探索記録36 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』、そして「追憶の風景、記憶の闇」。
 昨年6月に公開された『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』のBlu-ray&DVDが、いよいよ明日、2010年5月26日に発売されます。本編111分49秒に加えて、製作過程に関する「Rebuild of EVANGELION:2.02」、驚愕の挿入歌『翼をください』に関する「"I Would Give You Anything"Scene NOGUCHI Ver」/、「破 劇場版特報・予告・TVSPOT」などの各種映像特典が付いていて、私は当然ながら予約開始と同時にAmazonで予約しました。Blu-rayの方で。



 「永遠に続きが出ないのではないかとなかば本気の声色で揶揄されていたとしてもおかしくはない」、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』の続編は、もちろん自主制作映画(*1)として圧倒的な動員数を記録したわけですが、しかしどういうわけか公開当時、『ヱヴァ破』に関する批評的言説は想像より遥かに少なかったように思えます。無論、ないことはない、のですが、90年代のエヴァに関して怒涛のように出版された批評・裏設定の読み解きの数々を生々しく記憶している者にとっては拍子抜けするほどの静けさでした。
今回の『ヱヴァ破』、その受容は我々の目には3パターンに分析されます。
 一 、特に批評的な関心も長年にわたるエヴァへの執着も持っていないがゆえに、普通のハリウッド的エンタテインメントとして楽しく映画を見られた層。
 二 、エヴァへの関心はあったが批評的な執着ゆえにヱヴァをDIS らざるをえない層。
 三 、14 年にわたる新世紀エヴァンゲリオンの歴史からいまだ解放されていない層。
 むろん、——もっぱら我々が三に属するモチベーションでこのようなことをしていることは間違いありません。
(mu「序文」『ASUKA IS (NOT) DEAD!!!』)

 村上裕一の呼びかけで作られることになったヱヴァ批評のコピー本『ASUKA IS (NOT) DEAD!!!』は、エヴァ直撃世代のpassion(情熱=受苦)を遺憾なく発揮している批評誌として、いや、それは批評critiqueというよりむしろ、信仰告白confessionに近い営みなのかもしれませんが、2009年8月の段階で意味有るものであったと回想します。どういうことかといえば、『ASUKA IS (NOT) DEAD!!!』に載せられたテキスト群は、私たちの世代が共有する(「世代」という雑な言い方を許してください)「欲望」とその困難を、『エヴァ-ヱヴァ』への言及を通して再認させる力を持っていたからです。
 「欲望」とは何か。それは、物質的な豊かさの希求ではなく、消費を洗練させることでもなく、「ある対象に憑りつかれるほどの思い入れを抱く困難を乗り越えること」です。これは所謂、「フェティッシュ」ではありません。そこには、「思い入れ」と並行する「困難」があるからです。「エヴァについて語る私たちは、なぜついつい熱っぽく(あるいは意図的に醒めたように)語ってしまうのか?」、「なぜ私たちはエヴァについて客観的かつ本質的な批評がなされたという達成感を抱いたということがいままでなかったのか?」という、批評する者自身に向けられる問いかけ、そしてその問いかけを忘れることができないまま「思い入れを抱く」こと。それが私たちの「欲望」です。
 なぜ? なぜ私たちは「憑りつかれ」、しかも分析的な問いをやめないのか? なぜ私たちは分析的な問いをやめず、しかも「憑りつかれる」のか?
人は言います。破はヌルい。なぜならばこれを超える想像力は既に二次創作に溢れている。——そうではない。新世紀に現れたこの新しいヱヴァを支えているのが無数に拡散した人々の想像力であるということだ。それだけだ。我々の役割は今も昔も変わらない。「これもまた一つの世界、僕の中の可能性」といって消えたシンジ。「幸せがどこにあるかは分からない。けど、これからも探し続ける」と言って消えたシンジ。我々が彼らに報いることができるのは、彼らの泳ぎが終わらないように、彼らが泳ぐ海を広げてあげることだけだ。無限にたゆたう可能性の海。しかしそれは決してただそれだけで無限なのではない。我々の想像=観測こそが、彼らの泳ぐ海を作り出す。それはまさしく、地平線の果てまでを覆っているように見えながら、その実、過不足なく人類全体まででしかありえなかったあのLCL の海の限界に他ならない。
(同上)

 分析な問いとは、世界に対する奉仕です。それは私たちが私たちの世界を所有しないでいるための、数少ない方策の一つであるから。私たちは私たちの情緒によって世界を、私たちにとって理解可能な範囲に丸め込み、所有しがちです。私たちが世界に対して何らかの善意を働かせているつもりになりながら、「裏切られた」とひとり怨嗟の声を漏らすとき、私たちは自身の尊大な所有欲に対してどれだけ客観的でしょうか。分析な問いとは、世界に対する奉仕です。

