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2013年度「生物学史分科会・生命基礎論研究会 夏の学校」@総合研究大学院大学での塩谷さんとの会話メモ
・生物学のひとつの枠として「手法的には化学(or物理学or数学)でも、これは〈生命〉を扱っているから生物学」というのがある。しかし、〈生命〉という対象はそれほど確固としたものなのか。もともと西欧文脈では動物・植物・鉱物は別のものだった。動物と植物の共通性を析出したのは細胞説だが、シュライデンとシュワンは、ドルトンの原子論の生物学versionを作ることを企図して細胞説―細胞の働きとして生命現象は記述することができる―を提唱した。生物学が共通に対象としているという、〈生命〉という枠組み(「そして生命は1つ!」)は、じつは“出来レース”ではないか?
・「野に咲く薔薇もウニもショウジョウバエも〈生命〉である」という枠組みの正当性が担保できてしまうのは、「かくいう私自身が生きている、〈生命〉の当事者だからだ」「そして君も生きているんだろう?」という前提が、強力に効いているから。「いえ、ゾンビです」とは言えないことになっている。
・しかし、目の前の相手が自分と同じ仕方で生きていることを担保しているものは、じつは何もなく、そもそも自分がどういう仕方で生きているのかすら“わかっていること”にしているだけであったりする。
・「目の前の相手が私と同じ仕方で生きていることは自明ではない。そもそも私がどういう仕方で生きているのかわからない」という状況はハードなので普通は考えないようにされている。それはそれでいい。しかし、〈生命〉(あるいは進化、あるいは遺伝子)という大きな枠のなかで、生きている仕方の位相(phase)、様態(mode)の差分が塗りつぶされてしまうのはまずい。

太「塩谷さんは、例えば他の人との生きている仕方の様態の差というのを、明瞭に感じます?」
塩「それしかない」
太「生きている仕方の位相、様態の差、というのはわかるようでわからないのですが」
塩「regulationの差だよ」
太「規則の差ですか?」
塩「制御の差。制御工学的(Regulation of Engineering)な意味での。世界から対象を括りだすやり方の差」

・闘争の本質は、制御であり、調整。一報が圧倒的な力でもう一方をつぶしてしまうのは、闘争ではなく、捕食や蹂躙。そうではなく、互いに牽制し調整することこそが闘争というコミュニケーション。牽制し合っている一つ一つの要素は、明示化されない。明示の仕方をめぐって、また別の牽制が始まるから。牽制と、制御工学とは近い。つまり、処理の遅れやスパンのずれを込みでシミュレーションを行うという点において(cf.木村英紀(2002)『制御工学の考え方―産業革命は「制御」からはじまった』)。理論とはシミュレーションであるが、遅れやずれを勘定に入れるものは少ない。
・遅れやずれを無視せず、相手もしくは対象へのフィードフォワード(「あいつはこう動くに違いない」という予想や期待)として集約する。そして、相手、対象からのフィードフォワードをフィードバックする(「『あいつはこう動くに違いない』と考えているに違いない」)のが、牽制であり制御。この牽制、制御を、1人でやるとダブルバインドになる。牽制、制御が進むためには、もう1人がいなければならない。――闘争という、コミュニケーションのモデルとはそういうこと。





・生物学にはデータサイエンスとしての側面が常にある。ビッグデータが具体的に扱えるようになるよりずっと以前、19世紀から、生物学は数多くのアマチュアが趣味で採取してくれたデータに立脚してきた。例えば、150年以上、その年に初めてカエルの鳴き声を聞いた日を記録し続けている家系がある。
・ちなみにカエルの鳴き声を記録しているのはイギリスの一家(大英帝国の博物学伝統!)。一方、日本では1930年代からアマチュアの自然観察が、都市の文化として普及を始める。「日本野鳥の会」の設立は1934年。会員の約60%が東京府民だった。博物学の担い手は常に“ええとこの人”。
