第711夜「造形」
 知人Cが、Webで奨学金を募っている。次の文章にどのように対応するかが、書類選考である。
「98万円も出して買った足つぼマッサージ機が、手に入った瞬間に謎の“要らない”。結果、78万円でディスカウントしたが、差額の20万円に納得がいかない」。
 無事に書類選考を通過し、私は面接を受けるために、彼のオフィスがある海棲哺乳類研究所に向かう。きちんとネクタイをしめ直して、エレベーターを降りようとすると、自動車椅子に乗った黒人女性が扉の向こうにいる。会釈をして、先に降りる。そして、すれ違った瞬間、彼女がカナダ出身であり、恋人を亡くしたばかりであることを突然知る。
「失礼ですが、この研究所には“転送”のために? …あと、日本語でも大丈夫ですか?」
「その通りです。英語が望ましいですが、日本語でも可です」
 面接が始まったのだ。
「“転送”はクジラやイルカなどになさるおつもりですか? それとも人工の義体に?」
「義体の造形次第と考えています」
「あなたが完全義体への、懇意にされていたその方の“転送”を望むなら、義体は欠損体にする必要がありますよ」
「どういうことでしょう?」
「つまり、眼や耳など感覚器の数、四肢や指など、どれかが欠損した造形にする必要があるということです。たとえ、機能上はヘカトンケイルでも、造形上はどちらかの腕を故意に造らないでおくことを強くお勧めします」
「なぜですか?」
「一つは、理想通りの“転送”はできないからです。“転送”終了時から、彼はあなたの想像力の延長上に存在するイメージではなく、独立した演算領域を持つユニットになります。そのずれの解消のためです。もう一つは、我々が人工知能に抱く恐れを軽減するためです。欠損体にする理由はここにあります。畸形であれば、シャムの双生児のような過剰体でも良いというわけではありません」
「あなたは、人工知能が自らの義体を造形しようとするとき、その造形を過剰体にすると思いますか?」
「その人工知能が、何のために物質的な義体を求めるかによると思います。そもそもヒト型にする意義がどれくらいあるのか。いわゆる悪意をもって、自らの義体を設計するのであれば、我々はそのとき、悪が欠損なのか過剰なのかを知ることになるでしょう」
# by warabannshi | 2016-05-22 03:01 | 夢日記 | Comments(0)
総合地球環境学研究所(2011)『総合地球環境学構築に向けて―地球研10年誌』
[目次]

第1章 創設までの経緯:地球環境科学から地球環境学へ〈~2001年〉
第1節 地球環境科学の中核的研究機関
「21世紀地球環境懇話会」提言/学術審査会「地球環境科学の推進について」建議/地球環境科学の中核的研究機関に関する調査研究会/地球環境科学の研究組織体制のあり方に関する調査協力会議
第2節 新研究所の準備調査と創設調査
地球環境科学研究所(仮称)の準備調査/名称は「総合地球環境学研究所」に/研究者コミュニティへの働きかけ/準備調査委員会最終報告書と用地決定/総合地球環境学研究所(仮称)の創設調査/研究プロジェクトの検討/総合地球環境学研究所の創設へ

第2章 草創期:五目チャーハンと文理融合〈2001年度~2003年度〉
第3節 設立と初年度の活動
京都大学構内で活動開始/組織と運営のあり方/内外の期待/研究活動の枠組み/本格化する研究活動
第4節 第2年度から本研究(FR)スタート
旧春日小学校跡地に移転/本研究(FR)はじまる/五目チャーハンをつくるフライパン/研究プロジェクトの増加と転変

第3章 法人化後:アイデンティティの模索(2004年度~2009年度〉
第5節 旧春日小学校時代後半(2004年度~2005年度)
法人化された地球研/運営体制と人事規則の再整備/研究プロジェクトの仕組みと課題/機構における研究機関の連携/春日時代の終焉―体制の整備から内容の充実へ
第6節 上賀茂時代の幕開け(2006年度~2009年度)
新・地球研/国際シンポジウムの組織化/初代プロジェクトの終了/アイデンティティ確立へのステップ/研究領域プログラムの整備/ヒューマニクスとしての総合地球環境学/法人第Ⅰ期の終了

第4章 法人第Ⅱ期へ:未来可能性と統合知(2010年度~〉
第7節 基幹研究ハブとイニシアティブの構想
法人第Ⅰ期の反省/第Ⅱ期中期計画期間の策定/設計科学を導入する/CRの検証/いよいよ第Ⅱ期はじまる
第8節 地球研の展望
地球研はだれのものか/コミュニケーションの場/成果発信の方向性/総合地球環境学構築への道

