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「宮沢賢治と精神分析―奇妙さと隣り合うために―」【後編】
4.宮沢賢治の作品の推移と、真正性のあり方

4-1.「氷河鼠の毛皮」他――創作の起源

 賢治をおとなう幻覚・幻聴を生み出す要素現象が、彼においては〈世界〉と呼ばれること、そしてそれを症状の形成へと展開させるメカニズムが、「まこと」、「ほんたう」としてくり返し表明される真正性への希求であることをこれまで見てきた。初期の短歌制作期において、了解不能な要素現象はひたすら奇妙なものであり、不安の源泉であり、彼の精神に闖入するものであった。
 しかし、賢治はこの了解不能なものと折り合いをつけることになる。『注文の多い料理店』の「序文」や同書所収の「鹿踊りのはじまり」においてもそう言明されていたとおり、賢治の作品の多くは彼によって、どこかから飛来してきたものとして扱われる。例えば、童話「氷河鼠の毛皮」(1923)は、次のような言明が作品に挿入されている。

 このおはなしは、ずゐぶん北の方の寒いところからきれぎれに風に吹きとばされて来たのです。氷がひとでや海月やさまざまのお菓子の形をしてゐる位寒い北の方から飛ばされてやつて来たのです。

 これが多分風の飛ばしてよこした切れ切れの報告の第五番目にあたるのだらうと思ひます。

 これが風のとばしてよこしたお話のおしまひの一切れです。

 あるいは、短編童話「黄いろのトマト」(制作年不明)は、「博物局十六等官 キュステ」が、小さい頃博物館の剥製の蜂雀から開いた話に関する、成人してからの回想録であり、しかもその回想を賢治が翻訳するという二重の構造を採っている。また、賢治が亡くなった翌年に発表された童話「ポラーノの広場」(1934)も、「十七等官 レオーノ・キュースト」の作品を翻訳したものとなっており、賢治の作品が彼自身の企図から生まれたものでないことを示すひとつの形式となっている。
 これらの言明や形式は、創作に伴う緊張として――そこに何かがある(生き生きとした体系的妄想がある)ことはわかっているが、その何かが、どこから来たのかはわからないという緊張として表れる。くり返すとおり、この緊張をもたらすものが、賢治の場合は〈世界〉であった。そして〈世界〉からの真正な引用方法として、賢治は諸々の自然科学と法華経(宗教的価値)を採用する。

4-2.「青森挽歌」――トシの死

 しかし、1922年12月、賢治のもとに新しい要素現象が到来する。最大の理解者であった妹トシの死である。心象スケッチ「青森挽歌」(1923年8月)の内容は、題名の通り、死んだトシへの哀悼である。長大な作品の最後の部分は以下のようになっている。
青森だからといふのではなく
大てい月がこんなやうな暁ちかく
巻積雲にはいるとき……
     《おいおい、あの顔いろは少し青かったよ》
だまってゐろ
おれのいもうとの死顔が
まっ青だらうが黒からうが
きさまにどう斯う云はれるか
あいつはどこへ堕ちやうと
もう無上道に属してゐる
[……中略……]
     《もひとつきかせてあげやう
      ね じっさいね
      あのときの眼は白かったよ
      すぐ瞑りかねてゐたよ》
まだいってゐるのか
もうぢきよるはあけるのに
すべてあるがごとくにあり
かゞやくごとくにかがやくもの
おまへの武器やあらゆるものは
おまへにくらくおそろしく
まことはたのしくあかるいのだ
     《みんなむかしからのきやうだいなのだから
      けっしてひとりをいのってはいけない》
ああ わたくしはけっしてさうしませんでした
あいつがなくなってからあとのよるひる
わたくしはただの一どたりと
あいつだけがいいとこに行けばいいと
さういのりはしなかったとおもひます

 注目すべきは、この最後の、二重括弧の中の言葉に地の文の言葉が反論している部分である。心象スケッチ集『春と修羅』では括弧が頻繁に用いられているが、その多くが、挿入される語り手の所感(「春光呪詛」など)、風景描写の補足(「丘の眩惑」など)である。
 異なる語りが相互に越境しあう関係になっているのはトシの死に関する作品のみであり、とりわけ、「あたらしくぎくっとしなければならないほどの/あんまりひどいげんじつ」とされるトシの死をどのように受けとめるかが問われている「青森挽歌」では、それまでは留保されていた、そもそも存在しない引用元への指示・参照の仕方こそが問題となる。つまり、〈あんまりひどいげんじつ=トシの死〉がここで新しく、了解不能なものとして賢治に見出されることとなったとき、その了解不能なものへの真正な接近方法とは、いったいどのようなものかが、「青森挽歌」およびそれ以降のいくつかの作品での主題となっている。
 愛する者の死における「まこと」とは何か。その最も確実な検証方法は、死んだトシ自身に尋ねることである。
かんがへださなければならないことは
どうしてもかんがへださなければならない
とし子はみんなが死ぬとなづける
そのやりかたを通って行き
それからさきどこへ行ったかわからない
それはおれたちの空間の方向ではかられない
感ぜられない方向を感じやうとするときは
たれだってみんなぐるぐるする

