探索整理02 『精神分析の倫理』「快楽と現実」読書会 復習

精神分析の倫理 上

ジャック・ラカン / 岩波書店


 邦訳『精神分析の倫理 上・下』は、1959年から1960年にかけて毎週(?)火曜日に行われていたジャック・ラカン(1901-1981)の講義録で、ラカンの娘婿で弟子のジャック=アラン・ミレールの編纂による『セミネール(講義録)』だと第7巻に対応している。ちなみに原書は、
 Jacques Lacan『L'éthique de la psychanalyse』Seuil,1986
 この記事の引用文は、読書会の訳文に準じており、ページ数は原文のものを使っています。

 『精神分析の倫理』というタイトルの通り、フロイト(1856-1939)の晩年に集中した文明論や宗教論(『トーテムとタブー』(1913)、『快楽原則の彼岸』(1920)、『文化への不満』(1939)、『人間モーゼと一神教』(1939)など)に一貫して読みとることができる、ある倫理的次元について敷衍している。つまり、責務の感情(sentiment d'obligation)、死の欲動(instinct de mort)、神の問題をめぐるフロイトの考察を、精神分析から、伝統的な倫理観への、巨大な問いかけとして整理している。じっさいのところ、精神分析の登場は二〇世紀の文化史における一大事件であり、アリストテレス以来、西欧では二千年間ほど知的に流行していた目的因的な世界観は、ダーウィンの適応進化説とフロイトの精神分析とによって、作用因的な世界観へと、文字どおり、完全にひっくり返されたのだから、その逆転の余波は、『草稿』が書かれて五十年ほど経ったラカンの講義においても、そこからさらに五十年が経った今日においても、そこはかとないミスマッチな感覚として日常生活の至るところで不意に現れる。

 「フロイトの著作とそこから流れてくる精神分析の経験が私たちにもたらす新しいもの」についての、この整理の試みは、まず、アリストテレス(B.C.384-322)の『ニコマコス倫理学』への参照からはじまる。続いて、フロイトの『科学的心理学草稿』(1895)の再読により、フロイトの精神分析の枠組みにおける〈他者〉の表象であり、存在しない最高善としての「もの Das Ding」概念をカント(1724-1804)の『実践理性批判』(1788)から見直す。
 アリストテレス、カント、そして、フロイト。ラカンが『精神分析の倫理』でとりわけ注目するこの三人は、倫理(Ethics)という言葉を、じつはあまり使わない。とくにアリストテレスは倫理という名詞をまったく使わない。(註1) アリストテレスは「政治」(Politike)という語で、カントは「人間学」(Anthropologie)という語で、フロイトは「道徳的次元」(la dimebsion morale)という語で、それぞれ別の「倫理」の輪郭を浮き上がらせる。それぞれ別の倫理、ということは、それぞれの倫理の水準も、当然、異なる。
註1 アリストテレスは体系的な倫理学を書いた最初の人と言われているが、『ニコマコス倫理学』は彼によってそう命名されたのではない。アリストテレスが扱うのは政治(Politike)であり、政治(Politike)と区別された倫理(Ethike)は彼の著作には出てこない。

 今回の読書会では、アリストテレスを扱った。アリストテレスの倫理の水準は「主人」であり、彼が「正しい理法(オルトス ロゴス)」を教える生徒たち、弟子たちのための倫理である。言い換えると、アリストテレスの倫理は、将来、政治(Politike)に携わるポリスの一員に、主人としての徳、ある種の人間的理念の諸条件を示し、審美的ないし享楽的要求に対して、不節制に陥らないような実践=行為のためのある種の制限として働く。
 いずれにしても、アリストテレスが他のすべての倫理とある程度まで共通にもっているあるものがそこで浮き彫りになってきます。つまり、アリストテレスは、ある秩序に準拠しているということです。この秩序は、まず学(science)として――為されねばならないことについての学、ある種の性状(caractere)の規格、すなわちエトス(ἔθος)を定義する、異論の余地なき秩序の学として――示されます。(……)
 エートス(ἦθος)の確立は、生物と非生物つまり非活動的な存在を区別するものとして措定されます。アリストテレスが詩的しているように、みなさんが石を一個空中にどんなに長い間放り投げたとしても、石は〔上昇を描く〕軌道の習慣をつけることはありません。(cf.『ニコ倫』第二巻第一章) それに対して人間は、習慣を身につける。これがエートスです。そして、このエートスをエトスに一致して獲得することが問題となります。
 (p.30)

 エートスとエトスの一致。ある実践=行為と、ある秩序、ある道徳的気風、どんな性状が望ましいかについてのある「学(science)」との一致。そして、この一致を可能にさせるやり方。あるいは一致を望んだときになぜか実践=行為のレベルで常に現れる欠陥。
 このやり方と欠陥を、アリストテレスは実践三段論法(註2)と不節制として語るが、彼の射程はあくまでも余暇を特権的に使うことができる主人に限定されている。
註2 実践三段論法とは、「善の認識(大前提)→善を目指す手段(小前提)→善の行為(結論)」という実践規則のこと。
 一般的によく知られている、推論のための三段論法は以下のようなものである
   大前提:すべての人間は死ぬ。
   小前提:ソクラテスは人間である。
   結論: ゆえにソクラテスは死ぬ。
 これを実践三段論法に書き替えると、たとえばこうなる。
   大前提:健康に良いことはするべきである。 
   小前提:トマトジュースを飲むことは健康に良い。
   結論: ゆえにトマトジュースを飲むべきだ。
 しかし、これでは「ゆえにトマトジュースを飲むべきだ」は出てきても、世の中には飲料としてのトマトジュースが嫌いな人がいるために、結論は「トマトジュースを飲む」という実践にそのまま結びつくとは限らない。
 人間を合理的な存在であると見なすソクラテス-プラトンは、「トマトジュースを飲むべきだとわかったら必ずトマトジュースを飲む」と楽観的であるが、アリストテレスは「トマトジュースを飲むべきだとわかっているのにトマトジュースを飲まない」人々について解明しようとする。
 実践三段論法へのアリストテレスの関心は、分析哲学では「意志の弱さ(アクラシア)」として今日でも議論されている。


 アリストテレスを読むフロイトを、さらに読むラカンは、一致の可能性を精神分析のなかに探し、「ひとつの解放をうながす真理」として語る。そしてその欠陥については、フロイトが『夢判断』以前の1895年の『草稿』以来、快楽原則と現実原則の対立をめぐる考察として、一生涯追究してきたものだ、とラカンは見なす。 
by warabannshi | 2009-04-12 01:17 | メモ
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