補遺 地球研断章―日高敏隆初代所長エッセイ抄
地球環境学とは何か/国連IPCCの報告書/京都議定書/春の蝉/自然とどう折り合うか/地球研いよいよ上賀茂へ/紅葉はなぜ美しい?/草と「雑草」/文系・理系/総合とは何か/未来可能性について―地球研6年の研究でわかったこと
# by warabannshi | 2016-04-16 22:19 | メモ | Comments(0)
第710夜「シリアルキラー」
 プラットホームで電車を待っていると、向こう側のホームで士郎正宗の漫画から抜け出してきたような物騒な重火器と装備品に身を包んだ兵士が、ホームに並んでいる一般人を、近い順に、わざわざ小型銃で撃っていく。シリアルキラーである。流れ弾に当たらないように、そっと鉄骨の柱の陰に移動する。所詮は対岸の火事である。おさまるまで待とうと考えていると、後頭部に固いものが押し付けられ、轟音とともに景色が暗転する。そして走馬灯が始まる。

走馬灯①:プロテイン粉末を抹茶と一緒に牛乳に溶かして毎朝飲んでいる筋肉質の友人が、ついに玄米をその飲み物の中に入れようとしていて、さすがに溶けないからやめろと言う。「もちろん粒のままでは入れないさ。ちゃんとすりこぎで擂る」「すりこぎで擂ったって駄目だと思うな」。
走馬灯②:映画館であまりに泣いて、とうとうすべての水分を出し尽くしてしまい、服だけになってしまったという映画監督の最期。彼の涙の理由は定かではない。
走馬灯③:首長竜の全身骨格が飾られている博物館で、プラネタリウムの特別上映を見るために、死んだ祖父K行列に並んでいる。しかし、この行列の先は本当にプラネタリウムに続いているのか?まったく進まないが、そもそもこの行列もまた飾りではないのか?
# by warabannshi | 2016-04-06 08:08 | 夢日記 | Comments(0)
【引用英訳】佐藤仁(2011)『「持たざる国」の資源論 持続可能な国土をめぐるもう一つの知』東京大学出版
国際環境倫理学会での発表を経て、日本型環境倫理とは「持たざる国」の環境倫理なのではないかと思えてきた。また、先の震災は、日本の〈資源〉が何であるかを改めて考えさせる機会となった。
Since the announcement of the ISEE2015, I have begun to think that Japanese environmental ethics are environmental ethics of a "have-not” nation. In addition, the earthquake of 2011 was an opportunity to re-consider what the resources of Japan actually are.

「〈持たざる国〉を標榜してきた日本では、狭い国土と過密人口ゆえに、資源のあり方を問い直す長い伝統がありました。戦後の貧しい時代に、それは〈資源論〉として豊かに花開きました。しかし、その後の高度経済成長を経て豊かになった日本では、公害や環境問題という視角が盛んになった陰で、もっと根本的な次元における人間と自然の関係を問う〈資源論〉は忘れ去られました。資源は人間の経済と自然との相互作用を考える要となる概念です。決して実現しなかった〈不発のアイデア〉としての資源論とは何だったのか。」
In Japan, a self-professed "have-not” nation, due to the small territory and high density of population, has long existed a tradition of re-evaluating natural resources. In the poor era after the war it blossomed as “resources theory “. After however Japan became rich through subsequent rapid economic growth, it was forgotten to view in more fundamental dimensions the relation of humankind and nature, because questions of pollution and environmental problems has come to overshadow other things. Resource is a key concept in considering the interaction between nature and human economy. What was the resource theory as a “never realized idea”?

「日本の資源論に興味をもった理由は三つある。第一に、資源論が輸入学問ではなく、国土の保全と社会経済ニーズとの調和をいかに達成するかという、内発的な問題意識からたたき上げられてきた実践志向の知であること。第二に、地理学者を中心にしながらも、政治家や官僚を含めて多様な分野と立場の人々を巻き込みながら形成されてきた学際領域のはしりであったこと。第三に、それにもかかわらず資源論は決して専門分野として確立されずに忘れ去られてしまったことである」(佐藤,v頁)
Why have I been interested in Japan’s resources theory there are three reasons for this. One: the resource theory is no academic import but practical knowledge routed in the intrinsic awareness of the unsolved question how to achieve harmony between conservation of land and socio-economic needs. Two: that theory constitute pioneering effort that while having geologist at its core involved also people from many deferent other fields such as politics and administration. Three, in spite of this resources theory has never been established as a field of expertise but instead become forgotten.