 作品の内容は死んだトシの痕跡を探り、死後のトシの姿やトシが今いる場所の情景を描く試みで構成されている。しかし作品の中ほどで、賢治はトシから受け取ったという通信について、「私のうけとった通信は/母が夏のかん病のよるにゆめみたとおなじだ」と言い、それが真正のものであると信じきれていない。また、死んだトシが「大循環の風よりもさはやかにのぼって行った」と言い、「わたくしはその跡をさへたづねることができる」と、トシが死後に見たであろう幻想的な風景が30行以上にわたって描写されるも、その美容者の最後には、「わたくしのこんなさびしい考は/みんなよるのためにでるのだ」とされ、「まこと」とは承認されない。
 死後のトシについて思考を巡らそうとする努力とそれを虚しいものと見なしてしまう否定的思考が交互に現れるという形で、心象スケッチは書き続けられ、その最後に二重括弧内の対話が出てくるのである。この問答の内容に注目すると、ここでも「まこと」の様態が演じられていることがわかる。
 「《おいおい あの顔いろは少し青かつたよ》/だまつてゐろ/おれのいもうとの死顔が/まつ青だらうが黒からうが/きさまにどう斯う云はれるか」の箇所では、真正性が死んでいくトシの顔色や眼の色の描写というありふれた正確さとされることが強く否定されている。「《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けっしてひとりをいのってはいけない》/ああ わたくしはけっしてさうしませんでした」では、先述の事実における対立とは対照的に、価値においての一致が表されている。
 トシは生前、賢治とともに法華経に入信した唯一の理解者であったが、賢治は彼女の死後、いよいよ法華経に傾倒する。それは、〈あんまりひどいげんじつ〉への真正の接近方法が、価値においての一致として見出され、その価値の内実として採用されているためであると考えられる。
 「青森挽歌」において新しく表れた要素現象、トシの死への接近方法は、この価値においての一致として受け入れられる。だが、賢治の作品史をたどれば、最終的にこの一致もまた、疑問視される。その疑問が中心的なテーマとなっているのが、「青森挽歌」の翌年、1924年の秋から書かれはじめた童話「銀河鉄道の夜」である。

4-3.「銀河鉄道の夜」――「まこと」への真正の接近方法

 これまで宮沢賢治の諸作品を、ヤスパース-ラカンの精神病論と併読することで、“異常な”賢治を、“異常な”私たちが理解・共感できるとはどういうことなのかを探ってきた。そのなかで、ある固定された症状の単位として賢治を考えるのではなく、賢治、そして私たちは、同時に複数の症状の、その形成過程を生きているのではないかという提起を行った。「要素現象」を複数もつことは、病気においては不可能であるが、人間においては不可能ではない。「要素」とはあくまでも症状の要素であり、人間の要素ではないからである。
 賢治の場合、その要素現象は、まず〈世界〉、そして〈あんまりひどいげんじつ=トシの死〉と名付けられうるものであった。この併存する要素現象を展開するメカニズムこそが、「まこと」、「ほんたう」などで示される真正性である。そのため、賢治の作品は、私たちにも、理解・共感しやすいものとなっている。
 それでは、賢治はその創作史の最後に、いったいどのような知見に至ったのか。それを考えるには、賢治童話の代名詞ともいえる「銀河鉄道の夜」が良い素材となる。同作は、賢治の死の直前まで、およそ9年間かけて改稿が繰り返されている作品で、三次稿から最終稿のあいだに非常に大きな改変が加えられている。「一、午后の授業」、「二、活版所」、「三、家」、そしてカムパネルらの溺死という箇所は賢治の最晩年に初めて付け加えられたものである。
 「銀河鉄道の夜」の初期形、いわゆる「ブルカニロ博士編」は、作品が「ケンタウル祭の夜」から始まり、「ジョバンニの切符」の終末部分が大きく変り、最終稿と結末が異なっている。「ブルカニロ博士編」において、カムパネルラの溺死は語られていない。そして、その代わりに、カムパネルラがいなくなったあとの銀河鉄道の車内に「黒い大きな帽子をかぶっ青白い顔の瘠せた大人」が現れ、次のようにジョバンニに告げる。
「けれどももしおまへがほんたうに勉強して実験でちゃんとほんたうの考えとうその考えを分けてしまへばその実験の方法さえへ決まればもう信仰も化学と同じやうになる。けれども、ね、ちょっとこの本をごらん、いいかい、これは地理と歴史の辞典だよ。この本のこの頁はね、紀元前二千二百年の地理と歴史が書いてある。よくごらん紀元前二千二百年のことでないよ、紀元前二千二百年のころにみんなが考へてゐた地理と歴史といふものが書いてある。だからこの頁一つが一冊の地歴の本にあたるんだ。いゝかい、そしてこの中に書いてあることは紀元前二千二百年ころにはたいてい本統だ。さがすと証拠もぞくぞく出てゐる。けれどもそれが少しどうかなと斯う考へだしてごらん、そら、それは次の頁だよ。紀元前一千年だいぶ、地理も歴史も変ってるだらう。このときは斯うなのだ。変な顔をしてはいけない。ぼくたちはぼくたちのからだだって考だって天の川だって汽車だってたゝさう感じてゐるのなんだから、そらごらん、ぼくといっしょにすこしこゝろもちをしづかにしてごらん。いゝか。」
 そのひとは指を一本あげてしづかにそれをおろしました。するとジョバンニは自分といふものがじぶんの考といへものが、汽車やその学者や天の川やみんないっしょにぽかっと光ってしぃんとなくなってぽかっとともってまたなくなってそしてその一つがぽかっとともるとあらゆる広い世界ががらんとひらけあらゆる歴史がそなわりすっと消えるともうがらんとしたたゞもうそれっきりになってしまふのを見ました。[……中略……]
「さあいゝか。だからおまへの実験はこのきれぎれの考のはじめから終りすべてにわたるやうでなければいけない。それがむづかしいことなのだ。けれどももちろんそのときだけのものでもいゝのだ」

