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第424夜「自転車屋」
 昔は戦闘機に乗っていたという老人がいまも現役で店に出ている自転車屋にいる。浜田山駅に至る凸凹道を走っているとき前輪がパンクしてしまい、松の木の下のこの店に入ったのだ。小学生のときからその存在は知っていた。しかし初めて入る。薄暗い店内には何台もの自転車がぶらさがっている。金属製のフォルムが妙に黒くつやめいて、無生物に特有の実在感は強く空間を圧している。
「プラスチックでもいいかい?」
鼻に酸素チューブを挿入しているため、老人の声は風邪気味のように聞こえる。
「どこの部分?」
「ダイナモのところ」
「当分、空を飛ぶつもりもないので、プラスチックでも良いですよ」
 気の利いた台詞のつもりだが、言ったはしから自身でも意味不明だと思う。老人は怪訝に私の顔を見る。しかし、これは私が意味不明なことを言ったからではなく、私の手元にあるプラモデルの部品が並んだ板のような工具を取ってくれ、という目配せである。
 宙吊りの自転車が、逆光で重たく見える。
「昔はちゃんと空を飛んだんだよ、あれは自転車じゃなく、自動車だったが。当時は機体を黄色く塗るのが人気だった。私も機体を黄色く塗っていたが、それは黄色く塗る権利を私にくれた仲間が、海に落ちたからだ」
by warabannshi | 2010-10-31 09:50 | 夢日記 | Comments(0)
第423夜「土砂降り」
 炭焼き場を兼ねたバラックのなかで、台風をやりすごす破目に陥っている。土砂降りの抜け降りで、周りの針葉樹林群は雨の中に浮いているようである。屋根の切れ目から滝のように水がそそいでひどく寒々しい。
「バスはこのぶんだと走らないよ。運転手がそもそも帰ってこないだろうから」
 バラックの隅で体育座りをした老人が言う。何度もこういう大雨は経験して慣れたものなのだろう。でも、私としては地滑りをおこしそうなこんな山から早く立ち去りたい。一メートルでも遠くに逃げたい。
「これでもちゃんと溢れた大水を逃がすための水路があるんだよ。麦を守るためにね」
 そういえば塹壕があった。あれはクリークだったのか。でも、そんなもので何になるだろうか。ひどいしぶきで屋根のあるここでもびしょ濡れである。必ず地滑りは起こる。私は確信する。どこか遠くで、数十匹の猫が発情したような声で一斉に鳴き始める。いまだ、と思う。
by warabannshi | 2010-10-30 09:48 | 夢日記 | Comments(0)
第422夜「猫毛」
 秋葉原・電気街のはずなのだが、街路はひどく荒廃している。軒を連ねる店舗はことごとくシャッターを下ろし、コンクリートは腐食したように白くなっている。白人男性のコスプレイヤーが目に付く。彼らはこの呪われた空間でも、陽気である。熊のような体躯のおっさんが、包装してあったビニール袋をつけたままで、第3新東京市立第壱中学校の制服を着ている。目に余る。
「Do you eat a cat?」
 顔面が吹き出物だらけの、人種がよくわからないおばさんが話しかけてくる。
 私を愚弄しているわけではなく、単に世話好きなのだろうと思う。彼女の髪の毛は、洗っていないせいで天然のドレッド・ヘアーになっている。
「猫は好きだけど、本物とロボットの区別がつくほどではないかな」
 どうせ通じないと思い、日本語で答える。
 しかしおばさんは理解したようで、奇跡的に店をあけている玩具屋の店頭でボールをくるくると追尾しつづけているネコ型のおもちゃから毛を1本抜いて、私の目の前につきだす。
「毛をしゃぶってみればわかるよ」
 日本語がしゃべれるなら、最初からしゃべればいいと思う。
 下手な対応をして怒らせても仕方ないので、木枯らし紋次郎が楊枝をくわえるように、長いナイロン製の猫の毛をくわえる。
「あとカエルかな」
 見知らぬ青年が、そう言って通りがかりに私の唇に干からびた青ガエルをねじ込む。
【いつか墓穴となる日まで】というクレジット。
by warabannshi | 2010-10-27 09:18 | 夢日記 | Comments(0)
第421夜「ミミズ」
 地下駐車場の段ボール・ハウスに帰宅すると、屋根の上に現代日本小説・詩・批評の総評をしたパンフレットが乗っている。友人Uや友人Sが載っていないかとぱらぱらとめくっていると、隣に箱を立てて暮らしているデヴィット・チャンさんが「太田君の名前、載っているよ」と教えてくれる。
