第698夜「失敗」
A.
 巨大なムカデの体内をくりぬいて作ったドームのなかにいる。一つ一つの体節が小部屋になっていて、半透明の瞬膜のようなもので仕切られている。薬物か何かで処理されているだけで、この巨大ムカデはまだ生きているのかもしれない。小部屋から次の小部屋へとおっかなびっくり進んでいくと、突き当りになる。肛門に達したようである。戻ろうとするが、瞬膜は動かない。可変性を失い、周りの壁のようにキチン質のとぼけた色合いになってすっかり硬化している。叩いても、蹴飛ばしても、びくともしない。しまった、これは消化されるパターンか、と観念して、近くの椅子に腰かける。ほとんど真っ暗に近い空間をしばらく見つめていると、めりっと壁が破壊される。光が射す。助かった、と思い、外に出ると、そこは下草の生い茂る照葉樹林の森であり、手には20万40円のレシートが握られている。救助のための手間賃にしては、高い。このムカデ・ドームの弁償代だろうか。頭を抱える。

B.
 ワシントンDCに出張に行くために、おそろしく寂れた地方空港で手続きをしている。国際線が来るのかと訝しむが、ちゃんとゲートはある。しかし電光掲示板はなく、黒板で便の発着が知らされる。定期船の待合室みたいだと思う。出国手続き間際でパスポートを忘れたことに気付く。真っ青になっていると、その場で証明写真を撮り、臨時パスポートを作ってくれる窓口まで案内される。ポラロイドカメラと鉛筆と厚紙で、さらさらと玩具のようなパスポートが作り上げられていく。本当にこれで良いのか。隣では、ESTAも発行している。
# by warabannshi | 2015-09-26 10:09 | 夢日記 | Comments(0)
第697夜「孤児院」
 生まれ育った孤児院での食事会の誘いを受けていたことをすっかり忘れていたことに気づき、学校のトイレの洗面台の前で落ち込んでいると、名前を知らない生徒が入ってきて、「先生、トイレの中で歌わないでください」と苦言を呈する。もちろん、高歌放吟したい気分からはもっとも離れているので、生徒の方をふり返らずに「私じゃないよ」とだけ言う。
「でも、たしかに太田先生の声でしたよ」
「誰かの声が反響してそう聞こえただけじゃないの? 個室を調べてみたら?」
 自分もなんだか気になり、その生徒と一緒に個室のドアを順番に開けていく。
 最後から二番目のドアに手をかけたとき、なかから確かに私自身の気配を感じる。躊躇したが、生徒が後ろにいるので、思いきってドアを開ける。そこには狭い個室に布団を敷いて芋虫のように眠っている私がおり、いったい何をしているんだと問いただそうとした途端、目が覚める。
# by warabannshi | 2015-09-24 09:30 | 夢日記 | Comments(0)
読.001『できる研究者の論文生産術 どうすれば「たくさん」書けるのか』
ポール.J.シルヴィア, 高橋さきの訳(2007=2015)
『できる研究者の論文生産術 どうすれば「たくさん」書けるのか』講談社
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=984061531536

 「たくさん」書けることが「できる研究者」かどうかは別として、「最低限書ける研究者」になるために読む。「できるかぎり多く働けば、一日あたりどれくらい書けるか」という自問ではなく、「○○と××を書き終えて、そして他の時間を思い煩うことなく楽しく過ごすにはどのように書かなければならないか」という自問から、研究者にとってのライフハックは生まれるのではないか。

[目次]
第1章 はじめに
 「本書を読む際には、書くという作業が、競争でもゲームてもないことを心得てほしい。どれだけたくさんの量を欠いてもよいし、少ししか書かなくても良い。自分が書きたいと思うよりたくさん書かなければならないなどと思い込まないこと。著作数や論文の多い研究者が、すばらしい研究者だと勘違いしないこと。論文を公表する一番の理由は、科学の世界でコミュニケーションをはかることにある。論文や書籍を出すことは、科学というプロセスの当然かつ必須の目標だろう」(7頁, 一部改変)
 本当にそう。

第2章 言い訳は禁物―書かないことを正当化しない
 「一気書き」については否定的。大事なのは、執筆日数や時間数ではなく、規則性であると。
「自分の執筆時間は、断固として死守せねばならない。執筆時間はすでに割り振り済みなのである」(16頁)。
 執筆時間のなかに目次や章の構成の時間は含むのかと思っていたら、やはり含むのか。文献を読むのも、校正刷りをチェックするのも、執筆方法に関する書籍や記事を読むのも。
「書くというのは文字を入力するだけではない。書くというプロジェクトを遂行する上で必要な作業はすべて執筆時間である」(20頁)
 しかし「書くというプロジェクト」の兵站のために、紅茶を淹れたり、洗濯物を畳んだりするのは、メールの返信をしたりするのは、これは許されるのだろうか。