 実験の方法さえ決まれば、信仰も化学と同じようになるという言明に、賢治が真正性として自然科学的な手法をイメージしていたことを読み取ることもできるが、より重要なのは、ここでは〈真正性そのもの〉への真正の接近方法が主題となっていることである。この主題はすでに、タイタニック号の乗客であった青年とジョバンニとのあいだの以下のような会話で表されている。
「あなたの神さまってどんな神さまですか。」青年は笑ひながら云ひました。
「ぼくほんたうはよく知りません、けれどもそんなんでなしにほんたうのたった一人の神さまです」
「ほんたうの神さまはもちろんたった一人です」
「あゝ、そんなんでなしにたったひとりのほんたうのほんたうの神さまです」
「だからさうぢゃありませんか。わたくしはあなた方がいまにそのほんたうの神さまの前にわたくしたちとお会ひになることを祈ります」
[……中略……]ジョバンニはあぶなく声をあげて泣き出さうとしました。

 さらに、先に2-2で引用したジョバンニとカムパネルラが互いに「ほんたうのみんなの幸」のために「どこまでもどこまでも一諸に行かう」と誓い合う場面のあとの会話。
「けれどもほんたうのさいわひは一体何だらう。」ジョバンニが云ひました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云ひました。
「僕たちしっかりやらうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力が湧くやうにふうと息をしながら云ひました。

 いずれも〈真正性そのもの〉への真正の接近方法が、銀河鉄道における別れのシーンで口にされている。これは、〈トシの死〉への真正の接近方法が主題であった「青森挽歌」とは異なる。最終稿で付け加えられる、ジョバンニの親友カムパネルラの死という事態は、「青森挽歌」におけるトシの死ほど過剰な意味づけがなされていない。なぜなら、ジョバンニはカムパネルラとの通信に、すでに成功しているからだ。「ジョバンニはそのカムパネルラはもうあの銀河のはづれにしかいないといふやうな気がしてしかたなかったのです」、「ジョバンニは思わずかけよって博士の前に立って、ぼくはカムパネルラの行った方を知ってゐますぼくはカムパネルラといっしょに歩いてゐたのですと云はうとしましたがもうのどがつまって何とも云へませんでした」という確信は、「青森挽歌」において、賢治は死んだトシとの通信の結果に尽きせぬ疑惑を抱いていたことと対象的である。
 逆に過剰な意味づけがなされているのは、それまで要素現象=存在しない引用元を症状へと展開するメカニズムであった、真正性そのものである。「ほんたうのさいわひ」をめぐるジョバンニとカムパネルラの対話、そしてセロのような声をした青白い顔の大人は一貫して推敲の対象となり続け、「ほんたう」は不明なものとして残る。
 ここにおいて、要素現象を展開させるメカニズムであった真正性が、要素現象そのものとなる新しい位相がある。賢治は、言うなれば、レベルの違う二つの症状を展開しているのである。

5.おわりに

 70年代のラカンが精神病論としてジョイスを扱うとき、いくつもの要素現象(=〈引用元〉)が可能となる「サントーム」、中心がないのに中心が無数にあるように見える「ボロメオの結び目」を提起したのは、まさに賢治のように、“病気でない人間”の話にならないからではないか。ラカンにおいては要素現象はシニフィアンのレベルで一元化されているが、それはやはり患者の治療のためと考えるのが妥当で、“病気でない人間”の「ふつうの精神病(psychose ordinaire)」を考えるうえでは、一人の人間における要素現象(〈存在しない引用元〉)の複数性を考える必要がある。このとき、精神病論において(あるいは、病跡学において)病気と人間は別のものとして切り離され、人間の精神の振れ幅をより深く理解する枠組みを示唆しはじめるのではないだろうか。


※  本論文は、日本ラカン協会「I.R.S. ジャックラカン研究」no.9/10号に掲載されています。
by warabannshi | 2013-02-20 21:38 | 論文・レジュメ | Comments(0)
「宮沢賢治と精神分析―奇妙さと隣り合うために―」【中編】
2-3.真正性が問題となる〈世界〉への接近方法

 賢治が化学や物理学、地質学、鉱物学などにも造詣が深かったこと。法華経の熱心な信者であり、日蓮主義の在家教団、国柱会に参加していたことは、よく知られている。ここから、科学者でもあり、宗教家でもあり、童話作家、詩人でもある宮沢賢治、という広く知られているイメージが培われるのだが、そもそも、賢治は自然科学や宗教という枠組みに何を求めていたのか。
 この問いの答を示唆するのが、未完成の短編童話「学者アラムハラドの見た着物」(1923)である。ある日、老学者アラムハラドは、彼の塾の学童たちに人間の本質を問う。そのとき、子どもたちがその本質を、二足歩行や言葉を話すことである、といった通俗自然科学に求めても、アラムハラドはその答えを認めない。そして、大臣の子が、饑饉がやむなら足を切っても惜しくないと宣言したとき、アラムハラドは涙し、正義を愛することこそが、人間の本質であると説く。
 しかし、そんな老師に対して、塾内で最も年少のセララバアドはこう答える。「人はほんとうのいいことが何だかを考えないでいられないと思います」。セララバアドのこの答に対して、しばし瞑目したアラムハラドは、「うん。そうだ。人はまことを求める。真理を求める。ほんとうの道を求めるのだ。人が道を求めないでいられないことはちょうど鳥の飛ばないでいられないとおんなじだ」と答え、「決して今の二つを忘れてはいけない。それはおまえたちをまもる。それはいつもおまえたちを教える。決して忘れてはいけない」と念を押す。
 やはりここでも表明されるのが、アラムハラドを通して語られる、賢治の、真正性への希求である。同短編のなかで、自然科学、宗教という枠組みは、どちらも「人間の本質」を吟味するために用いられている。
 しかし、賢治が「人間の本質」の吟味という目的のためにから考えれば、地質学や鉱物学の知識はその目的から外れている。むしろ次のように考えるべきだろう。賢治がその真正性を希求していたのは、〈世界〉への接近方法であったと。
 賢治はくり返し、『春と修羅』の作品を、詩ではなく「心象スケッチ」であると表明している。この心象スケッチには、制作年月日を入れることが常となっている。その理由について、「書簡200 森佐一あて」(1925年2月9日)で彼は、心象スケッチが「或る心理学的な仕事」のためのデータであるからだと述べている。「私がこれから、何とか完成したいと思って居ります、或る心理学的な仕事の支度に、正統な勉強の許されない間、境遇の許す限り、機会のある度毎に、いろいろな条件の下で書き取って置く、ほんの粗硬な心象のスケッチでしかありません」と。また、「書簡214a 岩波茂雄あて」(1925年12月20日)では、「六七年前から歴史やその論料、われわれの感ずるそのほかの空間といふやうなことについてどうもおかしな感じやうがしてたまりませんでした。〔心象スケッチは〕心もちをそのとほり科学的に記載したもの〔…〕厳密に事実のとほりに記録したもの」だと述べている。吟味されているのは、人間の本質だけでなく、歴史や空間も含めた〈世界〉であり、その正しい吟味の仕方、つまり〈世界〉への正しい接近方法こそが、一貫して求められている。