「「日本に居ながら越境する作家たち」というカテゴリーのなかにある。たしか太田君は、「チリ」とか書かれていた気がするよ」
 私の名前はたしかにクレジットされている。「越境する作家たち」では、その作家がどこに越境しているかも併記してある。多くは国名であり、アルゼンチンとかウクライナとかの、作家の越境先が並んでいる。だが、私の名前と併記してある固有名は、「チリ」ではなく、「ミミズ」である。
「目立たないが地表を這いずっている、最近はサングラスをかけはじめた模様。直射日光を浴びても溶けるわけではないし、じっさい、日向ぼっこは望むところでもある。しかし超餅膚の彼は保水をかかせない。蠢動する。ほとんど無害」
 娼婦をやっている少女が堪えきれず、爆笑する。
by warabannshi | 2010-10-26 08:32 | 夢日記 | Comments(0)
第420夜「火達磨」
 交通規制のかけられた四車線の車道を、爪先から全身を炎に包まれた男が一人、ふらふらと歩いているのを鳥瞰している。
 火達磨の彼はあわてふためく素振りも見せず、窒息するでもない。まるで蝋燭の灯心だけがそのまま彷徨っているかのようである。悠然と歩いている。彼から五メートルくらい離れたところで、野次馬やマスコミが円を作って、息を呑んでいる。
 やおら、男が走り出し、誰彼構わず抱き付こうとする。左腕が燃えだすサラリーマンの絶叫や、恐慌状態になって拳銃を乱射する若い警察官が騒ぎを広げる。
「麻薬取締捜査官として、同僚に殺されたいんだ」
 炎のなかの彼の顔はちっとも焼けただれてはいず、まるで空也上人像のようである。
by warabannshi | 2010-10-25 06:38 | 夢日記 | Comments(0)
◆塩谷賢「科学哲学」講義@法政大学#3 :10年10月4日[1/5]
●「何かを生み出すような何か」について――〈直接性〉と〈機能〉とnaturance

 前回と前々回の注釈を兼ねて、ちょっと今回の発展につなぐかたちで〈直接性〉について補足したいと思います。
 前回は、〈直接性〉を単純に「A地点からB地点への具体的な矢印」として見ないでほしいということを言いました。むしろどちらかというと、数学の人がよくやるみたいに「AからBまでの速度が積分されていく数式[註:速度の積分は距離]」として感じてほしい。こういう感じ、直接的って。僕が言おうとしていることは、何かがそこにあって見られているのではなくて、何かを作りだそうとしているということです。例えばこの「AからBまでの速度の積分」はA地点からB地点までの距離を作り出しているわけですよね。ただ通常の場合、このように書くと、距離を作り出す本体は、結局時間だ、という話になってしまうのだけど、そうではなくて、とりあえず何かを作りだすことに即して考えましょうというのが、前回お話したことでした。〈直接性〉において僕が言いたいのは、最初に言ったように、僕らが哲学を“している”という行為、哲学が何かの結果を生み出す行為であるということについて考えようということです。……そうだと思っていてください。
 この「何かを生み出すような何か」について、言葉として正確ではないのですが、とりあえず言葉がないので、〈機能〉とか、〈働き〉とかの言い方を僕はしています。これはまったく僕自身の用法で、すごく曖昧に使っています。その言い方のなかに〈直接性〉もあると考えてください。これらは結構マジックワードで、嘘っぱちなんですけどね。きちんと説明してないから、というかできないから。
 一つ注意点ですが、機能という言葉は非常にいろんな使われ方をしています。哲学の文脈では、機能主義(functionalism)って言う言葉があるんですけどね。これには広い意味と狭い意味があります。広い意味では、ライプニッツなどの、何かものを生むことをベースに考えるという、有機体論とかそういうものが機能主義に入ります。――また余計なことを言っちゃうけど、nature・自然に対して、ラテンの頃に、四つの分類がありました。つまり「生んで生まれない自然」、「生まれて生む自然」、「生まれて生まない自然」、「生みも生まれもしない自然」です。生む/生まない、生まれる/生まれないをね、受動態と能動態で四つに分けて、それを神学的な分類に当てはめたんですよ。現実の世界を生成する、つまり生む能力がある「生んで生まれない自然」を、能産的自然(nature naturance)といいます。これと対になる、「生まれて生む自然」を所産的自然(natura naturata)といいます。前者は神様、始原の神様です。