・悪い言い方をすれば、博物趣味でいろいろデータを集めてくれるアマチュアは、プロの生物学者にとって“インフラ”。でも、例えば牧野富太郎、中西悟堂、野尻抱影といく野外観察ツアーみたいなものも組まれていたらしいから、プロアマ双方にとって良い関係だった模様。
・ところで、「データから導き出される結論ではなく、データ採取そのものに魅せられる」ということは、少なからずある。その傾向は生物学者に顕著とはいわないまでも、生物学が博物学をルーツに持つことを感じ入らせる熱情をもって、とにかくデータを集める人がいる。宮沢賢治も、その1人。
・宮沢賢治の心象スケッチ集『春と修羅』(1924)に収録されている作品には、すべて制作年月日が付記されている。賢治はそれらを、データと見なしていたから。何のデータかといえば、「私がこれから、何とか完成したいと思って居ります、或る心理学的な仕事」(書簡200 森佐一宛)のため。
・『春と修羅』が、「歴史や宗教の位置を全く変換」(前掲書簡)する仕事の土台となることを確信していた賢治は、彼が肥料の配合を担当した稲が大嵐ですべてなぎ倒されるという出来事が起こるまで、データとしての日付入り心象スケッチを書き留め続ける(日付のない「野の師父」はその過渡期的作品)。
・自分も含めて、人がなぜデータを採り続けることに熱中するかといえば、そのデータを結び合わせることで、いまは想像もつかない世界の姿が垣間見えるのではないか、という根拠のない期待があるからで、その期待の裏には〈データの統合・処理を行うことができる中枢としての私〉が強く措定されている。
・でも、賢治が大嵐の夜を境に心象スケッチに日付を付さなくなったことが示すように、〈私〉は〈データの統合・処理を行える〉ほど強い存在ではない。むしろ〈データの統合・処理を行う〉のは処理対象であったはずの私の外部。世界を心がスケッチするのではなく、心を世界の側がスケッチすること。
・賢治は、37歳で亡くなる前に「これからは植物のようなエロのことを書きたい」と語っていた、という証言がある。彼はエリスの『性の心理』を熟読していたから(cf.http://www.konan-wu.ac.jp/~nobutoki/papes/kenjiellis.html…)、エロはわかるとして、植物のようにとは何か。仮説:処理に中枢をおかないこと。
・動物は個体ごとに情報(データ)処理のための神経中枢を持つが、植物体に神経系はない。植物体とは処理機能の塊のようなもので、処理という側面から見れば、個体間の区別は動物よりずっと緩い。周囲の環境が不適と処理されれば、フィトンチッドや蒸散作用など、森単位で周囲の環境を変えてしまう。
・しかし植物ではない賢治は、どのようなデータ処理の形を模索していたのか。…ここからは事例が自分の夢の記録へと移るけれど、自分も夢をデータとして採っている、という感覚がある。しかし、夢をどのように数えるか、というデータとしての根本的なところが曖昧。いまは覚醒を単位としているけれど。
・データは、それが何のためのデータなのか、という使用目的と不可分で、だから使用目的をがちっと固めればデータをきれいに整理することも可能なのだろうけれど、そこには先述の〈データの統合・処理を行える中枢としての私〉が前提となっている。だから、目的を決めてそこに揃えていくのではなく、
・「〈データの統合・処理を行う方法〉へのアクセシビリティを保つために、データを採る」という、見方によっては倒錯的なことをしている。当然、正しい1つの〈データの統合・処理を行う方法〉があるわけではなく、〈方法〉は不変不動のものでもない。探査針でとったデータを探査針として打つ。
・それは、それが何のためのデータなのかよくわからないままとにかくデータを採ることに魅惑されるアマチュア博物学者(あるいは天文学者)の手つきに近い。分散した処理系のパスを開くためにデータを採り続ける。データ採取に終わりはない。一度使えたパスが次に使える保証はどこにもないから。
by warabannshi | 2016-01-19 08:53 | メモ | Comments(0)
「塩谷賢の哲学道場」@哲学塾カント 第2回ノート まとめメモ
2015年3月27日 テーマ:「知ることは力である」とはどういうことなのか?