2-4.引用元としての〈世界〉

 ここでわざわざ〈世界〉とカッコに入れて表すのは、賢治においては、記録や歴史、あるいは地史などのデータよりも、「心象」が何よりも重要視されるからである。『春と修羅』の「序」(1924)では次のように述べられる。
これらについて人や銀河や修羅や海膽は
宇宙塵をたべ、または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから)

ところで、私たちは「世界」という言葉を理解するとき、いったい何をしているのだろうか。賢治が「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」と断言するとき、「世界」という言葉を理解したり共感したりする私たちは、何をしているのだろうか。
 判断の留保だ。「世界」という言葉は、それが結局のところどこからどこまでを指すのか、なぜその領域が世界と呼ばれうるのかについて、みずからの根拠づけを留保されている。
 それでは、判断を留保するとはどういうことか。フッサールは「エポケー」を「かっこに入れる(einklammern)」ことと言い直しているが、判断を留保するとは、かっこに入った当の言葉を、どこかの引用元から引用することに他ならない。賢治だけでなく、私たちは多くの場合、誰かがそう言っているところのさまざまな概念を引用していることを忘れたまま、それらの言葉を引用して=判断を留保して、使っている。
 それでは、かっこに入った言葉の引用元はどこなのか。ある言葉についてのそもそもの引用元、そんなものは存在するのだろうか。もちろん、存在しない。引用元がない場合、私たちは引用元を作ろうとする。言い換えれば、私たちは引用元から何かを引用してある言葉を語るのではなく、何もないところからある言葉を引用して、そのあとでその言葉の引用元を作る。この順番は逆ではない。賢治の場合、彼の表すさまざまな言葉の引用元は、〈世界〉と呼ばれるものであった。そして、賢治は、この引用元としての〈世界〉へと接近する方法、〈世界〉から引用する方法が「ほんたう」の方法であることに、非常にこだわるのである。
 引用元としての〈世界〉に、真正の方法で接近すること、真正の方法で引用することを求めるということは、ある特定の方法を真正のものとして絶対視するということではない。むしろ、その接近・引用の方法として、すでに広く敷衍している既定の回路(例えば、自然科学の法則や宗教の教義)をそのまま採用してよいのかという問いを、賢治は抱え込むことになる。
 例えば、童話「銀河鉄道の夜」最終稿の冒頭で、望遠鏡で天の川を見ると何に見えるかと先生に聞かれて、ジョバンニはそれが天文学的には星であるとわかっていても絶句する。
 ジョバンニも手をあげやうとして、急いでそのまゝやめました。たしかにあれがみんな星だと、いつか雑誌で読んだのでしたが、このごろはジョバンニはまるで毎日教室でもねむく、本を読むひまも読む本もないので、なんだかどんなこともよくわからないといふ気持ちがするのでした。
 ところが先生は早くもそれを見附けたのでした。
「ジョバンニさん。あなたはわかってゐるのでせう。」
 ジョバンニは勢よく立ちあがりましたが、立って見るともうはっきりとそれを答へることができないのでした。[……中略……]
「大きな望遠鏡で銀河をよっく調べると銀河は大体何でせう。」
 やっぱり星だとジョバンニは思ひましたがこんどもすぐに答えへることができませんでした。/blockquote>
 この場面には、引用元としての〈世界〉からの引用方法として、自然科学という方法を真正のものとして採用することへの躊躇が表れている。先の「学者アラムハラドの見た着物」においては、宗教的な自己犠牲が、〈世界〉への真正な接近方法とされることへの問いがセララバアドによって示されていた。
 もちろん賢治のすべての作品に、〈世界〉へと接近する方法、〈世界〉からの引用方法の真正さについての問いが通底しているわけではない。例えば、短編童話「やまなし」(1923)は、「小さな谷川の底を写した二枚の青い幻燈」という形をとることで、接近・引用の方法の真正性への問いに対して中立的な立場をとる。しかし、〈世界〉からの引用方法の真正さについて問い続けることが、多くの賢治作品に見られる特徴であるといえる。