自ら生まれることはないけど、すべてを生むというのが、始原の神様。で、その創造物の途中にあって、こうやって生んでいるというのが、後者です。後者が普通の意味で、われわれの見ている自然なんです。それから、「生まれるけど生まない自然」というある種のターミネーションがあるわけですが、これはたとえば私たちの精神とかそういうものを考える。で、「生まれもしなければ、生みもしない」というのがじつは、本当の、存在を超越した、永遠の神様である、という四つの分類がありました。[註:自然の四分類については、ヨハネス・エリウゲナ『ペリフュセオン』参照]この分類で考えるときの「能産的自然」を、ライプニッツらが組み込んで考えることについて、機能主義という言葉が使われます。
 もう一つは、最近流行の「心の哲学」というやつね。本当は哲学に関わっているんだから、ドイツ観念論だとかも官位するはずなんだけど、今、心の哲学というときは、英米系の分析哲学から派生した、心に対する哲学で、さらに、脳科学とのハイブリットも入ってくるものを指します。心の哲学の文脈において、機能主義という言葉はどう使われるのか。身心問題とか身脳問題があったときに、幾つか対処方法があるわけですが、そのなかで脳と心がどう関係しているかに着目することがある。両者は無関係です、っていうのもあります。一つは消去主義で、心というのは無い、脳の機能で全部説明が付くとするのがある。それから、随伴現象説というのがあって、脳と心は違う、何が違うかというと、脳のほうは本物で心は現象である。現象だけど、現象ということで独特の位置があるんだ、とする立場があります。いま言った、消去主義のもとは行動主義です。脳なんて見かけであってそれは行動なんだっていいます。それに近いところに、物理的機能主義というものがありまして、脳の、物理学的な機能が心の本体なんだ、という言い方をします。この場合も機能主義という言葉を使います。今、東京とアメリカで「機能主義」って言うと、この物理的機能主義を指すことが非常に多いです。心の哲学の物理的機能主義は、非常に狭い意味で、僕が使おうとしている機能主義と違いますので、気をつけて区別してください。まったく別です。
 心の哲学における機能主義は、物理的な事実、物理学的機能を実在物と認める。つまり、「実在の一種として物理的機能を認めている」わけです。そうではなくて、僕が考えていたり、あるいはライプニッツなんかが考えていたであろう〈機能〉というのは、むしろ「実在のあり方が機能的なんだ」という見方なんですよね。naturance;作るという力が、存在するということなんだ、という立場です。
 この間、直接的に対して、「私が直接、○○を××する」という構文ではなくて、「○○を××するという仕方での〈直接性〉の結果としての私」という構文で捉えるという言い方をしました。この入れ替えと同じような感じで、物理的機能主義と、広い意味での機能主義の近いを捉えてもらえればと思います。
 最初の授業の最後で、「科学」の記法としての「数学」、「社会」の記法としての「言語」をそれぞれ考えようという話をしました。――後者の実例について今回の授業で、ふれようと思います。
 どのように「数学」と「言語」を考えていくかといえば、機能のレベルから、つまり、〈直接性〉をあてはめようとするかたちで議論を始めるとしたい。そのためには、「数学」や「言語」から「科学」や「社会」へ持ち上がったときに、なにをもって持ちあがったとするかということを言っていかないと分からない。ということで、まずシステム論を少し解説しなければならない、ということになるんです。


●システム論とオートポイエーシス

 去年もやったんですけど、システムという問題を考えようとしたときに、そもそもシステムとはなんぞやって言われると、なんなのかよく分からないんですよ。みんな簡単にシステム、システムって使うんだけど、システムってホントは何だよって言われたら、各自で想定しているものはばらばらだったりする。同じように、「言語システム」と言うときに、まさにそれはシステムとして位置付けられているようだけど、じゃあ「言語」何か? というと、よく分からない。
