」を作曲したわけだけれど、作曲しているときに、もう少し具体的に言えば、付箋紙にペンを走らせているときに、ベートーヴェンは「第九」を〈聞いてor聞き終えて)いたのだろうか。
 あと、太田が尊敬してやまないジャズピアニストのキース・ジャレットは、四十分以上のインプロヴィゼーションを行うけれど、鍵盤に指を落とすとき、彼はなにを〈聞いてor聞き終えて)いるのだろうか。
 いや、作曲、という現場では、文章を書く、という現場とは異なることが起こっている。そういう意見もあるだろう。
 そうだ。作曲は、「書く-読む」よりも「話す-聴く」に近い作業だ。そして両者は異なる。

■「書く-読む」と「話す-聴く」の違い。
 結論を先取りする。「書く-読む」と「話す-聴く」の違いは何か。前者は、純粋な言語行為を設定しやすいのに対して、後者は非常に設定しにくい。純粋な言語行為、というより、五感と切り離された言語行為、といったほうが適切かもしれない。つまり、「話す-聴く」においては口腔内の舌の触感や運動、そして聴覚がダイレクトに言語行為と係わってくるのがわかるのに対して、「書く-読む」においてはそこに当然介在しているはずの視覚が前面化しない。見る、と、読む、は違う行為であるからだ。薄暗くて本が読めなかったり、老眼で眼がしょぼしょぼになって虫眼鏡が必要になったときにも、それは視覚とは別の機能の衰えとして意識されるのではないかと思う。
 「書き手」と「話し手」は、それに関わるうえで、異なる。
 「ある文章を書いているときには、もうそれを読み終えているだろう」。
 「ある文章を話しているときには、もうそれを聞き終えているだろう」。 
 両者はやはり違うのだ。どこが違うのか、すぱっと示すことができないけれど、メッセージのモノ性が違う、といえば、なんとか伝わるだろうか。つまり、メッセージをモノの移動のように考えてしまう誤謬について、前者のほうが無警戒であるというか。……、何か混乱の予感がするけれど、続行。

■メッセージをモノの移動のように考えてしまう誤謬
 メッセージはモノの移動のように考えられがちである。つまり、この文章がなにかしら伝えるに値するような内容(コンテンツ)を準備していて、その内容が文章を通して、読み手であるあなたに伝わる、という構図が頭に浮かびがちである。が、それは勘違いである。太田和彦はじつはチューリングテストの応対機械かもしれない。あるいは猿が適当にタイピングした文字列が奇跡的な力によってこういう意味のある文章になっているのかもしれない。そんなの仮定にすぎない、というかもしれないけれど、少なくとも、どこに〈エンドマーク〉を付けるのか、わかったうえで文章を書く人はよっぽど真面目な人だと常々私は思う。真面目であり、そして、ちょっと鈍いと思う。
 「ちゃんとなにかしら伝えるに値するような内容(コンテンツ)を準備してから、それを伝達するために文章を書く人」にとって、メッセージはまさにモノ(=内容)の移動なんだろうけれど、それはある領域への接し方としては、ちょっと重装備すぎて、そのせいで動きが鈍くなっている。ある領域とはなにか。未来だ。
 メッセージをモノの移動のように考えてしまう誤謬を放置することで被るマイナスとは、未来(一寸先は闇)を考えられなくなる、ということだ。――と断定するのも雑なので補足すると、「メッセージをモノの移動のように考えたほうが、未来の安定性が増すように思える」のである。モノの移動、もう少し言うと、交換においては、交換の途中で交換されるモノが破損したり、迂回したり、紛失したりする可能性についてはそれを忘れることによって、「交換」というある種の賭けを安定したものとして成立させている。つまり未来の安定性が増すのである。この「都合の悪いことは忘れる、見てみぬフリをする、交換されたモノが届く時間を先取りする」営為をまとめて「信頼」と呼ぶ。
 で、メッセージをモノの移動のように考えることができるのは、そこには「信頼」があるからで(だから、メッセージをモノの移動のように考える人を私は真面目だと思うわけで)、でも「信頼」は「忘却」に基づいているわけで、「忘れたものがなくなるか」といえばそんなことはない。(だから、メッセージをモノの移動のように考える人を私は真面目だと思うのと同時に、ちょっと鈍い、と思う)
 「メッセージをモノの移動のように考えたほうが、未来の安定性が増すように思え」ても、未来はそんな「思える」などお構いなしに無茶苦茶で、底がない。
 じゃあ、未来を前にして勝手に震え上がっていろ、ということか、といえばそんなことではもちろんなく(震えていても良いんですが)、いろんなやり方で無法な未来に対しての動線を見出すことはできるはずで、その一環として、「ある文章を書いているときには、もうそれを読み終えているだろう」、「ある文章を話しているときには、もうそれを聞き終えているだろう」、というような、前未来形のもとで書かれるメッセージが(内容を越えて)あると、そう考えています。
by warabannshi | 2010-09-20 23:46 | メモ | Comments(0)
第407夜「トロ会」
 新宿センチュリーパークの懐石料理屋で行われている「トロ会」の会合に出る。すでに顔のよくわからない四人が席についており、一番若輩の私は末席でかしこまる。
 トロ会は、自身の置かれている状況を赤裸々に吐露しあい、それぞれの吐露(Dasein)を食べるという会である。だから、話す顔が曖昧なのも仕方がない。恍惚に満たされてしまうからだ。恍惚に満ちた顔は誰のでもわりと阿呆に見える。
 足が八本の茶虎の猫が、のっのっと上席に向かう。いよいよだ。私は身を固くする。
by warabannshi | 2010-09-15 00:48 | 夢日記 | Comments(0)



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