「資源の定義が一義的に決まらないのは、目的と手段の関係がはっきりと固定されていないからである。同時に、資源は物質面を扱う自然科学と、制度面を見る社会科学の両方にまたがるので、その適正な管理には両者の総合が不可欠になる。私は資源を、働きかけの対象となる可能性の束として捉えたい。〔…〕資源は人間社会からの働きかけを受けて初めて有効性を発揮する。しかし働きかけの対象が自然物である以上、可能性とは自然界の制約のなかで追及しなくてはいけない。」(16-17頁)
That what constitute resources is not unequivocally defined, is the result of the fact that the relationship between ends and means is not clearly fixed. Simultaneously, resources present an issue spanning both natural sciences that deal with material aspects and social sciences that deal with institutional aspects thus requiring a synthesis of both for proper management. I am going to define resources as a bundle of potential, subject to approach. […] Resources exhibit effectiveness only when receiving approach from human society. As the object of approach, however, is a natural object the choices of its use a subject to natural restrictions.

資源を“所有”ではなく“使用”において考える視点がここでのポイントといえる。
The point here is a perspective to think of resources in terms of “use” rather than “ownership”.
「林業や漁業といったセクターに視野を限ってしまうことの問題は何か。それはセクターの外に及んでしまう影響を考慮しなくなることで、生態系全体を見るバランスを欠いてしまうことである。」
What is the problem with focusing only on sectors such as forestry and fishery? That is losing out of sight the effect resulting outside these sectors and the question ecological balance.

「開発計画に携わる社会科学者や実務家は、開発の物質的基盤である自然環境の性質に十分な注意を払ってこなかったし、逆に、環境問題に向かう自然科学者は、人間の経済活動を専ら否定的に捉え、地域の人々への配慮に欠く環境保護政策を唱えることが多かった。しかし、実は両者は密接に関係している。どこで、どのくらいの量の資源が、どのような方法で、どのような速度で取り出されるかによって、最終的な便益の配分が変わってくるからである」(2頁)
Social scientists and practitioners involved in development plans have not paid enough attention to the natural environment that is the material basis for development. On the other hand, natural scientists trying to solve environmental problems have viewed economic activities exclusively in negative terms, often advocating environmental protection policies which completely lacking in consideration of local people’s concerns and needs. However, in fact social and natural science are closely related. It is because the distribution of the final benefits varies according to where, in what amount, how and at what speed natural resources are taken.