 私たちは私たちの世界を所有しないまま、私たちの生を生きます。そのような生を私たちはすでに退行的なものとして経験しています。退行的なものとはなにか? それは現れたり消えたりを偶発的にくり返し、教えることも学ぶこともできないため、知識の総体の網についにかかることがなく、それゆえ、私たちを失語症へと誘う内奥の快楽。それは追憶と名づけられる経験であり、そして忘却と名づけられる経験です。それは日常的な事件としては、夢や、夕暮れとして私たちに訪れるでしょう。
 私はそれらの諸経験に『エヴァ-ヱヴァ』を観る経験を加えたい。
 『ASUKA IS (NOT) DEAD!!!』に寄稿した「追憶の風景、記憶の闇」はそのようにして書かれたテキストです。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』のBlu-ray&DVD発売を記念して、ここにpdf形式で無料配布したいと思います。



(*1)テレビ版の原作・アニメーション制作であったGAINAX、製作のテレビ東京はこの新劇場版には関わっていない。また、近年のアニメ製作では常態化している製作委員会方式もとられておらず、興行形態としては自主製作、いわゆるインディーズ映画となる。




 以前から語られてきたことの総決算をおこなわずに、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』についてだけを語ることがどうしてできるだろう。それは旧世紀において一度ならず語られたテーマを語り、すでに乗り越えられた問いを軽率に問い返すことではないか。有象無象の区別なく厖大に出版された/されているエヴァの同人誌、謎本、研究書、それらが執りおこなってきた二次創作、註釈や解釈の数々に対する怠慢をあからさまにし、分析する手つきの杜撰さを露呈することではないか。まさにそれらの二次創作、註釈や解釈こそが、『新世紀エヴァンゲリオン』という作品を、それが十数年前のタイトルであるにもかかわらず、いまもまだ白熱するものとして持続させてきたはずではなかったのか。
 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』の公開に先駆けて「緊急声明」として発表された庵野秀明の「所信表明文」はこう書きはじめられている。「我々は再び、何を作ろうとしているのか?」*1 。その問いかけはもっともだ。ここで問いかけの方向をかえよう。「私たちは再び、何を語ろうとしているのか?」。そもそも再び語ることが何かあるのだろうか。もう充分に語ってきたではないか。使徒について、ゼーレについて、ネルフについて、綾波レイについて、渚カヲルについて、「逃げちゃダメだ」について、父親と母親について、“最終二話”について、“二つの(旧)劇場版”について、庵野秀明について、等身大フィギュアについて、二次創作について。『新世紀エヴァンゲリオン』のなかに、あるいはその外側におのおのが見出したものについて語ろうとして、しかしそれは私たち自身の鏡像として『エヴァ』を利用し、『エヴァ』に語らせているのではないかと怪しんだではないか。放映されたアニメーションのなかでもっとも人を熱狂させ、恍惚とさせ、そして同時に人を苛立たせるあの作品のそれぞれの場面からなにかを汲みとろうとして、そしてくり返し脱線したではないか。


 脱線。そう、脱線。なぜ私たちは『エヴァ』を媒介として語ろうとしていた対象=目的を見失い、誰にも理解されない迂路へと、脱線してしまうのだろう。そもそも私たちは〈何かについて〉語ろうとしていたのだろうか? 違う。思い出そう。私たちは『エヴァ』のなかに、あるいはその向こう側に〈何かがある〉と指し示そうとしていたのではない。『エヴァ』をある種の儀式の依代となし、まるで私たちが〈何かである〉ように語ったのだ。
 だから、受動態と能動態を入れ替えなければならない。私たちは〈何かについて〉語るのではない、〈何かに憑かれて〉語るのだ。そしてその〈何か〉とは、実体的-名詞的な〈何ものか〉では全然なく、様態的-副詞的な〈何ごとか〉であり、そのことが、単に思弁的なだけではない深み、予言遂行の秘密結社のあの陰謀の予兆を、〈何かである〉ように語る者の声に可能にさせる。そうでなければ、どうして多くの人々の厖大な精神的努力によってさえ謎は解き明かされず、解かれない謎は私たちを昂揚のなかに置き去りにするのか。いままでの『エヴァ』研究史において黙過されてきたとは言わないまでも、充分に明らかにされていなかった本質的な点がこれである。
 こういう言い方は病的だろうか? 〈憑かれる〉だとか、〈何かである〉ように語るとかの言い方は。〈何ごとか〉を〈何ものか〉から引き剥がそうとするとき、そして後者を破棄しようとするとき、カオスは、常識の逸脱は、――より正確には空隙は、私たちに抗いがたい魅力をおよぼす。たしかに『エヴァ』は、その終局において〈もの〉の破棄へとなだれ込んでいった。