第3章 動機づけは大切―書こうという気持ちを持ち続ける
 「動機付けは、具体的であれ」。
 著者が心理学者だからか、動機付けとかの話になると参考文献が良く出てくる。本書は類書と違い、ちゃんと巻末に引用文献一覧がある。とても好ましい。なぜ啓発本やハウツー本には文献リストをつける慣習がないのか。
 ともあれ、目標を書き出し→優先順位をつけ(1.校正刷や入稿用原稿のチェック, 2.〆切ありの事項, 3.再投稿のための原稿修正, 4.新たな原稿を書く)→進行状況を記録する(ワード単位)という流れは、目新しくはない。ただ、執筆時間に助成金の申請,事務文書の執筆を入れるのは予想外だった。それならメールの返信もありということになり、執筆時間はまるまるメール返信に当てられかねないのだけれど、その辺りの線引きはどうするのだろうか。
 そして、自分の場合、Twitterでいろいろメモしている時間は、馬鹿にならない執筆時間だったということもわかった。著者が行っているワード数による進捗管理は、Twitterによるツイート数で代替できるのではないか。今回なら、14ツイート。平均して100字くらいとして、1400字/時。読書記録ではなく、正味自分の頭で考えた事柄を蚕が糸を吐くように書いていってこの文字数になるか否か。増えるのか減るのか。
そして、それらのTweetを流しっぱなしにするのではなく(必要になったらTwilogで検索すれば出てくるだろうから、特にいままで編集してこなかったけれど)、こうやってブログにまとめようと思う。この決心をさせた点で、本書は読む価値があった。

第4章 励ましあうのも大事―書くためのサポートグループをつくろう
 特に言うべきことなし。アンソニー・トロロープという作家を知る。
https://kotobank.jp/word/%E3%83%88E3%83%AD%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%97-107011
 そういえば無頼派で知られる太宰治も、毎朝決まった時間にGペンで原稿を書いていたという逸話が。

第5章 文体について―最低限のアドバイス
 「まず書く、あとで直す」。これも重要。というか、それ以外に何があるのか。

第6章 学術論文を書く―原則を守れば必ず書ける
 「アウトラインを作成せずに文章を作成してはならない」。一気書きした後で目次を作るという手順で卒業論文を書いたせいで、いまだに書く前にアウトラインを作るのが苦手。とはいえ、これもシラバス作るように時間をかければなんとかなるのかも。

第7章 本を書く―知っておきたいこと
 アウトラインの話。「しっかりした目次なしに書き始めることだけは禁物だ。本書について言えば、各章の中身を書きはじめるまでに2ヶ月くらい目次と格闘していたように思う」(137頁)。じつに安心する。草稿を章ごとのファイルに放り込んでいく形式は良い。