・「知は力なり」と言ったのはフランシス・ベーコンだけど、これ、賛成する方はどのくらいいます。反対の方。よく分かんない方。うん、正直でよろしい。では、なぜ力だと思うんだろう。その場合の力って何だ。どういう条件では、知が力になるんだろう。
・例えば小学生くらいにこういう話を多分すると、頭のいいやつは学校で偉そうに見えるから知は力ですとか、単純な話になるわけだけど、前回話したジャレド・ダイヤモンドの話の中で、どうしてスペインのピサロがインカ帝国を滅ぼせたのかという話を思い出してください。
・山の中をてくてく歩いていって、食い物もろくにない。人数もせいぜい200人、馬も30頭くらい。インカ帝国の方は2万人くらいいたらしいですが、一発で勝ってしまった。いろんな要因はあるんですけど、一つはインカ帝国のほうは、ピサロたちが何者であるか全く知らなかったんことにあります。
・一方、ピサロ側はある程度の情報は伝聞で知っているわけです。新大陸に行くと、こういうことがあるよね。こういう話があるよね。こういうやつらが居るよねという形で、前もって備えができるわけです。知識にもとづいて準備をすることができる、そういう意味で、知は力だということが、まずできます。
・自然が相手になったときも同じことが言えます。日本語だと「自ずから然り」と書いてますけど、ラテン語だとnaturaです。これには、本性とかいろんな意味があるわけです。本性って何だろうというと、そいつがそいつであるための本質ですよね。
・自然というのは、人間にとって必ずしも良いもんじゃないわけです。食べ物がいつもあるとは限らない。不測の事態ということはいつでも起きる。例えば、漁師の「板子一枚下は地獄」って諺がある。自然っていうのは何が起こるか分かんないわけですよ。なぜか。われわれじゃないんだよ、自然は。
・自然自身が好き勝手やってるわけですよ。人間の思惑に従ってやってるんじゃなくて、そいつ自身の内から湧き出るものによって、そういうふうに振る舞ってる。本性としてね。それは私の本性じゃない。だから自然を知ることで、様々な事態に対処することができるようになる、楽になるわけです。
・相手を知るっていうことは、相手に対処をするための準備ができることです。これはすごいアドバンテージなわけよ。でも相手が分かんない場合もあるわけね。そもそも準備ができるってことは、相手はまだ不在なわけですよ。居ないのにどうして相手を同定できるんだ。まだ居ないのに。
・しかし、相手が不在なのに準備をするっていう形でしか、われわれは準備できないんですよ。そうすると、相手というのは、本当に今ここにある個的な現実(あんまりいい言い方じゃないですけど)ではないわけよね。だって居ないんだもん。だから、名前とかパターンとかを使わざるをえないわけです。
・名前もパターンも「同じもののくり返し」なわけですよね。抽象化して、適宜こういう形をやって、相手が居ない、不在な状況でも使えるようにするわけ。戦争と自然への対処の話をしましたが、交易でもそうですね。物々交換でもいいんですよ。何かと取り換えるためには、何を準備しておけばよいか。
・山の民と海の民が交易をするとき、例えば山の民は衣服になるような繊維を持って来る。海の民は食える魚を用意する。でも前と同じ繊維を持って来るかどうか分からないし、相手が何を欲しがるか分かんないわけね(マグロばっかり食いたいやつかもしれないし、マグロが嫌いかもしれない)。
・そのとき、マグロもタイもイワシも「魚」って言葉で処理しちゃうわけ。「魚」と「繊維」を交換しようって。この一般化を続けていくと、相手が誰でも使える「お金」になる。準備するためには相手を特定しなければならないという条件を、どれだけ緩めていくかっていうことが、我々にはあるわけよ。
・これは真理っていうことの一つの側面でもあるわけですよ。いつでもどこでも正しい。いつでもどこでも正しいから、いつでもどこでも使い、いつでもどこでも何に対しても準備できる。
・そういう形で言うと、名前というのが、非常に引っかかるわけですよ。この名前というのは何なのか。
 名前には、固有名と一般名というのがあります。固有名っていうのは、それしか指さない。今ここに居ないけど、太田和彦って人がいて、この固有名は彼しか指さない。まあ、同姓同名ってこともあるけれど。
・一般名の場合は指すものが幾つもある。でも、指すものが幾つもあるっていうけれど、そこではある種の指し方のパターンとか指されるものの範囲が決まっているわけです。じつは固有名っていったって、ある固有名を有している人がずっと同じかどうかって分からないわけですよ。
・一般名の場合は、その名前を当てはめることができる、ものを集める範囲や同じものと見なせるパターンの範囲っていうのが問題になります。この、言語的な名前が持ってる範囲って、実は極めて独特な形なの。