[テロップ]「人々が失っているもの」
[テロップ]「喪失した心」
[テロップ]「その心の空白を埋める」
[テロップ]「心の、魂の、補完が始まる」
[テロップ]「全てを虚無へと還す」
[テロップ]「人類の補完が始まった」
 眼鏡を押さえている碇のUP(#5)
碇「違う。虚無へ還るわけではない。すべてを始まりへともどすに過ぎない」*2

シンジ「――アヤナミ? ――ここは?」
レイ「ここはLCLの海。生命の源の海の中。ATフィールドを失った、自分の形を失った世界。どこまでが自分でどこから他人なのかわからない、曖昧な世界。どこまでも自分で、どこにも自分が居なくなっている脆弱な世界」
シンジ「……僕は死んだの?」
レイ「いいえ。全てが一つになっているだけ。これがあなたの望んだ世界、……そのものよ」*3

 “最終二話”においても、 “二つの(旧)劇場版”においても、心の壁は失われ、錯乱は失語症を誘発させる。しかしそれをもって〈何ごとか〉を〈何ものか〉から引き剥がし、後者を破棄するその試みが病んでゆく心の現れであると言うのは早急だ。碇シンジは境界を超えたのだ。頽れた碇シンジは混乱状態にあって、満足に語ることはない。とりわけ後者においては、彼は叫ぶかつぶやくかのどちらかしかしない。けれど、私たちは何ごとかを語らずにすませるために彼ほど真摯であっただろうか。そしてなにより、碇シンジは再生への願望を決して忘れることがなく、無への回帰へと、〈もの〉の完全なる破棄へとなだれ込む「補完計画」に迎合するわけでは決してないのだ。*4



 以前から語られてきたことの総決算をおこなわずに、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』について/憑かれて語ることがどうしてできるだろう。しかし、『エヴァ』について語ることが語る人についてしか語らない/語れないのなら、私たちは召喚された少年・碇シンジが“最終二話”でそうしたように、自問自答によって存在の自明性をすり減らし、誰のものでもない空隙に近づいていこう。しかし、“最終二話”、“二つの(旧)劇場版”において碇シンジが、そして『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』において庵野秀明らがそうしたように、諸々の〈もの〉から世界を「REBUILD(再構築)」するための命綱が要る。

ミサト「シンジ君のサルベージ計画?」
リツコ「そう、シンジ君の生命とでもいうべきものは存在しているわ」
(……中略……)
伊吹「シンジ君の肉体は、自我境界線を失って、量子状態のままエントリープラグの中を漂っていると推測されます」
ミサト「つまり、シンジ君が私たちの眼では、確認できない状態に変化していると」
伊吹「そうです。プラグの中の成分は化学変化を起こし、原始地球の海水に酷似しています」
ミサト「生命のスープか」
リツコ「シンジ君を構成していた物質は全てプラグ内に保存されているし、魂というべきモノもそこに存在している。現に彼のイメージはプラグスーツを擬似的に実体化しているわ」
伊吹「つまりサルベージとは彼の肉体を再構成して、精神を定着させる作業です」*5

 ただし、〈もの〉をバックアップしておくために〈もの〉を使うことはできない。不連続な諸状態の連なりでしかない私たちに、私たち自身の連続性を思い描かせる空間の履歴をたどらせるには何が必要なのか? Zitterbewegungする無数の粒子から再構成した肉体を配置させるには何を導きとすれば良いのか? それは諸物に関する記憶だけではなく、諸物にまつわる感情でもあり、つまりは――追憶だ。

彼の目線の先に立つ、一人の少女。(レイに似ている)
鳴きながら飛び立つ鳥の音。気を取られる少年。
目線を戻す。
が、少女はもういない。*6

 追憶は蜃気楼のように現れたり消えたりを偶発的にくり返す風景であり、教えることも学ぶこともできないため、知識の総体の網についにかかることはないが、私たちは退行的な内奥の快楽としてそれを知っている。蜃気楼のゆらめきを、再発見する。
 しかも追憶は、私たちの所有物ではなく、ときに私たちが経験したものですらない。例えば、「ホームに止まったままのローカル線。蝉の声。全線運転中止(再開不明)の掲示板。全ての信号が赤を点灯している。路肩に放置されたままの車。シャッターの降りている町並み。動くものが、何もない」 *7、あるいは「半分水没し、すでに朽ちている旧市街。SEは水鳥と蝉の声。線路や道路が、途中から海に飲まれている。山を崩して造られている新市街。平野がない街並み。水平線上に起こる巨大な水柱」*8 という指示書きを私たちが読むとき、それらの風景が自分のなかで想起されてはいるが、その想起は自分のものであるとは言えず、自分にとっての追憶とその風景とのあいだには、いかなる対応関係もないことを知っている。しかし、自分がその風景のなかに懐抱されるとき、それを意識するとき、私たちは〈自分にとっての追憶とその風景とのあいだには、いかなる対応関係もない〉ということを知らないばかりか、知らないでいる必要がある。ましてや、それを導きの糸として「肉体を再構成して、精神を定着させる作業」を行うならば尚更だ。
 だから、〈何かである〉ように語る者、〈何かに憑かれて〉語る者は、幾つかの風景に限界づけられる。その限定は私たちが名前を持ち、無への回帰と、再生への願望というアンビバレントに留まるうえで避けようがない。しかし、――帰依とはそのようなものではないか?