 システム論は社会学をスタートとしている分野だけど、そもそも何がシステムか、という“そもそも論”が無いんですよ、どこにも。目の前にシステムがあるでしょ、で、そのシステムをこのように具体的に捉えると、こういうことが説明できます、……ということで、みんなやっているわけです。システム論のなかにも、いくつかの潮流があるのですが、大概は現象記述なんですよね。「社会システム」という概念を出して何をやっているかというと、人間の集団がいつどこを動いていて、どのような振る舞いをして、っていう統計の資料を取ったり、グラフを書いたりする研究が多いわけです。中学生や高校生が、夏休みの自由研究でやるような調査報告型の説明が多い。そして、それとは逆に本体を考えるタイプの社会学、たとえば経済学・法学などでは、システムに対して、システムを動かしているものは外部から与えられていると考えているわけです。財をどのように分配するかとか、どのようにお互いに能動性を絡ませるかという現象のレベルとしてシステムを考えている。
 しかし、これはオートポイエーシスの話のなかで繰り返していることですが、脳もまた、一種のシステムだと考えることができます。脳では、生化学的反応に伴ういろいろな電気パルスが絶えず起こっている。にもかかわらず、脳みそのなかには心というものがあるらしい(脳みそのなかに、と言うと語弊があるけど、少なくとも、脳みそがないのに心があるということは、人間には考えにくい)。そういう場合に、やっぱり心は一種のシステムだろうというふうに、当然考えるわけです。なぜなら、この授業も含めて、全て人間の心をベースにして、コミュニケーションをとる、何かが起こるということを前提にしているわけだから。
 心を対象にしているせいで、これは先ほどの心の哲学と同じように見えますが、両者のやり方は全然違います。心の哲学は人間の言語における命題を中心にして脳はどうかっていう問いを立てるけど、オートポイエーシスは事実的なシステムとしての脳からどうやって原理が生まれてくるんだろうという問いを立てます。
 神経生理学者のウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・ヴァレラが、1970年代に初めてオートポイエーシスを提唱したとき、そこには四つの特徴があると彼らは言いました。(1)自律性、(2)個体性、(3)境界の自己決定、(4)入出力のなさ、です。最後の、(4)入出力のなさが、一番珍しいんですよね。ふつう、システムってブラックボックスや機械のイメージで考えるんですよ。入力があって、出力がある。でも、オートポイエーシスの考え方では、入出力はないって言っちゃうんですよ。自分自身のなかで全部閉じる。そして、自分自身を作る。だから、周りの影響は単なる撹乱とか、相互浸透、構造的カップリング(structural coupling)っていう言い方もしますけど、伴って変わるだけであって、入力として何かをもらって出力として出すということではない、という発想なんです。
 オートポイエーシスは、有名な人がもう二人います。神経生理学におけるマトゥラーナの発想に対して、ウンこれは使えるぞって社会学で一般化したのが、ニコラス・ルーマン(Niklas Luhmann, 1927-1998)です。けっこうね、トシが面白いんだよ。最近死んじゃったデリダ(1930-2004) よりちょっと上くらい、ドゥルーズ(1925-1995)とかの年代ですね。ルーマンの本業は社会学で、哲学としてはまったく傍流です。アメリカに行って、タルコット・パーソンズのもとで意思決定論のかなり理論的なことをやって、ドイツに戻って、社会学の観点から哲学的なことをたくさんやりました。彼が社会学から、神経生理の現象を、社会学に一般化したんですよ。初期の代表作は、『社会システム理論Soziale Systeme』(1984)です。ルーマンは、マトゥラーナが物理的イメージとして使っていたオートポイエーシスのモデルに対して、コミュニケーションに着目することで社会学のほうに持ち込みました。
 これに対して、成功しているかどうかは別なんですが、日本でオートポイエーシスを現象学に応用した人がいます。東洋大学の哲学の先生をやっている、河本英夫(1953- )です。日本でオートポイエーシスに関する本をたくさん出しているのは河本さんです。紹介もやっている。山下和也さんが『オートポイエーシス論入門』のなかで、マトゥラーノ、ルーマン、河本の三人を見比べながら、「科学として使えるオートポイエーシスを作りましょう」という標語のもとにオートポイエーシスという概念を解説しています。
 まず、オートポイエーシスに至る前段階からいきましょう。


テープ起こし: 藤枝侑夏
by warabannshi | 2010-10-24 16:47 | 塩谷賢発言集 | Comments(2)
第419夜「レイアウト」