・名前っていうのは、決して物質的な形で固定されない。例えば、言語を越えても翻訳ができる。犬とdogはだいたい同じものを指します。でも、違いもある。昔はクジラは「勇魚」と言われて魚でしたが、いま私たちはクジラを魚とは見なしません。にもかかわらず、同じように魚と言えてしまう。
・一般名を使うっていうことは、全てを前もって知るわけにはいかない曖昧なものに対処しようとすることです。それはさっき言った、相手の本性(natura)を知ろうとすることでもあります。
・相手の本性を名前を通して知ろうとするっていうのは、相手の本性を名前という形で、分類できるものとして、ひとまとまりのものとして知ろうとするということであり、じつはこれは概念というもののかなり大きい側面です。
・前回も言ったとおり、哲学を語るのはラテン語という唯一の言葉だった。特にキリスト教と融合した後は。ギリシャでも、本当のことを言うと、やっぱり自分たちの使っている言葉を特別視したわけね。周りの連中、要するに野蛮人(バルバロイ)っていうのは違う言葉をしゃべるやつらだって意味だから。
・一種類の言葉によって世界を知ろうとするとき、名前はその言葉の体系の中で、まさに一つのものを指すかのように思われるわけです。だから名前をつけること、その概念について知ることが、名付けられた相手の本性を知るというふうになったわけですよ。
・さて本当にそういう形で、相手の本性をつかまえることができるんでしょうか。この相手の本性をつかまえるということは何のためにしてるか。準備して対処するためにしてるんだよね。相手の出方が分かんないときに、どういう準備をするか。
・例えば、デパートにポケットに財布つっこんで行くとするじゃない。何を買うかは決めていないけれど、デパートに行けば必ず品物がある。でも、時期のソ連では、デパートに行っても何もないわけですよね。店員はいるが品物はない。つまり、お金があっても、買い物ができる保証はないわけですよ。
・私たちはお金があればなんとかなるだろうと思っていますが、そんなこともない。さて、ここでわれわれが知るというときに、しかも哲学という知り方をするときによく出てくる問題が現れます。知ったことを、どうやって何に使うんですか、あんたらはと。
・最近、宇宙の始まりの構造はどうなってこうなってという研究をしていると言われるわけですよ。「それが何の役に立つんですか」「それに対して何十億円っていう予算をつけていいんですか」とか。それに対して、ああだこうだとみんないろいろと言い訳するわけね。
・でもその問いは一定の意味を持つように聞こえるわけ。そもそもなんで学問をやって金をもらえるのか。昔は金なんかもらえなかったわけですよ。ギリシャの連中は自分で経営してたから。別にアゴラで議論して金をもらってたんじゃないからね。では、『饗宴』でされているような議論は何のためなのか。
・ひとつは、新しい知識を得るってことが喜ばしいからです。それがあるから、朝日カルチャーセンターとか行くんだよね、基本的には。でも、それは銀行通帳にお金が溜まっていくのを見る楽しさと、どういうふうに違うんでしょう。
・もちろん、お金は即物的だし、知識は即物的じゃないっていう言い方あるかもしれないけど、使うっていう話から考えたら、そこはどっかつながってるんじゃないですかね。
 でも、やっぱり何か知識を特別扱いしたくなるのは、われわれが使っている知識、言葉というやつに影響されていくからです。
・じつのところ、ある言葉が、世界の組織のされ方、つながり方と一致しているという保証はどこにもない。われわれが一致しているだろうと思っているだけですよ。ネルソン・グッドマンのグルーのパラドクス(*)とかが示唆的ですが。
・つまり、われわれの準備の仕方は、準備の仕方のその来歴によってるわけですよ。でもその来歴によってるってことが、個々の相手に対して全部当てはまるっていう保証はどこにもないわけ。
・大体は合ってることは間違いない。でも、それは中島さんがよく言うように、明日世界がないかもしれないって可能性を考えるのが哲学だとすれば、ずっと準備してたからっていって、それがそのままいつでもいけるって保証はない。
・それにもかかわらず、哲学は真理ってことを伝統的にやってきた。だから、知は力なりっていう言葉は、相手がどうであるかということを無視して、こちらがこういうふうに相手を見てること、それが世界の真実、真理であると述べてしまうことができるという意味でも、知は力なんですよ。
・だから、対処するっていう形の「知は(手段としての)力なり」と、そしていま言った「知は(自分/相手を変化・改定させる)力なり」という2つの意味があるわけです。これは両方ともフィードバックのなかに見出すことができます。
・準備をする→相手が来る→対処をする→その結果をふまえて自分の準備の仕方を改定するという一連の流れをフィードバックといいます。フィードフォワードというのもあります。これは相手が来ないまま、これをどんどんつくり上げていく、抽象化をしていく場合です。