「だけどそれは見せかけなんだ。自分勝手な思い込みなんだ。祈りみたいなものなんだ。ずっと続くはずないんだ。いつかは裏切られるんだ。僕を見捨てるんだ。
――でもぼくはもう一度会いたいと思った。その時の気持ちは本当だと、思うから」 *9



 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』。
 厳密であろうとするのに応じて曖昧になってしまうような、ある種の識別作用にしたがって、なにかを明るみに引き出そうとする。なにを? 例えば、選ばれし少女「惣流アスカ・ラングレー」を。それはいつも、充足している。不完全なままで。思考によってそれを引き出そうとするとき、その精神的努力にはいつも一種の亀裂が走っていく。「旧伊東沖遭遇戦」を、「シンクロナイズ」を。「エレベータのなかで頬を打たれた、無表情な綾波レイ」を、エヴァ参号機搭乗者、「適格者となりし友」を。「ねえ、シンジ。キスしようか」、

シンジ「え?」
アスカ「キスよ。」
混乱しているシンジ。ウォークマンを外し乍ら
シンジ「ど、どうして?」
アスカ「退屈だからよ」
シンジ「退屈だからって、そんな……」
アスカ「したことないでしょ」
シンジ「うん……」
アスカ「じゃ、しようよ」
シンジ「でも……」
アスカ「(意地悪な笑みを浮かべ)お母さんの命日に、女の子とキスするのイヤ? 天国から見てるかもしれないからって」
シンジ「そんなことないよ」
アスカ「怖いんだ」
シンジ「怖かないよ。キスぐらい……。いいよ。やってやるよ」*10

 闇は「記憶」の過剰によってなのか、それとも欠乏によってなのか。「記憶」の闇を見るべきなのか、縫い合わせるべきなのか、――埋めるべきなのか、目を逸らして遠ざかるべきなのか。本物の「記憶」はあるのか、あるのは「記憶」の残像にすぎないのか、残像としては本物なのか、それとも残像のパロディをしたてているだけなのだろうか。それは何かの代理なのか、それとも何かに代理されているものなのか。いずれにせよ、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』において〈もの〉は「REBUILD(再構成)」されていく。より単純であることを欲せず、みずからが複数であることを欲して、風景となるために。



*1 「所信表明文」は『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』パンフレットに掲載、2006年9月28日付け。TVシリーズ『新世紀エヴァンゲリオン』が放送される前に監督自身が1995年7月17日付けで発表した所信表明文タイトルは「我々は何を作ろうとしているのか?」であった。
*2 『EVANGELION ORIGINAL〈3〉』富士見書房(1996) #25-18
*3 『新世紀エヴァンゲリオン劇場版―フィルムブック「まごころを、君に」』角川書店ニュータイプ (1997) pp.88-91
*4
 他人が存在することの不快に耐えること。それは日本の九〇年代を覆っていた「正直な気分」だったように思える。もしかしたらこのことは時代を限定したり、過去形で語ることは誤りかもしれない。わからない。頭のなかで次第に大きな位置を占めるようになる不毛な日常生活への苛立ちと、そこからの脱出の欲望。呪詛。日常生活を放棄することに達成感を抱き、消極さに自己有能感を覚えること。
 無への回帰へと、〈もの〉の破棄へとなだれ込む、旧世紀版『エヴァ』がこのようなデッドエンドを背景としていたこと、そこを突破しようと志していたことを私たちは忘れてはならないだろう。それは新世紀版『ヱヴァ』の「所信表明文」に正しく遺されている。
「エヴァ」はくり返しの物語です。
主人公が何度も同じ目に遭いながら、ひたすら立ち上がっていく話です。
わずかでも前に進もうとする、意志の話です。
曖昧な孤独に耐え他者に触れるのが怖くても一緒にいたいと思う、覚悟の話です。
*5 『EVANGELION ORIGINAL〈3〉』富士見書房(1996) #20-15
*6 『EVANGELION ORIGINAL〈1〉』富士見書房(1996) #1-5
*7 前掲書 #1-4
*8 前掲書 #1-3
*9 前掲書 pp.98-99
*10 『EVANGELION ORIGINAL〈2〉』富士見書房(1996) #15-28,29

by warabannshi | 2010-05-25 22:30 | メモ
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