# by warabannshi | 2016-03-30 09:04 | メモ | Comments(0)
第709夜「ルービックキューブ」
 人体をルービックキューブのように折り畳むことができるようになったため、多くの人が競って自らの体を加工する。一辺が20センチに満たない立方体になりさえすれば、冷凍睡眠の要領で数年~数十年の暦をまたぐことが可能となるからである。しかし、みずからを梱包から解くには、自分以外の誰かに、すべての面を合わせてもらわなくてはならない。この圧倒的受動を秘匿して、金満家を10×10のルービックキューブに加工し、然る後に別途、“解除料”を請求する詐欺まがいのケースが問題となっている。
# by warabannshi | 2016-03-26 07:14 | 夢日記 | Comments(0)
第708夜「クロックス」
 ローマの庭園を模した、しかし落葉樹ばかりが植わっている緑地公園で、巨大なピンポン玉を口に含んだ男を、彼のくるぶしを掴んで引き摺っている。呼吸が止まっているのかどうか知れない。引き摺るのをやめて確かめたいが、もし呼吸が止まっていたら、死因は引き摺り方が悪かったせいではなく、口に含んだピンポン玉のせいであることを弁明できないので、とにかく指に力を込める。石造りの部分を選んで歩く。草地よりも摩擦係数が低いと思うからだが、どうだろう。
 どれだけ歩いたかわからないが、とうとう嫌になってしまい、男を棄てることにする。私は彼のくるぶしを放し、彼の踵を地面に置く。私は素知らぬ風をして、私の自転車が停めてあるはずの方向へ歩き出す。数十歩あるいたところで、振り向くと、引き摺っているときはぴくりともしなかった男が起き上がっている。私は歩みを速める。もし彼の意識を失わせたのがじつは私であるならば、報復されるのは必至である。ふと、自分の足に目をやると、ばかげたオレンジ色のクロックスを履いている。もし私が男であれば、これを目印にするだろう。私は慌ててクロックスを脱ぎ、手にはめる。私のこうした行動が、私の罪責感をより男の眼にとまりやすくしていることは否定できない。
# by warabannshi | 2016-02-16 05:14 | 夢日記 | Comments(0)
第707夜「RPGツクール」
 『薔薇の名前』と『ルパン三世 カリオストロの城』を足して二で割ったような教会の上層階で、人身売買、偽札造り、不正な徴税などの嫌疑がかけられた教会の主を追っている。出来損ないのRPGツクールのように、武器となるものが見栄えがするものの冗談のように重い両手剣しかない。引き摺ればますます疲れるので、かかえて細い木造の階段を登る。
 大きな図書閲覧室を兼ねた広間に出ると、嫌疑の主がいる。往生際悪く、すでにレイピアを抜いている。そう、屋内のやっとうなら細身で軽い扱いやすい刃物であるに越したことはない。ミランダ警告がこの時代にあるのかわからないが、ひとまず先方にかけられている嫌疑を勧告しようとする。しかし、物言う間もなく、雄叫びとともに嫌疑の主は切りかかってくる。大層な武器のわりに、防具は胸当てくらいしかないので、増援の来るまで待とうかという考えが頭をよぎるが、それまでこちらが逃げられそうもない。窓の外には隣の尖塔と、黒色火薬の煙、そして青い空がどこまでも広がっている。
 初撃を紙一重で躱し、両手剣を棄てて得物として使えそうなものを探す。書見台にあるペーパーナイフをとり、ないよりましとふり返って構える。しかし、そのときにはもう、眼を血走らせた嫌疑の主はいない。
 はてな、と辺りを見回すが、誰もいない。床には両手剣と、手には相変わらず蛍光グリーンで何かがびっしりと書かれているペーパーナイフが握られている。自分が上ってきた階段から、アラブ系の修道僧が姿を現す。期待していた増援ではあるまい。私はペーパーナイフを構え、そして驚くべきことに彼に向かって袈裟懸けに切りかかる。血しぶきが飛ぶような惨事は、もちろん起こらない。しかし、若い修道僧は、それ以上に何もなかったかのように、私と眼を合わせることもなく、切りかかられたという物理的事実とはまったく無関係に書見台に向かう。
# by warabannshi | 2016-02-01 06:31 | 夢日記 | Comments(0)
2013年度「生物学史分科会・生命基礎論研究会 夏の学校」@総合研究大学院大学での塩谷さんとの会話メモ
・生物学のひとつの枠として「手法的には化学(or物理学or数学)でも、これは〈生命〉を扱っているから生物学」というのがある。しかし、〈生命〉という対象はそれほど確固としたものなのか。もともと西欧文脈では動物・植物・鉱物は別のものだった。動物と植物の共通性を析出したのは細胞説だが、シュライデンとシュワンは、ドルトンの原子論の生物学versionを作ることを企図して細胞説―細胞の働きとして生命現象は記述することができる―を提唱した。生物学が共通に対象としているという、〈生命〉という枠組み(「そして生命は1つ!」)は、じつは“出来レース”ではないか?
・「野に咲く薔薇もウニもショウジョウバエも〈生命〉である」という枠組みの正当性が担保できてしまうのは、「かくいう私自身が生きている、〈生命〉の当事者だからだ」「そして君も生きているんだろう?」という前提が、強力に効いているから。「いえ、ゾンビです」とは言えないことになっている。
・しかし、目の前の相手が自分と同じ仕方で生きていることを担保しているものは、じつは何もなく、そもそも自分がどういう仕方で生きているのかすら“わかっていること”にしているだけであったりする。
・「目の前の相手が私と同じ仕方で生きていることは自明ではない。そもそも私がどういう仕方で生きているのかわからない」という状況はハードなので普通は考えないようにされている。それはそれでいい。しかし、〈生命〉(あるいは進化、あるいは遺伝子)という大きな枠のなかで、生きている仕方の位相(phase)、様態(mode)の差分が塗りつぶされてしまうのはまずい。

太「塩谷さんは、例えば他の人との生きている仕方の様態の差というのを、明瞭に感じます?」
塩「それしかない」
太「生きている仕方の位相、様態の差、というのはわかるようでわからないのですが」
塩「regulationの差だよ」
太「規則の差ですか?」
塩「制御の差。制御工学的(Regulation of Engineering)な意味での。世界から対象を括りだすやり方の差」