3.宮沢賢治の作品と精神病論

3-1.ラカン―ヤスパースの精神病論

 宮沢賢治に対する病跡学的診断については、「躁うつ病」、「精神分裂病」、「てんかん性要因」、「緊張病」などがなされている。宮沢賢治作品の特徴として真正性に注目する本論は、河合博らをはじめとする「分裂病」説を採り、ラカンの精神病(Paranoïa)論を参考にする。
 松本卓也(2012)※1は、ラカンの精神病論がヤスパースの大きな影響を受けていることについて言及している。1955年から56年に行われた『精神病』のセミネールで、ラカンはヤスパースを批判しているが、彼自身が精神分析の診断において重要であるとして何度も言及する「基礎的現象(phénomène élémentaire)」は、ヤスパース『ストリンドベルクとファン・ゴッホ』他で言及される「原発性体験(elementares Phänomen)」に由来している。以下、phénomène élémentaire/elementares Phänomenについては訳語を「要素現象」で統一する。
 ヤスパースは、精神病の診断において、了解不能な体験が生じているかどうかを重視する。そしてこの体験が「(病的)過程(Prozess)」である場合には「要素現象」があるとは言う。なにがその要素的(elementar)なのかといえば、「幻覚(…が見える)」や「妄想(…と思う)」のようにはっきりした内容を持たず、無意味で無媒介な体験として与えられるもので、「根源的な力(Urgewalt)をもって精神へと侵入するもの」と言われている。
ヤスパースがあげる要素現象の特徴は以下の通りである。
1.先立つ心的体験から推論されえない。(原発性)
2.患者にとって直接的に体験される。(無媒介性)
3.意味の分からない体験としてあらわれる。(無意味性)
4.圧倒的な力を帯びた異質な体験として現れる。(圧倒性)
5.後の症状進展に対する基礎となる。(基礎性)

 ラカンは『精神病』のセミネールおよび「精神病のあらゆる可能な治療に対する前提的な問題」(1957)で、体系的妄想が「要素現象」という謎のシニフィアン、その明確な意味を知りえないが何かを指示していることはわかる「読めない外国語」のようなものが突然到来することによって発症することを強調する。突然到来した謎のシニフィアンは「一つの葉脈が植物全体へと発展=再生産されるような力」を孕み、そこから体系的妄想が生まれると考える。
※1 松本卓也,「『疎外と分離』からみた精神病」,臨床精神病理33,星和書店,2012年

3-2.要素現象としての〈世界〉

 この要素現象、「読めない外国語」に、先述の「引用元のない引用」の性質が相応する。何もないところから引用して、その引用元として〈世界〉を作る。そして、この要素現象としての〈世界〉は、賢治の精神に「根源的な力をもって侵入する」。
 この事態を、賢治の活動のキャリアから整理しよう。賢治は創作活動の初期から引用というプロセスに自覚的だった。賢治が、最初に採った表現形式は、短歌である。なぜ短歌なのか。心象スケッチ集『春と修羅』を、「これらはみんな到底詩ではありません」(「書簡200 森佐一あて」1925年2月9日)と言い、「〔詩のような〕いままでのつぎはぎしたものと混ぜられたのは不満でした」(「書簡214a 岩波茂雄あて」1925年12月20日)とこぼし、新しい表現形式の構想に意欲的であった賢治が、その文学的キャリアの最初に、なぜ短歌という、伝統的な、ある意味で古くさい表現形式を選んだのか。
 千葉(2003)は、もともと旧派桂園派の短歌が、「歌枕」という語があるように、古歌という先行作品を踏まえて成立する表現形式だったことに注目する。短歌は、引用というプロセス抜きには個々の作品が意味を持ちえない表現形式なのである。
 それだけではない。賢治の短歌研究においては彼の通った盛岡中学の先輩である石川啄木の影響が指摘されているが、賢治の短歌群は、啄木の叙情性の高いのものとは明らかに異質である。分類すれば、叙景歌になるのだが、それではアララギ派に近いのかといえば、それとも異なる。アララギ派が風景の観察として短歌を詠むのに対して、賢治は、観察した風景に逆に見られるという内容の歌ばかり詠むのである。以下は、歌稿A〔1912年4月〕からの抜粋である。
褐色のひとみの奥に何やらん悪しきをひそめわれを見る牛
ブリキ鑵がはらだたしげにわれをにらむつめたき冬の夕暮のこと
われ口を曲げ鼻をうごかせば西ぞらの黄金の一つ目はいかり立つなり
西ぞらのきんの一つ目うらめしくわれをながめてつとしづむなり
うしろよりにらむものありうしろよりわれらをにらむ青きものあり

 賢治の短歌にくり返し表れる、誰かに見られているという感覚に、自己関連づけを伴う妄想を読み取ることは無理なことではないだろう。
 短歌制作期の賢治において、〈世界〉という了解不能なものは不安の源泉であり、闖入するものであった。例えば、「書簡157 保阪嘉内あて」(1919年秋)における、「保阪さん。今日私の方の第一の関所はすっかりこわされ、あやしい軍勢がすさまじく湧きたって来ます。」/「保阪さん。今日私の方の第二の関所はすっかりこわされ、顔の漆黒な髪を被った軍勢は黒煙のやうに押し寄せます。」/「保阪さん。今日私の城はいつか地の底を堀って来た軍勢に充たされ私はある箱の中に入って身をひそめてゐます。」 という記述に見られるように。

3-3.症状を症状として形成するメカニズムの複数性

 しかし、それらの了解不能なもののいくつかは、次第に恩恵として、彼のなかで捉え直されていくことになる。『注文の多い料理店』「序文」(1924)では、次のように書かれる。
 これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。
 ほんとうに、かしわばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。
 ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでしょうし、ただそれっきりのところもあるでしょうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでしょうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。
 けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。