 真夜中、六本木・森ビルの54階の広大なミュージアム・ショップで、参考書籍のレイアウトを行っている。
 展示用の高い部屋の壁面には、大英図書館をイメージしたらしい本棚が隙間なくたてられている。そして部屋の中央には、いかにもがらくたらしい木製の机や立ち鏡などが山積みになっていて、それに本を立てかけたり、並べたりもする。
 びっしりと詰められた本棚から、ずっと探していたミヒャエル・ゾーヴァの画集がひょんと出て来くる。レイアウトしなければならないのは、貞本義行『DER MOND』や村上隆『召喚するかドアを開けるか回復するか全滅するか』などで、それらとゾーヴァの絵はまったく合わない。本棚から外して、カウンターに置いておけば、「持って行っていいよ」となるもしれないのでそうする。
 1930年代のディズニー製作の短編アニメもたくさんある。ドナルド・ダックの台詞が全部「ぐわぐわ!」で、いまみたいにちゃんと人語になっていない。だがアヒル語を担当する声優はすべて異なる。そのなかには、チャップリンやバスター・キートンもいるようである。ばらばらしていて、どう分類していいのか、収拾がつかない。
「休憩しよう」
 書籍とDVDを散らばしたなかでぼんやりしている私に、芥川龍之介が声をかける。彼もレイアウトをやっているのだ。二人でファーストキッチンのポテトの「みそ担々」味を食べる。
「美味いね」
 芥川龍之介は神経質そうに、一本つまむごとに紙ナプキンで指先を拭く。
「でもこれ本物の味噌は一ミリも使われてないんですよ」
「そうなの?」
 おそらくは。
 このフロアには、夜景を臨める展望スペースがあり、そちらからシロス修道院合唱団の「キリエ」が流れている。
by warabannshi | 2010-10-23 09:08 | 夢日記 | Comments(0)
第418夜「ロイヤルストレートフラッシュ」
 夕張市の小さな雪祭会場でポーカーをやっている。引きが良く、ジョーカーも来て、ロイヤルストレートフラッシュが出る。
「イカサマだ!」
 卓を囲んでいた一人が椅子を蹴立てる。当然の反応である。私だって驚いている。手札を写真にとって自慢してまわりたい。
「ごめん、それ仕組んだの俺だ」
 百キロ以上は確実にある巨漢がカミングアウトする。誤爆したらしい。
 なんにせよ、勝ちは勝ちなので、握り拳大のおはぎを二つとビール飲み放題券をもらう。
by warabannshi | 2010-10-19 06:42 | 夢日記 | Comments(0)
第417夜「ベランダ」
 水が飲みたくなって雨戸を開けベランダに出てみると、空に月を二回りほど肥らせた大きさの「狸」という字が浮かんでいる。
 携帯にメール。
「午后4時から6時のあいだは唇のため池への道は通行止め。回り道してきて」
 友人Hである。「唇」は大量発生している「雀」の打ち間違いだろう。
by warabannshi | 2010-10-18 04:57 | 夢日記 | Comments(0)
第416夜「エナメル質」
 歯が浮いて堪らないので、洗面台で歯茎を見てみると、入墨をしたように真っ黒になっている。自身のものとは思えない。鏡のなかで歯をむき出している私は、いわれのない言いがかりをつけられて困惑している烏賊のようである。
 とにかく歯を磨こうと、歯ブラシを湿らせ、口に含む。
 すると、ぴたりと歯ブラシは左奥歯に吸い付いて、動かなくなる。
 どういうことかとまた口をあけると、歯ブラシの毛先の一本一本を、左奥歯の白い歯から生えているつやつやした小さな小さな腕たちがしっかりと握っているのである。エナメル質から直接生えた数百本の小さな腕たちは、そろって頑固そうにぴくりとも動かない。
 私は急に気分が悪くなって、洗面台に吐こうとした。Oの字になった口から、さらに多くの歯から生えた腕が伸び、突き出た歯ブラシの柄を真ん中から苦もなく折る。そして、私の唇の裏側に吸い付くようにして、粘膜をむりやり縫い合わせる。
 口を裏側から縫い合わされた私は、もう吐くこともできない。
 ばたりと前のめりに倒れると、いつしかそこは見知った市ヶ谷の坂である。急な斜面を転がり落ちるかとおもったとき、幾億本もの白い小さな腕たちが、私の体の皮を突き破って生えた。路傍で大の字になって、もう二度と起きられない私は、ナマコやヒトデの類、棘皮動物のようだろう。
by warabannshi | 2010-10-15 17:32 | 夢日記 | Comments(0)



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