・闘争の本質は、制御であり、調整。一報が圧倒的な力でもう一方をつぶしてしまうのは、闘争ではなく、捕食や蹂躙。そうではなく、互いに牽制し調整することこそが闘争というコミュニケーション。牽制し合っている一つ一つの要素は、明示化されない。明示の仕方をめぐって、また別の牽制が始まるから。牽制と、制御工学とは近い。つまり、処理の遅れやスパンのずれを込みでシミュレーションを行うという点において(cf.木村英紀(2002)『制御工学の考え方―産業革命は「制御」からはじまった』)。理論とはシミュレーションであるが、遅れやずれを勘定に入れるものは少ない。
・遅れやずれを無視せず、相手もしくは対象へのフィードフォワード(「あいつはこう動くに違いない」という予想や期待)として集約する。そして、相手、対象からのフィードフォワードをフィードバックする(「『あいつはこう動くに違いない』と考えているに違いない」)のが、牽制であり制御。この牽制、制御を、1人でやるとダブルバインドになる。牽制、制御が進むためには、もう1人がいなければならない。――闘争という、コミュニケーションのモデルとはそういうこと。





・生物学にはデータサイエンスとしての側面が常にある。ビッグデータが具体的に扱えるようになるよりずっと以前、19世紀から、生物学は数多くのアマチュアが趣味で採取してくれたデータに立脚してきた。例えば、150年以上、その年に初めてカエルの鳴き声を聞いた日を記録し続けている家系がある。
・ちなみにカエルの鳴き声を記録しているのはイギリスの一家(大英帝国の博物学伝統!)。一方、日本では1930年代からアマチュアの自然観察が、都市の文化として普及を始める。「日本野鳥の会」の設立は1934年。会員の約60%が東京府民だった。博物学の担い手は常に“ええとこの人”。
・悪い言い方をすれば、博物趣味でいろいろデータを集めてくれるアマチュアは、プロの生物学者にとって“インフラ”。でも、例えば牧野富太郎、中西悟堂、野尻抱影といく野外観察ツアーみたいなものも組まれていたらしいから、プロアマ双方にとって良い関係だった模様。
・ところで、「データから導き出される結論ではなく、データ採取そのものに魅せられる」ということは、少なからずある。その傾向は生物学者に顕著とはいわないまでも、生物学が博物学をルーツに持つことを感じ入らせる熱情をもって、とにかくデータを集める人がいる。宮沢賢治も、その1人。
・宮沢賢治の心象スケッチ集『春と修羅』(1924)に収録されている作品には、すべて制作年月日が付記されている。賢治はそれらを、データと見なしていたから。何のデータかといえば、「私がこれから、何とか完成したいと思って居ります、或る心理学的な仕事」(書簡200 森佐一宛)のため。
・『春と修羅』が、「歴史や宗教の位置を全く変換」(前掲書簡)する仕事の土台となることを確信していた賢治は、彼が肥料の配合を担当した稲が大嵐ですべてなぎ倒されるという出来事が起こるまで、データとしての日付入り心象スケッチを書き留め続ける(日付のない「野の師父」はその過渡期的作品)。
・自分も含めて、人がなぜデータを採り続けることに熱中するかといえば、そのデータを結び合わせることで、いまは想像もつかない世界の姿が垣間見えるのではないか、という根拠のない期待があるからで、その期待の裏には〈データの統合・処理を行うことができる中枢としての私〉が強く措定されている。
・でも、賢治が大嵐の夜を境に心象スケッチに日付を付さなくなったことが示すように、〈私〉は〈データの統合・処理を行える〉ほど強い存在ではない。むしろ〈データの統合・処理を行う〉のは処理対象であったはずの私の外部。世界を心がスケッチするのではなく、心を世界の側がスケッチすること。
・賢治は、37歳で亡くなる前に「これからは植物のようなエロのことを書きたい」と語っていた、という証言がある。彼はエリスの『性の心理』を熟読していたから(cf.http://www.konan-wu.ac.jp/~nobutoki/papes/kenjiellis.html…)、エロはわかるとして、植物のようにとは何か。仮説:処理に中枢をおかないこと。
・動物は個体ごとに情報(データ)処理のための神経中枢を持つが、植物体に神経系はない。植物体とは処理機能の塊のようなもので、処理という側面から見れば、個体間の区別は動物よりずっと緩い。周囲の環境が不適と処理されれば、フィトンチッドや蒸散作用など、森単位で周囲の環境を変えてしまう。
・しかし植物ではない賢治は、どのようなデータ処理の形を模索していたのか。…ここからは事例が自分の夢の記録へと移るけれど、自分も夢をデータとして採っている、という感覚がある。しかし、夢をどのように数えるか、というデータとしての根本的なところが曖昧。いまは覚醒を単位としているけれど。
・データは、それが何のためのデータなのか、という使用目的と不可分で、だから使用目的をがちっと固めればデータをきれいに整理することも可能なのだろうけれど、そこには先述の〈データの統合・処理を行える中枢としての私〉が前提となっている。だから、目的を決めてそこに揃えていくのではなく、
・「〈データの統合・処理を行う方法〉へのアクセシビリティを保つために、データを採る」という、見方によっては倒錯的なことをしている。当然、正しい1つの〈データの統合・処理を行う方法〉があるわけではなく、〈方法〉は不変不動のものでもない。探査針でとったデータを探査針として打つ。
・それは、それが何のためのデータなのかよくわからないままとにかくデータを採ることに魅惑されるアマチュア博物学者(あるいは天文学者)の手つきに近い。分散した処理系のパスを開くためにデータを採り続ける。データ採取に終わりはない。一度使えたパスが次に使える保証はどこにもないから。
# by warabannshi | 2016-01-19 08:53 | メモ | Comments(0)
「塩谷賢の哲学道場」@哲学塾カント 第2回ノート まとめメモ
2015年3月27日 テーマ:「知ることは力である」とはどういうことなのか?


