近代があるとすれば、それは言うまでもなく宇宙的なものの時代である。自分はアンチ・ファウストだ、とパウル・クレー(Paul Klee、1879-1940)も言明しているではないか。「動物やその他のあらゆる被造物に大地に根ざした親愛の情を向けることは私にはできない。大地に属するものは、宇宙に属するものほど私の興味を引かないのだ。」アレンジメントはカオスの力に立ち向かうのをやめ、大地の力や民衆の力に深く沈潜するのをやめて、宇宙の力に向けておのれを開く。これでは一般的すぎるかもしれない。ヘーゲル風に絶対精神をあらわしているように見えるかもしれない。だが問われるべきは技術であって、技術以外の何ものをも関与させてはならないのである。本質的な関係はもはや質量-形相(あるいは実体-属性)の関係ではない。かといって形相の連続展開と質量の連続変化が関係づけられるわけでもない。ここでは、本質的な関係は素材-諸力の直接的関係としてあらわれてくるのだ。素材とは分子化した質量のことであり、その意味では諸力を「捕獲」しなければならないわけだが、この諸力は宇宙の諸力でしかありえない。適切な理解の原理を形相に見いだすような質量はもはや存在しないのだ。いま必要なのは、次元の違う力を捕獲するために、一つの素材を作りあげることだ。視覚的素材は不可視の力を捕獲しなければならないのである。クレーは言う。可視的にするのであって、可視的なものを表現したり、再現するのではない、と。この視座からすると、哲学もまた、哲学以外の活動と同じ運動に従うことになる。ロマン主義の哲学か、質量の連続的理解を保証する形相の統合的同一性(先験的総合)を援用するのにとどまっていたのに対し、近代の哲学は、それ自体としては思考しえない力を捕獲するために、思考の素材を練りあげようとする。これがニーチェ(Friedrich Nietzsche, 1844-1900)流の哲学-宇宙である。分子状の素材が極度の脱領土化に晒されているため、表現の質量という言葉を使うことは不可能となる。これがロマン主義的領土性とは異なる点だ。表現の質料は捕獲の素材に場所を明け渡すのである。捕獲すべき力はもはや大地の力ではない。大地の力は大いなる表現の〈形式〉を構成するにとどまっているからだ。いま捕獲すべきなのは、不定形で非物質的なエネルギー宇宙の力なのである。画家のミレー(Jean-François Millet, 1814-1875)がこう述べている。絵画で重要なのは、農民がかついでいるもの、たとえば聖具やジャガイモの袋などではなく、かついでいるものの正確な重量なのだ、と。ここにポスト・ロマン主義への転回点がある。問題の核心は形相や質料にあるのではないし、テーマにあるのでもなく、力、密度、強度にあるのだ。大地ですら平衡を失って、引力の、あるいは重力の純粋な質量に変わっていく。岩は岩がちらえる褶曲の力によってのみ存在し、風景は磁力と熱の力によって、林檎は発芽の力のみによってのみ存在する。そうなるためには、おそらくセザンヌ(Paul Cézanne、1839-1906)の到来を待たなければならないだろう。目には見えないのに、見えるようになった力。力が必然的に宇宙の力になるのと、質量が分子状になるのは同時である。そして無限小の空間で巨大な力が働くのだ。問題はもう〈はじまり〉でもなければ、創立-基盤でもない。存立性が、あるいは強化が問われるようになったのである。つまり素材をどのように強化し、素材をどのように強化し、素材にどのような存立性を与えれば、無音で不可視で思考不可能な力をとらえることができるのかということだ。リトルネロですら、分子状であると同時に宇宙的なものになる。ドビュッシー(Claude Debussy, 1862-1918)の場合がそうだったように……。音楽は音の質量を分子化するが、そうすることによってこそ、〈持続〉や〈強度〉など、いずれも音をもたない力をとらえることができるようになるのだ。持続に音を与えること。ここでニーチェの考えを思い出そう。聞き慣れた歌、リトルネロとしての永劫回帰、しかし思考不可能にして沈黙している宇宙の諸力を捕獲する永劫回帰。こうして、人はアレンジメントの外側に出て〈機械〉の時代に足を踏みいれる。そこは巨大な機械圏であり、とらえるべき力が宇宙的なものに変化する平面である。模範的なのは、この時代の黎明期におけるヴァレーズ(Edgar / Edgard Varèse, 1883-1965)の歩みだろう。存立性の音楽機械。(音を再現するのではなく)音の質量を分子化し、原子化し、イオン化して、宇宙のエネルギーをとらえるにいたる音の機械。そのような機械がアレンジメントをもつとしたら、そこに生まれるのはシンセサイザーだ。モジュール、音源や処理の要素、振動子、ジェネレーター、変成器などを組み合わせ、ミクロの間隙を調節することにより、シンセサイザーは音のプロセスそのものを聴取可能なものにし、このプロセスの生産も聴取可能にし、音の質量を超えた他の要素との関係にわれわれを導く。シンセサイザーは不調和なものを素材のなかで結びつけ、パラローターを一つの方式から別の方式に移しかえる。存立性の操作によって、シンセサイザーは先験的総合判断における根本原理と同じ地位を占めることになったのだ。そこでは分子状のものと宇宙的なもの、素材と力が統合されるのであり、形相と質料、土台と領土が総合されるのではない。哲学も総合判断であることをやめ、複数の思考を総合するシンセサイザーとして、思考に旅をさせ、思考を可動的なものに変え、宇宙の力に変えるのである(同様にして、音が旅をすることもある……)。
by warabannshi
| 2009-03-27 01:02
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