 「ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということ」を「虹や月あかりからもらってきた」と言い、あまつさえそれを「すきとおったほんとうのたべもの」と表現する。この変化をどのように解釈すればよいのだろうか。いや、賢治の了解不可能なものに対するこの態度の変遷を、不可解と見なすのは、そもそも内容が固定された、核となる症状があることが、私たちに前提とされているからではないだろうか。
もちろん、精神疾患の治療において、症状があるということは前提である。しかし、本論の目的は賢治の治療ではない。本論は、むしろ賢治が、内容が固定された症状を形成するその過程を生きたとみなす。そして、症状の形成過程にこそ注目する。
 心象スケッチ『春と修羅』を編む時期において、症状を症状として形成させるメカニズムこそが、賢治の場合は「まこと」、「ほんたう」として語られる真正性であり、端的に言って、それは自然科学と宗教であった。そして、要素現象、引用したあとで作られた引用先につけられる名前は、〈世界〉である。
 要素現象の症例症状の根源であるところの「要素現象」には、症状そのもののメカニズムが書き込まれているわけではない。つまり、要素現象が症状になるまでのメカニズムは、単一であるとは限らない。例えば、シュレーバーに置き換えれば、要素現象としての神と、メカニズムとしての創造を指摘することができる(だからシュレーバーは、創造を担う性、生み出す性として、女性化することになる)。
 要素現象が症状になるまでのメカニズムがあたかも単一のものであるかのようにヤスパースもラカンも書くのは〈ヤスパースは因果関係として、ラカンはシニフィアンの働きとして〉、ヤスパースもラカンも精神科医として、患者の治療が優先されるべき事柄であったという事情を加味する必要があるだろう。ヤスパースの場合は存在論的な、圧倒的な力が症状へと分化していくのを止めることによって。ラカンの場合は、「分化した症状(=体系的妄想)」がまず先にあり、そのあとで要素現象の圧倒的な力が、理論的な要請物として、“再”発見される。そして解釈者に転移を起こさせることで、症状を和らげるという手法がとられる。このような治療の理論化のためには、メカニズムはあくまでも単一のものである必要がある。

3-4.症状の形成過程を生きる

 宮沢賢治の諸作品や書簡を、ヤスパース-ラカンの精神病論の「要素現象」を手がかりにして読むにあたり、賢治はストリンドベリやシュレーバーほど、明確にパラノイアではないことについてふれておきたい。
先述のとおり、核となる症状が一つ、確固としてあれば、病気として明確に検出することができるが、賢治の場合はそうではない。だが、賢治は、症状が症状として形成される過程を生きていると考えればどうだろうか。この仮説は、宮沢賢治の作品にみられる“異常さ”に、なぜ“正常な”私たちは共感するのかという問いに呼応する。つまり、私たちもまた、ある言葉を何もないところから引用して、そのあとでその言葉の引用元を作るということを日常的に行っている。自分の言葉のそもそもの引用元として、〈他者〉を持ち出すことは容易であるが、その他者とはあくまでも後付されたものではないか。症状として形成されていないだけで、私たちが普段、行っている、言葉を話すという行為は、常に奇妙さと隣り合う。その構造を、賢治は精緻になぞる。なぜなら、言葉を話すことの奇妙さもまた、〈世界〉に含まれるものであるから。そのことが、彼の作品に私たちが引き起こされる共感の源の一つといえるだろう。
 さらに、要素現象は一つのものであるとは限らない。複数の要素現象が併存することも十分考えられる。この可能性が取り扱われないのは、要素現象が複数ある場合には、症状が症状として形成されえないため、治療の理論として不要とみなされたからだろう。
 しかし、賢治、そして私たちの多くは、むしろ複数の要素現象と、そこから生まれる複数の体系的妄想のあいだのダイナミクスを生きているのではないか。言い換えれば、私たちは、私たちの言葉のただ一つの作られた引用元を持つのではなく、複数の作られた引用元から、言葉を引用しているのではないだろうか。そして、症状が形成されるとは、たまたま要素現象が一つに限定される(作られた引用元が一つに限定される)ことにより、複数の体系的妄想のあいだのダイナミクスが失われるという事態なのではないか。
by warabannshi | 2013-02-20 21:36 | 論文・レジュメ | Comments(0)
「宮沢賢治と精神分析―奇妙さと隣り合うために―」【前編】
1.はじめに

 宮沢賢治がどのような精神疾患をわずらっていたのか診断する、というアプローチは、福島章らをはじめとした多くの先行研究にすでに多くみられる。そうであるならば、今日、宮沢賢治に関する病跡学的な研究は、〈宮沢賢治はどのような精神疾患をわずらっていたのか〉とあらためて問うよりも、〈賢治が精神疾患をわずらっていたとすれば、精神疾患とはいったい何か〉と問い直すほうが、より新しい発見を見出せるのではないか。先行研究が示す通り、宮沢賢治の“異常さ”は彼の創造性と強く関連している。賢治の精神疾患(躁うつ病、緊張病親和者、てんかん…)の特性と、創作活動や社会活動との因果関係は、すでに精緻な裏付けをもつ指摘がなされている※1。そこで本論は、賢治の“異常さ”の質を分析するのではなく、賢治作品を通じて“異常さ”の幅を広げることを目的としたい。つまり、宮沢賢治が何らかの精神疾患を抱えていて、その“異常さ”を原因の一つとして諸作品を創作したのであるとしたら、なぜ、ひとまず“正常”であるところの私たちは、その作品で示される価値や感情に対する共感が可能なのか、という問いを問う。そのことは、宮沢賢治と私たち自身の精神を理解する新しい枠組みを示唆してくれるはずである。
※1 杉林稔、高宜良「緊張病親和者としての宮沢賢治」日本病跡学雑,63,2002年