・「知は力なり」と言ったのはフランシス・ベーコンだけど、これ、賛成する方はどのくらいいます。反対の方。よく分かんない方。うん、正直でよろしい。では、なぜ力だと思うんだろう。その場合の力って何だ。どういう条件では、知が力になるんだろう。
・例えば小学生くらいにこういう話を多分すると、頭のいいやつは学校で偉そうに見えるから知は力ですとか、単純な話になるわけだけど、前回話したジャレド・ダイヤモンドの話の中で、どうしてスペインのピサロがインカ帝国を滅ぼせたのかという話を思い出してください。
・山の中をてくてく歩いていって、食い物もろくにない。人数もせいぜい200人、馬も30頭くらい。インカ帝国の方は2万人くらいいたらしいですが、一発で勝ってしまった。いろんな要因はあるんですけど、一つはインカ帝国のほうは、ピサロたちが何者であるか全く知らなかったんことにあります。
・一方、ピサロ側はある程度の情報は伝聞で知っているわけです。新大陸に行くと、こういうことがあるよね。こういう話があるよね。こういうやつらが居るよねという形で、前もって備えができるわけです。知識にもとづいて準備をすることができる、そういう意味で、知は力だということが、まずできます。
・自然が相手になったときも同じことが言えます。日本語だと「自ずから然り」と書いてますけど、ラテン語だとnaturaです。これには、本性とかいろんな意味があるわけです。本性って何だろうというと、そいつがそいつであるための本質ですよね。
・自然というのは、人間にとって必ずしも良いもんじゃないわけです。食べ物がいつもあるとは限らない。不測の事態ということはいつでも起きる。例えば、漁師の「板子一枚下は地獄」って諺がある。自然っていうのは何が起こるか分かんないわけですよ。なぜか。われわれじゃないんだよ、自然は。
・自然自身が好き勝手やってるわけですよ。人間の思惑に従ってやってるんじゃなくて、そいつ自身の内から湧き出るものによって、そういうふうに振る舞ってる。本性としてね。それは私の本性じゃない。だから自然を知ることで、様々な事態に対処することができるようになる、楽になるわけです。
・相手を知るっていうことは、相手に対処をするための準備ができることです。これはすごいアドバンテージなわけよ。でも相手が分かんない場合もあるわけね。そもそも準備ができるってことは、相手はまだ不在なわけですよ。居ないのにどうして相手を同定できるんだ。まだ居ないのに。
・しかし、相手が不在なのに準備をするっていう形でしか、われわれは準備できないんですよ。そうすると、相手というのは、本当に今ここにある個的な現実(あんまりいい言い方じゃないですけど)ではないわけよね。だって居ないんだもん。だから、名前とかパターンとかを使わざるをえないわけです。
・名前もパターンも「同じもののくり返し」なわけですよね。抽象化して、適宜こういう形をやって、相手が居ない、不在な状況でも使えるようにするわけ。戦争と自然への対処の話をしましたが、交易でもそうですね。物々交換でもいいんですよ。何かと取り換えるためには、何を準備しておけばよいか。
・山の民と海の民が交易をするとき、例えば山の民は衣服になるような繊維を持って来る。海の民は食える魚を用意する。でも前と同じ繊維を持って来るかどうか分からないし、相手が何を欲しがるか分かんないわけね(マグロばっかり食いたいやつかもしれないし、マグロが嫌いかもしれない)。
・そのとき、マグロもタイもイワシも「魚」って言葉で処理しちゃうわけ。「魚」と「繊維」を交換しようって。この一般化を続けていくと、相手が誰でも使える「お金」になる。準備するためには相手を特定しなければならないという条件を、どれだけ緩めていくかっていうことが、我々にはあるわけよ。
・これは真理っていうことの一つの側面でもあるわけですよ。いつでもどこでも正しい。いつでもどこでも正しいから、いつでもどこでも使い、いつでもどこでも何に対しても準備できる。
・そういう形で言うと、名前というのが、非常に引っかかるわけですよ。この名前というのは何なのか。