第8章 おわりに―「まだ書かれていない素敵なことがら」
 スケジュールを立てようという話に始まり、ワード数で進捗を管理することを紹介し、アウトラインなしの執筆は無謀だと戒める。そして最後に「それらをするのは、まとまった時間に執筆以外のことをして人生を楽しむため」で締める。うむ、アメリカン。
# by warabannshi | 2015-08-23 01:46 | メモ | Comments(0)
第696夜「4コマ漫画」
 筆で簡単に描かれたこまっしゃくれた児童2人が手をつないで歩いていると、自分たちと同じくらいの大きさの白い円盤状の何かが先を歩いているのを見つける。「月の明るい部分のようだね」。そして先を歩く白い円盤の方も、うすうす感じている。「何かの原因が近づいてくる」。
 2人の児童は、白い円盤の一部と思しき欠片をそれぞれの手にもって、それを頬張っている。「案外固いね」、「煎餅みたいだ」。そして白い円盤のほうも、アンパンマンのように、欠けた図体のまま、変わらない表情で歩いている。
 そんな4コマ漫画として、見ていた夢をしたためていると、後ろから名前の知らない誰かが私に声をかける。
「そういうのって、太田さんのなかで何に位置づくんです?」
私は答える。「記録です、アウトリーチが違う類の」
そして、ケント紙に染みこませた薄墨が乾くのを待つ。
# by warabannshi | 2015-06-20 06:41 | 夢日記 | Comments(0)
第695夜「四本脚」
四歩脚という渾名をもらい、南国のリゾート地にいる。焼けるような砂浜で、往年のポカリスエットのCMに出てくるようなスポーツを片端からやったところで、たどり着いたのは自転車だった。しばらくそれほど大きくない島を走ったあと、緩い登り坂のふもとにある木製の電信柱によりかかり、集中して自分宛の知らせを受け取ろうとする。どうでも良いニュースに混じり、はらぺこあおむしという渾名の、顔を思い出せない友人が自殺したことを知る。葬儀に出たいが、喪服の持ち合わせがない。白いワイシャツの下に黄緑色のティーシャツを着ていけば、青虫のようで供養になるだろうか。
# by warabannshi | 2015-05-28 06:34 | 夢日記 | Comments(0)
第694夜「蜘蛛の巣」
寓話―揺れ動く葉の先端に糸をかけ、巣を作ろうとする蜘蛛は、八つのうちの二つか三つが常に葉から離れるせいで、巣を大きくすることができない。
# by warabannshi | 2015-05-23 08:45 | 夢日記 | Comments(0)
第693夜「自転車」
見知った国立の道を自転車で走っている。自転車に乗るのは久しぶりなので、ついつい目一杯の力を込めてこぐ。ペダルをこぐ、というよりも、大臀筋から広背筋、僧帽筋までを一息にしならせる力を、両腕と両脚を通して自転車に伝えていく、伝達路としての感覚がとても心地よい。計画的に整備された街路は直線が多く、自転車と体の輪郭の変化に集中するにはうってつけである。本当に良く自転車と体がなじんだときは、まるで進行方向にむけて空気に割って入る1枚の紙のようになる。紙のイメージを得た無数の筋原繊維は、ともすれば逃げていく力をペダルへと垂直に落としこむ。そうやって考える具体物となり、中央線沿いの舗装された道路を走っていると、突然、アスファルトが途切れ、セイヨウアブラナの群落のなかに踏み固められた小道が遠くまで続く。数えきれないほどの黄色い花に囲まれて、自転車を降り、羽化したてのミツバチのように視野に眩惑される。
# by warabannshi | 2015-05-10 08:22 | 夢日記 | Comments(0)
第692夜「インスタレーション」
 名前を知らない土壌博物館の一角で、インスタレーションが行われている。インスタレーションの担当が小学生のときの懐かしい旧友の名前であったので、私は薄暗い水飲み場の横の、長方形に切り取られた壁の中の暗闇に入っていく。しばらく歩くと、フィルムが上映されている。ホームビデオのようで、画質が荒い。何人かの小学生、頭の大きさと骨格のバランスからして低学年の児童が、水着の後ろ姿で映っている。市営プールと思しきプールサイドに腰かけて、こちらに背中を向けて、何か喋っている。しかし、その声は大人のそれである。
「加藤っていま何やってるの?」
「大阪にいるみたいだよ。結婚もしたって。仕事は忘れた」
「捕まったやついなかったっけ」
「一人じゃないだろ」
 同窓会で話すようなことを、その離される内容をまだ経験していない小学生たちがしゃべっていることに面白さを見出す作品、と一瞬思いそうになるが、それはまだ足りない。私は腰かける。そもそもこの小学生たちの、たぶんJリーグ・チップスのおまけやラメの入ったカードの話をしている姿を、ビデオに映して、それをとっておいた親が素晴らしい。映像はぶれず、きちんと三脚を使っていることがわかる。この作品のテーマが時間であることは間違いないが、どのように時間を愛おしむか、ということがここでのポイントだ。そして、おそらくこのアフレコされている音声もまた、このビデオのために撮られたものではないのだろう。居酒屋のような環境音が混ざっている。アフレコされている声もまた、5年または10年ほど前に録音されたものとみえる。
 この水着姿の小学生と、同窓会をやっている声の持ち主とが、同じ人物であるかどうかは、この作品は明らかにしていない。しかし、私には、水着の主と声の主が同じ人物であることがわかる。いずれも知った顔だ。そして、このビデオに私が入っていないということが、私個人にとってこの作品の意味をさらに付加させる。なぜ私はこの作品が始まったプールサイドにいることができなかったのだろう。後悔は、そのような問いとともに、嫉妬の形をとって生じるものであることをひさしぶりに思い出す。
# by warabannshi | 2015-04-01 18:07 | 夢日記 | Comments(0)
「塩谷賢、哲学を語る」@哲学塾カント 第1回「哲学は学問か?」 #02