2. 宮沢賢治の作品の特徴としての、真正性への希求

2-1.宮沢賢治の受容のされ方

 宮沢賢治に関する研究本は、彼の生誕100周年を迎えた1996年をピークとして、現在も多くの量が刊行され続けている。2011年の東日本大震災の後には「雨ニモマケズ」(1933)が国内メディア、海外のチャリティーイベントでくり返し朗誦された。賢治の作品が熱を持って受容されたのは最近十数年のことに限らない。吉田司『宮沢賢治殺人事件』(1997) は、賢治の作品が日中戦時下において戦意高揚に用いられていたことを指摘している。例えば、1941年、賢治の「雨ニモマケズ」が満州建国大学のセリヨデキンによって、満州建国の理想を表すものとして朗読されている。
 一般的にそう思われている通り、賢治の作品において戦争は肯定されていない。しかし、事実として賢治の作品は祖国と生死をともにする精神を鼓舞するものとして機能したのである。賢治の作品の何が、私たちを高揚させうるのか。先の、「雨ニモマケズ」の「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」という祈念だろうか。それとも、「農民芸術概論綱要」(1926)の、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という断言だろうか。それらは、賢治の思想を表したものとして、“思想家としての賢治”を語るうえで外せないものとなっている。
 しかし、賢治は思想家なのだろうか。戦中、90年代、震災後のどの時期においても、賢治の作品の大がかりな受容が起こる時には、賢治は少なからず思想家として捉えられている節がある。しかし、千葉一幹『賢治を探せ』(2003) は、賢治を、思想家としてではなく、創作者として扱うべきだと主張する。なぜなら先の「農民芸術概論綱要」をはじめ、賢治の思想的宣言はじつのところ、国柱会の創始者・田中智学と、当時ベストセラーであった『文明の没落』、『土に還る』を書いた作家・室伏高信にそのほとんど依っているからだ。例えば、田中智学『世界統一の天業』(1904)の「世界の平和よりは、先づ一身の幸福をといふが、一身の幸福にも根がなくてはつまるまい、世界に平和の常なければ、一身の安寧幸福は根底より成り立たない。姑息の幸福は一種の禍である。禍の上に立って、その禍を自覚しないのは、眞に危険の大なるものである」という一節に、先の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という断言のルーツを見ることは難しくない。また、室伏高信の『文明の没落』や『土に帰る』は、羅須地人協会での農耕生活の実践などに大きな影響を与えている。賢治に思想家としてのオリジナリティはほとんどない。

2-2.キーワードとしての「ほんたう」

 このような背景にも関わらず、賢治の作品を読むとき“思想家としての賢治”のイメージを払拭することはむずかしい。そこには、彼の作品内に頻出する、「ほんたう」、「まことの」などの真正性に関わる語彙が関係している。同時代の他の作家と比べても、賢治作品のなかで、「まことの」、「ほんたうの」という真正性に関わる語彙は明らかに多い。しかもそれらの言葉が表れるとき、作品には極めて高揚した気分と、魅惑されている調子が混在することになる。例えば、彼の代表作ともいえる「銀河鉄道の夜」の終盤のジョバンニの独白。
「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一諸に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない。」
「うん。僕だってさうだ」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでゐました。

 あるいは、賢治が生前に唯一刊行した童話集『注文の多い料理店』に収録されている「鹿踊りのはじまり」の冒頭。
 そのとき西のぎらぎらのちぢれた雲のあいだから、夕陽は赤くななめに苔の野原に注ぎ、すすきはみんな白い火のやうにゆれて光りました。わたくしが疲れてそこに睡りますと、ざあざあ吹いてゐた風が、だんだん人のことばにきこえ、やがてそれは、いま北上の山の方や、野原に行はれてゐた鹿踊りの、ほんたうの精神を語りました。

 “思想家としての賢治”というイメージは、彼のこの真正性への強い志向によって裏打ちされているといえる。だが、その気分と調子は、ジョバンニの自己犠牲や、霊感を得る恍惚にとどまるものではない。真正性は、その最初期においては非常に奇妙なものとして、さらにいえば病的なものとして表明される。
 賢治は日記を書かなかったが、多くの書簡が残っている。「書簡154 保阪嘉内あて」(1919年8月20日前後)を読むと、賢治が「まことのことば」、「ほんたうのさいわい」というとき、その真正性が、決して平穏なものではないことがわかる。
幽霊が時々私をあやつって裏の畑の青虫を五疋拾はせる。どこかの人と空虚なはなしをさせる。正に私はきちがいである。諸君よ。諸君よ。
[……中略……]あなたはこんな手紙を読まされて気の毒な人だ。その為に私は大分心持がよくなりました。みだれるな。みだれるな。さあ保阪さん。すべてのものは悪にあらず。善にもあらず。われはなし。われはなし。われはなし。われはなし。われはなし。すべてはわれにして、われと云はるゝものにしてわれにはあらず総ておのおのなり。われはあきらかなる手足を有てるごとし。いな。たしかにわれは手足をもてり。さまざまの速なる現象去来す。この舞台をわれと名づくるものは名づけよ。名づけられたるが故にはじめの様は異ならず。手足を明に有するが故にわれありや。われ退いて、われを見るにわが手、動けるわが手、重ねられし二つの足をみる。これがわれなりとは誰が証し得るや。触るれば感ず。感ずるものが我なり。感ずるものはいづれぞ。いづちにもなし。いかなるものにも断じてあらず。

見よこのあやしき蜘蛛の姿。あやしき蜘蛛のすがた。

今我にあやしき姿あるが故に人々われを凝視す。しかも凝視するものは人々にあらず。我にあらず。その最中にありて速にペン、ペンと名づくるものを動かすものはもとよりわれにはあらず。われは知らず。知らずといふことをも知らず。おかしからずや、この世界は。この世界はおかしからずや。人あり、紙ありペンあり夢の如きこのけしきを作る。これは実に夢なり。実に実に実に夢なり。而も正しく継続する夢なり。正しく継続すべし。破れんか。夢中に夢を見る。その夢も又夢のなかの夢これらをすべて引き括め、すべてこれらは誠なり誠なり。善なり善にあらず人類最大の幸福、人類最大の不幸