・フィードフォワードっていうのは、ある意味で自分の妄想の中を突っ走るわけ。これは「知は(自分/相手を変化・改定させる)力なり」が極端に働いた場合です。フィードフォワードというのは単純に間違ってるわけではないです。相手を待たないからものすごい効率がいいわけ、当たればね。
・フィードバックっていうのは相手っていうのが必ず必要なんですよ。ところが、フィードフォワードは、1人でいいんですよ。知を極めていき、概念でやっていき、ものごとの本性を見るという形で哲学ということに対するある種の完全論的な立場を立つと、どんどん後者に近くなる気がしませんか。
by warabannshi | 2016-01-08 09:06 | 塩谷賢発言集 | Comments(0)
第706夜「洪水」
 川沿いの高校の校舎のなかで高校生をやっている。知らない学友たちのあいだで古典の授業を受けているが、身は入らず、窓の外の豪雨が気にかかる。激しさを増す雨の奥、川縁で土嚢を重ねている作業員の人たちがめげずに動いており、濡れない室内にいて申し訳ないと思うと同時に、ヘルメットとレインコート姿の彼らはちゃんと呼吸できているのかと訝しむ。何せ、地上で溺れるほどに雨が降っているのだ。
 不躾なサイレンの音が鳴り響く。そのサイレンの意味するところがわかり、もう一度、川縁に目をやると、すでに十数人の作業員の姿はなく、濁流がその幅を広げている。どこかが決壊したのか、どこかが決壊するとこんな現象が生じるのか知らない。気が付くと、自分を含めた生徒たちは坂の中腹におり、必死にそれを登ろうとするが、水量はひどく静かに増えていき、遅れた者、排水溝の近くにいる者を次々に団子のようにして飲みこんでいく。彼らや彼女らをどのように鎮魂することになるのだろうか、毎年この日になれば、全校生徒で黙祷とかするんだろうなと、まったく他人事のように考えることで、自分は生き残れる側にいるのだと、ともすれば萎えそうな両脚に思い込ませようとする。
by warabannshi | 2016-01-03 09:14 | 夢日記 | Comments(0)
第705夜「いやがらせ」
 名前を知らない婚約者の父親が来るというので、1DKの自室を片付けている。見えるところだけを整頓し、見えないところに押し込めるだけだが、十分だ。義父にあたる小柄な中年男性がやってくる。顔つきは友好的とは言いづらい雰囲気だが、気付かないふりをして、まま、どうぞ奥へ、と案内する。すると、突如暗転。部屋の隅から数えきれないほどのネズミがあふれ出してくる。
「ネズミだ!赤痢、ジフテリア、コレラの媒介者!」
 義父が説明臭く叫ぶ。私は驚くが、しかしそれならペストとチフスだろうと思う。そして何より、このからくりの糸に直感的に気付く。近くにあったゼットライトのスイッチを捻る。眩い光に照らされた室内で、数えきれないほどいたと思えたネズミはたった1匹しかいない。その1匹のネズミこそが義父である。最近、流行しているいやがらせ代行サービスだ。義父は、ネズミを湧かせる基本コースに、赤痢、ジフテリア、コレラのオプションも付けたのだろう。しかし、それらがいっぺんにやってくるわけではないのだ。
by warabannshi | 2016-01-02 09:07 | 夢日記 | Comments(0)
第704夜「準備」
 ワイシャツ姿でネクタイをしめ、机と椅子と壁掛けホワイトボードが揃った四畳半ほどの空間で、本を山積みにし、しきりにホワイトボードにメモを取りながら何かを考えている。部屋に窓はないが照明と換気は十分であり、ドアの向こうの廊下にも人の気配はない。同じような小部屋が廊下沿いに、根端分裂組織の細胞のようにずらりと並んでいることはわかっている。ここは英会話教室のビルだ、英語を講じる者も講じられる者もいないとしても。
 彼女Fがドアをノックする。
「せっかく私が途中まで片付けたのに、太田さんが続きをやらなきゃ世話無いですよ」
 積み上げられた本には付箋とメモがびっしりと挟み込まれており、それをどうこうすれば良いことはわかっている。
「コーヒーメーカーがどこかにあるはずだから、ちょっと休憩していて」
「紅茶はないんですか? あと、ここ不用心すぎやしませんか?」
 作業は遅々として済まない。そもそも何の作業なのかもわからない。これらの本をまとめれば良いのか。これらの本で講義をすれば良いのか。何かの準備をしているのだろうが、どうすれば準備し終わったことになめのか。彼女Fに確認したいが、逆鱗にふれそうなので切り出せない。どこかで遠くで寄席が始まったらしく、果てしない廊下の奥からかすかに出囃子が聞こえる。
by warabannshi | 2016-01-01 09:41 | 夢日記 | Comments(0)



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