 その前に断っておいたほうがいいや。まず、学問とは、という話をやったときに、同時に私は学者かという問いがあるはずだよね、真面目に考えて。学問というのは普通、学者の専門領域だということを普通みんな理解してますよね。つまり学者とはある種のプロフェッショナルだということになる。
 果たして私はプロの学者なんでしょうか。ここで皆さんから1000円なり2000円なりをいただいて、中島さんから上がりの一部をかすめ取るという形でやっているので、プロと言えばプロと言えるかもしれない。
 でも、今現在の状況において、学者は何をするかというと、学術雑誌、あるいは各大学の紀要に論文を載せるということをします。論文を載っけるか載っけないでガタガタみんなに言われ、論文が載ったらそれが印刷されて、最近はウェブで載っかってることもありますが、そういう形でやりとりをして、「論文から構成される雑誌」という一連の流れをつくっていくということをするのが標準的アカデミクスです。そういう意味で、私は論文を1本も書いてない人として(書いてないわけじゃないんだけど)悪名が高いんで、その限りでは、今のシステマティックな意味での学者では多分ありません、はっきり言って。
 さらに、私が、私は学者じゃないなと思う理由として、私は思い付きはいっぱいしますし、いろいろ考えるんですが、学問というのは当然ながら「知る」っていう言葉が入るんだよね。感じるだけじゃ学問じゃない。芸術は学問じゃないですよね。知るっていう言葉が入んなきゃいけない。知るはいろんな意味があるんだけど、ヨーロッパ系、英語だとKnowですよね。ドイツ語だったらWissenだけど、知るというのはものすごくきつい言葉として、伝統的には使われるんです。なぜか。知るとは「正しいことを知る」でなきゃ駄目なんですよ。正しくないことは知ってるとはいえない。だから「知る」ためには正しいということを確認しなければならない。思い付いたから正しいとは限らない。ということで、なんというか、もう嫌ったらしいぐらい地道な作業をやるんですよ。ロマン主義の時代に天才という概念があったけれども、すごいでしょう? 思い付いてワーッとやってる人が居る。でも思いつきだけじゃなくて、それがちゃんと知るということになるためには裏打ちがなされるようなことをしなきゃいけないんですよ。
 往々にしてすごい学者っていうのは、例えば社会学のルーマンとかは、思い付くことと、それからそれを確認することを分業する場合があります。で、分業する場合は弟子筋が多い。こういう思い付きだ。おお、いいぞ、いいぞと言って、確認の分業をすることによって、学派というのができるわけですね。そういう意味で、さっきジャーナルアカデミックというのは、知るということを確認するために作られたシステムだと言えます。知るということをきちんと押さえるために分業ということがなされ、知るということを押さえるために書くということが中心になったわけです。
 書くというのはつまり、思い付きを共有するんじゃなくて、書いたことによって、そうじゃない立場でも大丈夫にするということです。さっき言ったけど、知るというのはもう少し強い言葉なの。
 知るは必ず真実だっていうことと関わりがあるとすると、これも何が真実かって問題はあるんだけど、――真というのは、いろんな意味がありますし、皆さん、いろいろ思うところはあると思うけど、一つの、間違いなく言えるのは、「真」といった限りはどこに行っても「真」なんですよ。例えば、条件付きで真だったら、その条件においてはどこでも真なんですよ。О君は男である。アフリカに行こうが、アメリカ人が見ようが、犬が嗅ぎ付けようが、О君が男であるのは間違いはないと。ただ、もしかしたらSFの世界に行ったらО君は女になってるかもしれない。でも、その場合は、「この世界でО君は男である」というふうにすれば、ここはSFの世界じゃないんだから、それを削って、やっぱりこれ、この世界のどこでもずっと使えますということになるわけ。
 どこでもずっと使える、ということが、真という言葉の中に入ってくるということは、受け取る人間とかなんかによらずに、それが真である(=どこでもずっと使える)ということを確保しないと知るということにならないということになるわけで、そのときに書くということは一つの重要な役目になると。書かれたものを誰がどう読むということと、書いたつもりで読むということのギャップがあるわけだ。みんな言うわけですよ。俺はこういうふうに書きたかったんだ。おまえらの読み違えだっていうのがある。でも、もし、真を言うんだったら、――もちろん読み方の、読み手の問題もあるけど――その真だっていうことは、自分が書きたかったからということで担保されるもんじゃないですよ。
 そして学者というのはそういうことに関わらざるを得ない。だから、すごく地道なことをする。実験とかいろいろ、みんなちびちびやるわけです。大学へ毎日行って、ヒヨコの何かを調べるために、孵化器を持ってきて、温度調節してというのを1年くらいやって、それで間違いないねって話にして書く。でも、それだって、そのある今言った条件付けの中でしかできない。だから、知るっていうことはものすごく、そういう形ですごく強く「真」という言葉を取ると、知るっていうことはもうちびちびとしかできないんですよ。