 賢治はこの箇所の前に「私は邪道を行く。見よこの邪見者のすがた」とも表明しており、幻聴や譫妄に、恐怖しつつ魅惑されてもいる様子がうかがえる。また、この混乱した手紙の最後では、「夢中に夢を見る。その夢も又夢のなかの夢これらをすべて引き括め、すべてこれらは誠なり誠なり」と断じる。
 また、この書簡の前年に、同人誌『アザリア』に発表された初期短編「復活の前」(1918)もまた、対象への憐憫、他方での尋常でない狂暴さという不均衡のあとの、「私は馬鹿です、だからいつでも自分のしてゐるのが一番正しく真実だと思ってゐます、真理だなんとよそよそしくも考へたものです」という真正性の独白で終わる。
 賢治を生涯、駆り立てつづけたのは、この真正性であった。
 この真正性への強い志向がもっとも端的に表れているのは、後に検討する、賢治の改稿癖である。生前、刊行されたのは『春と修羅』(1924)、『注文の多い料理店』(同)の2冊のみであること。「風の又三郎」、「セロ弾きのゴーシュ」、「銀河鉄道の夜」など、現在広く読まれている賢治の童話作品は、すべて推敲途中のものであることを、ここで強調したい。未発表作品ばかりではなく、すでに出版された『春と修羅』も、彼自身の手による書き込みでさらに手が加えられていることも明らかとなっている。
by warabannshi | 2013-02-20 21:20 | 論文・レジュメ | Comments(0)
第609夜「木苺」
 従軍記者。内戦中、孤児院に逃げ込むと、そこはたったいま然るべき住人たちが逃げ出したようで、テーブルの上には、大きなティーポットと木苺のタルトがのった大皿が置いてある。シャルダンの油彩画「木いちごの籠」のように、ほっとする薄暗闇と静かな空気のなかで、テーブルの上のこぼれおちそうな赤に視線が吸着する。床が二度、ギギッと軋む。
 私は、無人の孤児院を写真におさめようとカメラを構える。しかし、闖入者の狼藉を演出するために、この宴の準備をことごとく叩き落とすこことにする。手近にあった箒を手にとり、そして箒の先をテーブルの上にのせる。あとは思い切り、撫でてしまえばいいのだが、その前に、木苺のタルトの大きい一切れを手にとり、頬張る。塩味の効いたサブレのあとで、ベリーの酸味と、カスタードの濃厚な甘みが口腔に広がる。ティーポットの中身を注ぎ、含むと、ずいぶん濃く淹れてある。
 私は扇動者になることをやめ、メモ帳を開く。そして、五行の本文に十頁の注釈をつけることさえできるように、天気と状況、この部屋の間取りとテーブルの位置、倒れた椅子の数、タペストリーの模様などを書き記す。そのメモ帳は、向こう側に置いてきてしまったが、それでいっそ、すがすがしい気分でもある。
by warabannshi | 2013-02-06 09:39 | 夢日記 | Comments(0)
第608夜「二十世紀式」
 植民地の夜、路地裏のカフェの前で二人の男女が抱き合う様に、身を寄せている。二人の他には誰もいない。看板にかけられたネオンサインがじりじりと焦げ、二人の伝統からはずいぶん遠い音楽が店々の扉の隙間から路上に漏れている。二人は、きつく抱きしめ合うわけではないが、向かい合って互いの手を組み合わせ、額を寄せ合い、手ほどの接着した皮膚から頭蓋を抜けて伝わってくる何かを視ることができるかのように目を瞑っている。男は彼女に、彼が十九世紀式の貞操観念を断ち切れないわけではないことを伝えたがっているが、その一方で、女は彼が、彼女が二十世紀式の自由恋愛を謳歌することを許さないだろうということを知っている。

 ―そして、床に就いた彼女が浅い眠りで見た夢。
 「水商売の女とは付き合うな」、「サイトウデンキ」、「裏切り者の女」というフレーズが延々とリフレインしている。倉庫の暗闇のなかで、ドアの四角い覗き窓から光が射しこみ、彼女は、一人で、手足を竦めて、じっとしている。鉄格子の引き戸が開く音がする。いや、引き戸は開いていない。鉄格子を、何か粘性の高いものがずるずると擦りぬけているのだ。それは、濡れた闇のなかを這入ってくる。そして息を潜めていた彼女の足首を掴む。夢だとわかっているのに、醒めることができない。恐怖にかられた彼女の絶叫によって、私は目覚める。
by warabannshi | 2013-02-05 07:52 | 夢日記 | Comments(0)
第607夜「杉苔」
 所用を済ませて、駅からのいつもの帰り道を辿っていると、路地の角を曲がったところで、路上のマンホールの穴から背の高い杉苔の群生が噴き出すように生えている。おや、と気づくと、その先のマンホール穴からも、柔らかそうな繊維の蘚類がむちむちと生えている。誰かが手入れをしているのか、無暗に茂っているわけではなく、しかし伸びすぎたから短くしようという考えもないようで、杉苔は、地面に垂直に、小さいながらも針葉樹のように、そよ風に揺れながら立っている。ものによっては、私の膝小僧くらいの高さまで徒長している。
 しかしこれではこの路地に自動車は入ってこられない。いや、もちろん入ってこられるが、この杉苔の株は自動車の腹に擦られて台無しになってしまうはずで、そう考えるといつのまにこんなに育ったのだろうと不思議に思う。遠くで男の子が二人、何か笑いながら駆けていった。
by warabannshi | 2013-02-02 13:57 | 夢日記 | Comments(0)



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