 名前には、固有名と一般名というのがあります。固有名っていうのは、それしか指さない。今ここに居ないけど、太田和彦って人がいて、この固有名は彼しか指さない。まあ、同姓同名ってこともあるけれど。
・一般名の場合は指すものが幾つもある。でも、指すものが幾つもあるっていうけれど、そこではある種の指し方のパターンとか指されるものの範囲が決まっているわけです。じつは固有名っていったって、ある固有名を有している人がずっと同じかどうかって分からないわけですよ。
・一般名の場合は、その名前を当てはめることができる、ものを集める範囲や同じものと見なせるパターンの範囲っていうのが問題になります。この、言語的な名前が持ってる範囲って、実は極めて独特な形なの。
・名前っていうのは、決して物質的な形で固定されない。例えば、言語を越えても翻訳ができる。犬とdogはだいたい同じものを指します。でも、違いもある。昔はクジラは「勇魚」と言われて魚でしたが、いま私たちはクジラを魚とは見なしません。にもかかわらず、同じように魚と言えてしまう。
・一般名を使うっていうことは、全てを前もって知るわけにはいかない曖昧なものに対処しようとすることです。それはさっき言った、相手の本性(natura)を知ろうとすることでもあります。
・相手の本性を名前を通して知ろうとするっていうのは、相手の本性を名前という形で、分類できるものとして、ひとまとまりのものとして知ろうとするということであり、じつはこれは概念というもののかなり大きい側面です。
・前回も言ったとおり、哲学を語るのはラテン語という唯一の言葉だった。特にキリスト教と融合した後は。ギリシャでも、本当のことを言うと、やっぱり自分たちの使っている言葉を特別視したわけね。周りの連中、要するに野蛮人(バルバロイ)っていうのは違う言葉をしゃべるやつらだって意味だから。
・一種類の言葉によって世界を知ろうとするとき、名前はその言葉の体系の中で、まさに一つのものを指すかのように思われるわけです。だから名前をつけること、その概念について知ることが、名付けられた相手の本性を知るというふうになったわけですよ。
・さて本当にそういう形で、相手の本性をつかまえることができるんでしょうか。この相手の本性をつかまえるということは何のためにしてるか。準備して対処するためにしてるんだよね。相手の出方が分かんないときに、どういう準備をするか。
・例えば、デパートにポケットに財布つっこんで行くとするじゃない。何を買うかは決めていないけれど、デパートに行けば必ず品物がある。でも、時期のソ連では、デパートに行っても何もないわけですよね。店員はいるが品物はない。つまり、お金があっても、買い物ができる保証はないわけですよ。
・私たちはお金があればなんとかなるだろうと思っていますが、そんなこともない。さて、ここでわれわれが知るというときに、しかも哲学という知り方をするときによく出てくる問題が現れます。知ったことを、どうやって何に使うんですか、あんたらはと。
・最近、宇宙の始まりの構造はどうなってこうなってという研究をしていると言われるわけですよ。「それが何の役に立つんですか」「それに対して何十億円っていう予算をつけていいんですか」とか。それに対して、ああだこうだとみんないろいろと言い訳するわけね。
・でもその問いは一定の意味を持つように聞こえるわけ。そもそもなんで学問をやって金をもらえるのか。昔は金なんかもらえなかったわけですよ。ギリシャの連中は自分で経営してたから。別にアゴラで議論して金をもらってたんじゃないからね。では、『饗宴』でされているような議論は何のためなのか。
・ひとつは、新しい知識を得るってことが喜ばしいからです。それがあるから、朝日カルチャーセンターとか行くんだよね、基本的には。でも、それは銀行通帳にお金が溜まっていくのを見る楽しさと、どういうふうに違うんでしょう。
・もちろん、お金は即物的だし、知識は即物的じゃないっていう言い方あるかもしれないけど、使うっていう話から考えたら、そこはどっかつながってるんじゃないですかね。