……続く……

【告知】
中島義道さんの哲学塾カントで「塩谷賢の哲学道場」が始まりました!
2回目は以下のとおり。
日時: 3月28日(土) 19:30~21:15
参加方法: 要事前申し込み。HP(http://gido.ph/ )のアドレスからどうぞ。先着20名程度。
# by warabannshi | 2015-03-21 23:33 | 塩谷賢発言集 | Comments(0)
「塩谷賢、哲学を語る」@哲学塾カント 第1回「哲学は学問か?」 #01
――【k123934-3】「塩谷賢、哲学を語る」@哲学塾カント 第1回「哲学は学問か?」――

●「哲学は学問か」というお題について考える

 哲学は学問かという話ですね。日本語だと当然こうなってるから学問だということはあるし、少なくともドイツのカント先生の時代から、大学に哲学という科目ができてしまったという限りでは、哲学は学問という形であるわけです。ところが、歴史的に見ると、大学というのは別にドイツの大学が(今、日本もそれを踏襲してますけど)初めて作ったわけじゃなくて、皆さんご存じのように、大学と名前を冠したものはもう中世の早いうちに、いわゆるカロリングルネサンスの時期の後からできています。有名なのはイギリスのオクスフォード大学、一番古いのはパドヴァ大学かな、いわゆるローマの辺りからではないのが、スペインにあったサラマンカ大学ですが、そこではみんなが哲学をしているわけではなかったです。例えば、ボローニャ大学で一番有名だったのは、医学なんですよね。哲学の強かった大学というのはどこかというと、パリ大なんです。
 この時期は大学の学生と先生という区別がなくて、要するに、知的なことで世間からはみ出してしまった人たちが、しようがないから寄り集まった。寄り集まった上で、でも、頭がいいからいろいろと使えると。それで、教皇庁とかあたりでお伺いを立てる(強迫したのかもしれないけど)、認可を取って一緒になるような、これはある種の共同体として大学ができたわけです。その中で先に進んでた人と後からくっついていく人というのが居て、一緒に勉強しながらやっていくと。
 日本では、仏教のお寺がそういう機能を平安期は持ってたんです。学生(がくせい)は、学生(がくしょう)ですからね、もとは。坊さんが偉くて教える、特に禅仏教のときにそういうような師父というのでイメージが付いたけれども、本来、そうじゃなくて、 学生らが一生懸命いろいろがちゃがちゃとやりながら、宗教、仏教に対する教理問答とかやってたというのがもともとの古い、奈良朝ぐらいから平安朝の前期のお寺で、日本の大学も多分にそういうのを受け継いでいるのではないでしょうか。
 さて、では「学問」という語をどう受け取ったらいいだろう。非常に困るんですよね。これ、やっぱり独特の言葉で。ドイツ語だとWissenschaftという言い方がある。これは非常に広い概念でWissenschaftという言葉を使えるわけです。「知ることを軸にして何かすること」という意味ですね。一方、サイエンスは、もともとScientiaという概念があって、分けて何かするっていう話だった。今、サイエンスっていうと自然科学が思い出されると思うけど、英語では社会科学(natural science)と自然科学(social science)の2つがあります。問題は人文科学という言葉が日本にあるけど、向こうにはhuman scienceはないですね。普通はhumanityという言い方しかしない。これは人文の意味です。ところが、humanityというのは非常に広い範囲の学問ですよ。アリストテレスから由来するところもあるし。

…続く…

【告知】
中島義道さんの哲学塾カントで「塩谷賢の哲学道場」が始まりました!
2回目は以下のとおり。
日時: 3月28日(土) 19:30~21:15
参加方法: 要事前申し込み。HP(http://gido.ph/ )のアドレスからどうぞ。先着20名程度。
# by warabannshi | 2015-03-17 10:10 | 塩谷賢発言集 | Comments(0)



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