 でも、やっぱり何か知識を特別扱いしたくなるのは、われわれが使っている知識、言葉というやつに影響されていくからです。
・じつのところ、ある言葉が、世界の組織のされ方、つながり方と一致しているという保証はどこにもない。われわれが一致しているだろうと思っているだけですよ。ネルソン・グッドマンのグルーのパラドクス(*)とかが示唆的ですが。
・つまり、われわれの準備の仕方は、準備の仕方のその来歴によってるわけですよ。でもその来歴によってるってことが、個々の相手に対して全部当てはまるっていう保証はどこにもないわけ。
・大体は合ってることは間違いない。でも、それは中島さんがよく言うように、明日世界がないかもしれないって可能性を考えるのが哲学だとすれば、ずっと準備してたからっていって、それがそのままいつでもいけるって保証はない。
・それにもかかわらず、哲学は真理ってことを伝統的にやってきた。だから、知は力なりっていう言葉は、相手がどうであるかということを無視して、こちらがこういうふうに相手を見てること、それが世界の真実、真理であると述べてしまうことができるという意味でも、知は力なんですよ。
・だから、対処するっていう形の「知は(手段としての)力なり」と、そしていま言った「知は(自分/相手を変化・改定させる)力なり」という2つの意味があるわけです。これは両方ともフィードバックのなかに見出すことができます。
・準備をする→相手が来る→対処をする→その結果をふまえて自分の準備の仕方を改定するという一連の流れをフィードバックといいます。フィードフォワードというのもあります。これは相手が来ないまま、これをどんどんつくり上げていく、抽象化をしていく場合です。
・フィードフォワードっていうのは、ある意味で自分の妄想の中を突っ走るわけ。これは「知は(自分/相手を変化・改定させる)力なり」が極端に働いた場合です。フィードフォワードというのは単純に間違ってるわけではないです。相手を待たないからものすごい効率がいいわけ、当たればね。
・フィードバックっていうのは相手っていうのが必ず必要なんですよ。ところが、フィードフォワードは、1人でいいんですよ。知を極めていき、概念でやっていき、ものごとの本性を見るという形で哲学ということに対するある種の完全論的な立場を立つと、どんどん後者に近くなる気がしませんか。
# by warabannshi | 2016-01-08 09:06 | 塩谷賢発言集 | Comments(0)
第706夜「洪水」
 川沿いの高校の校舎のなかで高校生をやっている。知らない学友たちのあいだで古典の授業を受けているが、身は入らず、窓の外の豪雨が気にかかる。激しさを増す雨の奥、川縁で土嚢を重ねている作業員の人たちがめげずに動いており、濡れない室内にいて申し訳ないと思うと同時に、ヘルメットとレインコート姿の彼らはちゃんと呼吸できているのかと訝しむ。何せ、地上で溺れるほどに雨が降っているのだ。
 不躾なサイレンの音が鳴り響く。そのサイレンの意味するところがわかり、もう一度、川縁に目をやると、すでに十数人の作業員の姿はなく、濁流がその幅を広げている。どこかが決壊したのか、どこかが決壊するとこんな現象が生じるのか知らない。気が付くと、自分を含めた生徒たちは坂の中腹におり、必死にそれを登ろうとするが、水量はひどく静かに増えていき、遅れた者、排水溝の近くにいる者を次々に団子のようにして飲みこんでいく。彼らや彼女らをどのように鎮魂することになるのだろうか、毎年この日になれば、全校生徒で黙祷とかするんだろうなと、まったく他人事のように考えることで、自分は生き残れる側にいるのだと、ともすれば萎えそうな両脚に思い込ませようとする。
# by warabannshi | 2016-01-03 09:14 | 夢日記 | Comments(0)



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